日付:1969年10月17日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話⑤より
シャーストリ〔学者〕は、叙事詩や歴史からの例を挙げて、人間の状況への時間の力と影響について皆さんに説明しました。今日は良いことでも明日には悪いことになり、今日実行可能なことでも明日には実行不可能なことになる場合があります。時間は、習慣や風習を時代遅れなものや時代錯誤なものにします。今日悲しみを与えるものは、明日には喜びをもたらすかもしれません。子供にとって学校に行くのは嫌なことですが、後になれば、自分が年若い時分に無理やり授業を受けさせられたことに感謝します! ラーマが追放された時、シーターは、アヨーディヤーの都も、宮殿も、自分が持っていた幸せな夢の数々も、すべてを捨てて、森に付いて行きました。けれども、金色の鹿を見て、隠れていた欲望が呼び覚まされて、世俗的なものへの「執着」が生じ、その結果、一連の災難に見舞われることになりました。時間がシーターのハートの中にあった欲望の根を温存させていたのです。
ラーマーヤナは、もう一つの教訓も説いています。シーターを探すことは、体験の場における真我顕現の秘訣を象徴しています。ラーマは、シーターを取り戻した時、体験によって裏づけられた真我顕現の英知を取り戻しました。グニャーナ〔英知〕はアヌバーヴァ グニャーナ〔体験から生まれた英知〕となりました。ラーマーヤナは、人が真我顕現という尊い目標を切望しているときには、自然界のすべての力、すべての創造物がその人を助け、あらゆる援助をしてくれるということを教えています。猿、鳥、リス、さらには、石ころや岩までもが、その困難な務めにおける同志となりました。高みを目指し、最高の冒険をしようと決意しなさい。そうすれば、すべてが整い、あなたをゴールへと導いてくれるでしょう。
世界は3つのグナの複合体
実のところ、あなたはその冒険へと向かうよう、あなたの呼吸に促されているのです。呼吸は、1日に21,600回も「ソー ハム」(神‐私)〔私は神であるという意味の音〕を繰り返して、宇宙に内在する原理と体に宿る者の同一性を強調しています。あなたは、口では「神はいない」と断言しているかもしれませんが、息が入ってくる時に「ソー」〔神である〕、出ていく時に「ハム」〔私は〕と繰り返して、不変の存在である「神」は常駐している「私」〔自分〕である、ということを明確にしているのです!
インドの聖賢たちが日常生活に課した規制や制限、衝動や態度を制御して方向付けるために推奨したあらゆる処方箋は、インド文化の貴重な要素であり、大切にし、実践すべきものです。この世は3つのグナ(属性)――サーットウィカ〔浄性〕・ラージャスィカ〔激性〕・ターマスィカ〔鈍性〕――の複合体です。
ウパニシャッドは、この3つのグナに絡め取られている人たちに、雷が「ダ、ダ、ダ」〔雷の音〕といって「ダヤー」・「ダマ」・「ダルマ」という3つの教訓を教えていると述べています。アーナンダ(至福)を渇望するサーットウィカ〔浄性〕の人には「ダマ」(自制心)を、冒険、英雄、活動を渇望するラージャスィカ〔激性〕の人には「ダルマ」(正しい行動、正義の理想)を、そして、感覚に執着して客観的な快楽を渇望するようなターマスィカ〔鈍性〕の資質に支配されている人には「ダヤー」(愛に基づく慈悲。これは執着と貪欲を昇華させることができる)を、教えているのです。
賢者たちは、「タット トワム アスィ」(汝はあれである)〔タットワマスィ、汝はそれなり〕という真理を発見しました。「あれ」は「神」であり、そこからすべてのものが生まれ、そこにすべてのものが在り、そこに一切が融合します。この真理は、バクティ マールガ〔信愛の道〕――真我への献身、信愛、全託の道――によって知ることができます。「汝」つまり「個人」は、カルマ マールガ――無私の行い、すべての行いの果報を放棄する道、尊崇の精神を持ってすべての行いを礼拝の行為として真摯に行う道――によって理解することができます。そして、「タット」(あれ)と「トワム」(汝)を同一視していく「アスィ」と呼ばれるプロセスは、グニャーナ マールガ〔英知の道〕――知恵の道、鋭く執拗(しつよう)な識別の道――によって完結しなければなりません。バクティとカルマ〔行為〕が結合すると、それはグニャーナへとつながっていきます。バクティはすべてのものを「タット」〔神〕と見ます。カルマ〔行為〕は「トワム」〔汝〕の分離性を消し去ります。そのため、「アスィ」(同一視)のプロセスは容易になるのです。
貧しい人に奉仕することでエゴをなくす
こうしたことはすべて単純なことで、さまざまな聖句によって説明されていて、それを著名な師が毎日何千という人々に説明していますが、真理は経験されておらず、自己同一視は味わわれていません。一切が舞台上の演技です。言葉はハートからのものではなく、他人が書いた台本の合図に従って発せられています。観客に受けるため、そして、拍手と劇場窓口の利益のために多くが行われているのです! バケツを逆さまに置いておいたら、せっかく大雨が降っても何が得られますか? 水を集めることができますか? 宗教に関する話を聞いても、あなたの心(マインド)がそれを受け入れないなら、あなたは何の利益も得られないのではありませんか?
ミストリー博士は、ボンベイ〔ムンバイ〕でのセヴァダル〔無私の奉仕を行うボランティア〕の活動である献血、病院の病室訪問、貧しい入院患者への奉仕のことを話してくれました。実に、奉仕はエゴを消し去って人に本当のアーナンダ〔至福〕を与えてくれる行いです。ミストリー博士はパールシー〔インドに住むゾロアスター教徒〕ですが、博士がいかにヒンドゥー教の聖典も熟知しているかに注目しなさい。そのおかげで、博士は今、皆さんに、シヴァ神、パールヴァティー神、ガナパティ神〔ガネーシャ神〕はゴールへと向かうカルマ、バクティ、グニャーナのマールガ〔道〕の象徴として解釈され得るということを説明することができたのです。
すべては一なる神の姿であるという信念を持って行われるセヴァ〔無私の奉仕〕は、最高のカルマ〔行為〕です。セヴァのインスピレーションは、頭ではなくハートから生まれることに着眼して見てみなさい。以前、ホワイトフィールドにある人文科学の大学の講師と学生たちに話をした時、私は年長者を敬う必要について語りました。今、学生は教師に対してうなずいたり頭を動かしたりする挨拶をしていますが、ただそれだけです。私は学生に、「うなずくこと」は距離、敵意、不和を意味すると伝えました。それは、学生と教師が対峙(たいじ)していることを明らかにし、互いに他人であることを示しています。私は学生たちに、そのような考えは捨て、先生を友人として、そして、セヴァに従事する導き手であると同時に学び手でもある者として受け入れるようにと望みました。私は両者の間に愛と尊敬の念が行き交うことを望みました。
クリシュナとバララーマの英雄的活躍
今、私は〔この講話を〕終わりにして、楽屋にいるヴェーダパータシャーラ(ヴェーダを勉強する学校)の子供たちのもとに行かなければなりません。彼らは霊的な甘露でいっぱいの劇を演じることでしょう。というのも、神を味わったことのある人たちは、神は「ラソー ヴァイ サハ」(神は甘露そのもの)であると表現しているからです。神の物語は言葉にならないほど甘いのです。全世界は神のおかげで甘美であり、全世界は神であるがゆえに喜びを与えます。あなた方はその喜びをどうやってつかんで保っていいかを知らず、そのせいで喜びと悲しみの間を行ったり来たりしています。喜びを完全に、常に得ていなさい。そうすれば、生まれることも、死ぬこともなくなります。あなたは不滅です。あなたは至福であり、力であり、英知なのです。
少年たちが演じようとしている劇の中で、私はカムサ、ゴーピー、アクルーラ、デーヴァキー、ヴァスデーヴァ、ナンダといった、私の昔のバクタ〔バクティを有する者〕たちの生涯における出来事を描いています。少年たちにとって幸運だったのは、私が何日も夕方に彼らと一緒にいて、歌い、セリフを繰り返したことです。そのおかげで、少年たちはそれらの偉大な真理を学び、皆さんの前で感動的な出来事を演じ、演者も観客も喜びを得て、分け合うことができるのです。少年たちは役を完全に表現することはできないかもしれませんが、皆さんはその感動と、それが伝えようとしている霊的な教訓を吸収することができるでしょう。
物語は、カムサが宿敵である7歳の牛飼いの少年クリシュナとその兄バララーマを自分の都や宮殿に連れてきて、王家の象や闘士の力を借りてクリシュナを殺そうとたくらむところから始まります。その後の場面では、神童と離れ離れになってしまったゴークラ村の牧女たちの苦悩、里親を悩ませるジレンマ、そして、クリシュナ兄弟がカムサの待つマトゥラーの都へと旅立つ様子が描かれています。クリシュナは自分を招待した君主のもてなしではなく、貧しい信者のもてなしを受け入れ、クリシュナの来訪は民衆に大きな喜びを与えます。一方、牢獄(ろうごく)にいた両親は、長年離れ離れになっていたクリシュナとの再会を喜びます。看守たちは、象と闘士を亡きものとし、最終的に王であるカムサ本人に屈辱と崩壊をもたらしたクリシュナとその兄の英雄的な活躍、都に響きわたったその一連の勝利を、その都度、両親に伝えます! クリシュナとバララーマは牢獄に侵入して両親を解放し、そこで劇は終わります。
演者たちの幼い年齢にとらわれてはいけません。彼らから発せられる言葉は賢明で、治癒力があります。それらはヴェーダやシャーストラの教えです。あなた方のハートの中にそれらを大切に収めて、少なくともそのうちのいくつかを日々実践することを決意して、それぞれの地元へと発ちなさい。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C25