サティヤ サイババの御言葉

日付:1968年9月29日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話⑤より

行者の意

山は太陽に照りつけられても雨に打たれても等しく意に介せず、海と空は嵐にも雲にも動じません。人間だけが心配と恐怖に陥るというのは、おかしなことです。鳥や獣は明日のために食べ物を蓄えることをせず、それを恵んでくれた自然の摂理へと残しておくことに満足しているというのに、人間だけが一日中そのために計算したり貯め込んだりしているというのは、理に反しています。自分の食べ物を育てようと大地に種を蒔(ま)く鳥はいません。土地を耕して囲いをし、「これは私のもの、これは子供のもの、これは孫のもの」と主張する動物はいません。ニシカーマ カルマ(無私の行為)は、神の子、すなわち不滅なる者の子孫にとって、自然な行動の姿です。彼らは歌い、泳ぎ、踊り、潜り、話し、歩き、祈り、切望します。なぜなら、そうせずにはいられないからであり、それが彼らの本性でもあるからです。彼らはこれから何が起こるかを知りません。それゆえ、彼らは気にしません。結果を予測しません。ものごとを行う時、彼らはただ自分であるのみです。それはサハジャ ラクシャナ(生まれつきの性質)、すなわち天性です。

あなたは、空腹の辛さを感じ、毎回その辛さを減らし、いくらかの時間、行動するために生まれてきたのではありません。実際のところ、あなたに空腹が与えられたのは、あなたが成長して知性を伸ばし、究極の目的を発見することができるようになるためです! 教育は人生のためにあるのであって、生活のためにあるのではありません! そして、人生は、あなたの始まりから終わりまでを自分の目で見るための機会です。時計はどれも、時計を作った人と、時計のねじを巻いている人がいて動きます。あなたにも、鍵を持ち、ねじを巻く者がいます。その者を見つけなさい。時計は、必要とするすべての人に時間を示します。時計は何の見返りも求めず、相手がなぜ時間を知りたがっているのかも気にかけません。時計は、休むことなく、昼も夜も、晴れの日も雨の日も時を刻み続けます。時計のようでありなさい。

神との友情と親近感を育みなさい

あなたは、フットライトの前にいる舞台上の役者にすぎません。劇を知っていて、役を割り当て、合図を出し、あなたを呼んで舞台に上げる監督である神は、幕の後ろにいます。あなたは操り人形です。糸を操っているのは神です。

もし神を見なければいけないというのであれば、神の友人(サキーヤ)か親族(バンドゥ)にならなければなりません。単なる傍観者でいるならば、神に近づいて神の聖なる仲間になる資格は与えられません。愛と献身的な奉仕の姿勢によって、神との友情と親族関係を育みなさい。もし妻や子供のために王に仕えているならば、あなたがいくら苦労してその奉仕を成し遂げようとも、あなたは王に尽くしているのではなく、妻子に尽くしていることになります。ですから、もしあなたが、家族の安楽を保てることができるようにと、物質的な繁栄を求めて儀式礼拝をしたり誓願を守ったりしているのであれば、それはあなたの果報に向けてではなく、家族に尽くし、家族に身を捧げていることになります。まったき全託と穢(けが)れなき献身――これが、神が課して、受理する、辛辣なテストです。

ある男に三人の妻がいるとします。男が死ぬと、三人は皆未亡人になり、喪服を着て、宝飾品をはずし、喪章を付けなければなりません。それが慣習です。〔インドには未亡人になると白い無地のサリーを着用して質素な装いにする伝統がある〕 けれども、その時妊娠していたら、この慣習は適応されません。未亡人になったことを公表するのは、子供が生まれた後でよいのです! それまでの間、本人は自分が未亡人だということを知っていますが、世間は彼女を見て夫が生きていると思うでしょう! これは英知者(グニャーニ)の場合も同様です。英知者(グニャーニ)は、この世は一時のものだということ、すべては神だということ、そして、神に行為を捧げることこそが自分を輪廻から救ってくれるということを知っています。しかし、世間は彼を見ても、彼は自分たちと同じような人間だと思います! 英知者(グニャーニ)は水の上で咲く蓮の花のような存在です。蓮の花は、水の中で成長して泥の中に根を張りますが、水にも泥にも触れず、どちらにも影響されません。

神を知るための苦しみは誇るべき宝石

英知(グニャーナ)は普遍なる絶対者(パラマートマ)の一属性ではありません。英知はパラマートマそのものです。ウパニシャッドは、「真理と英知と無限はブラフマンなり(サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー)」と断言しています。英知(グニャーナ)は成就であり、ゴールであり、完成です。英知がなければ、人は、いくら他の業績で飾り立てても、鼻のない顔のように不細工です! 神を知りたい、神の全能を知りたい、神の神秘を知りたい、という切望と苦しみと努力は、誇るべき宝石です。神は内在者であって、人々が感じ、考え、行うことのすべて、献身する力を全託しようというインスピレーション、神の目的のために神の手の中の道具になりたいという熱望のすべては、神が促し、実行しているのだ、という意識が、英知(グニャーナ)なのです。

満足は最も貴重な宝

強力な軍隊を率いて、隣国に向かって国境の雪山を越えて行く王がいました。雪深い道の途中、王は、托鉢か苦行者らしき男が、山の峰と峰の間から吹いてくる冷たい風から身を守るために膝の間に頭を入れて、むき出しの岩の上に座っているのを見ました。その男は何も着ていませんでした。王は、いてもたってもいられなくなり、自分のショールとコートを脱いで、そのヨーギ(五感と心を征服した行者)に差し出しました。ヨーギは受け取るのを断って言いました。

「神は私に、暑さ寒さから身を守るに十分な服を与えてくれました。神は私に必要なすべてを与えてくれます。その服は誰か貧しい人に与えてください。」

王はその言葉に驚きました。王は男に、その衣服はどこにあるのかを尋ねました。ヨーギは答えました。

「神御自身が私のためにそれを織ってくださいました。私は生まれた時から着ています。そして、死ぬまでそれを着ているでしょう。それはこれ、ここにある私の皮膚です! そのコートとショールは、誰か物乞いか、貧しい人にあげてください。」

その男より貧しい者などいることかと、王は頬をゆるめました。王は男に尋ねました。

「しかし、そのような貧者はどこで見つけられますか?」

ヨーギは王に、どこに、何のために行くのかを尋ねました。

「私は、敵国を我が国の領土に加えることができるよう、進軍しているところです。」

今度はヨーギが微笑んで言いました。

「もし自国に満足せず、あと何平米かの土地を得ようと、自分の命と、そこにいる何千という命を犠牲にしようとしているのなら、あなたは明らかに私よりはるかに貧しい人です。ならば、その服はあなた自身に供しなさい。あなたは私よりずっとそれを必要としています。」

それを聞いて、王は大変恥じ入りました。王は富と名声の無意味さに気づいたのです。王は、己の貧しさに対して眼を開かせてくれたそのヨーギに感謝して、自国へと戻りました。満足こそが最も貴重な宝であるということに、王は気づきました。偉大な人は、自らの行いと言葉の一つひとつによって、英知の光を広げます。もちろん、人は真と非真を見分けるために、自分の分別と高い判断力を用いなければなりません。

たゆまぬ実践だけが恩寵という報いをもたらす

街で宗教的な説法が行われると、すべて必ず参加する一人の老いた商人がいました。中でも、音楽付きの説法にはとりわけ熱心でした。三十年間、彼はただの一度も説法の機会を逃したことはなく、人々はその商人の堅固さと信仰深さに驚いていました。ある日、彼は十六歳になる息子を連れて説法を聞きに行きました。その日、学僧(パンディト)は聖牛の話をし、聖牛は人にとって、母なるヴェーダ、母なる大地、生みの母に続く、第四の母であると語りました。雌牛を敬い、たとえ怒りたくなるようなことがあっても、ほんの少しも悪く扱ってはならないと、学僧は聴衆に訓戒しました。

翌日、商人は急な仕事でよその村に行かなければならず、息子に店を任せて出かけて行きました。昼前、一頭の雌牛が店に入ってきて、息子が腰掛けていた椅子の周りに置いてあった口の開いた容器から、穀物や椰子糖、その他の品々を、大きな口でおいしそうに食べ始めました。牛は神聖なものなので、息子は指一本動かしませんでした。夕方、父が帰ってきてその損害状況を見ると、息子を厳しく叱りつけました。

「あんな説法を心に留める必要はない。説法の場を離れる時には、自分が座っていた絨緞(じゅうたん)の埃を払うのといっしょに、自分の頭から学僧(パンディト)が説法で話した理想を振り落とさなければいけないのだ。もし私が三十年間、毎回これをしていなかったら、お前も私も、家族全員、飢え死にしていただろう。」

捨離はゆっくりと育つ植物です。鞘(さや)ができたと期待して若木を引き抜けば、失望することになるでしょう。それと同じく、長い、たゆまぬ実践だけが、恩寵が与えてくれる平安という報酬をもたらすのです。

神は純粋な努力こそを喜ぶ

クリシュナがギーターの中で断言しているとおり、恩寵は全託によって得られます。ギーターが、すべてのダルマを放棄せよと指示する時、それは、すべての行い(カルマ)も放棄するようにと言っているのではありません。つまり、あなたは行い(カルマ)をしなければならず、そして、あなたがそれを神のために、神を通じて、神によって行った時、ダルマは問題ではなくなります。その行い(カルマ)は容認されるものとなり、必ずやあなたに利益をもたらします。あの言葉は、不道徳や完全な無活動への招待状ではありません。あれは、人の中にいる至高者、すなわち神に対する、献身と全託を呼びかけているのです。

かつて、あの指示は善悪を識別する必要性を取り去るものだ、と言った邪悪な論評者がいました! おそらく同じ人物でしょうが、その人はこのようにも言いました。

「主はギーターの中で、神は葉、花、果物、少しの水を捧げられたら喜ぶであろうと述べています。さて、この水煙管には、その四つすべてがあります。煙草の葉、燃え殻が作り出す赤い花、管のココナッツの実、煙がプカプカと沸き立つ水!」

無礼と屁理屈が神の目から不敬を隠すことはできません。

主は厳密な学術的解釈によっては、動かされません。神は、実際に実行すること、純粋な努力、ひたむきで誠実な奮闘、心を浄化しようと疲れ知らずで精進することをこそ、喜びます。ゴールにたどり着くまで、その奮闘は油断なく活発になされなければなりません。ある人がラマナ マハリシに尋ねました。

「私はどのくらい長くディヤーナ〔瞑想・坐禅〕をすればいいのでしょうか?」

ラマナ マハリシは答えました。

「ディヤーナをしているということを全く意識しなくなるまでです。」

ここにいる男子たちが演じた「ドルヴァ」の劇の中で、ドルヴァを演じた少年は真直ぐ背筋を伸ばして座り、我を忘れてディヤーナをしていたかのような印象を与えました。けれども、そのような演技で報酬を要求することはできません。本当のディヤーナでは、あなたはしばらくすると「自分はディヤーナをしている」という意識を超越します。実に、人生のすべての瞬間がディヤーナの瞬間であらねばなりません。それは最高の生き方です。

あなたの部屋をきれいに掃く時には、自分のハートも同じようにきれいにしなければならないと、自分に言いきかせなさい。野菜を切る時には、欲望と貪欲も同じように切り刻まれなければならないのだと思いなさい。チャパティの生地を伸ばす時には、あなたの愛の円がどんどんと広がって、見知らぬ人や敵対する人たちにまでも拡大していくことを欲しなさい。

これらの方法によって、あなたの家庭をアシュラムに、日々の生活の繰り返しを解脱へと続く道にすることができます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C37