サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年10月18日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話⑥より

兵士と大将

神はあなたに、この素晴らしいチャンスを、この素晴らしい世界を与えました。この世は、心の平安を育むためのジムとして、そして、あなたの卑金属〔希少価値が高くない金属〕を価値ある通貨へと変えるための造幣局として使われるべき場所です。ですから、あなたは恩寵を注いでくれた神に感謝を捧げるべきなのです。昆虫でさえ感謝の気持ちを持っています! 一匹の蟻(あり)が氾濫した川を流れる枯れ葉の上に落ち、小さいハートで神に助けを求めました。すると、川の上を飛んでいたトビがその川めがけて急降下し、その葉っぱをくちばしに挟んで上昇しました。トビが葉っぱを魚や蛙と間違えるようにと神が仕向けたのです! トビはひどくがっかりしましたが、蟻は固い地面に降りることができて大喜びでした! 「神様がトビになって僕を助けてくれたんだ」と蟻は思いました。「僕はあのトビに、そして、すべての鳥に感謝しなくては」と蟻は決意しました。ある朝、その蟻がいつものように這い回っていた時、猟師が鳥を狙って矢を向けているのを見かけました。自分の命が一羽の鳥に助けられたことを思い出した蟻は、猟師が矢を放とうとした瞬間に猟師のかかとをチクリと噛みました。的は外れ、鳥は飛び立ち、救われました。蟻は恩返しをしたのです。

同様に、人も恩返しをしなければなりません。人は、あらゆる善と真と美を授けられていることに対して、神に大きな恩があるのです。講話を聞いたら、そのことに対して恩を返さなければいけません。それは、言われたことを反すうし、勧められた生き方のうち少なくともいくつかを実践することによって返すことができます。食べた食事は消化しなければなりません。そうすることで、血流が強化され、それが勇気や技能や体力へと変わるのです。生まれてきた世界は、注意と識別を持って見て学ぶべき場所です。「世界」という語は、私ではないすべてのもの、私が私のものと呼ぶすべてのもの、すなわち、身体や感官や心(マインド)や知性を意味しています。

霊性は愛のないハートでは育たない

神はどこにでもいます。神は万物です。そのせいで、神はどこにも、何の中にもいないように見えてしまうのです! というのも、神を知るためには、人は神を異質なもの、無類なるものとして認識する必要があるからです。私たちは、万物は自分にとって異質であり、すべてのものにはそれぞれ独自の無類性があることを忘れています ! 何を根拠にあなたは否定するのですか? 何を根拠にあなたは受け入れるのですか? 愛や真理や英知を否定することはできません。神は愛であり、力であり、真理であり、英知であり、美です。あなたが愛を受け入れるとき、あなたは神を受け入れているのです。霊性の若芽は、愛という野原でのみ成長することができ、愛のない人のハートの乾いた土壌では成長できません。

あなたのハートから塩分をすべて取り除き、主の御名という肥料を土壌に加え、信仰心という水を撒きなさい。それから、神性という苗を植え、規律という柵で囲い、不動という殺虫剤を散布しなさい。そうすれば、英知(グニャーナ)という豊かな収穫を得ることができます。それは栽培の作業からあなたを永遠に解放してくれるでしょう。バジャンをしたり、寺院を訪れたり、神聖な講話を聞いたりする人を笑う人たちは、その甘露を味わったことがなく、そのために偏見を持っているのです。彼らを不憫(ふびん)に思いなさい。というのも、彼らは自分が何を見逃しているかをわかっていないからです。

しかし、そういった人たちは、志を妨げることによって、志を持つ人を助けているのです! 人々は私に、「ババ! 不信心な者たちの策略に終止符を打ってください!」と祈ります。しかし、私はそうした中傷者たちがどれほど役に立つか知っています。黍(キビ)がある程度の高さまで成長すると、農夫が先の尖った農具で茎の周りの土を掘っているのを見かけたことがあるでしょう。そんなことをしたら根に傷が付いて黍がだめになってしまうと、あなたは心配になるかもしれません。そんなことはありません。その作業をすることで、黍はより良く、より丈夫に育つのです! ある種の果樹は、頻繁に剪定(せんてい)しなければなりません! 本物の信仰心を確認し、強固にし、増進させるためには、反対や批判、さらには真っ向からの非難さえ必要なのです。試練があって、初めて確信が深まるのです。くしゃみをしたら折れて落ちてしまうような鼻を持っていても、何の役にも立たないのではありませんか?

体の中に住まう者を見たいと切望しなさい

苦しいときにだけ神に助けを求める人がいます。テルグ語の諺(ことわざ)に「サンカタムヴァステー ヴェーンカタラマナ!」(困難が訪れるとヴェーンカタラマナ神を呼ぶ!)とあるとおりです。最近まで、ヴェーンカタラマナの霊場へと続く7つの丘の階段を上っていく巡礼者たちは、大声で「ゴーヴィンダ! ゴーヴィンダ!」〔クリシュナ神の御名〕と言っていました。そうすれば足が痛くならないことがあったからです。しかし今では、寺院の入り口まで道路が整備され、車やバスが巡礼者を神前まで連れていってくれます! そのため、近ごろの人々の痛みといえば、食べ過ぎと運動不足による胃の痛みだけです!

求道者が大型車に乗ってスムーズに神前に行き、ぜいたくな日常生活を押し通しているとき、神はどうやって自らを現したらよいというのでしょう? 自分の体という寺院に住まう者を見ることを切望しなさい。お金をかけた快適な環境で体を安全に保ち、整え、甘やかすことを切望してはなりません。超近代的なサーダカ〔霊性修行者〕(!)の中には、自分の家の敷居をまたぐことも、一パイサ〔一銭〕を使うことも、一つの筋肉も動かしたくない人たちがいますが、それでも、真我顕現は自分が説得したり操作したりすることができるはずのグルや神から容易に自分の膝の上に落ちてくるべきだ、と要求する人たちがいます! そして、そんな人々(!)に便宜を図って一もうけするグルたちもいるのです!

神は祈りに応えず、絵姿にしるしを示さず、どこからともなく明瞭な言葉で話して安心や保証や助言を与えることもしてくれないので、神は厳しくて無情だと、あなたは訴えるかもしれませんが、私に言わせるなら、神は愛であり、愛は神です。神の姿(アーカーラ)は愛(プレーマ)であり、神の本質(スワバーヴァ)は至福(アーナンダ)であり、神の活力のもと(ラクタ)は真理(サティヤ)です。石でできた崖でさえ、あなたが泣けばあなたの声をこだまさせて反応するのですから、最も柔らかく、最も甘く、愛に満ちたハートである神のハートも、反応するのではありませんか? 反応がないときは、その泣き声に何か足りないものがあるのだと推測されます。もしかしたら、その泣き声は空虚で、不誠実で、単なるお芝居で、パターン化されていて、あなた自身とは別の誰か、専制君主や厳しい監督といった、遠く離れた人に届いているのかもしれません。

より大きな利益のために、ささいな事柄は無視しなさい

神はあなたにとって最も親密で身近な存在であり、あなたのハートと同じくらい親密で身近であることを分かった上で、神に祈りなさい。そうすれば、必ずや、神の答えはたちどころに与えられるでしょう。そのような人が100人いれば、地球全体が徐々に変わっていくでしょう。

軍隊に大人数の兵士がいても、兵士たちを率いる数人の大将が自分たちはどこにいるのか、どこに進むべきなのか、敵の強さと弱さを理解した上でどのようにして敵に打ち勝てばいいのかを知っているときにのみ、兵士たちは役に立つのです。大勢の人が歌い、唱え、崇拝し、礼拝し、賛美し、ひれ伏しますが、彼らは兵士です。信じる者、信念のある者、規律を実践する者――彼らは、主が信頼する大将です。

この聖地の未来は、霊的規律を実践し、それらの方法によって得られる至福を他の人々に手本として示す少数の人々に委ねられています。彼らだけが、プラシャーンティ〔大いなる平安〕を確立し、アシャーンティ(不安と落ち着きのない状態)を打破することができるのです。私は、揺るぎない信仰心と規律を実践する必要性を、毎日のように説いています。皆さんの中にはこれを不快に思う人もいるかもしれません。私は、もう十分に話したのだからそろそろ休ませてあげようかと思うこともあります。しかし、それはすぐに憐れみに打ち消されてしまいます! そうして、私はここでまた皆さんに語りかけているのです! 私の信念は、音楽の大家の言うところの、「メロディーをマスターするには、それを完全にコピーするための絶え間ない努力が必要であり、それ以外にはない」ということです。私がアドバイスしたことの少なくとも一部が何人かの人のハートの片隅に留まり、そこからそれがその影響を受けた人の日常生活、態度、感情を変えることになるに違いありません。

雨が降ると、多くの人は惨めな気持ちになります。天気が悪い、動けない、と彼らは言います! しかし、雨がもたらす永続的な恩恵を考えてごらんなさい! この3日間、よく雨が降りました。ある人は私にこう言いました。「スワミ! なぜあなたは雨がここでの活動の平穏な流れを妨げるべきではない、とはお考えにならないのですか?」と。しかし、それはささいなことであり、そのためにより大きな利益が脇に置かれるべきではないのです。実のところ、今回行われたヤグニャ〔供犠〕は、雨を降らせるよう神々を説得するためのものでした! そして、その目的はかないました! 雨は収穫と繁栄を増進します。ここでのヤグニャは僧侶によってヴェーダの教えに忠実に行われるので、供犠が行われている最中にも、風が雨雲を集めてくるのです!

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C26