サティヤ サイババの御言葉

日付:1971年1月3日
場所:ダルマクシェートラ
子供への霊性教育に関する御講話より

現代のためのプラフラーダたち

もし私が皆さんに「あなた方は誰ですか?」と尋ねたら、「私たちは教師です」とか、あるいは何人かは「私たちは学生です」と言うかもしれません。しかし、どちらの言明も純然たるものではありません。あなた方は霊性修行者(サーダカ)です。これが真の事実です。私は、あなた方の霊性修行(サーダナ)が満足のゆく平安を目指して進んでいることを嬉しく思います。あなた方が私をあなた方の間に連れてくることができたのは、あなた方の誠実さと熱心さの果報によるものです。

私はいつも、子供たちへの奉仕に特別な関心を寄せていますが、あなた方は愛の精神で子供たちに善い教訓を教えたと、私は言わなければなりません。あなた方の中には、いささか熱心すぎる人たちもいます! あなた方は子供たちに長すぎる物語を話して、その全部を詰め込みました。子供たちの記憶力に多すぎる負担を強いてはなりません。20行から25行程度の長さの短い物語がベストです。丸暗記で学ばせるのはいけません。いくら私が来るので物語を話すプログラムを用意しなければならないからといって、プレッシャーをかけられて学んだことはすぐに忘れてしまうからです。丸暗記で学んだことが心に入って心を変容させることはありません。挿話と挿話が示すモラルは、ハートに刻み込まれなければいけません。暗記によって学ばれるのではなく、ハートを通して学ばれなければいけません。

私は、あなた方が子供たちに、バジャン、物語を話すことと書くこと、それから、作文(エッセー)を指示しているのを知っています。子供たちが話したり書いたりする物語は、叙事詩やウパニシャッドから選んだ物語です。それはよろしい。しかし、瞑想も毎日少しの間するように指示しなさい。今の年齢でも瞑想をする習慣を植え付けなさい。祈りを5分、ディヤーナ(瞑想、禅)を5分というのは、善い実習であり、それを味わうと、その味わいそのものが子供たちにそれを習慣にするよう促します。

シャバリーが庵に入った話

子供の優しい心には、優しさを与えなければいけません。シャバリーは、とても優しく思いやりのあるハートの持ち主でした。シャバリーがどのようにして聖賢マータンガのところにやって来て庵に住むようになったかは、とても興味深い物語です。シャバリーの結婚は両親によって決められました。そして、その部族の慣習として、結婚する二人への恩寵を得るために、式の前夜、部族の女神に山羊を生贄に捧げることになっていました。そのことを知ると、シャバリーは涙をこぼし、両親の足元にひれ伏して山羊を救ってほしいと懇願しました。シャバリーは問いました。

「この山羊の死にゆく悲鳴が幕開けとなる私たちの結婚生活が、どうして幸福なものとなり得るでしょう?」

しかし、父親はシャバリーを押しのけて、残酷な儀式を進めました。その夜、シャバリーはその苦しみの巣窟を抜け出して、近くの密林の奥に身を隠しました。

夜が明けると、シャバリーの両親と新郎側の一行は悲しみと不安に襲われました。彼らはあたりをくまなく探し回り、シャバリーが身を低くして横たわっている深い茂みのところにまでやって来ました。しかし、「あの庵には行けるわけはないだろう。あそこには女は誰も入れてもらえないだろうから」と言って去っていきました。その会話を聞いたシャバリーは、その庵こそ自分にとって最も安全な場所であると確信しました。きっと僧侶の誰かが自分を哀れみ、追い返すようなことはしないだろうと考えたからです。

マータンガはシャバリーを認めて庵に住むことを許可しました。マータンガはシャバリーに告げました。

「ラーマの姿をとった神が、いつかこの庵にやって来るだろう。なぜなら、ラーマは14年間森に追放されており、森で苦行中の僧侶や求道者たちを、平和を乱す羅刹の破壊行為から救うことに熱心であられるからである!」

ラーマは妻のシーターと弟のラクシュマナを伴って、ある場所から別の場所に向かっているのだと、マータンガは言いました。

シャバリーのハートはラーマのハートとなった

その日から、シャバリーの心には、ラーマのこと以外、一切何も浮かびませんでした。ラーマのダルシャンを得て、その御足に触れて、ラーマと言葉を交わす機会を得ることだけを待ち望んでいました。シャバリーのハートはラーマの甘露で満ちていました。シャバリーは、ジャパもディヤーナ(瞑想、禅)も他の霊性修行もしなくなりました。シャバリーは、ラーマが庵に来る時のための準備に時間を費やしました。

シャバリーは、道を掃き清めるのと同時に自分のハートも清めました。その努力によって、石ころと茨が道とハートの両方から消え去りました。シャバリーは森を通って歩き、頭の上にかかる蔓草と茨の枝を取り払いました。おそらくラーマは髪を梳かしていないので、それらが髪に絡みつくだろうと想像したのです。また、塊になった土を砕いたのは、もしシーターがその上を歩いたら、柔らかな足の裏が傷つくだろうと恐れたからです。

シャバリーは、毎日、密林の木や植物の果実と根菜を集め、その日の分をとっておきました。ラーマがいつやって来るか誰も知りはしなかったからです! さらにシャバリーは、もしものことも考えました。集めた果物を一つひとつ味見して、苦いか、酸っぱいか、甘いかを調べ、ラーマが一番おいしい果実を食べることができるようにしたのです。

シャバリーは、密林の小道の脇に横たわる全部の石の表面を磨きました。ラーマかラクシュマナかシーターが歩き疲れた時に、そのどれかの石の上に腰を下ろすかもしれないと考えたからです。シャバリーは、自分が丹精込めて磨き上げたどれかの石の上で、三人のうちの誰かがしばらくの間でも憩ってくれることを願いました。このようにして、シャバリーのハートはラーマのハートとなりました!

サティヤ サイ バーラ ヴィハーラ〔?子供の遊び場”と名付けられた教室〕の子供たちは、自分のハートに住んでいるサティヤ サイを知らなければいけません。教師たちもそれをサイ ラーマへの礼拝と見なしなさい。どうやって自分のハートに住んでいるサイ ラーマを子供たちに知らせたらよいのでしょうか? それが問題であり、それはあなた方の仕事を導くものでなければなりません。サイ ラーマはあなたのハートという密林を動き回っています。ですから、ハートという密林の道を広くし、平らにして、茨や石ころのない状態にしなさい。

シャバリーの高次のサーダナ

シャバリーがあまりにもラーマに心酔したために、他の行者たちはシャバリーが女であるということをまったく意識しなくなりました。マータンガからシャバリーの霊性修行が高いレベルのものであると告げられた彼らは、シャバリーが庵に居続けることを認めました。さらにマータンガは、「ラーマがおいでになった時、ここにいるのに値するのはそなただけだ」と言って肉体を去り、自分の庵をシャバリーに明け渡しました。

あなた方も、子供たちの中にいるサイ ラーマに奉仕する時、シャバリーがラーマに仕える至福を得るために行った霊性修行を行いなさい。その奉仕によって、自己を悟りなさい。

人々は、自分は他者への善行(パローパカーラ)と世の中への善行(ローコーパカーラ)をしていると言います。実際は、それは中身のない自慢話です。あなたが10人の人を夕食に招待したとしましょう。10人が食卓に着いたら、あなたも11人目として着席しませんか? そうして、あなたもその夕食を食べて分かち合います。そうであれば、あなたはどうしてそれを、他者のための夕食だとか、他者をもてなす行為などと呼ぶことができるでしょう? あなたが世の中への善行を行う時、あなたもその善を分かち合います。ですから、あなたは他者に奉仕しているとは言えません。それは「自分が第一で、援助はその次」ということになります。神は、あなたが自分の着手しなければならない義務を果たす時に、恩寵を降り注ぐのです!

あなた方は教師であり生徒でもある、ということを覚えておきなさい。なぜなら、あなた方は子供たちを教えていますが、私から学んでもいるからです。生徒たちは他の人の子供だという意識を持ってはなりません。自分の子供として生徒たちを扱いなさい。

子供たちを何かポジティブな作業に従事させなさい

子供たちに物語を話す時には、子供たちの家庭生活の背景と何か関係のある物語を選びなさい。子供たちに、悪いものを見ること、悪い楽しみ、悪い行い、悪い習慣を本当に嫌だと思う気持ちを植えつける物語を話しなさい。子供たちに、自分が人からされた悪いことと、自分が人にした善いことを忘れなければならないのはどうしてかを話しなさい。子供たちを何かポジティブな作業に従事させなさい。そうすれば、ネガティブな姿勢は減っていきます。善い習慣は悪い習慣を追い払います。

ある不道徳な男が、霊的生活に入るための手ほどきを受けようとグルのもとに行きました。グルは男に、少なくとも一つは悪い習慣を捨てなさいと言ったので、男は嘘をつくのをやめることにしました。その晩のことです。男が王宮に盗みに入ると、誰かがテラスにいて、自分は泥棒だと言いました。男は自分も泥棒だと名乗り、二人で宝庫に侵入し、そこで見つけたダイヤモンドを山分けしました。実は、もう一人の泥棒は王様でした。泥棒のふりをしていた王様は、当然、宝庫の鍵のありかを知っていました! ダイヤモンドを山分けしていた時、正直者の泥棒は王様がダイヤモンドをすべて失ってしまうことが気の毒になり、一つだけでも宝庫に残しておくよう相棒に頼みました。そうして、一つのダイヤが残されました。

翌朝、宝庫が盗難に遭ったことが知れると、昨夜泥棒のふりをしていた王様は、大臣を遣わして被害はどれほどのものかを調査させました。大臣は宝庫で盗難を免れたダイヤモンドを一つ見つけました。大臣はそれを自分のポケットに忍ばせて、全部のダイヤモンドが盗まれてしまったと宮廷で報告しました!

正しい方向への一歩は二歩目へとつながる

王様は昨晩、別れ際に、山分けしたダイヤモンドを詰めた袋といっしょに正直者の泥棒の住所をもらっておきました。そのため、泥棒は宮廷に呼ばれ、王様の前に立ちました。泥棒は、自分と見ず知らずの相棒とで、一つを除いてすべてのダイヤモンドを盗んだと告白しました。その一つ残されたダイヤモンドが大臣のポケットの中から見つかり、王様は、嘘をついたという理由でその大臣を首にしました。そして、代わりに正直者の泥棒が大臣に任命されました。正直者の泥棒は、他のすべての悪い習慣も捨て、徳の高い役人という名声を博してグルを喜ばせました。

もし悪い習慣を一つ身につけると、それが多くの悪い習慣を身につけることへとつながっていきます。このことを述べている物語もありますから、それを子供たちに話すことができるでしょう。昔、ある王様が、三つの悪行のうちどれか一つを行うことに同意したブラーフマナ〔ブラフミン、バラモン〕に立派な褒美を授ける、という御触れを出しました。

(1)その者は、ヴェーダが偽りであると断言しなくてはならない
(2)その者は、酒を飲まなくてはならない
(3)その者は、他人の妻を奪い去らねばならない

長い間、これら極悪非道の一つを実行しようと名乗り出る者は、七つの海のどこにも誰一人いませんでした。しかし、ついに、飢餓に瀕した一人の貧しいブラーフマナが宮廷にやって来て、飲酒を申し出ました。飲酒はこの三つの中では一番罪が軽いと思ったからです。ところが、その男は酔っ払うやいなや悪態をついて、口汚く罵りはじめ、酩酊状態のまま、路上で「ヴェーダは嘘八百だ」と叫びました。さらには、近所の家に侵入し、夫人への暴行を働きました。これはこの国で最悪の犯罪にも等しいものです。このように、一つのことは別のことへとつながっていくのです。別の物語の中で正しい方向への一歩が二歩目へとつながったのと同じことです。

聖化された奉仕によって自分を神聖なものにしなさい

私はあなた方が子供たちにすぐれた道徳的な物語を話していることを知っていますが、そうした物語は、自然や生活の中での自制や愛という価値を、静かに無意識のうちに子供たちに印象づけていきます。あなた方はもっと子供たちに奉仕したいと望んでいますが、あなた方には他にも責務があるために、その機会を得られないということを、私は知っています。今ある制限内で、自分のできるかぎり多く行いなさい。サミティ(サイ オーガニゼーション)は皆さんにこれ以上頼むことはできません。

これは上からの押し付けではありません。これは内なるインスピレーションです! あなた方は、善いことへとつながらない、とても多くの活動に携わっています。あなた方はもっとグループで動かなければいけません。あなた方もそれは嫌いではないでしょう。それは現在の状況では避けられないことです。ですから、この聖化された奉仕によって、あなた自身を神聖なものにしなさい。それはあなたに救いとなる恩寵をもたらしてくれるでしょう。子供たちを神の姿に形作ることによって、あなた方はその子たちの両親が自分の心を正すことの手助けもしています。あなた方は生徒たちの家庭を明るくし、きれいにしているのです。

あの小さな少年がギーターの物語を感情込めて話した時、誰もが感動しました。物語の終わりに近づくと、少年は私のほうを向いて、「今、僕たちには、このサイ クリシュナがいます」と言いました。少年はあまりの至福に圧倒されて、歓喜にむせび、涙をこぼしました。おそらく少年はクリシュナのヴィジョンを見たのでしょう! 少年の信仰心と誠実さは際立っていました。少年のハートに、口で表していた心情の一つひとつがこだましていました。この少年のような子供たちが、岐路に立つ私たちの国には必要です。あなた方は、プラフラーダやドゥルヴァ、他の神への信愛にあふれる子供の物語を読んでいますね。彼らは過去の時代に生きました。あなた方は今、そうした子供たちが、ここに、この時代にもいるのを見ました。私はその子供たちが、確固たる信愛と、包み隠さぬ明らかな献身によって、大勢のヒランニャカシプたち(信仰心のない父親たち)を改心させ、変容させることを確信しています。

あなたが好むことではなく、神が好むことをしなさい

アルジュナは、クルクシェートラの戦いの始まりに、

「私はあの人たちとは戦いません」と告げました。

するとクリシュナはアルジュナに、

「君は私が好むことをしないのかね?」と尋ねました。

アルジュナは、

「もちろん、します」と答えるほかありませんでした。

すると主クリシュナはアルジュナに言いました。

「いいかね、私はダルマを復興するために人間となってやって来たのだ。君のダルマはクシャトリヤ(武士)のダルマだ。それは君に、ダルマに反する者と戦う義務を与えている。もしクシャトリヤのダルマが要求することに従って、当初の計画どおり戦うならば、君は私の好むことをしているということになるのだ。」

自分が好むことではなく、神が好むことをする――これが神の恩寵を勝ち得る方法です。神はあなたがあらゆる存在を敬い、どんな存在をも傷つけず無礼をしないことを好みます。神は、何らかの存在に対する最も小さな悪感情もハートに抱いていないあなたを好みます。

学校でのバーラ ヴィハーラ〔?子供の遊び場”と名付けられた教室〕は、今、学校の時間割の枠外に子供たちに与えられていますが、それはあなた方が地元のセンターで運営しているものほど成功してはいないことを、私は知っています。学校のヴィハーラは子供たちを同時に上手く二頭の馬に乗せようとしています。それは、学校の一定のカリキュラムとサティヤサイの理想という二頭の馬です。あなた方はベストを尽くしていることを私は知っています。それで十分です。あなた方の間に誠意を育て、互いの経験を分かち合い、向上のための意見交換をしなさい。これはあなた方にとって、サイ ファミリーの絆を感じる素晴らしい機会です。そこでは一人ひとりの教師が互いに姉妹なのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C2