サティヤ サイババの御言葉

日付:1968年9月30日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話⑦より

紙にインクを垂らす

「あなたは誰ですか?」と尋ねられれば、あなた方は皆、何年か前に誰かがあなたに付けた名前や、あなたが自分で付けた名前を答え、何生にもわたってあなたに与えられ、幾度となく生死を乗り越えてきた名前を答えません。その名前は、本当のあなたであるアートマという名前です。それはあなたが忘れている名前です。アートマは三つの厚い幕で覆われています。それは汚れ(マラ)、散心(ヴィクシェーパ)、閉鎖(アーヴァラナ)という覆いです。汚れ(マラ)は、不道徳や悪や激情の汚れです。散心(ヴィクシェーパ)は、真実を隠し、虚偽を魅力的で望ましいものに思わせる無知の覆いです。閉鎖(アーヴァラナ)は、永遠なるものに一時性を重ね、普遍なるものに個別性という境界を重ねる覆いです。さて、この三層に積もった垢(あか)を取り除いて洗い流すには、どうすればいいでしょうか? それには石鹸と水を使えば確実です。悔い改めという石鹸と、認知という水は、あらゆる汚れ(マラ)の垢を落とします。散心(ヴィクシェーパ)は、五感が追い求める対象や外界に付属しているものからやっきになって幸福を求めることの原因となりますが、ウパーサナ(規則的に礼拝に打ち込むこと)によって、そして、万物の源であり支えであるものを崇拝することによって、変容します。閉鎖(アーヴァラナ)という覆いは、全創造物のアートマの唯一性、人のアートマの真髄を明らかにする英知(グニャーナ)を獲得することによって、引き裂くことができます。したがって、汚れ(マラ)は行為(カルマ)によって取り払うことができ、散心(ヴィクシェーパ)はバクティ(信愛/神への愛)によって、閉鎖(アーヴァラナ)は英知(グニャーナ)によって、取り払うことができます。そういうわけで、インドの聖仙たちは、求道者のために以上の三つの道を定めたのです。

敬虔な探求は、初めは毒のごとし、終わりは甘露のごとし

賞賛に値するいかなる達成にも、近道はありません。着実な努力だけが勝利を約束します。わずかな努力で、あるいはまったく努力なしで得られたことは、大喜びするに値しません。ヤマ〔禁戒〕、ニヤマ〔勧戒〕、アーサナ〔坐法〕)、プラーナーヤーマ〔調息〕、プラティヤーハーラ〔制感〕、ダーラナー〔集中〕、ディヤーナ〔瞑想/座禅〕という修行の階梯は厳しいものですが、最後には、ニルヴィカルパ サマーディ〔三昧の境地〕の段階、すなわち、まったく乱されることのない、平等観にある状態に行き着きます。物理的な喜びを追求することは、「初めは甘露のごとし、(アグレー アムルトーパマム )終わりは毒のごとし(パリナーメー ヴィシャム)」である一方、平静を追求することは、「初めは毒のごとし(アグレー ヴィシャム)、終わりは甘露のごとし(パリナーメー アムルトーパマム)」です。

昔、一人の求道者が、守護のマントラを伝授して霊的な生活に入らせてくれないかと兄に懇願しました。すると兄はこう言いました。

「身内に教えるというのは難しいものだと相場が決まっている。ましてや弟に教えるとなると、さらに難しい。導師となって来られたシヴァ神御自身であるダクシナームールティのもとに行きなさい。」

弟は、どうやってその導師を見つけたらよいか尋ねました。すると兄は言いました。

「すべての人、すべての物事を等しいものと見なす人、その人が、私の述べた導師だ。」

そこで、その若き弟はその導師を探しはじめました。弟は、金の指輪をはめて、いくつもの隠遁所を訪ね歩きました。弟は隠遁者たちに、指輪の金属は何であるかを尋ねました。ある者は金、ある者は真鍮(しんちゅう)、ある者は銅、ある者はブリキ、ある者は合金だと言いました。そのため、弟は導師を探し続けました。その後、弟は、輝く目をした若い行者に出会いました。弟は、指輪は金かどうかを尋ねました。行者は「そうです」と答えました。弟が「真鍮ですか?」と尋ねると、行者は「そうです、それは真鍮です」と答えました。弟が何と尋ねても、行者は「そうです」と答えました。その行者には、いかなる違いも認めることは不可能でした。それゆえ、弟は、目の前にいる行者こそがダクシナームールティであるという結論に至りました。平等観は、他でもなく、唯一性を覚(さと)った結果として訪れるのです。

あなたのハートの中心にシヴァムを受け入れなさい

サナトクマーラは、神が目の前に現れた時、厳しい苦行に没頭していました。神は、必要とするものを申し出るように、と述べました。すると、サナトクマーラはこう言いました。

「今、あなたは私の客人です。私がしばらく暮らすこの場所にあなたはお越しになりました。ですから、何でも必要なものをおっしゃってください。私には、客人を礼遇し、客人の必要を満たす義務があります。」

ブラフマンを知ることで、サナトクマーラはブラフマンそのものになりました。それゆえ、神と対等に話すことができたのです。「私はあなたです」というのが、サナトクマーラが辿り着いた境地でした。サナトクマーラがそう話したことは、驚くに値しません。神はつねに存在しています。「私」というのは、人が神から自分を切り離した後に生まれるものです。ですから、ジーヴィ(個々の魂)の誕生に伴って、デーヴァ(神)という観念も心に生まれなければなりません。それが安全と成功の印です。あなたのハートの中心にシヴァム(神)を受け入れなさい。そうすれば、あなたは不滅となります。神のいない肉体であるシャヴァム(屍)を受け入れるなら、あなたは滅びます。

霊性の師は、その根本的な教えを強調しなければなりません。霊性の師は、学校の教師のなかでも体育の教師のようになるべきです。他の教師は、教室へ入り、教え、出て行きます。歴史の教師は、授業を進め、出て行きます。科学の教師も同じです。体育の教師は、自ら生徒の前に立ち、手を動かさなければなりません。そうすれば、生徒たちはそれと同じことをできます。体育の教師は、生徒に望むのと同じ回数と速さで、自分の体を曲げ伸ばししなければなりません。グルはブラフマンであらねばなりません。そうであれば、他の人たちを神の英知へと導くことができます。グルは、単に唯一者の名前を認識しているだけでなく、唯一者と名付けられた者を認識していなければなりません。

富は永続する幸福を与えられない

生活水準を上げたいという欲は、決して癒されることのない渇きです。それは、五感の喜びを際限なく追求すること、欲しいものが増えること、心配事にもっと深く巻き込まれることへとつながります。豊かさは、命取りになる誘惑です。お金を得たいという痒みを止めることのできるクリームはありません。

あるとき、ラクシュミー(富の女神)とナーラーヤナ(ヴィシュヌ神/ラクシュミー女神の夫)が、どのような者が人類のハートの中で一番の存在であるかについて口論しました。二神は実際に試して解決することにしました。

ラクシュミー女神は、霊性の師となって人類のもとに降臨しました。人々がラクシュミーの足を洗い、ラクシュミーに礼拝していた時、信徒たちが使っていた皿や器が金の器に変わりました! そのため、ラクシュミーはいたる所で歓迎され、恐ろしいほどに信徒たちが集まり、真鍮や銅やアルミの皿や器が、そこいら中に山と積まれました!

一方、ナーラーヤナ神は、聖典の講釈師となって降臨し、聖仙たちによって示された幸福と歓喜への道を、大勢の人に説いていました。ナーラーヤナの信徒たちは、ラクシュミーが金属を金に変えたという話を聞くと、自分たちのところにもラクシュミーに来てほしいと思い、ナーラーヤナの教えたことにはほとんど注意を傾けなくなりました。ラクシュミーがやって来ると、ナーラーヤナは町や村から追い出されました。というのも、ナーラーヤナの説法は、利益をもたらすラクシュミーへの礼拝の会を妨げる内容だったからです。

神への信仰心のない人が説く、心をそそる話に耳を傾けてはなりません。彼らは、常道でない手段によって突如として富が飛び込んでくる、という思惑をあなたの前にちらつかせます。しかし彼らは、富は幸福をもたらすことはできない、永続する満ちたりた真の幸福をもたらすことはできない、ということはあなたに言いません。彼らの主張は見せかけだけで、ずる賢いものです。彼らは伝統的なもの、真実のものを嘲笑します。

どの儀式にも意義や意味がある

ヴェーンカタギリに、規則正しくサンディヤー(夜明け、正午、日暮れに行う礼拝の儀式)をしている正統派のブラフミンがいました。サンディヤーの儀式では、小さなスプーンで聖水を一回に三杯ずつ、何回もすくわなければなりません。それを見ていた息子は笑って言いました。

「なぜそう何度も、ちびちび飲まなければならないの? 全部一気に水を飲めば、簡単に早く済むのに。」

父は黙ったままでした。その後、息子が宿題をしていた時、息子が数分ごとにペンをインクに浸けているのを見て、父は笑って言いました。

「そんなことしないで、インクを直接ビンから紙に垂らしたらどうだい? 一行書くと字が細くなって、そのたびにペンをインクに浸してインクの滴を紙に付けるような煩わしいことを、どうしてやっているのかね?」

どの儀式にも意義や意味があります。それを信じてそのとおりにやっている人に任せるのが、最善です。

自らを救うには三つの道があるのみです。それはプラヴリッティ〔外に向かうこと〕(行為や外的な活動)の道、ニヴリッティ〔内に向かうこと〕(放棄、内なる静けさ)の道、プラパッティ(全託)の道です。プラヴリッティは、本能や衝動を昇華させる方法です。ニヴリッティは、五感やエゴの渇望を抑える方法です。プラパッティは、五感、本能、衝動、知性、感情を、全知全能の神を賛美するために利用する方法です。行いなさい、そして、それを捧げなさい。働きなさい、そしてそれを礼拝としなさい。計画しなさい、そして、それを遵守しなさい。ただし、結果を心配しないことです。それが霊的成功の秘訣です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C39