サティヤ サイババの御言葉

日付:1969年10月21日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭の御講話⑨より

一なるものを勝ち得なさい

バーラタ人〔インド人〕は、あらゆる活動について、自他に対する義務のそれぞれについて、「すべきこと」と「してはいけないこと」を定める方法を持っています。制限や制約から得られる喜びを知っているので、規律に快く従い、自制します。また、霊的な真理を「解説」するよりも「体験」することに熱心です。ヴェーダの時代の初めから、「どれだけ学んだか」よりも「どれだけ得たか」に重点が置かれています。バーラタ人は、最終的な幸福は説明できないものであること、感覚や知性、感情、さらには自我をも超えた段階があり、その段階では最高の法悦が得られることを知っています。

聖賢たちは、知りえる世界を構成している3つのカテゴリーを定義しています。それは、「神」(イーシュワラ)と「自然」(プラクリティ)と「私」(ジーヴァ〔個々人〕)です。「自然」という鏡を通して「神」を見ると「私」に見えます。「鏡」を取り除くと、そこには「神」だけがあり、「鏡」に映っていた像は本体に融合します。人間は神の像にほかなりません。自然ですら神の現れであるのみであり、実在は神だけです。多の顕現であるかのように惑わしている見かけの原理はマーヤーです。マーヤーは神の外に存在するものではなく、神に本来備わっているものです。それは、あらゆる力は神に本来備わっているのと同じです。

「私」の像は別個のものだと考えるとき、それはドワイタ(二元論)です。「私」の像は実在ではないと認識しても、本体に関連するものとして像に何らかの関連性を与えている場合、それはヴィシュタ アドワイタ(条件付不二一元論)です。「私」の像も鏡も両方とも幻影であると認識し、幻影として退けたとき、そこにはただ一つのものが残ります――これがアドワイタ ダルシャナム(不二一元論)です。不二の一なるものを探すことは、昔からのインドの探求です。努力は常に、「一なるもの」を発見することへのものであり、それを知れば他のすべてを知ることができます。価値のある知識とは、多様性の知識ではなく唯一性の知識です。多様性は、疑い、不和、意気消沈を意味します。見る者と見られる者は異なりますが、すべての人に内在している見る者は同一です。

神はどの宝飾品にも存在する金のようなもの

サーダナ〔霊性修行〕には4つの段階があります。最初の段階は「サーローキャ」〔絶えず神を想っていること〕です。そこでは、あなたは神の王国にいます。あなたは王の命令に従い、王に忠誠を誓い、王の最もささいな願いも尊重し、王に誠実に仕え、一つ残らず明け渡さなければなければなりません。

次の段階は「サーミーピャ」〔神の近くにいること〕です。そこでは、あなたは宮殿の中にいて、伝達人や廷臣、侍女や召し使いの一人として過ごします。あなたは以前より王に近くなり、神聖な性質を身につけます。

次の段階は「サールーピャ」〔神と自分は一つであることを認識すること〕です。そこでは、サーダカ〔霊性修行者〕は神の姿を心に刻みます。言い換えると、あなたは王の兄弟や側近のようになり、王室のローブや所有物を身につけることができます。

そして最後は「サーユッジヤ」〔神と一つになること〕です。そこであなたは皇太子として王位を継承し、自らが王となります。臣民は手足として存在し、王は心臓として存在します。

一なるものを知らない心は、風が吹くたびに枯れ葉のように舞い上がり、風が収まると落ちていきます。しかし、一なるものの存在をしっかりと認識している心は、岩のようにどっしりと安定していて、疑念に影響されず、安泰です。容易に礼拝や黙想をすることのできる存在としての神は、ヒランニャガルバ――黄金の胎、創造の起源、顕現して多になろうと意志した内在の原理――と呼ばれます。黄金という語は理にかなっています。なぜなら、黄金は職人が身に着ける人のニーズやイメージ、奇抜な嗜好(しこう)や流行に合わせて、さまざまな宝飾品をこしらえる元だからです。同様に、神も人間の想像力、知力、好みによって、壮大な姿、グロテスクな姿、恐ろしい姿、魅力的な姿と、さまざまな姿に形作られます。人間はそうした像をこしらえて、置き、その御前に自分の恐れ、空想、欲望、恐怖、夢をぶちまけます。人間は、その時々に応じて、その像を主、同志、君主、師と見なします。しかし、人間が神をどう扱おうとも、神は影響を受けません。神は、すべての宝飾品の中に存在し、宝飾品を通して存在する、金なのです。

神を悟るために体との同一視を手放す

神はあなたの中にいます。そして、あなたの感情のほとばしりに耳を傾けて、あなたに安らぎを与えるために神をこの像やあの像として外界に投影するようにあなたを促したのは神です。神が内から授けるインスピレーション、慰め、喜びがなければ、あなたはまるで、錨(いかり)を失って嵐の海で舵が取れずに翻弄されている人のごとく、狂ったようになるでしょう。ハートの中で神にしがみつき、神が静寂の中で助言と慰めの言葉をささやくのを聞きなさい。神と会話し、神が指示するとおりにあなたの足を踏み出しなさい。そうすれば、あなたは無事に、すぐ目的地に到達します。あなたが絵姿の御前に座ること、花を供えること、讃歌を唱えること、あなたが自分に課す誓い、あなたが果たす徹夜の行――これらは、あなたが内なる神に気づくための浄化行為であり、邪魔なものを取り除く行為です。

実際の話、あなたは神なのです。あなたは、自分の家である殻を背負ったカタツムリのようにあなたが持ち歩いている、肉体ではないのです! 肉体に魅了されている状態から脱すれば、内なる神の光が輝き、あなたの思考と言葉と行いを照らすでしょう。クリシュナはギーターの中で、あなたがサルヴァダルマ――あらゆる責務や責任、権利や義務、「私から」や「私に」といった感情――を手放した瞬間にあなたを束縛から解放する、と言っています。つまり神は、自分は体であるという考えを手放すことを求めているのです。

それが、クリシュナが教えるためにやって来たダルマ、最高の義務です。人間には自分自身に対する義務があります。それは、自分は神であり、神以外の何ものでもないということを認識することです。人間がそれを怠り、道を踏み外すと、神が化身して人間を再び正しい道へと導くのです。

あなたの心の中に出没する6匹の悪魔と戦いなさい

必要が最初に来て、それから、その必要に適した教えと、教えを伝えるための形があるのです。天界の聖仙であるナーラダが心の動揺に悩まされ、心の平穏を取り戻させるためにサナートクマラ仙は彼にヴェーダを教えたと言われています。ですから、ヴェーダには始まりがないとは言えません。ヴェーダの讃歌にはたくさんの聖仙や詩聖の名前が出てきますから、讃歌はそれらの人物が生まれた後に作られたものです。

ヴァールミーキがラーマーヤナを作り上げ、それをまず、ラーマの双子の子供に教え、双子は後に王の謁見の間において、神なる英雄である父の前でその叙事詩全篇を歌ったと言われています。あなたが、器である体、電球を強調し、中身である魂、電流を強調していないとき、あなたはこの神やあの神、創造主ブラフマー、守護神ヴィシュヌ、破壊神シヴァの話をします! しかし、実際には、この体も、私の目の前にあるたくさんの体も、すべて同じです。電流の量が違うだけで、電流は同じです。

6匹の悪魔――カーマ(色欲)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(執着)、マダ(慢心)、マーッツァルヤ(憎しみ)――があなたを追いかけ、あなたを間違った道に向け、あなたを何でも言うことを聞く愚かで悲しい存在にしています。断固として悪魔と戦いなさい。それは、あなたがしなければならない生涯にわたる戦争です。それは七年戦争でも三十年戦争でもなく、もしあなたが百年生きれば百年戦争になるかもしれません。その闘争には休息がありません! それは内戦であり、絶えず警戒していることだけが、実を結ばせてくれるのです。アルジュナはクリシュナに、「心の中に悪魔たちが出没し、一時も休めません」と祈りました。クリシュナは、「それを私によこしなさい!」と言いました。簡単ではありませんか? 花にたどり着いて蜜を吸いはじめるまでブンブンと羽音を立てている蜂のように、心も主の蓮華の御足の上に落ち着くまで騒いでいるでしょう。ひとたび蜜を見つければ、もうふらふらと動き回ることはなくなります。

聖賢は古代王国の君主たちを導いた

神に自分を捧げなさい。スダーマは、主から「何が必要か私に言いなさい!」と尋ねられました。彼は「私にはあなたが、あなただけが必要です」と答えました。なぜなら、そこにはすべてが含まれているからです!! 幼い息子は、本やシャツ、ボールやペンを父親に求めます。父の愛を勝ち得さえすれば、息子は自分が必要とするもののことを考える必要すらありません。父親が息子に必要なものを予測して、その品を与えてくれるでしょう。

こうした考えから、古代インドの王国の君主たちは聖仙たちに助言を求めるようになりました。聖仙たちは、ひいきも偏見も持っておらず、それゆえ、どんな危機においても最善の方法が分かりました。彼らは、人類への愛にあふれ、苦しんでいる人を思いやり、悪いことをする人の動機を理解している人たちでした。聖仙には5つの霊的な等級がありました。それらは、パンディト〔学僧〕、リシ〔聖仙〕、ラージャリシ〔王仙〕、マハリシ〔大聖仙〕、ブラフマリシ〔神仙〕です。聖仙たちには、土地や富、名声を得ようとする野心や貪欲さはありませんでした。皇帝ダシャラタの助言者であり師であったヴァシシュタ仙は、ラーマに「アーディッティヤフリダヤ」、すなわち「太陽のハート」と呼ばれるマントラを伝授し、勝利が手からすべり落ちそうになった時にはいつでもそれを唱えるようにと指示しました! そうした助言者たちが安全に王国の舵を取っていたのです。油(カルナ)と風(シャクニ)〔パーンダヴァ兄弟をサイコロ賭博に誘い、負けさせ、森に追放した悪人〕を燃料としていた邪悪な従兄弟〔カウラヴァ兄弟〕の炎を鎮火するには、雨が必要でした。そのため、クリシュナはクルクシェートラで矢の雨を降らせることを計画したのです。

もし統治者が、神はすべての人の中に存在し、すべての個人はそのような存在として尊重されるべきである、という信心に基づいて統治を行うなら、不満も不和も生じないでしょう。これはヴェーダーンタの基盤であり、その上に生活の諸相を構築しなければなりません。仏陀はその源を認めていなかったかもしれませんが、仏陀もヴェーダーンタの上に自らの宗教を築き上げました。源は当然のものであり、決して議論されることはありませんでした。それは避けられないものでした。

霊的なものだけが幸福と喜びを与えてくれる

霊的なものだけが、幸福を授けること、永続的な名声と喜びを与えることができます。例えば、数年前のインドには、ラール、バール、パールという3人の愛国者の名が響き渡っていました。その中で、バール・ガンガーダル・ティラクの名は、ラーラー・ラージパト・ラーイ〔ラール〕や、ビーピーン・チャンドラ・パールの名よりも長く残るかもしれません。というのも、ティラクはバガヴァッドギーターの注釈書である『ギーター ラハッスヤ』を書いたからです。

あなた方の体は神を悟るために手に入れたものであり、ただ神を探すこと、神に仕えること、神を支持することに身を尽くすだけで、あなたの心の奥底にある渇望を満たして、うずくまっている不満を取り除くことができるのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C29