サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年1月13日
場所:ブリンダーヴァン
サイ・オーガニゼーション マイソール州大会における御講話より

自惚(うぬぼ)れと転落

地区の会長たちが、自分の地区の発展、および、自分が管轄しているユニットの活動に関する報告書を読み上げました。しかし、ほとんどの報告書は、慌ただしく準備したものであり、会長たちが自分で直接得た情報ではなく、この発表のために土壇場になって体裁を取り繕ったものでした。本当に誠実な仕事は、州のほんの数箇所で行われているだけです。

皆さんは、報告書が読まれている最中に私が祭事テント(シャミアナ)の奥で代表者たちの間に立って、一つの所から別の所へと観察場所を移動していたことに気づいたに違いありません。壇上には私のための玉座もありますが、私がそこに座ったのは、ほんのしばらくの間だけでした。というのは、私の居場所は、あなた方の間に、あなた方と共に、どこであれ仕事が行われている場所にあるからです。それゆえ、私はあなた方の間を動き回り、あなた方の後方に立っていたのです。これはもっぱら、皆さんが地元でバジャンをしているときにも、子どもや病人や貧しい人への奉仕といった別の種類の礼拝をしているときにも、私は遠く離れた特別な席に座っているわけではないということを皆さんに示すためです。私は皆さんのしつらえた壇の上に座っているなどと考えてはなりません。私はあなた方の一部(パート)であり、あなた方の一切の努力における伴侶(パートナー)であり、その努力の苦楽を共にする者(パーテイカー)であり、あなた方がインスピレーションや導きを求めるとき、必要とするときには、それを与え、導きます。そういうわけで、あなた方が先ほど報告した活動のほとんどは表面的な名目上のものであって、純粋な熱意と信仰心に満たされたものではないということを、私は知っているのです!

求道者(サーダカ)は疑心によって怖気(おじけ)づいてはならない

霊性の道の王道は唯(ただ)一つ――愛です。すべての存在を真我の中核である同一の神性の顕(あらわ)れとして愛しなさい。この信心こそが、神が絶えずあなたと共にいることを確約し、神への巡礼を成就するのに必要な一切の喜びと勇気を授けてくれるのです。複数の報告において、様々な場所でナガラサンキールタン(皆で行列してバジャンを歌いながら練り歩くこと)を始めたことが言及されました。しかし、バンガロールのような大都市では、この重要な霊性修行(サーダナ)は、時折、ごくまれにしか行われていません! 不信心な人々による皮肉な批判を恐れて、早朝に神の栄光を歌いながら集団で通りを練り歩くのをためらう人々もいます! あなたのハートには恐れなき者の化身が鎮座しているというのに、なぜ取るに足らない不安に飲み込まれて怖気づく必要などありますか? 他の人たちが嘲笑やあざけりを恐れて参加しないというのなら、あなた一人で御名を唱えて歩きなさい。

あなたは連れもなく、たった一人でこの世にやって来たのではありませんか? 人生を経るにつれ、あなたは親類縁者を集め、あなたを慕う妻や子ども、友人、知人を集めました。自分がもといた王国へ戻るとき、あなたは誰も連れずに一人でその正門をくぐるのです。ですから、自分の人生もナガラサンキールタンと呼ばれる旅にしなさい。一人で通りに出ていきなさい。友人や知人に声をかけ、もしその人があなたのところにやって来たら、一緒に歩きなさい。何も気にせず、動じることなく、あなたのものである孤独の甘さを味わいなさい。そして最後に、首尾よく仕事を成し遂げたという満足感に包まれて自宅に入りなさい。人はあなたを気が狂っているとあざ笑うかもしれません。しかし、その狂気は伝染し、不敬な人々も遠からず私たちの仲間に入ることになるでしょう。オーガニゼーションにはナガラサンキールタンの列に加わらない役員がいてはなりません。役員は、気後れ、躊躇(ちゅうちょ)、疑心によって怖気づいてはなりません。

求道者(サーダカ)は他の人々の模範となるべし

各組織の会長たちがもっと効果的に義務(霊性修行(サーダナ)や奉仕に着手するユニットを鼓舞すること)を果たすことができるよう、短期再教育講座を開くことを提案している人々もいます。これはまるで、寺院で礼拝を行う専任の僧侶(アルチャカ)を訓練するための処置を施すようなものです! 神を礼拝する訓練を受けている者を想像してみなさい! 礼拝というものは、カリキュラムや教室の時間割りに従う機械的なプロセスではありません。礼拝は、ひたむきな信仰心と熱意から生まれる、自発的な内側からの強い衝動です。もし寺の僧侶(プージャーリ)が祈りや礼拝をするための訓練を受けなければならないというのであれば、明日はもしかすると、祈りに応えて報いを均等に配分することができるよう、神も訓練を受けるべきだという提案が持ち上がるかもしれません!

会長や他の役員たちが、現在、役職に就いているのは、その人たちに徳があり、献身的で、兄弟姉妹に持続的な奉仕をすることができると周囲の人たちに認められているからです。そのような人たちの霊的な高みに対して、教育講座が何を付加できるというのですか? このような提案、あるいは、これと似たり寄ったりの提案が頭に浮かぶのは、あなた方のほとんどがこのオーガニゼーションの作られた存在理由を理解していないからです。その目的は、活動の数やセンターの数を増やすことや、ユニットを倍増すること、バジャン マンダリー(バジャン グループ)やセヴァ サンガ(奉仕ユニット)で地図を埋め尽くすことではなく、求道者(サーダカ)たちが他の人々の模範やインスピレーションとなれるよう鼓舞することにあるのです。

意図されているのは「個人の内側の変容と再構築」であり、「外側の変容と再建」ではありません。これは、一つの長い綴(つづ)りの単語の中から三文字でできた単語をいくつか見つけ出す単語の構築(ワード ビルディング)ゲームではありません! これは、数多くの実直で誠実な人たちの中から新しい人間社会の到来を告げる世界の構築(ワールド ビルディング)なのです。

ユニットの役員の人選は、その人の財力、職業、社会的あるいは公的地位を基にした「政治的な」理由でなされるべきではありません。そのようなやり方は、小競り合い、嫉妬、派閥争いという、今日多くのユニットが苦しんでいる原因を産むことになるでしょう。

愛は、無私で、すべてに及ぶものでなければならない

この名とこの姿を持った、現在のこの神の化身(アヴァター)に揺るぎない信仰心を抱いている男女を選びなさい。それは後々、役員たちのエネルギーを分散させて脇へ逸(そ)らす可能性のある義理から生まれる、数多くの厄介な問題からユニットを救ってくれるでしょう。ユニットの導き手(リーダー)は、ビジョンと熱意を持っているから導くのであって、票と分厚い財布を持っているから導くのではありません。自らが引き出す至福(アーナンダ)が、後に得られる唯一の報酬です。理解もビジョンもない人々が権威ある地位に侵入してくれば、動揺と混乱が権力の座を奪ってしまいます。無執着、簡素な生活(シンプル リビング)、着実な霊性修行(サーダナ)――これが人にユニットの会員資格を与える特質です。捨てなさい。集めてはなりません。それが恩寵を得る道です。

アブ ベン アダムは、「神が愛した人」の名簿に天使が自分の名前を記載していることを知りました。しかし、「神を愛した人」の名簿にはアダムの名前は載っていませんでした。なぜならアダムは、神ではなく人々を愛したからです。恩寵を勝ち得るにはそれだけで十分です。

貯水槽に水を満たしなさい。そうすれば、蛇口をひねるとバケツは水で一杯になるでしょう。愛と帰依心を培いなさい。そうすれば、あなたの行いは慈悲と思いやりが染み込んだものとなるでしょう。それは喜びと平安という見事な収穫をもたらすでしょう。水は清らかでなければなりません。愛は、無私で、すべてに及ぶものでなければなりません。自分の愛は狭量か寛大か、自分の帰依心は浅いか深いか、あなたは自分で判断することができます。あなたは自分の達成したことに満足していますか? 識別心を使ってそれを調べ、自分で自分を裁定しなさい。動機の清らかさは、あなたが平安を手に入れる上での最高の保証となります。おぼつかない良心は、あなたを苦しめる伴侶です。正しい行いが、あなたの安眠や健康を妨げるような悪い影響を残すようなことはありません。

ハートに正義があれば、人格に美が生まれる
人格に美があれば、家庭に調和が生まれる
家庭に調和があれば、国家に秩序が生まれる
国家に秩序があれば、世界に平和が生まれる

ですから、正しくありなさい。カースト(階級)、信条、肌の色、礼拝の形式、社会的地位、富裕の程度に基づいた、他の人への一切の偏見を避けなさい。誰のことも見下してはなりません。あなたが本当は神であるのと同様に、すべての人を神と見なしなさい。

神の多くの御姿として万人を愛しなさい

このオーガニゼーションのユニットを弱体化させる大きな弊害は、自らが生み出す自惚(うぬぼ)れと嫉妬(しっと)です。もしある人が、グループの中で上手にバジャンを歌えるのは自分だけだという自惚れをかもし出していれば、当然、他の人たちは、怒り、嫉妬、憎悪、恨みといった有害な性質を持ちはじめます。ハートから自惚れという雑草を根こそぎにすることができるのは、愛だけです。すべての人を、神が様々な役割を持って顕現している多くの御姿として愛しなさい。愛のないハートは、寺院のない町のようにわびしいものです。霊性に関する自惚れは、あらゆる種類の自惚れの中で最も有害です。それは人を盲目にし、苦しめ、破滅をもたらします。自惚れに用心しなさい。あなたは、私のダルマスターパナ、すなわち正義の復興という神聖な使命の道具にすぎないということを、常に覚えておきなさい。その道具として、あなたがもっともっと役立つことができるよう努力しなさい。道具を使う手は、いつ、どのようにその道具を使うべきかを知っているのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C1