日付:1970年12月18日
場所:ゴアのパンジム
ゴアで帰依者の身代わりになったときの御講話(2)より
神のサッティヤム〔真理、真実〕 シヴァム 〔吉兆、善、愛〕スンダラム〔美〕の顕現は、神の数あるどの御名に向けられた祈りにも答えます。たとえ今は人間の姿をまとい、人間の特質や人間の感情すら持っていると思われていたとしても、神は計り知れないほどの根気と慈悲を有しているのです。というのも、神は人間のさまざまな弱さに対処して、人間を自我から救い出さなければならないからです。人間は、愛の輪を大きくし、知性の光を大きく広げることのできる手段を示してもらう必要があります。人々は、全人類は1つであることがわかるまで、自分は神の帰依者であるとは言えません。なぜなら、人類は神の子供だからです。神は一本の糸であり、あらゆる種類の花々がその糸に通されて花輪となっているのです。ヨーガは、その内側の関係に気づくため、そして、宇宙との密接な間柄を経験するための方法です。ウディ ヨーガという言葉は、今やあらゆる類の業務を指すのに使われていますが、人が従事することのできる最高の仕事を指すのが、この言葉の最も適した使い方です。その仕事とは、その生来の関係を発見することです。
もちろん、一見したところ、あらゆる生き物と物体には神が内在していることは、はっきりとは見えません。「G」というシンボルは「ジー」と読みますが、誰かその読み方を知っている人からそのことを告げられて、その人の言うことを素直に信用することがなかったら、どうやってそう読むことができるでしょう? 次の段階では、「GOD」を「ジー オー ディー」と読むことへと到ります。しかし、「GOD」を「ジー オー ディー」ではなく「ゴッド」と読むよう説きつけるのは何者なのでしょう? それも同様に、グル、あなたが信頼する者、これらのことをよく知っている者です。それから、どうやって私たちは、「GOD」という音は原子にも星にも浸透している計り知れない一切のものであり、一切に遍満する知性を象徴しているということを知るのでしょうか? それもまた、それを受け入れるよう私たちに教えた者、グルによるものです。
「私」とは、体という鏡に映った神
けれども、それをグルから教えてもらって知るだけでは十分ではありません。探求して、究極の真理に到達しなければなりません。それは、原子のことも、一番遠くにある星のことも、今のことも、永遠のことも説明することのできる真理です。場(クシェートラ)を知っているのは場を知る者(クシェートラグニャ)だけ――宇宙を知っているのは神だけです。人が宇宙を知るには、神にならなければなりません。実際には、神になるのではありません。人は、ソーハム ラルであるとか、スンデール ラルであるとか、インドゥ ラル〔いずれも人名〕といった仮面をかぶった神なのです! あなたが自分だと思っている「私」、自分だった「私」、赤ちゃん、少年、青年、中年男、お爺さん、ぼけた老人――これらの「私」は体という鏡に映った神の姿にすぎません! あなたは神である海の懐の1つの波にすぎません。それを知り、それを経験すること――それが完成であり、ゴールです! すべての波を知り、それから、波は海に他ならず、ただ短い時間だけ名と姿を持って現れ、そして、消えていく、ということに気づきなさい。
この見方(ヴィグニャーナ)に到達するには、自分を覆っている5つの鞘(コーシャ)のうちの3つの鞘を超えていかなければなりません。それは、アンナマヤ コーシャ〔食物でできた鞘〕、すなわち祖体とその用具である五感、そして、プラーナマヤ コーシャ〔生気でできた鞘〕、すなわち微細体とその媒介である生気と神経系、そして、マノーマヤ コーシャ〔心でできた鞘〕、すなわち原因体、それから、否定的なものであれ肯定的なものであれ欲望や動機や決意や望みといった、心(マナス、マインド)と呼ばれる複合体を形成している鞘です。これらの鞘の奥にあるのは、ヴィグニャーナマヤ コーシャ、直感の鞘です。この鞘は、至福の鞘であるアーナンダマヤ コーシャを覆っています。しかし、人はまだ最初の3つの鞘の錯乱の中で右往左往し、あえて奥に進もうとはせず、そうして真理を垣間見ることを拒んでいるのです。真理の扉はヴィグニャーナの段階のみにあり、その向こうにあるアーナンダマヤ コーシャへと通じています。
神我顕現に近道なし
神聖アートマの化身たちよ!
愛を育むことを通してのみ、ハートは大きくなって、永遠なる絶対の経験を受け取ることができます。真実を実践することを通してのみ、偉大なる真理を経験することができます。ここ〔ゴア〕では最近、至高の至福が与えられると銘打った独自の霊性修行が称えられている、多くのグルが台頭しています。彼らはそれらの修行に、人の気を引くような名前、クリヤー ヨーガ、ハタ ヨーガ、カルマ ヨーガ、アンタル ヨーガ等々、過去を彷彿させるような名前を付けています。しかし、神我顕現への近道はありません。そのゴールに到達することができるのは、人格を清めること、利己的でない愛を育むことによってのみです。感情の起伏、自己中心的な傾向、名声や評判を貪欲に求めることを抑える、という結果がもたらされないヨーガは、どれもボーガ(快楽の道)であり、ヨーガ(抑制)ではありません。体は神我顕現のための道具の集まりにすぎません。体は一切の過去生の果報であり、過去生があなたにその用具をもたらしたのです。樹木の果報は、果実とその甘い果汁です!
普遍なる愛の原理の化身たちよ!
私は、数日前にここに来て、ダルシャンと、こうした講話の歓喜(サムバーシャンのアーナンダ)をあなた方に与えるはずでした。あなた方はその日ここに来て、がっかりして帰っていきました。その日私が姿を現さなかった理由として、あなた方の心配を募らせるような話が広まっていたことを私は知っています。そして、本当の理由がわかった人たちですら、それを人が奇跡と呼んでいるものや、催眠術や、それと似た類のもののといった、自分たちが普段とんでもないと考えているもののせいだと思いました! 神を低俗な言葉で片付けるのは簡単ですが、それはあなた方が神の存在を否定したとか、神を理解したということではありません。
私は、神に全託した非常に善良な人物に死をもたらすことになったであろう病気を肩代わりなければなりませんでしたし、その呼び声がとても急を要する真剣なものだったので、約束していた予定を済ませるまでそれに答えるのを延ばすことなど到底不可能でした! ラーマやクリシュナや他の化身に関することであれば、あなた方はこうした事も信じます。なぜなら、あなた方は、それを信じても自分には何の義務も課せらないと思っているからです。一方、あなた方の目の前にいる化身の場合には、神が認識されると、それに続いて必然の結果が生じます。けれども、あなた方はそれらを避けようとします。しかし、世間が何と思おうとも、私は帰依者や善良で誠実な求道者の救済(バクタ ラクシャナ)という自分の任務を続行します。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C38