サティヤ サイババの御言葉

日付:1970年11月22日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ オーガニゼーション全インド大会(第4回)④の御講話より

真理中の真理

思考は言葉として現れ、言葉は行為として現れます。行為は習慣となり、習慣は定着して人格を形成します。ですから、思考とその習性に気をつけなさい。思考が愛から湧いてくるように、万物に対する尊敬の念から生まれた愛から湧いてくるようにしなさい。なぜなら、すべてのものが神だからです。あなた方は皆、神の化身です。その事実を決して忘れてはいけません。

二日前から、皆さんは霊的な講話に耳を傾け、神聖な思考を抱いて時を過ごしています。皆さんは全インド大会に出席するためにここに来ましたが、この大会は皆さんをここに集めるための私の単なる口実であり、私はそれにより皆さんに恩寵を注ぎ込み、皆さんが大いなる熱意と理解をもって自分の義務を果たしていけるようにしたかったのです。

皆さんはオーガニゼーションの各ユニットの役員ですが、皆それぞれのユニットを通じて神を礼拝しているのです。というのは、人への奉仕は神への奉仕だからです。神は、人間に化身して、人間に奉仕するために降臨したとき、人間自らが人類同朋の病気や苦悩や疑念を取り除くために奉仕をするという任務に着手しているのを見たならば、どれほどか喜ぶに違いありません!

他人を助けることができたとき、あなたが得意になる理由はまったくありません。なぜならば、あなたがそれを認めるか否かは別として、あなたに奉仕をする機会をもたらしたあなたの技能、富、勇気、公的地位といったものは、神からの贈り物だからです。あなたは、ただ、神からのその贈り物を、もう一つの神からの贈り物、すなわち、あなたの助けを求めて来る貧しい人、文盲の人、弱者、病人、嘆き悲しむ人、心に痛みを持つ人に与えているだけなのです。

心は一体性を認識する訓練を受けなければならない

ガンジス河、あるいはゴーダーヴァリー河で、誰かが膝まで水に浸(つ)かって、河を讃(たた)えるヴェーダの讃歌を唱えているとしましょう。その人は両手で聖河の水をすくい上げ、その河が象徴している神への供え物として、その水を河に注いで戻します。河の水を河に戻すこと、神からの贈り物を神からのもう一つの贈り物である人物に与えること――人間に可能な行為はそれだけであり、人間がしなければならない行為はそれだけです。

神はあなたに、素晴らしい体と、甘美な言葉を語ることのできる舌と、心という驚くべき道具を授けました。神はあなたに知性を与え、分析する力と統合する力、受け入れる能力と放棄する能力、覚える力と忘れる力を授けました。そのことを大いに感謝して、それらの能力を最大限有効に使いなさい。それらの能力を、万物の内にいたるところに存在する神を見るために使いなさい。人生の浮き沈み、喜びと悲しみ、迷いと決断の一切を通じて神を求めるために用いなさい。

こうした二極に衝撃を受けるのは、心が揺れ動いている結果です。心は名と姿の多様性に夢中になります。ですから、一体性を認識し、一体性を楽しむことができるよう、心を訓練しなければなりません。心は誤った価値観を患い、自らのためになることを排除しようとします。固い食べ物は、最初は嫌がられるでしょうが、子どもに固い食べ物を噛(か)んで味わうことを身につけさせなければなりません。それと同じように、心も、時と空間と原因の背後にある広大なもの、無限なるもの、圧倒的な権威を思い描くための訓練を受けさせなければなりません。

心はまず、人の姿をとった神を好きにならなければなりません。そして、その後に、人の姿をとっていない、御名も御姿も持たない神、すなわち、心によって御名と御姿が付加される、人の姿をとっていない神を好きにならなければなりません。バジャン、瞑想、ナーマスマラナ(唱名)、ナガラ サンキールタン(グループでバジャンを歌いながら通りを練り歩くこと)――これらはすべて、そのための教育のステップです。神との融合によって勝ち得る至福が、その教育の完成です。

病人は、病気にかかっている間は、それがどれほど苦かろうとも、調合薬を飲まなければなりません。無知という病気にかかり、それゆえエゴイズム(自我意識、アハンカーラ)と不満に苦しんでいる人は、「ジャパ瞑想」という調合薬を飲まなければなりません。現世のものへの執着過多という病気は、ジャパと瞑想を通じて育む神への執着という薬によってのみ治すことができます。

人は解放されることを切望しながら自分に手かせ足かせをはめている

自分が薬を飲んでいる年数を数えて、まったく効いていないと思い、治療そのものにやけを起こす人がいます。そのような人は、その結果、グルにけちをつけ、やり方にけちをつけ、アドバイスにけちをつけ、さらには神にさえもけちをつけて、無心論者か、あるいはそれよりもっと悪くなってしまいます。けれども、ひび割れがある水がめに水を溜(た)めておくことなどできますか? あなたは、ジャパや瞑想によって得た信仰心や信愛で自分のハートを満たすかもしれませんが、ハート自体にひびが入っているのです。不信感、恐怖心、狂信、迷妄というひびが入っているのです。

あなたが神を見ること、神を実現することができないからといって、それは神を否定することを正当化する理由にはなりません。それは、ただの理不尽な愚かさの印にすぎません。自分で砂糖の代わりに塩を入れておきながら、この水は塩辛いなどと文句が言えますか? 水が甘くないのは、あなたが塩を入れたからです。あなたは甘さを切望しながら塩を入れているのです。解放されることを切望しながら、自分に手かせ足かせをはめているのです。平安を切望しながら、二元性という平安を乱すものを自分の中に入れているのです。

あなた方は、隣人が霊性修行を始めたのはたった二年前で、自分は二十年前から時間厳守できっちりと霊性修行を続けてきたにもかかわらず、隣人は幸福を手に入れ、自分は不幸だと文句を言います。自分たちは私のところに何年も前から来ているのに、私はほんの少し前に来たばかりの人を私の近くに連れていく、とあなた方は思っています。そうした反応は、公平や不公平があることを思わせますが、その答えはあなた方の知らない過去にあるのです。

内在する神は生身のものとして体験し得る

ぶ厚い板をハンマーで二十回叩(たた)いても、板は割れませんでした。別の男がやって来てその板を叩くと、板は二回叩いて割れました。二十回その板を叩いた男はがっかりし、二回で板を割った男は得意になりましたが、板が割れたのは二十二回の打撃が加えられた結果のことでした。

あなた方の隣人には二十年間のサーダナ(霊性修行)という貯金があって、それは自らの原因体(カーラナ デーハ)の中に貯(た)めてあり、前世から今生にやって来たときに隣人はその原因体の中に入り込んだのです。人の性格や好みは、その人が生きてきた、長い、一続きの、いくつもの生での、その人の愛し方や行動のし方、与え方や争い方によって形作られています。

青い果実は酸っぱくて、苦味さえもありますが、熟すと酸味や苦味は甘味へと変えられます。五感と知覚世界への執着を、アートマへの執着、神への執着へと変えなければなりません。そうすれば、それはあなたに至福の甘さを授けてくれるでしょう。ひとたびその至福に入れば、あなたは至福だけと見、味わい、聞き、体験します。「イーシャーヴァースヤミダム」――この一切は神なのです。

しかし、「では、なぜ神は見えないのですか?」という問いがなされます。それはつまり、牛乳の中にバターが内在しているように、神は終始一貫して、その一滴一滴に内在しているのです。もしバターを見せなければならないとしたら、熱し、凝固させ、かき混ぜるといった、一定のプロセスを経なければなりません。それと同じように、口で御名を繰り返し唱えるといったような何らかの霊性修行によって、ハートに住まう神を、目に見えるものにすることができるのです。内なる神を、生身のものとして体験することができるのです。

人間には生来、神への渇きと、最高位の至福(アーナンダ)を求める、生まれ持った切望があり、それは決してなくなることも、弱まることもありません。その渇きは、神を飲むことによってのみ癒されるのであって、代わりのものや一時しのぎのものでは癒されません。

伝説のチャータカ鳥(空から降ってくる雨水だけを飲む鳥)は、暗くなりつつある空にも、響き渡る雷鳴にも、目も眩(くら)むような雷光にも、狂ったように降りしきる破壊的な雨にも気をとらわれることなく、(雨が天から地に落ちゆく間に)天と地の間の空間で、汚れを知らない初雨水(はつあまみず)を数滴飲むために、くちばしを開けて上方へと飛行します。それがチャータカ鳥の渇きであり、切望であり、運命なのです。

問いが生じたなら、答えも与えられる

雨粒が大地に落ちて汚されると、その雨水は飲めなくなる、というのがチャータカ鳥の信念です。それと同じように、愛、奉仕、拡大、表現、充足を求める純粋な切望は、貪欲や妬(ねた)み、悪意や憎しみ、情欲や慢心を持った利己的な目的に触れることによって汚されます。それはまた、非難や賞賛、損失や獲得に対する人間の自己中心的な反動によっても汚されます。その切望は、失敗や成功に直面しても、平静で十分に強くいられるようになるまでは、他の望みとは隔離して、静かに大切にしまっておくことが最善です。そのためには、自分のハートの中で独居と静寂のうちに行うナーマスマラナは大変有効です。

問いが生じたならば、答えもあなたに与えられます。疑念が湧き上がったならば、それは信仰を強め、深める必然として湧き上がったものであり、明確な結果をもたらしてくれる一連の論議が提供されることでしょう。

ナーマスマラナは、ナガラサンキールタン(集団で神の御名を歌いながら通りを練り歩くこと)へと発展させることもできます。ナガラサンキールタンは個人と社会の双方に大きな影響を及ぼします。汚い空気を吸えば、健康が害されます。愛も敬意もない、忌まわしい淫(みだ)らな宣伝文句をがなりたてること、また、話すだけでも、空気は有害なバイブレーションで汚染されます。空気をきれいにするには、神聖で、健全で、幸せなバイブレーションを広めなればなりません。それも、夜明けと共に人々が外に出てくる前にです。善良な男女のグループが神の御名を高らかに歌いながら通りの端から端まで歩くとき、御名の一つひとつからよい香りが漂い、御名の一つひとつに愛が共鳴します。それらが空気を清め、すべての人が吸うべき澄んだ空気へと変えるのです。それはまた、通りの両側で暮らす人々に、甘美な神の御名を聞きながら美しい神の御姿をハートに抱いて日々の務めを始めるように、と呼びかけるのです。

憎しみと貪欲のバイブレーションが空気を汚染する

何千マイルも離れた、どこか遠い国で、アメリカやロシアの手で原子爆弾が爆発させられると、死の灰が世界中に移動して、大気を汚染し、植物を毒し、生命をねじ曲げるということを、それらに対処しなければならない医師たちは述べています。敵意の叫びと不満の結果として生じる、憎しみ、貪欲、慢心、妬みのバイブレーションも、死の灰と同様に深刻に空気を汚染します。

人間は、戦場にいるときや、陸や海や上空で冒険をしている最中には、大いなる精神的、肉体的勇気を示します。人間は、ありとあらゆる障害に立ち向かおうとするときに莫大(ばくだい)に勇気が高まることを、歴史の中で明白に示してきました。しかし、物質世界とのもつれ合いを放棄する勇気こそが、偉業なのです。

ヴァールミーキは追剥(おいはぎ)で、不意打ちを仕掛けて、何のためらいもなく何百という人々を殺害していました。彼は激情と感情の奴隷になっていたのです。しかし、ある夜、七賢人に不意打ちを仕掛けようとしたところ、賢人たちから根気強さと辛抱、そして自己探求をするようにという忠言を施され、ヴァールミーキは勇敢にも(カーマの道を放棄して)ラーマの道へと転向し、不死と、ラーマの物語の語り部としての不滅の名声を得ました。ヴァールミーキは激性の段階(感情的)から浄性(バランスのとれた状態)へと自らを変容させたのです。霊的な冒険、すなわち、暗闇から光へと霊的に飛躍するには、並外れた勇気が必要であり、また、その勇気に対する報酬が神の恩寵なのです。

内なる炎の象徴であるオームを黙想せよ

女性も男性も、すべての人がその冒険の志願者です。性別は、地上での生活の役割のために魂がまとっている衣にすぎません。性別が、霊魂という、不滅で、感覚よりも上のレベルにあるものの生活に影響を及ぼすことはありません。神性が自らの内でその栄光のすべてを顕(あらわ)すことができるよう、男性も女性も内なる意識を浄化する必要があります。女性には聖音オームを唱える権利はないと断言する、未熟な考えを持つ人たちがいますが、それは有害で偏狭な教義です。こうした人たちは、母を崇敬しながら一斉に声を揃(そろ)えて、「マートゥル デーヴォー バヴァ(母親を神と思いなさい)」という格言を賞賛する一方で、母に自らを救済するための権利を与えないことで、母の名誉を汚しているのです。これは偽善です。

オームのアカーラ(A)とウカーラ(U)とマカーラ(M)は、「オーム タット サット」の原理、すなわち、「タットは真理」、「私は真理」、「真理は一つ」という原理を象徴しています。オームは常に存在している内なる声であり、ハートの空洞からの神の呼び声のこだまです。それに耳を傾け、それに感動しなさい。そうすることは内なる礼拝です。さまざまな礼拝のうち、外でのプージャー(儀式礼拝)は外的な象徴です。エゴが猛威を振るってはびこっているとき、どうやって心が落ち着くこと、信仰が定まることができますか? 目覚めている時、夢を見ている薄明かりの時、そして、夜に熟睡している時を通じて、ずっと光り輝いている、内なる炎の象徴、オームを黙想しなさい。こうすることによって、豊富に恩寵を得ることができます。

権力や影響力のある場はすべて、ある種の責務を伴います。一番の権力者がタフシルダール(郡長、徴税官)であることは多くの村人の知るところです。タフシルダールには、村人たちを自らの保護のもとに養育して、村人たちから愛と協力を獲得するという責務があります。サティヤ サイ オーガニゼーションのユニットの会長や事務としてあなた方が有している役員たちは、おそらく他のどんな組織も自分たちの会員には負わせないような責務をあなた方に課すでしょう。それらは小委員会によって描かれたものに私が修正を加えたもので、今から読み上げられることになっています。州の会長と地区の会長の義務と責任、および、各ユニットの会員と役員の義務と責任も、同様に読み上げられます。

嫉妬心によってユニット同士が競い合ってはならない

今、子ども教室(バーラ ヴィハーラ)を運営する責務は女性部門(マヒラー ヴィバーガ)に割り当てられていますが、新しい規則では、女性部門(マヒラー ヴィバーガ)以外は、どのユニットも女性の会員を置かないということを定めました。女性部門(マヒラー ヴィバーガ)の指導と援助はセヴァ サミティ(奉仕組織)が行い、女性部門(マヒラー ヴィバーガ)はセヴァ サミティに従属するユニットとして働きます。セヴァ ダル(無私のボランティア隊)は、セヴァ活動に十分役立つことができるよう、養成され、まとめられることになります。セヴァ ダルの議長はサミティの会員がなります。どの会員も、いつもセヴァに対してアクティブで熱心であるべきです。

私はどこにでもいて、すべてを見ていて、すべてに気がついているということへの確信が、セヴァと学習を通じてあなた方を真っ直ぐなサーダナの道の上に置き続けなければなりません。私はすべてのサミティ(およびサミティを補うすべてのユニット)が、すでに達成した働きによって歓喜を湧き起こしているであろうことを、そして、これからの働きのための熱意を湧き起こしているであろうことを欲します。

愛、尊敬、忍耐、互いの協力、自制――これらがあなた方一人ひとりのハートから流れ出なければなりません。他の人が就いている役職を奪いたいとか、自分の就いている役職を他の人ができるようになったら自分は役職から離れたい、などと願ってはなりません。

同様に、ユニット同士も互いに協力しなさい。嫉妬心や派閥意識で競い合ってはなりません。あなた方は皆、一つの体の一部、すなわち、サイの体の一部なのです。サミティは、地区の会長の指導を受け、もし必要とあらば矯正されるべきです。地区の会長は、州の会長の指導を受け、もし必要とあらば矯正されるべきです。州の会長は、常に中央と連絡を取って、助言と指導を受けるようにします。

ユニットへの所属意識を強めなさい

この大会で、女性は女性部門(マヒラー ヴィバーガ)以外、どのユニットの会員になってもいけないということが定められました。女性部門(マヒラー ヴィバーガ)は、自分たちが計画する公開の行事やお祭りに関しては、セヴァ サミティの助けと指導を求めるようにします。どのサミティも、ぐずぐずせずに、女性部門(マヒラー ヴィバーガ)を始めなければなりません。そして、女性部門(マヒラー ヴィバーガ)は、子ども教室(バーラ ヴィハーラ)を自分たちの最も大切な、最も役に立つ活動と見なさなければなりません。

セヴァ ダル(無私のボランティア隊)、バジャン マンダリー(バジャン隊)、スタディー サークル(サイの御教えの学習会)、そして、プラシャーンティ ヴィドワン マハーサバー(ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会)はどれも、サミティのメンバーでかつその目的のために選任され、その仕事のために指名された人の指導を受けて、活動しなければなりません。これらはどれも、十一人、あるいは、十五人、二十五人といった会員を持つサミティの一部です。

サミティやセヴァ ダル等の毎回の経費は、会員だけで分担しなければなりません。会員以外の人から集金しようとしてはなりません。特別な行事の際には、一般の帰依者からの物品や奉仕の自発的な寄贈を受けることができます。しかし、会計係は必要ありません。どんな経理も、共通の事務員が受け持つことができます。サミティの会員は誰もが何かの仕事を与えられなければなりません。そうすれば、皆が所属意識を強め、自分の技能、知性、信仰心、信愛を、この団体の目的のために捧げることができます。

サミティの会員は、全員、ナガラ サンキールタンに参加しなければなりません。もし確固たる信仰心を持ち合わせていない(ので参加しない)というのであれば、なぜ会員名簿にその人の名前が載っているのですか? 会員はサーダナに熱心であるべきであり、また、サミティの主催するサーダナ キャンプにも参加すべきです。

ユニットは詐欺師と関わってはならない

神聖アートマの化身である皆さん!

バーラタの国土は、太古の昔から霊性の進歩の中心であり、神の化身が人類のためにダルマを復興する場です。化身した神としての私の威厳、私の栄光を知らしめるために、いくつかの場所で、驚くべき性質の奇跡的な出来事が起こっています。

それらの出来事が人を惹(ひ)きつけるのをよいことに、多くの人たちが個人の宣伝や権力の拡大のためにそれを悪用しています。自分の祭壇から吹き出ているヴィブーティ(神聖灰)とお金を交換している人たちがいます! 地位の高い「上級の帰依者」のふりをして歩き回り、自分が騙(だま)してお金を巻き上げている純朴な人たちを祝福し、恵みを与えているふりをしている人たちもいます。また、自分の家のババの写真からヴィブーティが出ている、アムリタ(神聖甘露)が出ている、あるいは、質問への回答が書かれた紙や何やらが物質化されて出てきたと言って、偽りの主張をしている人たちもいます。サミティもユニットも、こうした詐欺師や、いかさま師と関わってはなりません。そうした人たち、あるいは、そうしたことを勧める人たちと付き合っている者は誰であれ、即刻、追い出すべきです。

他にも、私がその人を通じて話をしているとか、質問に答えているという主張をしている人たちもいます。そのような人たちは、精神異常者か神経症を患っているかのどちらかです。あるいは、悪霊にとり憑(つ)かれているか、もしくは、そうした方法でお金を儲(もう)けたいという貪欲にとり憑かれているかです。私に言えるのは、彼らを通して喋(しゃべ)っているのは私ではないということだけです。私は霊媒を必要としませんし、代理人も、補佐役も、代弁者も必要としません。

私に代わって世話をするようにと、私からある地域をあてがわれたと宣伝している、いかさま師がいます。私の信者があまりにも増えたため、人の手を借りなければ私はその全員に注意を払うことができないというのが、彼らの言い分です! 見るからに、これは馬鹿げた嘘ですが、さらに、別の側面についても考えてみなさい。

悪の力は求道者を離れさせようとする

純粋さと苦悩に満ちた切望を抱いて、「サイ、サイ、サイ」と泣き叫び、清らかで無私なる有徳の生活を送っている者でさえ、私を悟ることは難しいと感じています。そうであれば、サーダナも誠実さも、真理も謙虚さも知らない、先に述べたような低級で狡猾(こうかつ)な卑しい人間が、どうやって私に祝福されているなどと主張することなどできますか? 彼らは私と同じスタイルの服を着て、仕草や話し方を真似るかもしれませんが、それらはただ、彼らの嘘を際立たせるだけでしょう。私がそうした人に憑依(ひょうい)することになっているとか、その人を通して話をするとか、その人に私の恩寵を注いでいるとなどいうのは、恥ずべき想定です! どうして人はそんなことを信じることができるのか、私は不思議でなりません。

単純で誠実な者たちに損害を与えて、信仰心と帰依心を減少させようとする悪の力は、行動となって表出し、ずる賢い方法で注意を引こうとします。それらは霊性の道から求道者を離れさせ、金銭欲と悪意から成る世俗の道へ引き込もうとします。サイ シャクティ(サイの力)と、こうした低級なシャクティの間には大きな隔たりがあります。今、機会ができたので、そのことを言っておかなければなりません。サイ シャクティに限界はありません。邪魔も妨害も障害もありません。あなた方が信じようと信じまいと、サイ シャクティは、地を天に変え、天を地に変えることができます。ただ、そのような天変地異は必要ないだけです。こうした神の振る舞いは、低級なシャクティの、卑しく、これ見よがしな芸当とは懸け離れています。こちらは自然に生じる現れであり、あちらは客集めと無知な人たちを食い物にすることを計算したものです。低級なシャクティは、服や仕草を模倣するかもしれません。というのも、模倣は防げないからです。しかし、あなた方はこう自問することができます。

「羽が緑色の鳥はどれも鸚鵡(おうむ)だろうか? 花を這(は)う虫はすべて蝶になれるのか? 虎の皮を着た驢馬(ろば)は虎になれるのか? 大きくなりすぎた猪(いのしし)は象だといって誇れるのか?」

服や話や芸当に騙されないよう気をつけなさい。また、それらに怒りを感じたり、嫌な気持ちになったりする必要もありません。

嘘は決して真実にはなり得ない

というのは、真実はずっと真実だからです。どんな方策を講じても、嘘は決して真実にはなり得ません。こちらはまさしく真実の化身です。この化身を形作っているものに、不実や嘘は含まれていません。

しかし、偏見を持った目には、すべてが歪(ゆが)んで見えます。食欲がない者、消化機能が衰えている者は、どんなに美味しい食べ物も苦く感じます。そうした人たちは、こちらのことを、好き勝手に、実際とは違うふうに語るかもしれません。しかし、私は少しもうろたえませんし、顔色を変えることもありません。

他の長老と見なされている人たちは、人の心を乱すために、いくつかの事を問題視して提示してきました。彼らに言わせると、クリシュナは、自然の法則を見事に無視して驚くべき多くの御業をなしたために、猟師の矢によって死ななければならなかったというのです。また、キリストが十字架に磔(はりつけ)にされて苦しんだのは、多くの奇跡を現したからである、と。彼らの言い分は、私が自然の法則に逆らっているので、私も同じように苦しむだろう、というものです。しかしこれらは、弱さと、無力さと、妬みから出た戯言(たわごと)です。これらは決して真実とはなり得ません。彼らは、自分たちに理解できず、許容できない栄光を、公然と非難して傷つけることを意図しているだけです。

用いる手段が何であれ、この組織的な運動に加担する者は皆、たとえ「十四の世界」がすべて束になったとて、成功することはできません。彼らは私にいささかも影響を及ぼすことはできません。さらに十の世界が加わって、全部で二十四の世界が一つとなって手を貸したとしても、彼らの嘘が真実として受け入れられ、立証されることはありません。

信仰と信愛が減少するのを許してはならない

真実が純粋さを損なわれることは決してなく、嘘へと変えられることもできません。あなた方は、あらゆる圧力、あらゆる悪い評判にさらされるかもしれません。しかし、勇気を失ってはなりません。自分の信愛、信仰心、そして、不動心が減少するのを許してはなりません。自分がしているサーダナを成功させる決意をしなさい。そうすれば、このサティヤ(ババ)は、あなたのサティヤ(実体)として、必ずや自らを現すでしょう。

私は外的な現れや行為には頼りません。私は愛という内なる原理によって、あなた方と結びついています。もしあなた方が、外にある心を奪うものに惹かれるならば、宣伝を避けられません。たとえば、もしこのような大会や祝祭がどこか他の場所で催されるとしたならば、誰が出席可能かを知るために、招待状を刷って送り、個人的に尋ねなければなりません。招待に応じてもらうため、行事を成功させるために、多くの人に心付けを渡さなければなりません。しかし、ここ、プラシャーンティ ニラヤムでは、どんな行事を行ったときも、招待状を刷って送って人々に来てくださいとお願いしたことは一度もありません。特別に参加を頼まれた人は一人もいません。愛が、ハートからハートへの招待状が、あなた方、何万という人たちをこの場所に連れてきたのです。愛の効力と価値は、あなた方によって証明されています。私の数ある力の中で、愛は最も強い力です。

家の灯(とう)篭(ろう)に明かりを灯したら、他の家々を回って、自宅に明かりを眺めに来てくださいと知らせに行かなければなりません。しかし、燦然(さんぜん)と輝く太陽が昇ったら、そのことを知らせるために世界に注意を促す必要はありません。それが太陽の輝きというものです。その光自体が一目を引くからです。光に気づかせるために人に知らせる必要はありません。

無論、何かのときに、私の姿、私の言葉、私の行動に基づいた疑念があなたの中に生じるのは自然なことです。しかし、私の実体を知りたいというのなら、行動において私の教えを守り、私に従わなければなりません。そうすれば、私の神性の実体は、確実にあなたに明かされることでしょう。あなた方は、この姿を肉眼で見ただけで、おぼろげな空想の命じるままに推測を始めて結論を出し、自分の理性と心の力を荒廃させてしまいます。さらには、自分の信愛と信仰心が間違った方向に流れて行くのを許しさえするのです。私はあなた方に、指令の力をもってして、そうしないよう忠告します。

今の世代よりも幸運な世代はない

昨日、スワミ カールンニャーナンダは宣言しました。自分は長い間、前の時代に生きていた人は、神の化身のダルシャンを得ること(直接目で見ること)ができたので、今の時代に生きている人よりも幸運だと信じていたが、今、自分には、今の世代よりも幸運な世代はないということがはっきりした、と。

この宣言は真実です。まったくの真実です。前の時代には、人間はこのような類(たぐい)稀(まれ)な機会を持つことはありませんでした。このような性質の組織は作られず、化身の御前でこのような性格の大会が開かれることなどありませんでした。そして、これほど身近な結びつきを通して、また、共に語らい、歌うことを通して至福を得る機会など与えられませんでした。疑問の余地なく、あなた方は皆、極めて幸運です。

ですから、この機会があなたの手の中から滑り落ちてしまわないようにしなさい。この機会をしっかりとつかみ取り、最大限に活用しなさい。揺るぎない信仰と、熱心な信愛の活動によって、実体の悟りという終着点へと続く道を歩いていきなさい。

その悟りの至福に到達することができるよう、私は皆さんを祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C35