サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年10月16日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話④より

無駄な試み

善良な人との友情を育み、悩める人への思いやりを培い、幸福で繁栄している人を喜ぶ気持ちを養い、悪い心を持つ者への対する無関心を深める——これは古来よく行われてきた、穏やかで平和な人生を送るための処方箋です。神はそのような人を祝福し、恩寵を与えます。心からの喜びをもって唱えた神の御名は、人の心(マインド)に大きな影響を及ぼします。それは月光のように、人の内なる海の波に映ります。というのも、それは内からの神の響きであり、外からの神の呼び声だからです! しかし、ごらんなさい。科学によってもたらされるもの——物質世界を扱うもの、確認可能な部類の思考という方法によって測定や計量や計算ができる物事や出来事を扱うもの——は、喜びを求める人間を荒涼とした世界に追いやってきました!

先ほど、チャンドラモーウリ シャーストリは、マントラについて、「信心を持って意味を十分に理解した上で繰り返し唱えると、神の神秘体験を与えることができる」と、あなた方に話していました。つまり、マントラは、あなた自身の心の電流で充電されたとき、文言の効力によって引き寄せられる神の近くにあなたを置くことを可能にするのです。

マントラとは何でしょう? 「マン」(マナナ、すなわち、潜んでいる意味を考え続けること)、「トラ」(トラーナ、すなわち、救う行為、悲しみを越えられるようにする行為)。心(マインド)がマントラに必要な力を充電することができるための条件は何でしょう? 何よりもまず、「一点集中」です。

さて、心はとても粗末な道具です。というのも、心は鈍いからです。心はあまりにも多くの物や目的を追いかけます。神に注意を向けるようにとあなたが心に説得したその瞬間にも、心は映画館やバザール、クラブのカードルームなどへとふらふらと出かけていきます。神の大いなる荘厳さに思いを馳せることに心が同意することは、めったにありません。あなたが心を神に向けさせると、心はあたかも、大洪水に直面しろ、あるいは、地獄の恐怖を迎え撃て、とあなたが心をけしかけているかのように振る舞います!

神への思いに浸るには神性への信仰心が不可欠

神への思いに浸るためのどんな修行にも不可欠な、神性への信仰心がないのです。その信仰心は、信心深い人と付き合うこと、信心深い人の生涯や体験を読むこと、そして、自分自身が体験を重ねることによって、ゆっくりと芽生えることができるのみです。ナーマ サンキールタン(共に神の御名を歌うこと)は、たちどころに信仰心を生じさせます。最初は、好むと好まざるとにかかわらず、日課として御名を唱えなければなりません。やがてその味は、それが癖になるほど、あなたを引き込むでしょう。神の御名を繰り返し唱えることは、尽きることのない喜びをもたらしてくれるのです。私たちは、ハートの蓮の花について語ります! なぜでしょう? 蓮は水中で育ち、水中で栄養を得て、太陽の下で花を咲かせます。ハートも同様に、バクティ(信愛)から栄養を得て、グニャーナ(英知)によって花を咲かせます。

神の御名のほとんどは、2つの文字あるいは音節で構成されています。2という数字では、(ラーマ、クリシュナ、ハラ、ハリ、ダッタ、シャクティ、カーリーといった二文字の御名の)1つ目の音節はアグニ(火の原理)を表しており、積み重ねた悪徳、すなわち罪を焼き尽くすということを意味しています。2つ目の音節はアムリタ〔不死〕の原理を表しており、これは回復させ、リフレッシュさせる、改善する力です。この2つのプロセスが必要なのです。すなわち、障害物の除去、そして、建造物の建設です。

主クリシュナはヤショーダーに育てられましたが、彼女はクリシュナがどこで生まれたのか知りませんでした! クリシュナは実の息子のように愛され、扱われました。つまりそれは、ヤショーダーの愛は清らかで、利己的な思惑によって汚されていなかったということです。このたとえは、こう理解されます。へその領域で生まれた神の生気は、その後(ゴークラ村でナンダとヤショーダーが)御名を絶えず繰り返し唱えたことにより、舌の上で保持され、育まれたのだ、と。

ラーマの原理は愛の原理であり、それは神々の贈り物として、偉大な犠牲の果報として、天界から降りてきたものです。「ラーマ」は「歓喜」を意味します! 生来備わっている真我(アートマ)ほど歓喜しているものはありません。それゆえラーマは「アートマ ラーマ」とも呼ばれているのです。

では、どうしてバラタは、ラーマを正統な後継者とする王位の座を奪うことに応じたのでしょうか? ラーマが追放され、ダシャラタ王がラーマとの別離を悲しむあまりに死んだとき、バラタとシャトルグナはケーカヤ国の都にいました。〔帰国せよとの〕知らせが届き、アヨーディヤーの都に暗い影を落としていたその二重の悲劇を知らずに宮殿に入ったとき、バラタは何らかの災いを感じ取りました。王家の師であったヴァシシュタ仙は、バラタに王位に就くようにと勧めました。というのも、君主が不在であれば王国が苦難を被ることになるからです!

バラタが示した主ラーマへの愛の模範

バラタは、「私が祈る神であり、絶え間ない愛に満ちた崇敬を受け取る主である者」のもとに行くことを許可してほしいと懇願しました。ヴァシシュタ仙は、君主としてバラタが王位に就くことはバラタの父の命令であり、師の助言でもあると、バラタに述べました。バラタは、その要求は両親、国民、師、そして、アヨーディヤーのすべての人がバラタに対して持っていた、きわめて激しい憎悪の証拠である。なぜなら、もし彼らがバラタを愛していたら、決してバラタにそのような恥ずべき罪を犯すよう迫らなかっただろうと、返答しました。

バラタは合掌してヴァシシュタ仙の前に立ち、懇願しました。

「王国を統治する重責を私に背負わせることは、正当で公正なことでしょうか? それは私の父を殺し、母を寡婦にし、私が自分の息よりも大切にしている最愛の兄を、兄が心から愛している妃と共に悪魔の棲む森へ追放させ、最終的に、私の母にぬぐうことのできない恥辱を与えることになります。私の王国は、ラーマが統治している王国、すなわち、私のハートです。そこは、ラーマの栄光を収めるには小さすぎる国ですが」

バラタの名前それ自体が、バラタはラーマへの愛に浸りきっているということを示しています。(「バ」は、バガヴァーン〔宇宙のすべて〕、すなわち主ラーマを意味し、「ラタ」は、~を喜ぶ、~を幸せに思う、~に執心している、を意味する)

教育が人間のハートを硬化させている

バラタがしたように、あなたの中で主への愛が育つようにしなさい。王座さえも捨てるほどの崇敬の念が、あなたの中に花開くようにさせなさい。そうすれば、あなたは、あなたの国、あなたの文化、あなたの社会、あなたの宗教、あなたの共同体にとって、大いに役立つことができます。それができないなら、あなたが体験してきたサットサンガ〔神聖な集い〕への参加、霊的な講話を聴くこと、霊性の大家たちと会うこと、霊的な書物を学習すること、といった骨折りは、すべて途方もなく無駄な試みになってしまうでしょう。

読み書き、技能、適合、物質的進歩に重点を置いた教育システムが、人のハートを硬化させ、軍用品の蓄えのもう一つの武器にしています! 人の知性は、絶え間ない嘘の繰り返しによって鈍くなり、人の聖なる感情を養う畏敬の念や尊敬の念が、時代遅れのものとして非難されています! 聖人、聖地、聖河は嘲笑されています。長い間、神々の遊び場、聖者の生育の場、人類のグル〔導師〕であったインドが、今ではヴェーダーンタの光を求めて声を上げる人々〔ヴェーダの価値を認識している外国人〕のドアの前に立つ物乞いになっています!

その光の輝きを知り、あなたの二つの翼——バクティ(信愛)とシラッダー(揺るぎのなさ/シュラッダー)——があなたを持ち上げることができる高さまで、その光に向かって飛んでいきなさい。

シャーストリは、スワミの奇跡を描写するのは不可能なことだと言いました。その神秘を理解していない人が、どうやって説明することができるでしょう? 海岸にいる人が、どうやって海の波を数えられるでしょう? 海岸にいる人が全部の数を数えることはできません。その人にとっては、自分が数え始めた波が最初の波で、数えるのをやめた波が最後の波です。聞いて、反芻(はんすう)して、アドバイスに従う——これがあなたにとって十分なサーダナです。

私の教えにおいて第一に重要なのは、あなたの両親、特に母親を敬いなさいというものです。あるとき、大変なハリケーンに見舞われた地域がありました。あまりの激しさにより、家という家がすべてなぎ倒され、住民は食べるものも寝る場所もなくなりました。最もひどい被害を受けた人たちの中に、ある母親と二人の息子がいました。長男は徳の高い素晴らしい息子で、家族を安全に守り養うことに責任を感じていました。というのも、彼は母親を愛していたので、何にも増して母の愛と祝福を得ようと努めていたからです。

真の帰依者は、まず母親を敬うべし

あなた方は、バーラタ マータ〔母なるインド〕、つまり母国について話しますが、どの母親も同じように呼吸をし、同じ血筋にあるのです。その母親は、下の子を連れて物乞いに出かけ、飢饉(ききん)に襲われたその地域で施されるわずかな食物で生き延びていました。しかし、間もなく母親は、自分がほんの数歩を歩くことさえできないほどに衰弱していることに気づきました。そのため、家族が食べていくには、長男が一人で物乞いに出なければならなくなりました。長男は母の足元にひれ伏して、「お母さんがしてきたことは僕がやります。みんなの食べ物を集めてきます」と言いました。長男は、母親が無理をして健康を悪化させるのは嫌でした。けれども、ほんのわずかな食べ物だけで、どうやって三人が生きていけるでしょう? 長男も衰弱していました。

か弱い声と、おぼつかない足取りで、長男は大地主の家に行き、わずかな食糧を乞い求めました。その家の女性が、中に入るようにと言い、少年を葉っぱのお皿の前に連れていき、食べ物を盛りました。しかし、少年は食事をとるために身をかがめることなく、ふらついてバタリと床に倒れてしまいました。大地主が部屋に駆け込んできて、死に際にいる少年がふりしぼる最期の言葉を聞き逃すまいと、少年の口元に耳を寄せました。少年はこう言っていました。「いえ、いえ、先にお母さんに食べ物をあげないと。僕の番はそれからです」

あなたが負っている借金は返すことができるかもしれませんが、あなたが母親に負っている恩は決して返すことができないほど大きなものなのです。自分は神の帰依者だと言う人は、このように、それにふさわしい行いをしなければなりません。神の帰依者は自分の母親を尊ばなければなりません!

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C24