サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年10月15日
場所:プラシャーンティ ニラヤムにて
ダシャラー祭の御講話③より

心の気まぐれの祝宴はやめなさい

人はなぜ、この世に生を受けた時に泣き声を上げ、生涯を通じて泣きべそをかき、あの世に行く時にはうめき声を上げて、ここでの滞在は無駄だったと嘆くのでしょうか? 人がそうするのは、自分の栄光、自分の気高い運命に気づいていないからです! 人間は神が人間という型に流し入れられたものです。生物であれ無生物であれ、他のあらゆるものもそうであるのと同じように。

けれども、この貴重な真実に気づくことができるのは、人間だけの特権です! これは人間に向けたウパニシャッドのメッセージです。このメッセージは、経典に、そして、数え切れないほどの聖人たちの明言の中に、繰り返し述べられています。それでも、人はそれに耳を貸しません。おそらく、それは過去世での自分の悪行によって生じた不幸によるものでしょう。人は、自分の神性を、あるいは、自分の外側で見たり、聞いたり、味わったり、触ったり、嗅いだりするすべてのものに表れている神性を黙想することで、アーナンダ(神の至福)を引き出すことができます。

サルヴァム ブランママヤム
――ブラフマンはすべてに内在している

あなたの内側にも外側にもあるアーナンダの源は、なんと尽きることのないものでしょう! あなたはただ、その呼びかけに応え、真理を認識する心(マインド)を育てさえすればよいのです。揺りかごの中の赤ちゃんは、まさにアーナンダの権化です。悲しみのあまり赤ちゃんが泣くと、私たちは赤ちゃんの方に走っていきますが、それは、悲しむのは赤ちゃん本来の姿ではないからです。人間も本質的には至福の存在です。不幸は人間とは無縁のものなのです。

神が内にいることを認識したならば、すべての行為を神に捧げなければなりません。深く分析してみると、行為とは何でしょうか? 行為とは、神から授けられた技能を通じた、神による、神の操作です。そこには、普遍的な「I・私」と神聖な「My・私の」以外、「私」や「私のもの」はありません。

心(マインド)を悪徳や貪欲から遠ざけなさい

奉納はさまざまな方法で行われます。私たちが食べる食物のことを考えてみましょう。食べる前に食物を神に捧げなさい。すると、食物は清らかで力に満ちたものになります。神の栄光を讃えるために行う行為は、そのようにして清らかで力に満ちたものとなるのです。そのような行為は、その行為をした人も、それによって恩恵を受けるもの、すなわち社会も、傷つけることはできません。というのも、その行為は愛に満ちており、愛は神だからです。神は、この人形劇の演出家、糸を操る者です。幕の後ろに回って神を見なさい。今は幕が神を隠しています。私たちに美しいものを見せるため、重く水滴を含んだ雲の暗さを見せるために、神が糸を操っているのを見るには、ただ、花の裏側をのぞき込み、雲の背後を見るだけでよいのです。同様に、あなたはただ、自分の思いの背後を見つめ、自分の感情の背後を見るだけでよいのです。あなたはそこに、内側から動機づけをしている者を見つけるでしょう! この内側を見るプロセスは、インドのヨーガシャーストラ(ヨーガの科学)〔ヨーガ経典〕の中で教えられています。しかし、あなたは、無知を離れ業や妙技で補うような教師にではなく、純粋で無私の教師に近づかなければなりません。

もしそのような教師が得られなかったら、神の御名と御姿(自分にとって魅力的な御名と御姿であればどんなものでも)を瞑想するだけで十分です。あるいは、御名と栄光を思い起こすだけでも十分です。心(マインド)を悪徳や貪欲から遠ざけることが重要です。ハートは、優しく思いやりのある状態に保たれているべきです。年齢は問題ではありません。年老いていても、その人のハートは新鮮で優しく、奉仕への熱意と、犠牲をいとわない気持ちで満ちているかもしれません。それは霊性の国へのパスポートを手に入れることを確実にしてくれるでしょう。神性とは、人生という旅の終着点にほかなりません。それは、熟した果実は、芽から花、花から実、酸っぱい苦い果実から甘い果汁でいっぱいの熟した果実への、旅の終着点であるのと同じです。恩寵は、果実を熟させる太陽の光です。サーダナ〔霊性修行〕は、大地から上がってくる樹液です。どちらも木が実をつけるために必要なものです。

瞑想で身につけるべき7つのステップ

恩寵は、求める人に降り注がれます。ノックしなさい、そうすればドアは開くでしょう。頼みなさい、そうすれば食べ物は出されるでしょう。探しなさい、そうすれば宝はあなたのものになるでしょう。あなた方は文句を言うかもしれません。「そうです! スワミ! 私たちは何年も前からノックし、頼み、探しています。しかし、ドアはまだ開かず、食べ物はまだ出されず、宝はまだ手の届かないところにあります!」。しかし、私はあなた方に聞きたいことがあります。あなた方は、神ではなく悪魔に頼み、悪魔のドアをノックし、悪魔の国で宝を掘ってきたのではありませんか? 悪魔の国というのは、物質世界、外側の自然界、プラクリティのことです! 彼女は巧妙な魔法使いです! あなたは、彼女が平安とアーナンダ〔至福〕を与えてくれると信じて、彼女の機嫌をとってきました! 彼女はあなたの心をくすぐり、次から次へとあなたを失望させます。彼女はあなたがうぬぼれて崩壊するまで、あなたのエゴと達成感を強めます! あなた方は間違ったドアをノックしているのです。常に開いている地獄のドアを! あなた方は、永遠の宝ではなく、くだらないわずかな快楽を探しているのです!

あなた方は私にこう言います。「スワミ! 私は50年前から真剣に瞑想を実践していますが、いまだに集中力が得られません」。これは恥ずべき告白です。ディヤーナ〔瞑想/坐禅〕は、第8のサマーディ(心/マインドの征服)〔三昧〕へとつながる一連のステップのうちの第7のステップです。その前の6つのステップでしっかりと足場を固めていないと、何年がんばってもディヤーナから後退してしまいます。第1のステップは感官のコントロール、第2のステップは感情と衝動のコントロールです。第3のステップはバランスと均衡の習得、第4のステップは呼吸と生気の調整、第5のステップは外部からの影響が心(マインド)をそらすのを防ぐこと、第6のステップは自分自身の進歩に一点集中して注意を払うこと、それから、真のディヤーナ——自分の実在の瞑想——へと至るのです。これはサマーディでの悟りへと容易に導いてくれます。前の段を踏まずに、いきなり7段目に飛び乗ることはできません! それから、8段目に飛び乗ることができるのです!

「荷物」を減らして人生の旅をもっと安全なものにしなさい

人生という旅をしているときには、持ち歩く荷物を減らしなさい。覚えておきなさい、「あなた」でないものは、すべて荷物だということを! あなたは体ではありません。ですから、体は荷物です。心(マインド)、感官、知性、想像力、欲望、計画、偏見、不満、苦悩——すべては荷物です。あなたの旅をもっと軽やかに、もっと安全に、もっと快適にするために、すぐにそれらを投げ降ろしなさい。この教訓は、謙虚で質素な偉人たちを見て学びなさい。彼らは、あなたが敬い、従うべき年長者です。彼らは、彼らがこの世を去る(pass away)時にあなたに涙を流させる人です。あなたの道を横切って(pass your way)あなたに涙を流させる人もいます! 彼らは避けるべき人たちです。

神は、荒野に迷い込んでしまった人間よりも、むしろ動物や鳥たちに自ら〔神〕のことを気づかせます。最近、人と荷物をいっぱいに積んだ一台の馬車がダルマーヴァラム〔プッタパルティから40キロほど離れた市〕の鉄道の駅に向かっていました。御者は馬を速く走らせようと、馬の背や首を情け容赦なく鞭(むち)打っていました。ちょうどその道を、顎ひげを生やした血色のよい老人が通っていました。その老人は御者に声をかけました。「おい! そんなに手綱をきつく持つんじゃない。手綱を放して、ゆるく持つんだ! そうすれば馬は速く走る」。御者は言い返しました。「黙れ! 俺の馬のことは俺のほうがよく知っている」。 馬車に乗っていた乗客の男の一人が「どうでもいい!」と言いました。その時、御者に声が聞こえました。(話していたのは馬でした)「彼はアルジュナの馬車の馬を御していたクリシュナだ。彼は馬のことなら何でも知っている!」。御者は、その声の主は乗客の誰かだと思いました。御者は馬車の中をのぞき込みながら返事をしました。「クリシュナは、アルジュナの馬のことなら何でも知っているだろう。だが、俺の馬のいったい何を知っているというんだ?」

ゴーピー〔牧女〕たちは、どんな人間の使者よりも、蜜蜂のほうがクリシュナとの別離の苦しみに共感してくれると感じていました。ゴーピーたちは、自分たちに代わって主に取りなしてほしいと、一匹の蜜蜂に頼みました。「私の礼拝の花輪を身につけてくださるよう、主に祈っておくれ」と、あるゴーピーは頼みました。別のゴーピーは「私のハートの暗闇を照らしてくださるよう、クリシュナに頼んでおくれ」と願いました。ラーダーはその蜂に「私のハートの砂漠の砂に緑が青々と芽吹くよう、クリシュナに祈ってほしい」と頼みました。「そうすれば、クリシュナの御足はその上を軽やかに滑らかに歩けるでしょうから」と。

単なる学識では神への融合には至らない

澄み切っていて穏やかな、心の湖(マーナサ サローヴァラ)を神に捧げなさい。あるいは、もし心が猿のように落ち着かず、気まぐれであったとしても、シャンカラーチャーリヤがしたように、その心を神に捧げなさい。シャンカラーチャーリヤはシヴァ神にこう祈りました。「主よ! 私は、あなたが物乞いに行くときに必要なものを持っています。私は猿を持っているのです。大変いたずら好きで、気を引くものなら誰にでも、何にでも飛びつく猿です! これを持っていってください。そうすれば、あなたは猿を連れ歩いている物乞いのように、あなたがよく行く村の子供たちの間でさらに歓迎される物乞いになれることでしょう!」

清らかなものであろうと、未熟なものであろうと、心を神に渡しなさい。自分の切望と自分のサーダナ〔霊性修行〕に誠実でありなさい。単なる学識と外側だけの服従は、本物の純然たる帰依の代わりにはなりません。シャンカラーチャーリヤは、ヴァーラーナスィー〔ベナレス〕の通りを歩いていた時、小さな庵(いおり)で一人の僧侶が文法の本を読み込んでいるのを見かけました! シャンカラーチャーリヤはその老いた学者を哀れに思い、最期が近づいた時、学識は彼を滅びから救うことも、神への融合という目的地へと導くこともできはしないと警告しました。それゆえ、シャンカラーチャーリヤは、その男に、神を崇め、神への思いで自分を満たすようにと言いました。それこそが、人生に対処するための適切な方法であり、人生を心の気まぐれの祝宴として浪費せずに済む方法です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C23