サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年10月20日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話⑧より

深みのある趣味

昨今では、人はふと自分の心に浮かんだことをそのまま行い、話すことを習慣にしています。良心や道徳感や礼儀による規制がなくなっています。あまりにも邪悪な人、自らの凶運へと堕ちることに決めた人には、忠告の必要はありません。薬は病気の人のためにあるのであって、すこぶる健康な人やすでに死んでしまった人のためにあるのではありません。忠告は、疑念、心配、動揺に苦しんでいる人のためにあります。その忠告はシャーストラ〔経典〕や聖典の中にあります。

手紙は、ひとたび内容を心に留め、手紙が伝えている指示を把握したら、捨てることができます。それと同じく、シャーストラや聖典は、ひとたびそれを読み、理解し、従ったなら、脇に置くべきです。シャーストラや聖典は何度も何度も読み返すことを目的としているものではありません。

聖典は、あなたはラーマイアフでもカルミアフでもビーマイアフ――あなたが自分のものだと誇示している、今あなたに付いている名前――でもなく、本当のあなたはすべての創造物を動かしているアートマと同一の存在であると断言しています! ギーターはまさにこの真理を教えています。このことを知っている者が「アルジュナ」で、知らない者が盲目の王「ドリタラーシュトラ」です! 「ドリタ」は「固執する」を意味し、「ラーシュトラ」は「国家」を意味します。盲目の王、ドリタラーシュトラは国家に固執し、王国の半分の正当な所有者〔パーンダヴァ兄弟〕に5つの村を譲ることさえ拒みました! ドリタラーシュトラは執拗(しつよう)に貪欲でした。ドリタラーシュトラは「自分」ではないものに執着し、それが破滅を招きました。

あなた自身を愛するように、すべてのものを愛しなさい。あなたがそれ以上愛することはできません! なぜなら、器にはその器の容量しか入らないからです。容量以上を入れることはできません。あなたは「自分」を一番愛しています。つまり、本当のあなたである「神」を、です!

惑わされている人は泥棒を主人にしてしまう

門番は、泥棒が家に入らないように警戒しなければなりませんね? 人間の体は寺院であり、そこには神が祀られています。その警備員は、シャマ〔寂静(じゃくじょう)〕とダマ〔感官の制御〕、つまり、感官と感情のコントロールです。もし警備員が無能であったり怠けていたりすると、色欲や貪欲、怒りや妬み、憎しみや慢心が寺院に忍び込み、寺院中に広がって寺院を支配するようになります。人はあまりにも惑わされていて、そうした泥棒を盗みに入った家の主人であるかのように礼遇しています! 自分の心(マインド)の主人でありなさい。目を覚ましなさい。泥棒があなたの宝物をつかむ前に、立ち上がって泥棒と対決しなさい。

その宝物とは、すべてものの内にある、神の意識です。もし家に泥棒が入らなければ、主人はその宝物を自分のために利用することができますが、泥棒が入ったら、主人は「創造物との親しい関係」から利益を得ることはできなくなります。主人は、自分は体である、自分は異なっていて独りである、自分の周りには友人や敵がいて自分を傷つけようとする陰謀に悩まされている、と感じています。主人は他人を強く愛しておらず、恐怖や好意に苦しんでいます。

性格や行動の欠点を生み出す根本的な愚かさとは、自分のすることは常に正しく、正当であると信じていることです! これは、知らない間に作用している「エゴ」というウイルスの影響です。ある時、農夫が商人の飼っていた凶暴な犬に噛まれてしまいました。農夫は自分の身を守るために、その時に持っていた頑丈な棒で犬の頭を一撃しました。凶暴な犬は死に、怒った商人は農夫を警察署に連れていって農夫を告訴しました! 判事の前で、商人は、「農夫は一番ダメージを受けやすい頭部以外を殴ることができたはずだ」と主張しました。その犬は自分のペットだったからです! 一方、農夫は、「犬は歯で噛んできました。もし尻尾で噛んできたら、尻尾を叩くこともできましたが!」と答えました。人は自分に有利なことが正しいことのように見えるものであり、相手の立場に立って物事を考えることはあまりありません。これは、終わりのない厄介ないざこざへとつながります。

それぞれの場所には固有の波動がある

食べる物は、食材を集める人と、料理を作る人と、給仕をする人が放つ、微妙な悪とは無縁の、清らかなものでなければなりません。そうです、サーダカ〔霊性修行者〕は、これらすべてに注意深く気をつける必要があるのです。生活する場所も、住む人の性格や理想に知らない間に影響を与えています。ラーマクリシュナ・パラマハンサは、マトゥラー〔クリシュナが統治した都〕やヴァーラーナシーといった聖地で得られる平安についてよく語っていました。ガンジス川は、海までの長い旅の間中どこでも、聖河であることに変わりありませんが、リシケーシュ、ハリドワール、カーシー、プラヤーグといったいくつかの川岸の場所は、特別に霊的な波動で満たされており、サーダカが自分の意識をすべてのレベルで浄化するのに役立ちます。

それぞれの場所には特有の波動があり、それが住む人に影響を与えます。ある悪名高い強盗殺人団の一員が、密林の奥地に隠れ家を作りました。夫婦二人がひどい雨に降られ、そこに雨宿りをしに行きました。その夫婦がその小屋の残酷で貪欲な波動に汚された空気に影響されることは、さほどありませんでした。しかし、密林を歩いていて雨から逃れるために数分後にその家に走っていった僧侶の清らかな心は、たちまち黒く染まってしまいました! 清らかな心は、すぐにその黒い塊を吸収してしまったのです。僧侶は、夫婦を殺して身につけている宝石を奪ってしまおう、そうすれば自分の道場を立派なものに建て直し、世界中の人にヨーガを教えることができるだろうと考えている自分に気がつきました。僧侶は自分を恥じて、再び雨の中に飛び出していき、自らを破滅から救いました!

これこそが、霊的な志を持つ人に、サットサンガ(善い仲間)や敬けんな仲間を強調する理由なのです。敬けんな人たちは利己心がなく、自分のことしか考えないということはありません。彼らは求道者の最高の友であり、求道者以外の人の友です。サットサンガの中にいる時、あなたの耳にはフィルターがかかります。あなたは、ためにならない害のあることは決して聞かず、ためになることだけを聞くでしょう! 雨をもたらす厚い雲のように、それらは低迷している人や弱い人の間に垂れ込めて、喜びと勇気の雨を注ぎます。果実がたわわに実った枝のように、それらは飢えた人の手の届く所に枝をしならせます。

詩人の役割は人間社会の君主の役割

今日の夕方、私たちは何人もの詩人が自作の詩を朗読するのを聞きました。詩人は「カヴィ」と呼ばれますが、それは私たちの古来の言語であるサンスクリット語では最高の価値を含んだ語なのです。

カヴィム プラーナマヌシャースィターラム
――カヴィ(詩聖)は「時間を超越した」存在、人類の進歩のための法則を作る者

カヴィ(詩聖)は、高められた直観的な能力によって、始まりも終わりもない時間の広がりを認識し、神は自分の中にも他人の中にも宿っていることを体験し、主体と鏡と反映を知っています。それはまさしく、君主の役割であり、人間社会における真の詩人の役割です。

自分の才能をはした金や安っぽい名声と交換する詩人は、韻を踏んでいるだけで、それすらもできないことが多いものです! 彼らは、自分たちの食卓からパンくずを放ってくれる――いくらかのイドリー〔インドの蒸しパン〕や一杯のコーヒーを与えてくれる――パトロンや寄付者を、賛美しはじめます。そんなことをする人は腰抜けであり、社会の汚点です。詩人は、高い理想を持っていなければなりません。国民の文化への熱烈な愛で自らを満たしていなければなりません。詩人は、一粒のちりの中に、一瞬の光の中に、一滴の雨の中に、一吹きの空気の中に、すべての詩人の中で最も偉大な詩人である神の御業(みわざ)を見なければなりません。詩人の内なる喜びは、平安から至福への道に沿って押し寄せてくるものでなければなりません。詩は、蜂蜜のように甘い響きで耳を満たすもの、軟膏(なんこう)のように胸の痛みを癒すものであらねばなりません。

過去の詩はこうした性質を備えていたので、それらのインスピレーションは永遠のものです。それらは人間の根源的な永遠の渇きを扱っており、渇きを癒す甘露が豊富に含まれています。それらは人を満足させ、力をつけてくれます。霊性修行、自分の意識を拡大すること、自分の思いやりの心を広げること、すべての人の中に見え、すべての人を通して見える、自分自身との接触を深めることをしないなら、詩を書くことは無益な趣味にすぎません。

詩を書くことに取り組む前に、平静と等しい見方を培いなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C28