日付:1971年7月8日 午後
場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学でのグルプールニマー祭?の御講話より
女子学生と教師の皆さん!
現代の世の中で行われているあらゆる取引には、3つのものが詰まっています。それは、「自慢」と「非難」と「無価値」です。そこには、生きている世界にとっての土台、精神の領域にとっての基盤はありません。人間性を築き上げて育てるためには、霊的に考えることが非常に重要です。霊性は世俗的な追求と結びついている心には固定しません。霊性は社会的なものとは異なると考えることは大きな間違いです。社会とは集団(人間の集団)を意味します。社会は形や数字を表す言葉で認識できるものではありません。社会は平等観から形成されています。社会には平等と純粋性という考えが必要です。人間の多様性の中に一体性を認識しなければいけません。そして、一体性は、非二元的な姿勢を有する純粋真理と意識と至福として崇敬されねばなりません。そうして初めて、人間の集団は社会へと変わり、社会という名は意味のあるものとなるのです。幸福は一体性の内に見出せるものであり、多様性の内には見出せません。一体性の内には神性を見出すことも可能です。
今日はグル プールニマーであり、マントラを授けてくれたグル〔導師〕に感謝を捧げる日です。けれども、英知を得ること、闇を払うこと、そして、解脱に到ることは、ただマントラを唱えるだけではとうてい困難です。グルは目標(グルトゥ)を示す者です。グルは、「私は誰か?」という問いに対する正しい答えを得るための道を示す者です。解脱への正しい道を示す者だけが、グルなのです。
多くの人は、「私は解脱が欲しいのです」と言って私に祈ります。誰かに解脱(モークシャ)を願う必要はありません。あなたが郵便で小包を受け取ったとしましょう。中身を取り出すのに二重の包みを破るのと同じように、解脱を得るには、「私」と「欲しい」という2つの覆いを破らなければいけません。「私」というエゴと「欲しい」という欲――解脱を得るには、この2つを取り除かねばなりません。
一を多と見ることが、マーヤーと呼ばれるものです。モーハ〔愛執、妄想〕、カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ローバ〔貪欲〕、マーッツァルヤ〔嫉妬〕はすべて、マーヤーから生まれて、大きくなります。「私」は「彼ら」〔他者〕とは別個の存在だと思うことが、「アハンカーラ」〔自我意識、エゴ、我執〕と呼ばれるものです。「グ」は闇、「ル」は取り除くことを意味します。無知を取り除く者がグルと呼ばれるのです。心の道楽は外的な喜びの後を追うことであり、それゆえ人は無知の網にかかってしまい、苦しむことになるのです。純粋意識の原理は、3つの時〔現在・過去・未来〕のすべてにおいて、一なるものとして存在します。無比なる神性は、「アハン」(エゴ)と呼ばれる縄に縛られると人間性を身にまといます。「エゴ」の原理を取り除き、アートマの原理を追い求めるべきです。
セヴァは最良の霊性修行
知識には2つあります。知的知識と霊的知識です。物質の清らかさは知的な知識を用いて得ることができます。一方、完全な清らかさ、一貫した清らかさは、霊的知識を用いて得ることができます。一貫した清らかさを目指して為される行動や行為はすべて、意識に属するものであることを認識すべきです。写真を飾ったり、花輪を掛けたり、バジャンを歌ったりといった行為は、物質レベルの純粋さを生みます。それらは、すべては1つという感情を得ること、エゴという闇を取り除くことの、助けにはなりません。
そのための最も素晴らしい霊性修行は、セヴァ(奉仕)に取り組むことです。アーンドラ・プラデーシュ州や他の州からやって来たセヴァ ダルがこの10日間に行った奉仕は、言葉では言い尽くせません。解脱のためには、この種の奉仕以外の苦行やジャパや瞑想等々といったものは不要です。
セヴァは、まさしく「ヴィシュワ ヴィラータ」〔宇宙的存在〕の御姿への礼拝に相当します。目を開けば、ヴィシュワ、すなわち宇宙が見えます。目を閉じれば何も見えません。ですから、目は科学(シャーストラ)です。ドリシティ(見ること)はスルシティ(創造)です。ヴィラータの御姿は霊的な目の中にあります。目のないものはありません。これは「一体性の実践」と呼ばれることです。一方、「自分は個別のものである、彼らは個別のものである」と考えている限り、一体性は体験できません。
教育は、当然、手に入れるべきものです。けれども、霊的な教育は世俗的な教育よりもずっと大切です。アートマ ヴィッディヤーは自己についての知識を意味します。自己というものについて調べるとき、自己とは誰ですか? 創造の神秘とは何ですか? 自己とはこの宇宙の姿の中にある一つの点にすぎないのでしょうか? あるいは、自己は宇宙の基盤なのでしょうか? その知識がないまま、人々は無知という手かせ足かせをはめられています。縛られているという感覚がなくなったとき、人は自らの神性(イーシュワラ タットワ)を確信します。
感覚器官の制御を伴わない修行が 何の役に立つことか
実践を伴わないヨーガが 何の役に立つことか
平安を伴わないジャパが 何の役に立つことか
それは岩だらけの不毛の地を耕しているようなもの
経験は、いかなる局面においても重要です。これは基準や尺度(プラマーナ)と呼ばれるものです。「プラ」は「第1の」という意味で、「マーナ」は「測る」という意味です。「プラマーナ」とは「第1の測定」という意味です。私たちのための「第1の測定」とは何ですか? 人間性は何を尺度に測られるべきですか? 人間性について考えるとき、まず、自分たちはどんな類の努力をしているか、どんな類の振る舞いを示しているかを知ることが必要です。すると、自分たちは実に人間性を辱めているということがわかるでしょう。体をまとったときに、人は人間性を感じます。アートマの姿をまとったときには、人間性は感じません。すべて人の心は神の社(やしろ)であり、すべての行いは神への捧げものとして行われる、と見なすときに、平安は得られます。一方、いくらお金を積んでも、いくら名声や高名があっても、どれほどの快適さを有していても、それらによって平安を得ることはできません。
世界を多様なものと見るべきではありません。世界はイーシュワラ〔至高神〕に属する一家族だと考えるようにしなさい。「ヴィシュワ ルーパ」(宇宙の御姿)を証明するためにこれ以上必要なものはありません。一切の人を神の同一の姿と見なすべきです。
願望成就の木のごとく、
いつでも、あらゆる望みを叶えることのできる唯一神がいる
人間としての生という最も稀有なものを得たのだから
神を悟ることを最高の目的とすべきである
親愛なる女学生の皆さん!
皆さんは今、母なるバーラタが長きにわたって勝ち得た名声を取り戻すべきです! 皆さんは、その名声をサイの哲学という光で磨かなければいけません。あなた方の人生を霊妙な美で輝かせなさい。その輝きは、あなた方に高名と評判、そして、サイの認可ももたらしてくれるでしょう。この祝福をもって(この講話を)締めくくります。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C5