日付:1969年10月19日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話⑦より
人は「創造されたもの」に捕らわれて、自分は神聖な創造主の一部であるという事実が見えず、自分が包まれている肉体の鞘と自分を同一視して、すべての存在は一なる普遍的な絶対者の中で万物と一体であるということが見えていません。人は、霊的な規律や発見について無数の文章を書き、研究していますが、弁証法的な対立や議論に興じて混乱を悪化させてきました。しかし、そうした書物の少なくとも1ページか2ページを実践した人は、名声や勝利への欲望を持つこともなく、沈黙しています。その人は自分の奥底で幸せを感じています。その人は内なる畑を耕して愛の種を蒔き、それが不屈の花を咲かせてシャーンティ(平静)〔平安〕として結実します。これはこの国〔インド〕のリシ〔聖仙〕たちのメッセージです。
どの人にも、修正すべき3つの誤りがあります。それは、「垢」(あか、マラ、汚れ)、「注意散漫」(ヴィクシェーパ)、「覆い」(アーヴァラナ、隠蔽)です。「垢」というのは根本的な無知(アグニャーナ)のことで、それが10人目の人に10人目の人はいないと言わせるのです。(自分以外の他の9人だけを数えて自分が10人目であることがわからないこと) こうした無知すなわち「垢」は毒気であり、それが「覆い」を生み出します。 「注意散漫」とはその無知の影響のことであり、それが、見当たらない人〔10人目〕を10人全員に川の中で探させるのです。
「垢」は現世と前世のカルマの結果〔行為の応報〕です。「垢」はニシカーマカルマ〔無欲の行為〕(行為の結果として生じる利益や損失に執着せずに行為をすること)によって取り除くことができます。「覆い」の影響は、サハナ(寛容)とアンニョーニャヤタ(互いのものであるという感覚)を培うことで克服できます。10人が相互の連帯感で結ばれていれば、誰も行方不明だとは思われなかったでしょう! 同様に、「注意散漫」もプレーマ(愛)によって克服することができます。愛は、一人ひとり全員を本人以外の人に明らかにすることができ、誰も「見逃される」ことにはならなかったでしょう。これは、アーナンダ(至福)を身につけるための方法――愛と献身と奉仕の方法です。
決して人に火傷を負わせたり傷つけたりするような表現を用いてはならない
完結へと導くために、他にもできることがあります。例えば、真実に忠実であることです。
マナッ サッティエーナ シュッダヤ テー
――真実によって心(マナス、マインド)が清められる
真実は偉大な浄化装置です。真実は、汚れも罪も、欠陥も偽りも認めません。偽りは、嘘を語る人の舌、それを聞く人の耳、そして、それを舌から耳の鼓膜まで運ぶ空気を汚します。音には有益なものと邪悪なものがあり、それらは空気中にその反響音を生み出します。神への信仰心とそれが育む謙虚さから発せられる言葉は空気を清らかにしますが、虚栄心から発せられ、ニヒリズムや無神論によって罵倒する言葉は空気を汚染します。
空気をきれいにするような音声だけを使いなさい。辛辣であってはなりません。決して人に火傷(やけど)を負わせたり傷つけたりするような表現を用いてはなりません。そのような表現は憎悪と慢心の悪しき産物です。主を讃え、主の栄光を語りなさい。それはあなたと他の人々に課せられた義務です。
このヤーガ〔供犠〕が存在する理由は、ヴェーダの音はすべて神を讃えるものであり、ヴェーダが伝統的な学派で定められているとおりに正しい調子〔スワラ〕で唱えられるとその場の空気は確実に著しい変化を遂げ、その空気を吸った人の中に存在する悪が以前よりは少し減るからです。神への信仰心は、自分自身と他の人々に徐々に信仰心を染み込ませ、それによって世界はもっと幸せになるでしょう。
アメリカ人は月面を歩き、ロシア人は火星でピクニックをするかもしれませんが、両者とも共通の故郷である地球に戻らなければなりません。ラーマーヤナで、シーターにラーマとの再会の望みを捨てさせるために、あるときシーターの前にラーマの首が差し出されたのを皆さんは知っていますね。同様に、ラークシャサ(羅刹/悪鬼)たちはシーターの首をラーマの前に掲げ、ラーマに生きたシーターを取り戻す望みを捨てさせようとしました。首はどちらも相手をだますために用意された偽物で、本物ではありませんでした。それと同じように、人は、死んでいる衛星ではなく、生きている星、つまり、チャンドラ(月)ではなく、ラーマチャンドラという主――内なる衛星、内なる惑星、内なる動機や動揺を支配する主――に到達して、初めて真の勝利を主張することができるのです。
人の活動の本当の時間割り
人の内面の反応や動揺が神聖なものに変換されると、人が感官と心(マインド)と知性を通して経験するすべてのことが神聖な輝きを帯び、それらの神聖な核心が明らかになって、その人は愛の姿に形作られます。このヴィジョンが得られれば、人は世の中にいながら世の中に影響されずにいることができます。そうなると、すべての行いは、全能の神のために、神の恩寵によって、神の意志を通して行われるようになります。
家で、料理人や使用人や子守などに仕事をしてもらってはなりません。女性は、子供の世話や夫の世話を彼らに頼ってはいけません。そうした使用人のおかげで瞑想(ディヤーナ/坐禅)のための暇を得たとしても、霊的に得るものはありません。神への礼拝の行為として、すべての家事を行いなさい。そうすることは、家事という貴重な仕事を、お金を払って雇うお手伝いさんに任せることで手に入れる瞑想の時間よりも、実り多いものなのです。
男性も、一つのむなしいものから別のむなしいものへと飛び回り、昼夜を過ごすためのさらに意味のない方法を探して貴重な時間を浪費するのは、人生の主な目的にとって害であると感じなければなりません。喜びを広げ、力を与え、勇気を配り、悩んでいる人を慰め、足の不自由な人の歩行を助け、目の見えない人の目となる――これが人間の活動の本当の時間割りです。母なるインドは、子供たちがこれらの理想を捨て去り、礼拝される神としての権威の座をエゴに与えたために、物乞いの国に成り下がってしまいました。
私たちはここで、サティヤ・サイ・オーガニゼーションの役員の全インド大会を開催していますが、それは、彼らワーカーたちがこのメッセージをもう一度思い出すためです。ペトロマックス〔圧力式灯油ランタン〕のランプが暗くなったら、中に空気を送り込むと明るくなります。ここにいるランプたちは暗くなりがちなので、私たちは彼らをサットサンガ〔善人との親交〕のためにこの場所に呼び、彼らの内にインスピレーションと指示を送り込むのです。そうすると、彼らのバッテリーはさらなる奉仕のために再び充電されるのです。
インドは、常に高潔な人格者の側に立ち、警戒心を持って完璧に維持されています。そうした揺るぎのない強固な人格を伴わない学識やシッディ(ヨーガの力による技能/スィッディ)などの成果は、喜びを生むことのできないプラスチックの果物のような、まやかしの模造品です。心(マインド)が神の栄光と神の御名を唱えることに従事しているときには、狂った欲望の坂道に迷い込ませる誘惑は存在できません。1日2回、朝と夕に時間を割いて、舌が甘さを味わう時のそれぞれの御名の深い意味を十分に認識しながら、同じような考えを持つ人たちと一緒に全員で声を合わせて神の御名を歌うなら、自分の内にも外にも神は常に存在しているという気持ちを定着させるのにすこぶる役立つでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C27