サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年11月22日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ オーガニゼーション全インド大会(第4回)③の御講話より

答えられた質問

人間がこの地球での生命を全うするには、自分を神の愛で満たし、その愛を神の化身である人間への奉仕へと変えなければなりません。もし心に愛がなく、愛をすべての生類と分かち合うことができなければ、その人はこの地球のお荷物でしかないでしょう。

自分の感情を清らかにしなさい。無知の力と感覚器官のたくらみに抵抗するために、心を強くしなさい。そうすれば、平安と歓喜が保証されます。あなた方は体のエクササイズをして健康を保っていますが、それと同じく、心も一定のエクササイズによって健康を保たなければなりません。(というのは、心はあなた方を束縛へも解放へも導くことができるからです)。

心は、清らかな食事によって、鋭敏で研ぎ澄まされたものにすることができます。すると、心は障害と衝動を通り抜け、誤った考えというベールを引き裂きます。さらに、あなた方は、常に善い環境に、善い仲間に、霊的な団体にいるよう努めなければなりません。

霊的な団体においては、会員たちは、見ることや聞くこと、触れることや味わうことのできるもののことは話題にしません。興味があるのは、見えないもの、五感を超越した(内外の)根本的な真理、心が神へと向かう個人の旅を助けるプロセス、妨げるプロセスを調べることです。

心はブッディの支配下になければならない

心は道具(カラナ)と呼ばれます。五感も道具であり、自然界と接触して対象物に関する情報を集めることに使われます。心は総体的な道具であり、五感を制御し、指示します。心は内なる道具(アンタフカラナ)と呼ばれます。心を上回るものはブッディ(理智)です。ブッディは、心が五感を使って集めた心象を分析し、分類します。ブッディは、チッタ、および、エゴ、すなわち自我意識(アハンカーラ)の支配下にあり、個人の土台を形成しています。心はブッディの支配下になければなりませんが、概して心は、自らの召し使いにすぎない五感に仕えています。そのせいで、心は人間を束縛へと至らしめているのです。

多くの人が、私に心の性質に関する質問を手渡してきました。私はしばしば講話でそのことについて説明していますが、そういうわけで、ここでもう一度それについて話すことにしましょう。

あなた方は皆、今、プラシャーンティ ニラヤムにいて、このホールに集まっています。けれども、もしあなた方の心がマドラスやカルカッタをさまよっていれば、目の前の列に座っている人のことは目に入らず、また、私がいくら大きな声で話していても私の話は耳に入りません! 目と耳はここにあり、よく機能する健康な状態であったとしても、もし心が目と耳を十分に制御して指示を出さなければ、五感は力を失い、内なる道具(アンタフカラナ)に何の情報も送ることはできません! もし心が別のことをしていれば、聞くこと、臭いをかぐこと、見ること、味わうこと、そして、触感を得ることを、効果的に有意義に機能させることはできません!

体は懐中電灯であり、目はその電球です。理智はそのスイッチです。しかし、懐中電灯に必要不可欠な電池は、心です。たとえ懐中電灯が新品で、新しい電球が付いていて、スイッチが入っていたとしても、電池が入っていなければ明かりは点(つ)きません。

しかし、心を超越し、理性と知覚と自我意識を超越しているものは、アートマ、すなわち、実在、宇宙我、神なのです。

理性に基づく知識は、まやかしの知識

理性に基づく知識、すなわち、五感を動かすことによって積み上げた知識や、理性によって蓄えられ、選り分けられた知識は、まやかしの知識にすぎません。それは現世の物質的知識であり、訂正や修正をまぬがれません。一つの感覚器官がそれぞれ特定の元素を感知できる構造をした五感(地は匂(にお)い、水は味、火は形、風は感触、空は音を感知する)を通して得た、五大元素(地・水・火・風・空)に関する知識は、まやかしです。あなた方は、まやかしの知識を集め、それを頼りにこのまやかしの世界で生きていて、どうして満足することができるでしょう? 一切のまやかしを超越した者、このまやかしを創造した者、このまやかしの中に、このまやかしを通して現れている者を知りなさい。この世界の知識は一時的なものであり、部分的なもの、限界のあるもの、個人のものです。それがどうして、永遠なるもの、普遍なるもの、無限なるもの、絶対的なものを明らかにすることなどできますか? その答えはヴェーダにあります。

ヴェーダは人に、夢での体験を分析するよう求めています。夢は現実ではなく、まやかしです。しかし、それでも、夢自体がまやかしの体験であることの結果として、夢を見ている間に限って、しばしば夢の中の体験は現実のもの、根拠のあるものであることがあります。そのような極端な状態での意識は、不安や恐怖心、苦痛や興奮によって作られ、それが夢を見ている人を起こし、夢は消滅させられます。目覚めをもたらしたものは何でしょう? 夢そのものが、夢の破壊を助けたのです。それと同じように、「目覚めている状態の夢」の中、すなわち、目覚めているときの体験は、すべて現実であり価値のあるものだ、と考えられているこのまやかしの世界では、マハーヴァーキャ(ヴェーダ聖典を通して響き渡るいくつかの神聖な大格言)のヴェーダの呼び声、あるいは体験が、人をより高次の意識へと目覚めさせてくれます。

宇宙は相対的な実在であるにすぎない

私に手渡された質問の中に、宇宙に関するものと、宇宙はどのようにして生じたか、というものがありました。さて、もし皆さんが夢はどうして生じるのかを理解できたなら、この宇宙はどのようにして生じたかも、わかり得るでしょう。眠りは夢をもたらします。この宇宙をもたらしたのは神のマーヤー(幻力)です! この宇宙は、夢と同じく、実在するものではありません。宇宙は相対的に実在しているものであって、絶対的に実在しているものではないのです。

ヴェーダの聖仙たちは、清められた自らの理智の啓蒙(けいもう)により、全人類に知らせるために、歓喜の中で次のように宣言しました。

 「タット トワム アスィ」(あれは汝(なんじ)なり)
 「プラグニャーナム ブランマー」(叡智はあれなり)
 「アヤム アートマ ブランマー」(これはあれなり)
 「アハム ブランマースミ」(私はあれなり)

――私は万物である、私は至高者である、私は唯一者である、と。心の奥底を震わせるようなこれらの宣言がハートに鳴り響くと、人は目に見える真理の姿に気づきます。自分はアートマ(真我)であるということ、そして、アートマ以外には、どこにも、いつでも、何も存在していないということを悟ることが、真我を悟るということです。これが、自分のアートマによって、真我としての自分によって、アートマを悟ること、すなわち、アートマサークシャートカーラです。

これは、「ブーマー」、すなわち、広大な無限なるもの、不変なるもの、時間と空間に影響されないもの、とも呼ばれています。「ブーミ」(大地、国)は有限です。ブーミには現在とは異なる過去と未来があります。ですから、ブーミが真理を明かすことなど絶対にできません。真理を明かすことができるのはブーマーだけです。ですから、ブーマーの中で生き、ブーマーを吸い、あなたに内在するその無限なるもの、不変なるものの中で、計画し、行動しなさい!

人が神を欲するのは神のためではない

あなたの望みと活動の中心にいるのは、あなたです。あなたは自分のために幸せを切望しています。あなたの真理はあなたの真我の中にあります。あなたが他人を幸せにしようとしているときでさえ、あなたが求めているのは自分の幸せです! あなたが化繊のシャツを愛用しているのは、シャツのためではなく自分のためです。あなたが甘いお菓子を食べたいと思うのは、無論お菓子のためではありません。母親が我が子を抱きしめるのは、自分が満足するためです。あなたが神を欲するのは、神のためではなく自分のためです。では、この「あなた」とは何でしょう? それは、欲し、奉仕し、試み、切望します。それは、満足し、喜び、幸せを感じます。あなた、そして、意識を持っている他の生物の一切に、「私」、「私」、「私」と宣言させているのは、「私」です。さて、あなたはその「私」を無視して、自分は設備と道具と器具を具(そな)えた体であると断言します。

その無知、その思い違いは、あなたに智慧と光を授けた、まさにその原理から生じました! 太陽が光を発するのと同様に、雲は太陽を視界から隠すのです! ものを見る目は白内障の濁りを作り出し、それは視野を曇らせ、しばしば目を見えなくすることさえあります。啓蒙し、活気づける、まさにそのアートマ原理から生まれたマーヤー(幻)が、隠し、混乱させるのです! 燃えさしの火が灰を作りだし、それが燃えさしを覆い尽くすのです!

しかし、私たちは灰を吹き飛ばして、燃えさしを表出させることは可能です。白内障の濁りは取り除くことができます。雲は風で軽やかに運ばれます。それと同じように、霊性修行(サーダナ)は、意識から内なる「私」を覆い隠している、すなわち、私たちの認識からアートマを覆い隠している、幻のベールを取り除くことができます。

霊性修行(サーダナ)に関しては、私はここにたくさんの質問を受け取っています。このような質問です。

「私たちは、他人の苦痛や窮状を和らげるために奉仕をしています。お腹を空(す)かせた人、貧しい人に食べ物を施しています。たくさんの善い行いに従事しています。これらは霊性修行ではないのでしょうか?」

しかしながら、それは他人への奉仕ではありません。それはあなた自身への奉仕です。一人の人物が、あなた方役員全員を夕食に招待するかもしれません! すると、その人物は夕食の後、こう言うでしょう。

「私は代表者全員に夕食をごちそうしました」

その人自身も代表者たちと同席して夕食を摂ったのですから、その人は他人に奉仕したときに、自分にも奉仕したということになりますね? その人は自分が催した夕食会の結果として喜びを得たのですから、最終的に、それは自分自身に施した奉仕の一つであったというわけです。

善い思いは善い形をとった欲望を得る

もしあなたが、自分が奉仕しているのは「他人」ではなく自分自身であると感じるなら、あなたの奉仕はより善くなり、もっと功を奏すようになるでしょう。この姿勢をもっともっと、しっかりとあなたの心に根づかせなさい。

もしあなたが善を行うなら、自分の周囲の人たち、そして、不変なる存在、すなわち神から善を得ます。もし悪を行うなら、悪を得ます。神性は、まさに反響し、反映し、反動するのです! 神には好みも偏見もありません。思考が欲望を作り出し、欲望が形を作り出して、その形となって現れるのです。善い思いを抱きなさい。そうすれば善い形をとった欲望を得ます。

アハリヤー(聖者ガウタマの妻)は、夫の呪いにより、石となって長い間横たわっていました。石の中に残存していた人間としての想念は、ラーマの御足が触れたとき、再び人間の姿をとりました。もしアハリヤーが一切の「思い」の片鱗(へんりん)を持たずに石になっていたら、女の姿に戻って石から現れ出ることはなかったでしょう。このように、「思い」の片鱗の一切を滅ぼさない限り、姿が生じ、成長し、衰えることになるのです。つまり、誕生と死は避けられないということです。

『ラーマーヤナ』は、「思い」の力について、もう一つ別の例も示しています。ラーヴァナ(羅刹の王)は、霊的な聖典に精通し、霊的な儀式を行うことに熱心な、偉大な人物でした。ラーヴァナは毎朝、シヴァ神の寺院をいくつも参拝して回っていました。ラーヴァナは四つのヴェーダと六つのシャーストラに精通していたため、賞賛され、十の頭がある者として描かれました! ラーヴァナの妃(きさき)、マンドーダリーは、猿の群れを率いた一介の人間の手によって夫が敗北し死に至ったことを嘆き悲しみました! 人は、溺れたか、木から落ちたか、猿が原因で死んだ場合、亡霊となって暗黒の世界をさまようということを、マンドーダリーはシャーストラで学んで知っていました。そのため、偉大な学者であり、敬虔(けいけん)な信者であったラーヴァナに、なぜあのような運命が降りかかったのだろうと、あれこれ思いを巡らせました。そして、ラーヴァナが心の中に隠し持っていた情欲の火花が、その学識と信心のすべてを燃やして灰にしてしまったことを思い出しました! ラーヴァナは、自分の五感を制御すること、すなわち、感覚に駆り立てられる欲望を別のものに転化することができなかったのです。軛(くびき)に繋(つな)がろうとしない雄牛、手綱(たづな)に抗する馬、ブレーキの利かない車、そして、自制することを知らない人間は、皆等しく滅びへと向かいます!

目標を定め、意志を強く持ちなさい

五感と衝動を制御するために、規則正しい霊性修行(サーダナ)に従事しなさい。あなたが生き方を変えたことであなたを嘲笑しているかもしれない人のことなど、気にしてはいけません。そのような人たちは、他人に向かってあなたを指差し、

「あの男を見てごらん! 立派なサイの帰依者になってしまったよ!」

「あの男はジャパとバジャンをやっているよ!」

と笑うかもしれません。けれども、目標を定め、意志を強く持ちなさい。道から逸(そ)れることなく、真っ直ぐに歩いていきなさい。

私に手渡された質問の中に、ジャパをするための御名に関するものがありました。それは「ラーマ」がいいのか、五文字の「ナマ シヴァーヤ」がいいのか、八文字の「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」がいいのか、あるいは私がそれ以外のものを勧めるかどうか、というものです。これについては、聖典がよい回答をしています。神は唯一なるものです。あなたは神を自分の好みや希望に沿って礼拝することができます。神は変わりません。あなたが礼拝に用いる御名が変わっても、あなたが思い描く御姿が変わっても、神が変えられることはありません。お菓子にはたくさんの種類があり、たくさんの名前と形があります。けれども、どのお菓子でも、甘味をつけているのは砂糖という一つの原料です。あなた方は、あるお菓子よりも別のお菓子を好むかもしれません。あなたは自由に一つのお菓子を好んでかまいませんが、他人の好みをうるさく言ったり、やめさせたりしてはなりません。

神は人が望む姿をまとう

あなたは、クリシュナという御名と御姿が多大な歓喜と最大限の感動を与えてくれるという理由で、クリシュナを崇めているかもしれません。けれども、同一の神を、ラーマ、シヴァ、ヴィシュヌ等々といった別の御名で礼拝している兄弟に、けちをつけてはなりません。その人にもあなた同様、自分の好きな姿をとった神を礼拝する権利があるのです。効能は、軸となるマントラや御名や御姿にあるのではなく、ハートに、切望に、渇望の中にあります。神はあなたが切望する姿をまとい、あなたが切望する御名に返答します! これが、神の恩寵の大きさです。

揺りかごに寝ている子どもが泣き出すと、家のテラスにいた母親は階段を走って下りてきて、子どもを抱いて乳を与えます。母親は、その泣き声が正しい音の高さで発せられたか、あるいは、正しい調子で発せられたかを調べるために立ち止まることなどありません! それと同じく、宇宙の至高の母は、もし我が子の要求が、一心に、純粋に、ハートから自然と湧き起こったものであれば、玉座から揺りかごに下りて来て、我が子の世話をし、なぐさめます。至高の母は、マントラの発音が正しいかどうか、神を慕って我が子が心に思い描いた御姿が完璧であるかどうかなど、調べはしないでしょう。厳しく試験されるのは、ハートにある気持ちであって、信仰の期間の長さや賽銭(さいせん)の額ではありません。

霊性修行(サーダナ)においては真摯でありなさい。他人の真似をしようとしてはなりません。本当にそれをやりたいという思いから生じたら行いなさい。競争心や、いいところを見せたいという欲に駆り立てられて行うべきでもありません。

「あっちのバジャン マンダリが週に二回ナガラ サンキールタンをやっているなら、私たちも週二回か、いっそのこと週三回やろうじゃないか」――こういった類(たぐい)の競争心や自己顕示は捨て去らなければなりません。善良な仕事をしているいくつかのユニットを失脚させたいと思っている人たちもいます! というのは、彼らは別のユニットが得ている名声に我慢ならないのです。まったくの敵意から、彼らは別のユニットを害しようとしています。そうすれば別のユニットの善良な仕事に損害を与えることができるからです。

しかし、別のユニットを低下させて自分のユニットをより好ましいものにするには、他の方法があります。教師が黒板に一本の線を引き、生徒たちに、黒板のところまで来て、その線に触れることなくその線を短くするようにと言いました! 生徒たちが困り果てていると、教師はその方法を示しました。先に引いた線より少し上に、もっと長い線を引いたのです。さて、先に書いた線は、二本の線のうち一方より短い線になりました! あなたのユニットに、もっと多くの奉仕活動を、もっと効率よく、もっと多くの人に対してするようにさせなさい。これが、活動を継続していくための正しい方法です。悪口や批判に拠(よ)るのではなく、働くことです。

プレーマヨーガだけが人を神へと導くことができる

私に手渡された他の質問への答えとしてこれから私が言うことは、あなた方の何人かに痛みを与えるかもしれません。けれども、私は本当のことを言わなければならないと思っています。人々を助け、真我を悟るという触れ込みのハタヨーガやクリヤーヨーガ、ラージャヨーガといったさまざまな方法やメソッドに心を惹(ひ)かれている人たちがいます。しかし私は、これらのヨーガの中には神を悟らせてくれるものは一つもないと言わざるを得ません。私はこのことを最も強調して言います。あなた方を神へと導くことができるのは、プレーマヨーガ、すなわち、愛という修養法だけです。先に述べたヨーガは、一時的に心の扇動を静め、健康を増進し、寿命を数年延ばすかもしれません。しかし、できることはそれだけです。その追加された数年で、あなた方は自分の体を使ってどんな善いことを成し遂げたいというのでしょう? もし愛がなければ、それらの年月は大きな負担となって、あなたに重くのしかかってくることでしょう。もし愛が育まれるなら、肉体に関心を持つことなく、他人への奉仕に肉体を使うことができます。

ダルマはダルマを守るものを守る

体は、人が体を使って行うことができる他人への奉仕のために、あるいは、体に内在するアートマを悟るために、守られ、維持されるべきものです。霊性修行における厳格な規律を守り、ジャパや瞑想の厳しい時間割に基づいて行動する人々がいます。無論これは良いことではありますが、深刻で急な助けを必要としている人を助けに行かなければならないときでさえ、いつもの時間割や規律に固執するようであってはなりません。もしあなたが瞑想を犠牲にしてその人に奉仕するなら、瞑想から得られるであろうよりもはるかに大きな恩恵が、その奉仕から得られることでしょう。

もしあなたが、苦しみにあえいで救いを求めている隣人を邪魔だと感じて、瞑想が妨害されないようにどこか別の場所へ移ったとしたら、あなたは決してその瞑想の功徳を得ることはできません。そのようなことをしたとすれば、それは間違いなく過ちであり、あなたに神の恩寵を授かる資格はありません。神自らが人間に奉仕するために降臨したとき、あなたも人間に奉仕するなら、神は本当に喜ぶでしょう。

自分が喜ぶ行為よりも、むしろ神を喜ばせる行為、間違いなく神が喜ぶであろうとあなたが感じる行為、神が喜ぶことがわかっている行為をしなさい。神は真実とダルマを喜びます。ダルマはダルマを守る人を守ります。自分のダルマを知り、それを守りなさい。

自分たちはバクタ(信愛者、帰依者)であるという偽りの主張や自慢をちらつかせてはなりません。そのような信者に関して、テルグの諺(ことわざ)にはこのようなものがあります。

「説教や訓戒を聴いている間は厳格な良い遵奉者(じゅんぽうしゃ)でも、それを聴き終わるや昔の悪い性向と習慣が心をぐいとつかみ取り、行動を型にはめてしまう」

ここの愛の環境、忍耐と謙虚さと敬意の環境から離れると、それらの性質を失うリスクが生じます。ですから、それらを固守し、揺るぎなくありなさい。他人を喜ばせたい、他人の尊敬を得たいという欲望、あるいは、他人の心に自分の虚像を描かせたいという欲望が、あなたの心に生じて育つことがあってはなりません。

騙(だま)せば騙される

他人を騙そうとするならば、あなたを騙すことのできる人が現れるということを覚えておきなさい。

昔、盗みにかけては、あらゆる策略と要領を身につけていた泥棒がいました。その男が習得していないことは何一つありませんでした。ある日、その泥棒は高価な品をいくつもくすねて布に包み、その戦利品を肩に担いで人気のない道を歩いていました。道端の池の岸で、一人の子どもがとても悲しそうに大声で泣きながら立っていました。泥棒はその子のそばに行って、

「どうして泣いているんだ? 何があったんだい?」

と尋ねました。子どもは答えました。(ここで皆さんは、その子は何歳なのか、どれくらい幼いのか、などということは問題ではないということを覚えておかなければなりません。そのようなことを気にするのは理性です)

「僕はここに体を洗いに来たんです。そうしたら、すぐそこの水の中に、金のネックレスを落としてしまったんです。そこで水浴びをしようと思っていたんですが、僕には深すぎて」

泥棒は、その金のネックレスもくすねることができるかもしれないと考えました。というのも、自分とネックレスの間にいたのは小さな子どもだったからです。そこで泥棒は、包みを岸辺に置き、ネックレスを拾い上げるために水に入りました。そうしている間に、子どもは泥棒の包みを担いで走り出し、しばらくするとジャングルの中に消えてしまいました。泥棒はがっかりして水から上がってきました。というのも、金のネックレスというのは作り話で、自分は盗みにあったということがわかったからです! 人を騙した者は皆、もっとずる賢い者に裏をかかれることになるのです。

教科書も教室も瞑想を教えることはできない

代表団の一人から私に手渡されたメモに、ある提案が書かれていました。それは、会員たちに瞑想を訓練するクラスを定期的にプラシャーンティ ニラヤムで開講すべきである、そうすれば、その養成を受けた者を通じて国中に瞑想を広めることができる、というものでした。その提案を読んで、私は笑ってしまいました。人が他人に瞑想を訓練することなどできるでしょうか? あるいは訓練できると言えるでしょうか? 瞑想の姿勢やポーズ、足の組み方、手足、首、頭、背筋の位置、呼吸の仕方やその速さについて教えることは可能かもしれません。しかし、瞑想は内なる働きであり、心を空にして、内なる神聖火花から出る光で自らを満たしていくと共に、深い主観的な静寂を必要とします。これはどんな教科書でも教えることのできないことであり、どんな授業でも伝えることができないことです。瞑想教室! そのような教室を運営している人は、瞑想の何たるかを知らないのです。そのような教室に通う人々は、真の瞑想を知ろうともしません!

自分の感情を清めなさい。自分の衝動を浄化しなさい。愛を育みなさい。そうして初めて、あなたは自分の主人になることができるのです。その支配力を得ることが、瞑想の目的であり、プロセスなのです。

心はどこにでも入って行って、遠くまで広範囲に動き回る

母親は、子どものそばに座って言葉を話し、子どもにその言葉を言ってごらんと励ますことはできますが、子どもは自分の舌を使って、自分で努力して言葉を話さなければなりません。それと同じように、人はあなたに、座り方や、胴体を真っ直ぐにして、足を組み、手を伸ばし、指を交差させ、息を整えてゆっくり呼吸する、といったことを教えることはできますが、どうやって気まぐれな心を制御すればいいかなど誰が教えられますか?

心はとても鋭敏で、膨張性があります。心はとても軽く、浸透性があり、突風に乗ってあちこちを漂います。心は重量のない種の付いた綿玉のように、地に着くことなく移動します。心は綿毛よりもずっと軽く、遠くまで、広くさまよいます。ですから、もし心を制御しなければならないというのなら、心に何か重いものを取り付けなければなりません。もちろん、心を宿している体は重いものですが、心は移り気で自由です。心は何かを思いつくと、遠くまで飛んでいきます。

ソーハム瞑想と御姿の瞑想

心を地に着かせるためには、心に何か重い仕事をあてがわなければなりません。この仕事が瞑想と呼ばれているのです。心を、上唇の上、すなわち、二つの鼻孔の間、ちょうど鼻の先に固定します。そして、右手の親指で右の鼻孔を閉じ、左の鼻孔から息を吸います。息が吸い込まれているとき、「ソー」(彼)という音がします。それから、左の鼻孔を押さえ、右の鼻孔から息を吐きます。息が吐き出されているとき、「ハム」(私)という音がします。これらの音が断言している、彼(神)と私(自分)は同一である、という意識を持って、呼吸と意識が一つの無意識のプロセスへと成長するまで、ゆっくりと意識的に呼吸しなさい。吸う息と吐く息に注意を置いて、呼吸がささやく「ソーハム」(我は神なり)を内なる耳で聞き、自分という存在は神であり、宇宙の中心核である、というその断言を証明するために、心を見張りに立てなさい。これは勝利をもたらす瞑想です。

この「ソーハム瞑想」が安定したら、自分が選んだ神(イシュタデーヴァター)の御姿を心の中に固定することに取り掛かってもよいでしょう。少なくとも十五分から二十分かけて、その御姿を頭から足の先まで思い描き、御姿の各部分をよく思い浮かべて、それをはっきりとハートに刻みつけなさい。それから、足の先から頭に向かって同じことをしなさい。これはハートの祭壇に御姿を固定する助けとなります。そうなると、あなたはすべての人の中に、すべての生き物の中に、その御姿だけを見るようになります。神だけを見出すようになります。一なるものが多となっていることに気づくようになります。「シヴォーハム」、「ソーハム」――我はシヴァなり、我は神なり、存在するのは神のみである、と。

すべての信仰は相互に恩を受けている

ここにイスラム教徒からの質問があります。彼は地元のサティヤ サイ セヴァ サミティの副会長で、ナガラ サンキールタンや瞑想やプージャー(供養礼拝)等々に参加してもいいかどうかと尋ねています。もし自分が望むなら参加すればよいですし、もしそれは自分が心に持っている信条に反すると感じるならば、参加する必要はありません。嘲笑や迫害に直面しても、信仰に関する自分の信念を崩すべきではありません。自分の家で、自分の信念に基づいて瞑想(や他の礼拝)を続けることもできます。それらは、無理をしてでも外で、他人の目に触れるところで行うように、などという強制はありません。すべての信仰には相関関係があり、それぞれが説く原理、奨励する修養法について、互いに恩を受けています。時間的には、ヴェーダの宗教(西洋人がヒンドゥー教と名づけたもの)が最初で、その後二五〇〇年後に現れた仏教はその息子です。東洋の影響を受けたキリスト教は、その孫息子です。そして、キリスト教の預言書が土台にあるイスラム教は、その曾孫(ひまご)のようなものです。これらのどの宗教にも、心を矯正するため、そして、人間が神に融合するための根本的な心の修養としての、愛があります。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C34