サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年1月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
お正月の講話より

レヴォリューション、レゾリューション
ー 公転と決意 ー

暦を作る人たちは、年数を計算して、この日は元日であり、カリの時代(末世)が始まってから五〇七八年になると宣言しています! しかし、時の経過は、太陽の周りを回る地球の公転よりも、むしろ成し遂げた仕事に比して算出されるべきものです。人にはそれぞれ、その人の新年があります。それは、その人が太陽を回り、その人自身の公転を果たした日です。その太陽とは、言い換えるなら、人に識別心と無執着を授けることのできる、燦然(さんぜん)と光り輝く目覚めた知性のことです。熱心な求道者たちは、あらゆる知識の鍵を探し求めてきました。それは、それさえわかれば他のすべてがわかる一つのもの、すなわち、神です。神は宇宙のあらゆる原子の中に隠れています。求道者たちは、神を言葉では表現できないもの、人間の想像力と理解の範囲を超えたもの、と描写してきました。これは求道者たち自身も認めていることですが、神は人間の姿で思い描くのが最良です。そうすれば、人は容易に神を理解し、神に近づき、神を憶念することによって歓喜を引き出すことができるからです。人は人間的な性質と人間的な達成しか考えつきません。たとえそれらを最大限に増大させて、その結果、それが自分のハートを満たし、溢(あふ)れ出すほどの量になるのを許したとしても。

インド文化は存続し、隆盛を保つ

他の国や他の地域社会では、唯一の信仰、唯一の道、唯一の敬愛の対象、唯一の礼拝の形式があるのみで、それが深く根を張って果実をもたらします。そうした信仰は、土着のものであることも、外来のものであることもありますが、人々はそれに同化することを習得し、他の信仰は毛嫌いするようになります。一方インドには昔から、人を内へ、上へと導き、人間のあらゆる熱望を反映する、数多くの信仰、数多くの道があります。それゆえ、自分の霊的成長段階に合わせて選ぶことのできる多種多様な選択肢があり、その段階にしっかりと立脚して、自らをより高く引き上げることができるのです。インド文化は海のようなものであり、そこには、あらゆる川からの水、あらゆる大地からの水、そして、あらゆる国を越えて漂う空の雲からの水が含まれています。一切の川の源であり、流れ着く先でもある海は、ヴィシュヌ神が横になって休息する寝床です! そういうわけで、ヴィシュヌは宇宙の神性原理の普遍的な相を象徴しているだけでなく、それを超える神なのです 。

ルタム(神の法)、すなわち律動あるいは正義は、ヴィシュヌの呼吸に他なりません。というのは、それは星を維持し、社会を安定させ、進歩を確実にしているからです。ヴィシュヌは、その三位一体の相であり、維持、育成、安定、強化にかかわっています。それゆえ、ヴィシュヌは、世界を救い守るために、しばしば肉体をまとって化身するのです。ヴィシュヌはルタム(正義、道徳)を復興しなくてはなりません。そうすれば、世界は安定を保って航海し、解脱という港に到着することができるでしょう。そうすれば、世界はプラシャーンティ ニラヤム(平安の館)へと変容することができるでしょう。

インドには、その盾として、鎧(よろい)として、王冠として、ヒマラヤ山脈があります。ヒマラヤ山脈は、威厳、平静さ、爽快感、人間が登らなくてはならない高みへの呼び声の象徴です。ガンジス河、ヤムナー河、サラスワティー河は、ヒマラヤ山脈から大地へと流れます。この三大聖河は、

  1. 霊的探求(ガンジス河)
  2. 心の浄化(ヤムナー河)
  3. 知性の明快さ(サラスワティー河)
を表しています。

ガンジス河は決して枯渇しません。ガンジス河は、清らかで、漫々と水を湛(たた)え、病気をもたらす一切の細菌を撲滅する力を持っています。ガンジス河が大地を流れている限り、インド文化は存続し、隆盛を保ち続けるでしょう。ガンジス河が枯れることなど絶対にあり得ません。ガンジス河は何世代もの人々の渇きを癒し、不死を切望する人にはその恵みを授けるでしょう。

クリシュナは万人に通じるものの化身

インド文化では、「行い」に多くの制限が定められています。その多くの経路によって、激情は方向づけられ、情動は脇へ逸(そ)らされ、衝動は抑制されなければならないのです。制限は人格を高め、五感の泥沼から人を自由にしてくれます。インド文化は、食物、睡眠、娯楽、服装、会話、そして、求めるべき友人を規定しています。さらには、生活のあらゆる面と、人間社会のあらゆる集団を小さく区分しています。その目的は、人間の愛が宇宙の果てに届くまで、思いやりの心を広げて拡大し、深めることにあります。

結合と共同体の原理が全人類に存在し、君臨するときにのみ、人類は人間と呼ばれ得ます。クリシュナは、この万人に通じる永遠性の化身です。牧童の仲間たちの真ん中で、共に朝食を分け合って食べ、笑い、冗談を言い、悪戯(いたずら)をし、周りにいる者皆に喜びを広げるクリシュナを想い描くとき、人は親近感のうずきを覚え、それが最終的に人に持ち上げて、それを越えさせてくれます。こうした仲間としての関係が見て取れるところには、神の愛の火花があります。どこであれ、そのような感動が見て取れるところがあるならば、それは、そこでその人が個としての存在という境界を一歩踏み出たということです。一度に一歩ずつ正し、強固にしていくこと――これがこの聖地巡礼を進んでいくべき方法です。

アルジュナはクリシュナに、内在する導き手、超然たる君主、過去にも未来にも存在する一切のものの生来の本質としてよりも、むしろ友人や仲間として顕(あらわ)れたまえと祈りました! アルジュナは、神との融合による歓喜よりも、親族であることの喜びを渇望したのです。神を自分と見なすだけでなく、あらゆる原子と惑星の中核と外殻、塵(ちり)の一粒ひとつぶ、そして、すべての星雲の体系と見なすことは、個としての存在を滅ぼす修行であり、それゆえ、ラーマクリシュナ パラマハンサなどの人々は、あらゆる役割を廃してもらうことよりも、むしろ神を崇(あが)める者という役割を求めて祈りました!

ハートを清らかな習慣で浄化しなさい

あなたは神の像の前に座って神を賛美し、礼拝の線香を供えます。しかし、あなたがその像の中に見ている神が意味するものを理解しようとは努めません。神の意志を探り、神の命じることを発見し、何が一番神を喜ばせるかを推測し、それに則(のっと)ってあなたの生活を調整しなさい。これをあなたの新年の決意としなさい。

外の自然界の厄介な混乱に巻き込まれてはなりません。貪欲と憎しみでハートを頑(かたく)なにしてはいけません。愛でハートを柔らかくしなさい。清らかな思考と生活習慣でハートを浄化しなさい。あなたが自らの神を祀(まつ)る神殿としてハートを使いなさい。

あなたの中に力と英知と喜びの源泉があることを喜びなさい。自分は不屈である、そして、自由であると宣言しなさい。自分が悪事に誘惑されること、あるいは悪事に脅かされることはあり得ないと宣言しなさい。「私は肉体である」という意識がほんのわずかでも残っている限り、あなたは自らに神を探索させます。あなたが鏡に近づかなくてはなりません。あなたの真の姿を見せようとして、鏡があなたのほうへやって来ることなどありません。貪欲という閂(かんぬき)をはずし、情欲と怒りという両開きの扉を開きなさい。そうすれば、神聖な解脱(モークシャ)の領域に入ることができます!

貪欲は怪物のような悪であり、人を引きずり下ろします。ラーヴァナが横になって死にかけていたとき、ラーマは弟のラクシュマナに、ラーヴァナのもとへ行って成功する国政の秘訣(ひけつ)を学んでくるようにと言いました! ラーヴァナはラクシュマナに、栄光を勝ち得たることを望む王たるは、貪欲が頭をもたげてきたならば、すぐにそれを抑え込み、他者に善を行う機会があったなら、どんなに小さなことであれ、一瞬もためらうことなくそれを歓迎しなくてはならないと教えました! ラーヴァナは苦い経験から教訓を得ていたのです! 貪欲は、五感への執着と、五感の要求に応じることから生じます。五感はそれ相応の場所に置きなさい。五感は知識のための窓であり、不純物の通路ではありません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C2