サティヤ サイババの御言葉

日付:1968年9月24日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話③より

すべての瞬間を高尚なものへと変えなさい

人にとって最も有益な霊性修行の道は、古代インドの偉大な経典に簡潔に甘美に規定されています。それらの経典は、宇宙に備わっている神性原理を例と教訓を与えて説明し、神の御業と神の計り知れないリーラー(神性奇跡)を畏敬と尊敬を持って見つめるよう人類を鼓舞しています。そして、賢人たちの幸福な仲間に入り、犠牲という巡礼の道を歩むことで、肉体が朽ちる前に永遠なる者のヴィジョンを得て、それを永遠にハートに安置することができるよう人を促しています。

それらの経典に載っている話や描写は、人間に潜在しているイッチャ シャクティ(欲望を促すもの)を浄化し、クリヤー シャクティ(行為を促すもの)を神聖にし、最終的にグニャーナ シャクティ(知識欲を促すもの)を刺激して明晰(めいせき)にします。この過程によって、人はチッタ シュッディ(意識の浄化)を達成します。このようにして変容した意識においてのみ、アートマは映し出され、理解され得ます。それゆえ、どの宗教も、こうした変容、こうした浄化のプロセスを、手法として有しているのです。どの宗教規範も、それを目標として有しています。

実践することなくダルマを唱えるのは偽善

たとえば、そもそも『マハーバーラタ』というものは、人間の五つの生気(パンチャ プラーナ)が上昇のプロセスにおいて百の障害に打ち勝つ物語です。パーンダヴァ五兄弟の長兄はダルマラージャ(道徳、正義の象徴)です。ダルマラージャは、ビーマ(信愛に満ち、神への奉仕に捧げられた体力の象徴)、アルジュナ(神への確固たる純粋な信心の象徴)、そして、ナクラとサハーデヴァ(不動心と平静の象徴)にしっかりと支えられています。この五人が追放されると、ハスティナープラの都(肉体)にアダルマ(不正)が氾濫(はんらん)します。『マハーバーラタ』では、手を変え品を変えて次から次へと襲ってくる危機的な状況とジレンマの中で救いとなる、ダルマの実践の必要性が例示されています。

ウパニシャッドは、「真実を話し、ダルマに従いなさい(サティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ)」と人に忠告しています。しかし、人はダルマを語ることで満足し、真実を殺しています! 口ばっかりで実行する熱意も努力もないならば、それは偽善です。それは人格を破壊し、品位をおとしめます。

森の鹿たちが会議を開き、すべての鹿が結集して猟犬に立ち向かって反撃しようと決議しました。ところが鹿たちは、その決議を称賛したその時でさえ、猟犬が唸(うな)り声を上げると、それを提唱した鹿も、賛同した鹿も、支持した鹿も、どの鹿も皆、一目散に逃げていきました。会議が開かれていた場には、ただの一匹も残りませんでした!

羊は「マイー、マイー、マイー」〔メー メー メー〕と鳴きます。その鳴き声は、サンスクリット語では「私のもの、私のもの、私のもの」を意味します。ですから、羊たちは、そうした「私」や「私のもの」への執着の報いに苦しむのです! これは根本的な幻想の報いであり、それはすべての物事は一時的なものであるという事実を隠し、すべての物事とそれにまつわる楽しさは永続するのだという不自然な感覚を持たせます。

ハリドワールの近くに、何年も家と家庭生活を放棄して、施しで暮らしている僧がいました。その僧は、集めた食べ物を全部、ガンジス河に突き出した平らな岩の上に積み上げて、そこを食卓として使っていました。

ある日、その僧が自分の岩にやって来ると、他の僧がそこに座って食べていました! 古参の僧は「自分の財産」を奪われたことに憤慨しました。すると、新参の僧が言いました。

「ああ嘆かわしや! あなたは“私”や“私のもの”といった感覚の一切を手放し、昔の仲間にわからないように頭を丸めた。あなたはすべての束縛から逃れることを切望している。ところが、あなたはこの岩に自分自身を縛りつけている! この岩を首にぶら下げて、どうやってこのサムサーラの海(生死を繰り返すこの世での人生)を泳いで渡ることができるだろうか? あなたは偽善の人生を送っている。」

古参の僧は誤りに気づいて開眼しました。

ゴーピーチャンドの母は、神我顕現への第一歩としての放棄と忍耐の道を歩むよう息子に促しました。ゴーピーチャンドは賢人バルトルハリと共に過ごすことになり、数年が経ちました。母は息子の成長ぶりを試してみることにしました。ある夜、母は男の服を着て、息子が眠る場所に横になりました。ゴーピーチャンドはその見ず知らずの人に、この場所は「自分の場所」だから、どこか他の場所を探してほしいと文句を言いました。母は同じ方法でバルトルハリも試してみました。賢人の反応はというと、ただ少し離れた場所に移動しただけでした。賢人は何も言いませんでした。そうして母は、息子の道のりはまだまだ遠いと知りました。

知的な偉業によっても心の平安は得られない

賢者は、貪欲や所有欲に余地を与えません。賢者は、場(クシェートラ)の促し手であるクシェートラグニャ、すなわち場の征服者がいることを知っています。ヴィヤーサ仙は、ヴェーダを編集し、神性原理を定めた格言集(『ブラフマスートラ』)を編纂(さん)し、五つ目のヴェーダといわれる『マハーバーラタ』を書きましたが、まだ心の安らぎを得ていませんでした。それらは知的な偉業であり、詩や哲学の才能にすぎず、本当の経験から咲いた花ではありません。最終的に、ヴィヤーサ仙は、信愛の道(バクティ マールガ)を説いて実践したナーラダ仙の導きによって、神の壮大さと栄光を黙想し、描写することに浸りました。『バーガヴァタ』は、そうしたヴィヤーサ仙の切望の果報です。

道徳という試金石で自分の習慣を判定しなさい

『バーガヴァタ』は、その文言を詳説することから自らをバーガヴァタルと呼ぶ多くの人を生み出しました。けれども、彼らは経験から詳説しているわけではなく、ナーラダ仙やヴィヤーサ仙が感じた身震いするような神聖な感動はほんのわずかも共有していません。彼らは、神はすべての生き物の内に宿る促し手である、と声高に言いながら、利益を得ることをもくろんでいます!

立ち止まって、しばらくの間、あなたの習慣と行動を調べてみなさい。それらを分析し、道徳、真理、愛、忍耐力という試金石で判定しなさい。あなたを悪へと引きずり込む物事の一切を断ち切って、あなたを高めて私に近づかせてくれる一切を増強しなさい。自分がしてしまったことの報いにあなたが苦しまなければならないからといって、気落ちしてはなりません。

昨夜、皆さんは、ヴェーダシャーストラ パータシャーラ(ヴェーダの文言や教訓を教える学校)の小さな子供たちが演じた劇で、ドルヴァが主に祝福されたのを見ましたね。継母に言われた無情な言葉は、少年ドゥルヴァを触発し、主から父の愛という恩恵を勝ち得るための森での禁欲生活に踏み出させました! ところが、実際に主が目の前に姿を現した時、少年ドゥルヴァには、もはや怒りも欲望も残っていませんでした。そのためドゥルヴァは、かつて望んでいた安ぴかの物を神に求める代わりに、主に帰融する至福を求めました! 復讐(しゅう)心や義理の弟に対する競争心といった激性の武人(クシャトリヤ)の精神(武人が戦いに勝ちたいと熱望すること)は、禁欲生活の間にドゥルヴァの心から消えていました! しかし、主はドゥルヴァに苦行を始めることになった元々の意図を思い出させ、まず王国へ戻って母を喜ばせ、それから空に昇って北極星となるようにと言いました! ドルヴァは子供でしたが、神を近くに引き付けるサーダナに没頭したからです。

人は苦楽という厳しい試練を経なければならない

理想は、より高く、より大きくならなければなりません。欲望は、より利他的に、より崇高にならなければなりません。執着は、より高貴に、より小さな情動に変質しなければなりません。物語は、着実に結末に向かって展開していくときにだけ、心を強くとらえるものになります。だからこそ、人は苦楽という厳しい試練を経て、その経験によって、ますます清らかに、ますます強くなって、浮上するのです。子供の発育が不全であれば、悲しみをもたらし、順調に発育が始まれば、喜びをもたらします。成長が異常であれば、再び悲しみをもたらします。振子の揺れが人生を面白くします。人生は訓練の場であり、学校です。

人は遅かれ早かれ幕の後ろに退かなければなりません。ですから、舞台の上にいる間、監督が満足するように自分の役を演じ、台詞を忘れたり間違えたりして劇をだめにしないように努め、監督から高い評価を得なさい。水中でも陸でも生きられる亀のようでありなさい。つまり、人々の中にいても、一人でいても、神を想っていられるよう、内面の落ち着きを培うのです。孤高(エーカーンタ)とは、自分の周りの群衆が意識にないことです。それはあなたの心の孤高によって作り出すものです。たとえば、ここは他人に邪魔されない場所であり、あなた方は皆、ここで完全な孤高を有しています! これは私があなた方に教えたい実践です。

ナガラ サンキールタンは実践する『バーガヴァタ』

あなた方に実践してほしいことがもう一つあります。それは、あなたの村でナガラ サンキールタン(朝早い時間に集団で通りを歩きながら信愛の歌を歌うこと)をすることです。ナガラ サンキールタンで得られる恩恵はあまりにも多すぎて、今この限られた時間ではとても話しきれません。要するに、ナガラ サンキールタンとは『バーガヴァタ』を実践することです。夜の眠りを体験した後に人の五感がまだ休止状態にある時、静かな通りに出ていって神の栄光を高唱し、それによって聞く者の知性を研ぎ澄まさせ、大気を清めるのです。ナガラ サンキールタンは、本人にとっても他の人にとっても、非常に価値のある、体と心の強壮剤です。歌の一曲一曲は、怠惰という結び目を切る剣です。ナガラ サンキールタンは、人々を見守って新しい一日という贈り物を与えてくれた全能の神に対する義務をすべての人に思い出させる、素晴らしい社会奉仕の一つです。

怠惰は現代文明の災いのもとです。人々は休みたがり、働きすぎだと不満を述べ、疲れていると言います。皆さんがどのようにしてあらゆる瞬間を有効で役に立つ活動に費やさなければならないか、私の例をあげて教えてあげましょう。皆さんは仲間内で、「スワミは休憩している、スワミは眠っている」などと話しますが、私は、ちょっと休みたいとか、眠りたいとか、ほっとしたいなどと思ったことは一度もありません。私がいつ、安らぎを感じたり、ほっとしたり、満たされていると感じるのか話しましょうか? それは、無執着と霊性修行によってあなたたち全員がこの上ない至福を得たことを知った時であり、それまではありません。

私は常に、皆さんのために何らかの活動に携わっています。私は誰かに頼めるようなことでも人に任せることはしません。私がそういったことを自分で行うのは、そうすることで人が自分の力に頼ることを学ぶこと、体験することができるからです。私はいつも、あなた方の進歩、あなた方の快適さ、あなた方の幸せを気にかけています。皆さんはそれを、私のほんの些細(ささい)な行いにも見ることができるはずです。私は自分に関係のあることはすべて自分で行います。私宛の手紙はすべて私が開封します。しかも、そうした手紙は無数です。

指導者は自ら従わなければならない

私がこの椅子から立ち上がり、舞台の裏に行くのを皆さんは時折見ていますね。明言しておきますが、それは著名な講演者たちの話を聞くのを避けるためでも、疲れたからでも、水を飲むためでもありません。それはただ、皆さんがもう一時間くらい集中して話を聞くことができるように、体の姿勢を変えたり手足を伸ばしたりするチャンスを与えるためです。私が目の前にいると、あなた方はそういったことをしたがらないということ、そして、あなた方の何人がこのぎゅうぎゅう詰めの会衆の中で同じ姿勢で緊張して長い時間我慢して座っているかを、私は知っているのです。

私は何もしていないのではないか、と私に問う人は一人もいません。私には、何もしないことで失うものは何もありませんし、活動したいという大きな衝動もありません。しかし、それでも私は、見てのとおりとても活動的です。その理由は、私は皆さんのために、手本として、鼓舞する者として、教育の一環として、いつでも何かをしていなければならないからです。導いていく人は、自ら従わなければなりません。命令する人は、他人にしてほしいと期待することを自ら行わなければなりません。皆さんがすべての瞬間を自分を至高神へと高めるための黄金のチャンスにすることができるよう、私は活動に従事するのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C35