サティヤ サイババの御言葉

日付:1997年9月29日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話⑥より

第三の力

この国の聖仙や賢人の教えはすべて、生き方、すなわち、日々の規律、家庭および社会での振る舞い方や心構えや気持ちの持ち方、地域社会での責務、奉仕と思いやりの絆、といったものの中心核となるものです。それらはヴェーダーンタの実践面を強調しています。実のところ、このこと以外のヴェーダーンタはありません。ヴェーダーンタの目的とは、澄み切った状態の実体〔内在の神〕を体験することができるよう、心(マインド)を浄化し、理智を研ぎ澄ませ、感情を浄め、思考力を集中させることです。喜びと悲しみの打撃からの解放は、一なるもの、そして、不可分なるものである実体を顕現させることによってのみ、生じます。

湖の水面に浮かぶ厚い苔を取り除けば、その下の水が明らかになります。鏡に付いた厚いほこりを取り払えば、自分の姿を見ることができます。鏡に映る自分の姿を見ても、それは不完全な真実でしかありません。自分は鏡に映っている姿ではなく、映している本体である、というのが真実です。本体(ビムバ)は、自分は本体だということを知らなければなりません。「私」は「私」を自覚しなければなりません。それが真我(セルフ)顕現(リアリゼーション)です。目は、数億光年も離れた星を見ることはできても、自分自身を見ることはできません! 目は目を見なければなりません。そうすれば、目は、真我顕現を得た、すなわち、自分の真の姿を見た、と断言することができます。

私を知る資格を得なさい

あなたが自分を知らないかぎり、私〔ババ〕を知ることはできません。頭上に飛行機が見えたら、あの機内にはパイロットがいるはずだ、ということをあなたは知っています。しかし、パイロットを見たければ、必要な切符を買って飛行機に乗り、中に入らなければなりません。その資格を得なさい。見ることを勝ち得なさい。

かつて、ヴィヴェーカーナーンダは、「ア ヴィヴェーキ(鋭い知性と識別力に欠ける人)には、私と私の使命は理解できない」と言いました。医大生は、生きている体のことを知ろうとして、死んでいる体を解剖します! 世界を分析して学ぶことで得られる神についての知識は、およそこれに類することです。医者が患者を診察して治療し、患者がその処方を受ける時、医者も患者も、両者の間には自分たちよりも有能で決定的な第三の力が存在するということを知りません。

見知らぬ土地の川岸に着いた時、あなたは足の不自由な人や目の不自由な人に、どこが一番良い渡り場かを尋ねることはしません。あなたは足や目の不自由な人にではなく、何度もその川を渡っている人の言うことを聞きます。見ることができる人は、学者です。歩くことができる人は、経験を積んだ人です。両方の能力を持っている人が、良い案内人です。本で読んだことを得々としゃべる人、相手が今いる段階を考慮せずに決まり文句を話して聞かせる人、お金を搾り取れそうな相手を探して歩き回っている人は、良い案内人ではありません。

アルジュナのように捨離の精神を育みなさい

あなたの理智(ブッディ)、すなわちあなたが生来持っている識別力を、あなたに捜し求めさせ、調べさせ、体験させ、信じさせる代わりに、それを無益なものとしてしまうグルは、人類にとって危険人物です。なぜなら、理智(ブッディ)は悟りを得るための唯一の道具だからです。グニャーナ(霊的知識)のみが、究極の真理のヴィジョンを授けることができます。ガーヤトリーマントラが、内なる魂の光によって探求の精神を刺激して道を照らしてください、と願う祈りであるのは、そのためです。だからこそ、クリシュナはギーターの中で、「私は生きとし生けるもの〔知性ある者〕の知性である」と語ったのです。アルジュナはグダーケーシャ(怠惰と眠りに打ち勝った人)でした。アルジュナ(純粋・無垢の意)という名前自体が、彼が立派な徳の人であったことを示しています。アルジュナは偉大な勇士でした。だからこそ、アルジュナは主自身からギーターという生きる道を教えられたのです。アルジュナのようでありなさい。アルジュナが示した捨離の精神を育みなさい。アルジュナがしたのと同じくらい注意深く、理知的に、主に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたもあなた自身の祈りによって、御者である神からギーターを授かることができます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C38