サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年2月15日[午前]
場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話?より

泥棒か師か?

人は貴重な時間を浪費して、すべての生き物の中での自らの地位、神へと至るための壮大な霊的巡礼のための自らの用具、そして、自らの一つの基本的な仕事である生死の輪廻からの解脱を達成することを、おろそかにしています。過去の聖仙たちは、人間として生まれることの価値と尊厳、有用性と責任を認識しており、人を奮い立たせて神へと昇華させるため、道を説くために、シヴァラートリの日の徹夜や断食といった規律を定めました。

「シヴァラートリ」とは、人間の二元的な性質、および、高次のものと低次のもの識別する人間の義務を暗示する言葉です。「シヴァ」とは、グニャーナ〔霊的英知〕を意味します。また、「シヴァ」には、永続するもの、時を超越するもの、そして、有益なもの、聖なるもの、吉兆なるもの、という意味もあります。二番目の言葉である「ラートリ」は、無知の暗闇、安っぽい喜びを盲目的に追い求めること、五感の喜びという鬼火をうろたえさせることを意味します。また、「ラートリ」には、一時的なもの、つかの間のもの、という意味もあります。それは、悪意あるもの、不吉なもの、神聖を汚すものを暗示しています。

ですから、シヴァラートリのメッセージは、「シヴァ」と「ラートリ」――プラーナ(生気/生命力)と体、デーヒ(体に宿る者)とデーハ(体)、霊的なものと物質的なもの、そして、ギーターでヴィバーガ ヨーガ(物質とアートマを識別するヨーガ)と呼ばれている、クシェートラグニャ〔場を知る者〕とクシェートラ〔場〕を識別することなのです。

人々は、シヴァラートリという言葉の文字どおりの意味〔シヴァの夜〕を頼りに、この特別な聖日がやって来るのを丸一年待ちます。夕食を抜かしてそれを断食と呼ぶために、そして、夜眠るのをやめてそれを徹夜と呼ぶために!

断食は、サンスクリット語ではウパヴァーサと呼ばれ、その意味は夕食を抜かすことよりもはるかに重要なものです! 「ウパヴァーサ」(ウパ=近く、ヴァーサ=住む)とは、一緒に住む、あるいは、近くに住むことを意味します。誰と住むのでしょう? 誰の近くに住むのでしょう? 神の近くです。「ウパヴァーサ」とは、ナーマスマラナ(神の御名の憶念)をすることによって、絶え間なくずっと主がいるところに住むことを意味します。これが本当の断食であり、主に固執することです。

聖日の主な目的を理解する

それから、徹夜(ジャーガラナ)です! 徹夜とは、ずっと目を覚ましていて、五感の眠りを振り払い、愛の光、つまり神の本質を完全に認識し続けることを意味します。これは、眠気と怠け心を振り払い、瞑想とサーダーナ〔霊性修行〕に深く集中することを意味します。

サンスクリット語でハートを表す言葉、「フルダヤム」(フルダヤ)を見てごらんなさい。これは、「フルディ」+「アヤム」、つまり「神のハート」を意味します。それは、神が住む場所、神が身を置く場所です。徹夜とずっと神の御前にいることによって、あなたは神を自分のハートの中に落ち着かせなければなりません。そして、神はあなた以外の万物の中にも同じように身を置いているということを見なければなりません。これが、こういった聖日の主な目的であり、それを遵守するために定められた規定なのです。

真実〔サティヤ〕は、神へと向かう生活の基本原則です。それは人間のすべての経典の中で強調されています。ラーマは、父親の語った言葉を守るために、追放の身となって14年間森で耐えました。ダルマラージャは、自分がサイコロ賭博で言った言葉守るために、12年間追放生活に耐えました。ハリシュチャンドラ王は、真実を貫くために、自分の妃と息子を奴隷として売り、自分も川辺の火葬場(ガート)の番人になりました。これらは真実〔サティヤ〕を教える輝かしい手本であり、この国で母親がすべての子供に教えているものです。こうした聖日は、偉大な理想について熟考するために用いなければなりません。

自分を裏切らない

聖仙たちは、すべての人をアムルタッスヤ プットラーハ、すなわち、「不死の子」と呼びました。しかし、この明確な保証と、そこから経験することのできる尽きることのない喜びにもかかわらず、人は自分をアンルタ プットラ、すなわち、「虚偽の子」に格下げし、自分はこれを持っていないとか、他の快適さや道具を持っていない、と嘆きはじめています!

人から平安や満足、心の均衡や勇気といった貴重な宝を奪った泥棒たちが師として敬われ、人の平安や幸福を確実なものにしてくれる師たちは不敬と嫌悪感を持って扱われています。あなたは泥棒が入ってこないようにドアと窓に鍵をかけることはできますが、死が入ってこないようにドアに鍵をかけることが誰にできるでしょう? 泥棒たち、すなわち、情欲、怒り、貪欲、執着、慢心、憎悪は、歓迎すべき客人として敬われ、本当にあなたの幸福を願っている人たち、すなわち、平静や謙虚さは、門前払いを食っています!

自分は甘い飲み物を飲みたがっているのに、あなたは砂糖の代わりに塩をコップに入れて、その塩を砂糖だと思っている――それが今日の人間の状態です。人は平安を切望していても、それを得る方法を知りません。人が採っている手段は、人が待ち望んでいる結末へは導いてくれません。

私にところにやって来る人の大部分は、悲喜と生死の輪廻からのモークシャ(解脱/神我顕現)を願い求めます。しかし、私が彼らの願いをかなえて彼らを祝福すると申し出ても、彼らは進み出てきません。そうするよりも、彼らは10年後、あるいは5年後もその願いを持っていたいと思っているのです。ですから、彼らの渇望と切望はすべて単なるポーズです。それは流行のスローガンであり、それ以上のものではありません。人は誠実でなければいけません。言葉は感情と一致していなければならず、行いは言葉と一致していなければなりません。少なくとも今日から、その実践を決意しなさい。自分を裏切ってはなりません。

こうした聖日の慣習に従って、今、私はこの建物の上にプラシャーンティの旗を掲揚します。この旗は、人を引きずり下ろす激情や情動を克服し、人を高める愛と平静を育むサーダカ〔求道者〕の、霊的勝利の象徴です。ですから、プラシャーンティ ニラヤムにこの旗が掲揚され、広げられた時には、あなたもその旗を自分のハートに掲げて広げなさい。そうすれば、その旗はあなたの霊的な勝利を告げることができるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C4