サティヤ サイババの御言葉

日付:1971年1月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サンクラーンティ祭の御講話より

扉に吊るす緑の葉

ヒンドゥー教の暦を作った聖賢たちは、精神的な気力と感情の純粋さを育てるために、聖なる祝祭日を設けました。太陽が山羊座〔磨(ま)羯(かつ)宮(きゅう)〕に入るマカラ サンクラーンティ〔インドの冬至〕は、人々が、ウッタラーヤナ〔太陽が北へ向かう道〕という、太陽がこの日からたどると見られるより高貴な道を歩むことによって神に到達しよう、という高い目標を目指して自らの活動を捧げる日、として定められています。ダヌス〔射手座〕の月は終わり、今日からマカラ〔山羊座〕の月が始まります。ダヌスには弓以外にサトウキビという意味があり、サトウキビは愛の神の弓でもあります。

収穫の季節が訪れ、どの家も今日は穀物倉庫に蓄えた神の恵みを料理しています。子供たちは甘いサトウキビを噛んで、大喜びで走り回っています。人間の仲間、協力者、奴隷として畑でせっせと働いた家畜の牛たちは、くびきを解かれた休日を楽しみながら、木陰で繰り返し草を食んでいます。大地もまた黄色い花々のサリーを身にまとい、緑の葉の下で熟した唐辛子の赤い実がそのあちこちに点在しています。自然は、人間とあらゆる生き物が感謝を込めて神に向かい、神の創造物を熱烈に憶念できることを喜んでいます。これからの半年間は神への道(デーヴァ ヤーナ)、すなわち巡礼の時期です。それは、より優れた道(ウッタマ ヤーナ)です。

サンクラーンティの聖日のメッセージ

バガヴァッド ギーターは、この半年間に死にゆく者は平安と豊かさの中で逝き、それゆえ霊的成就のより純粋な段階に到達する、と宣しています。クルクシェートラの戦場で致命的な矢に討たれたビーシュマは、神聖な半年に息を引き取って至高の魂(パラマートマ)に融合することができるよう、その半年の到来を告げるこの日が来るのを瀕死の状態で待ちました!

今日は奉献の日です! 娯楽や気晴らしの日ではありません。低俗な本能に任せて賭け事をしたり、ご馳走を食べたり、宴会をしたりして、この日を無駄に過ごすことは誤りです。この日は休日(ホリデー)ではなく、厳密に言えば、聖日(ホーリーデー)なのです! 健全な行いと思いによって、健全になりなさい。それが聖日のメッセージです。独(こ)楽(ま)のように、ただ回転できなくなるまでぐるぐる回り、それから無力で動けなくなるのは、物悲しい破壊的な人生です。独楽には自己への信頼はありません。独楽は他人の手によって動かされ、ぐるぐる回されるほかありません。自信を持ちなさい。つまり、自分自身に信頼を置きなさい。というのは、その自分とは神だからです。自分の中には、アートマン(真我)のすべての力、すべての甘美さがあり、アートマンはパラマ アートマン〔至高我〕(至高の実在)の大海の波にほかならないのです。

幸福と平安を確かなものにするために、行政官たちは五か年計画を立て、橋やダム、工場や学校を建設します。しかし、精神を清め、無執着を強め、思いやりや同族関係を深めなければ、経済的な発展は憎しみや派閥や妬みを助長するだけです。自己信頼、自己抑制、自己知識、これらだけが人を平安と喜びへ導くことができます。

ナッ シレーヨー ニヤマム ヴィナー
――抑制がなければ繁栄はない!

規律がなければ進歩はありません。聖賢たちはそのことを教えました。このような聖日には、人は後ろと前を見て、正しい道標に沿って自分らの道を方向づけなければなりません。

心は欲望と疑いの束

創造者、計画者、維持者、そして破壊者を信じることは、地上での巡礼に必要な装備です。罪への恐れと神への愛――この二つは人に平安と喜びを与え、人を悲しみから救い、アーナンダ(至福)を授けます。

熟睡している間、人は時間と空間と原因を認識しません。ただ「私」だけが存続します。それはサット・チット・アーナンダ〔実在・意識・至福〕である「私」〔自分〕です。しかし、熟睡している間、「私」は自分のアーナンダ(至福)に気づかず、自分自身にも気づきません。目覚めた後、初めて人は、私はとてもよく眠ったと言うのです!

夢見の状態では、心〔マインド〕は活発ですが、知性や感覚はすべて眠っています。夢は瞬時にしてバンガローを建て、あなたはそこに住んで幸せに暮らしています。夢の中で地震が起こり、バンガローの天井があなたの頭上に落ちてきて、命からがら逃げ出すまでは!

バンガローを建設する、そこに住む、そこが壊れるという全ストーリーは、心の奇行が映し出されたものであり、心のサンカルパ(決意したこと)です。それはエゴ〔自我〕の座であり、エゴは、眠っている間に感覚と理性が一時的に不活発な時に、心の要素を使ってあらゆる悪ふざけをするのです! 心は、決意とためらい、欲望と疑いの束です。このエゴの基盤が霊性修行によって勇敢に取り除かれ、その目的に向けられると、あらゆる名と姿のドラマは無の中へと消えていきます。

太陽は水を水蒸気にして蒸発させて「雲」や「雨」という名と形を与え、その後、再びその水が海に還って、時間と空間と原因によって引き起こされるあらゆる名と形という多様性を失うまで、それに「小川」や「河川」や「洪水」という名と形を与えます。皆さん一人ひとりが真理の基盤であり、それを非真という雲がおおっているのです。これは、皆さんが自分のために、自分自身で発見しなければならないことです。

マーヤーは井戸の中に映る自分の影のようなもの

土の中に根を下ろした種は、発芽して成長します。そして、枝を出し、葉を付け、ミツバチを惹きつける花々で身を飾ります。木は果実をみのらせ、果実は木の役に立つ者たちに甘さと力を与えます。彼らは果実の中に隠れている種をはるか遠くへ運び、再び種を土の上に蒔き散らす〔果実を木から離れた場所で食べて種を吐き出す〕からです。そうして種は根づき、発芽し、次の生と死の連鎖が始まることができるのです!

種は不活性なものではありません。種には意識があり、生きており、活性化しています。全世界には神性が浸透しています。神性は、実在・意識・至福(サット・チット・アーナンダ)です! 種・苗・木としての実在。表出・顕現・開花のために奮闘努力する意識。そして、その成就における至福。

あなた方もサット・チット・アーナンダなのです。自らの尊厳をおとしめて、「私は不運だ、私は卑劣だ、私は落胆している」と嘆き悲しんではなりません。そんなことはないのです。あなたは意気盛んであり、王位に就いており、喜びにあふれているのです。あなたはこのすべてなのです。ところが、あなたはそのことに気づいていません。それはマーヤー(迷妄)のせいです。マーヤーは井戸の中に映ったあなたの影のようなものです。もしあなたが井戸をのぞき込まなければ、そこに影はありません! 影は、あなたが井戸をのぞき込んだ時だけそこに存在します!

原初の無知と原初の英知は、生まれつき備わっているものであり、一方は他方の中にあります。日中の光は星より明るいので、たとえ頭上で星が輝いていても目には見えません! 夜の暗黒は、光の点々すなわち星を露わにします! 振動、動き、光、暗闇――すべてが密接に関連しています。

神は個人の魂にとって何が良いかを知っている

御名と御姿を崇めることは、ヴェーダーンタの基本的な教え〔不二一元論〕に反しています。なぜなら、人は、消えゆくもの、束の間のもの、表面的なものを気にかけないよう自分を教育しなければならないからです。自分と万物との同一性、万物と自分との同一性を発見しないかぎり、人は波立ちのない静けさ、すなわち揺るぎない光輝を得ることはできません。

ティヤーゲーナィケー アムルタットワマーナシュフ
〔手放すことによってのみ、不死は得られる〕

手放しなさい、幻想である外界への幻想を手放しなさい。手放しなさい、あなたが「与える者・与える物・与えること」のない段階、「始まり・継続・終わり」のない段階に到達するまで。

ナーラダ仙は、「自分は平安(シャーンティ)にほかならない、と知った時、初めて平安を獲得できる!」ということを、サナトクマーラ仙から学びました。不安(アシャーンティ)〔平安でないこと〕は、人に取りついてしまったものであり、足場のない恐怖心のようなものです。それを振るい落としなさい。それを追い払いなさい。そうすれば自由になります。悲劇的なのは配役であって、俳優ではありません。俳優はただ、これは劇であり、自分は悲劇的な英雄の役を演じているにすぎないということを忘れなければよいのです! ナーラダ仙はこのことを学び、二度と平常心がかき乱されることはありませんでした。

今日は、どの家もきれいに掃かれ、床は磨かれ、壁は水漆喰が施され、ペンキが塗られます。どの家の玄関先にも、女性たちが吉兆の花模様〔ランゴーリー〕を描きます。女性たちはその模様の真ん中に牛糞の塊〔神聖で清浄なものと見なされており、臭いもない〕を置いて、その塊の上に、黄金の色合いをした、甘いキュウリの大きな黄色い花を挿します。なぜ牛糞の塊なのでしょうか? 牛糞は、ゴーパーラ(牛〔ゴー〕を護る者〔パーラ〕であるクリシュナ神)が草を食ませて養った牛(ゴー)の象徴です。「ゴー」には、存在、魂、個人という意味もあります。それゆえ、ゴーパーラは魂たちの面倒を見る者であり、牛たちを害するものから遠ざけ、牛たちが安心して草を食むよう促し、夕暮れ時になれば牛たちを牛小屋に連れ戻すのです。同様に、個々の人間も神の愛のこもった世話を受けています。神は個々人にとって何が良いのか、何が個々人を破滅から救ってくれるのかを知っています。このように、祝祭の儀式の一つひとつの詳細な点には意味があり、それは適切な時に参加者たちを揺り動かすことができるのです。

サットサングは、若さと元気、充足と自由を保ってくれる

さらに、今日は牛乳で煮た甘い米を食べることも求められます。それは浄性(サットウィック)と呼ばれる食べ物です。浄性の食べ物は、高潔な思い、温厚さ、謙虚さを増進します。しかし、口から取り入れるものだけが食べ物なのではありません。目や耳や鼻や皮膚から取り入れるもの、刺激を切望する貪欲という飢え、変化に富む外界の体験を求める渇きのゆえに取り入れるもの――これらすべてが食べ物です。そして、そのすべてが浄性(サットウィック)でなくてはなりません。そうすれば、神我顕現へと向かうあなたの進歩は、早い、実りあるものとなるでしょう。

皆さんは、耳を通して神の栄光に関する講話を飲み干すことができて実に幸運です。ヴェーダーンタは、人が摂取できる、最善にして最高の食べ物です。それは、あなたの傾向を清らかに、身体を整った完全な状態に、激情を抑えた状態に、感情を明瞭で澄んだものに、思考をシンプルで誠実なものに保ちます。サットサング(高潔な仲間との交流)は、果実やナッツ、牛乳や蜂蜜よりも滋養があります。サットサングは、時間と空間という崩壊する影響が及ばないほど、あなたの若さと元気、充足と自由を保ってくれるでしょう。

こういった祭日は、あなた方が踏み外してしまった規律を思い出させてくれます。ここはぞっとするような世界であり、皆さんは、自由と成就を目指して、無理をしてでもそこから出てこなければなりません。大きな機関車に引っ張られ、警笛を鳴らしながらレールの上をフルスピードで通り過ぎる列車は、百万人の手を使っても停止させることはできません。しかし、運転士は、ただボタンを押すだけで列車を停止させることができます! 諸感覚の背後で走っているあなたの心〔マインド〕の中にあるそのボタン、その装置を取り付けることこそが、サーダナ〔霊性修行〕の目的です。それを取り付け、作動させなさい。

あなたの運命の設計者はあなたであるという知識、あなたは着実な努力によって自分の運命を再建したり発展させたりすることができるという知識、あなたは常に自分の生涯の構造を築いたり破壊したりしているのだという知識は、もしあなたがそれを喜んで受け入れるなら、大いなるインスピレーションとなることでしょう。

適切な理由なしには決して何事も起こらない

それは、ラーマとラクシュマナとシーターが追放された奥深い森林での最初の夜のことでした。三人にガンジス川を渡らせるため舟を漕いでいたグハ〔ニシャーダ族の首領〕は、ラーマとシーターが川床で眠っていた間、ラクシュマナとひそひそ話をしていました! グハは、皇帝の後継者が空の下の砂地で身を横たえねばならないことを思い、悲しみに沈んでいました。グハは、胸の張り裂けるようなこの悲劇をもくろんだカイケーイー妃(ラーマの義母)とその共犯者〔侍女マンタラー〕をののしりました。しかし、ラクシュマナはグハに非難をやめるよう嘆願しました。

「私もこの悲劇の加害者たちへの燃えたぎる怒りを口にした。というのは、その時、私はラーマの歴史におけるこの章の目的を知らなかったからだ。ラーマは、羅刹族の邪悪な血を滅ぼすために、人間の姿をまとって降臨なさった。それゆえ、ラーマはその目的が果たされるまで王家の責任を免れるために、この追放を考え出されたのだ! 愛しいグハよ、私たちに、神の神秘、ましてや人間の衣をまとった神の神秘の何がわかる? すべてのものは調べても理解不可能な神であるがゆえ、どんな生物や無生物の神秘も、私たちの限られた五感には、ただそのままに見えるだけなのだ。こんな無益な知識の道具で、私たちにそれらの本性がわかるはずがないではないか?」

それ相応の理由なしには何事も起こりません。しかし、偶発的、神秘的に事が起こることもあります。根は深く、目に見えない所にあります。私はボンベイのダルマクシェートラで、ヒスロップに同じことを話していました。スリランカへの橋はまっすぐに架けられていたので、ラーマとその軍隊は、羅刹王ラーヴァナの王国へ進軍していくことができました。そこにはシーターが監禁されていたのです。勇敢な猿たちが山々を引き抜いて、それらの山頂を肩に担ぎ、遠い距離を飛んできたので、山々はラーマのために海に投げ込まれ、土手道を造ることができました! 猿たちはヒマラヤ山脈から最初に橋が架けられた南端の地点まで、列を作ってきていました。土手道が完成した時、もうこれ以上の山は必要ないという知らせが迅速に列をかけめぐりました。猿たちはそれぞれ立っていた場所に座り、同時にその肩に担がれていた山々も腰を下ろしました。

無生物にも感情がある

しかしながら、ある山は黙って座っていませんでした。その山は自分の運命を嘆き悲しみ始めました。

「どうして僕は住んでいた場所から移されてきて、今度はもういらないと言って拒絶されるんだ! ああ! 僕は神様のご意志に奉仕することができると大得意だったのに! 僕はラーマの軍隊とラーマご自身が僕の上を歩かれると大喜びだったのに! 今では橋にもなれないし、元いた場所にもいられないんだ!」

その山はおびただしい涙をこぼしたのでした。その知らせはラーマに届き、ラーマはたいそうその山を哀れに思いました。ラーマは、次のアヴァターとして自分が人間の姿で使命を遂行しにやって来る時、必ずこの悲しんでいる山を祝福してあげよう、との言葉を送りました。この山こそ、ラーマが(少年クリシュナとして)インドラ神がもたらした大洪水の時に、ゴークルの牛飼いたちを救うため、クリシュナが七日間指で持ち上げたあのゴーヴァルダナ山だったのです!

私は、ヒスロップが無生物〔生命のない物〕も失望や絶望の感情を持つことがあるのかどうか尋ねてきた時、この話をしました。ダルマクシェートラの場合はこうでした。私は約一〇〇枚のサリーを持ってくるように頼みました。アナンタプルのサティヤ サイ女子大学の建設を手伝っている女性たちに配るサリーを選ぶためでした。私は九十六枚を選び、残りの四枚は店に返すように頼みました。そして四枚は別にして、九十六枚を私の部屋に置きました。その後、四枚の捨てられたサリーの置かれたテーブルのそばを通り過ぎた時、(ヒスロップがそのテーブルのそばに立っていた)四枚のサリーが入ったボール箱から、涙がしたたり落ちているのに気が付きました! そのサリーたちは私に認めてもらえず、不適当だと見なされたためにすすり泣いていたのです。そう! それらは涙を流していました! あなた方はそんなことがありうるのかと尋ねるでしょう。私は答えましょう。この世の中にハートを持たぬもの、喜びや悲しみの感情を持たぬものは存在しません! ただ、あなた方が見る目を持ち、聞く耳を持ち、それに反応するハートを持たねばならないだけなのです。

何が起ころうとも、名誉であれ不名誉であれ、勇敢に受け入れよ

今朝、太陽が東から昇った時、ちょうど月が西に沈もうとしていたので、両方の球体が同時に見えました。月は心(マインド)を表し、太陽は知性を表しています。両者は、規律を持ち、バランスが取れていなければなりません。どちらか片方、感情か知性かであってはならず、知性が感情を抑えるべきです。そうすれば、あなたは恐怖や激怒、気まぐれや軽率さ、という一陣の風に足元をさらわれることがなくなります。あなたは何が起ころうとも勇敢に受け入れるようになるでしょう。それが名誉であれ不名誉であれ! 起こるすべてのことを「イエス」(はい)と言って歓迎しなさい。私はいつでも「イエス、イエス、イエス」(SSS)と言います。それが称賛であれ非難であれ、病気であれ健康であれ。

皆さんは、シーソーに乗っているように、二つの気分になります。怒りと歓喜、高慢と自己非難、交互にやって来る喜びと悲しみ。今日のウッタラーヤナの日に人が思い起こすべき人物であるビーシュマは、身を横たえていた矢の床を薔薇の床と同じくらい心地よく感じました! ビーシュマは自らの選択として矢の床を受け入れたため、何の痛みも感じなかったのです。私は、ある信者に抱いた愛ゆえに、その信者の虫垂炎を引き受けました。医師を含むすべての人が、あなたは耐え難い苦しみを被ったにちがいないと言いましたが、私は苦しみなど感じていませんでした! ビーシュマは、起こった一切のことに「イエス」と言いました。それは、内にいる神、外にいる神、その存在がなければ何事も起こり得ない者である神の意志だったのです。

あなたの行為と言葉と思いを捧げて神を崇めよ

今日から太陽は、北へ向かう道、より高尚な道をたどります。ですから、子供たちも親の足跡をたどらなければなりません。北では、ヒマラヤ山脈が、揺るぎなさ(アチャラ)、純粋さ(ヒマ、雪)、汚点のなさ(純白、曇りのない明瞭さ)、涼やかさ(完全な喜び)の中に、喜んで皆さんを迎え入れます。いつであれ、心がこの四つの報酬を切望し、追い求める時、心は、神々の住処であるヒマラヤ山脈へと向かう北への道をたどり、知性の光輝である太陽の後を追いかけるのです。

さあ、今日、内在する神に向かって第一歩を踏み出す決意をしなさい。今日、人々が玄関の扉の上にマンゴーの葉っぱを吊るして飾っている理由は、神を家に迎え入れるためです! しかし、あなたの家というのは、あなたのハートのことであって、あなたの身体が住んでいるレンガやモルタルを積み上げた家のことではありません。あなたのハートの扉の枠に細長い緑の葉っぱを吊るしなさい。ハートに神を座らせて、神にあなたの行為と言葉と思いを捧げつつ、心の底から誠実に神を崇めなさい。

皆さんは、宴を開いてサンクラーンティを祝い、そこで緑のひよこ豆や米やジャッガリー〔ヤシ糖〕を使った料理を用意します。ひよこ豆はヴィシュヌ神であり、米はヴィシュヌ神の配偶者(シュリー女神、すなわち豊穣と繁栄)であり、ジャッガリーは神の愛の原理です。ですから、祝祭を特徴づけているのはその料理ではなく、気紛れな心に根付かせなくてはならない神の憶念なのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C6
出典:サイ ラム ニュース 190号 pp.4-13