サティヤ サイババの御言葉

日付:1971年8月13日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリシュナ神御降誕祭の御講話より

ラソー ヴァイ サハ神は甘さなり

この国は、人の神性を発見し、人が神性を取り戻すことのできる方法を発見しました。この国は、人に神を目指す巡礼者としての大きな役割を思い出させる聖人賢者の絶えることなき流れを有しています。それなのに、その教えが衰退し、その実践が失われているのを人々が許しているのは、非常に残念なことです! 甘露のごとき叡智で満たされたハートは、毒杯となってしまいました! 人々のハートを憎しみが硬化させ、貪欲が鋭利にさせ、慢心が汚染してしまいました。人間はもう一度、自分の中にある歓喜の泉に気づかなければなりません。そうすれば、人間は幸せになり、不安によって乱されることはなくなるでしょう。

人間の理想があまりにも低くなっているために、人間はアヴァターたちの美と叡智と力を理解できなくなっています。人間は、自分の一部である栄光と荘厳を直接体験することを欲していません。人間は、神である無限の力、始まりのない力を黙想することからあふれ出る歓喜の流れに我を忘れることがありません。あなた方がクリシュナの誕生日として祝っている今日という日は、その歓喜を得るために自分の人生を捧げ直すのに使うのが最善です。

神の創造物である全世界は甘美でしかありえない

「クリシュナ」という言葉には3つの別の意味があります。

(1)クリシュナという御名が派生した語根の一つは「カルシャ」です。これは「引き付けるもの」を意味します。クリシュナは、戯れて楽しむこと、奇跡を起こして悪の力に勝利すること、人を引き付ける会話、叡智、姿の美しさによって、ハートを引き付けます。

(2)クリシュナという語は、「クリシ」という語根とも関係があります。これは「耕す」という意味で、作物を栽培するために土地を耕すことです。ですから、クリシュナという語は、人のハートから雑草を取り除いて、信仰と勇気と喜びの種を蒔く者を意味します。

(3)クリシュナという語は「クリシュ」という語根とも関係があります。これは3つの属性〔鈍性・激性・浄性〕と3つの時期〔過去・現在・末来〕を超越する者を意味します。クリシュナの「ナ」はサット・チット・アーナンダ〔実在・意識・至福〕を意味します。

ですから、クリシュナは、リーラー(遊戯)とマヒマー(奇跡の力)によって人類の愛を引き寄せ、信者たちのハートの中で喜びという収穫を育み、『バーガヴァタ』で述べられているとおりクリシュナはサット・チット・アーナンダであることを信者に気づかせるのです。

先ほど、バーラスッブラマンニャン博士は、私〔ババ〕の指示に従うことは、ギーターを実践するのと同じであると言いました。アルン クマール ダュット氏は、あなた方は皆、幸運である、私〔ババ〕の力の現れを数多く見たのだから、と言いました。けれども、そうした力が現されるのは、それらは現されねばならないからであり、御業を誇示するためでも、追従者を引き寄せるためでもありません! それらは必要な時に、意志の働きによって、体を用いた他の行為と同じように自然に現れます。私は真理の中の真理です。私は真理へと導きます。私は真理を明らかにします。人々は、真理を理解した時、私を理解します。

ラソー ヴァイ サハ ――「神は甘さなり」。ですから、神の創造物である全世界は、全世界は神の手によるものだと認める人々にとって甘美なものでなければなりません。全世界は、神の栄光と力をあなた方に教えるために使われなければなりません。そうすれば、あなた方は神を探し求めて神に到達することができるからです。そのゴールへと到る旅には4つの段階があります。どれもあなた方が到達するローカと呼ばれる領域です。

1つ目は、アヴィッディヤー ローカ(無知と迷妄の領域)です。そこがあなたに負わせる悲しみや痛みの連鎖に促されて、あなたはそこから旅を始めます。

2つ目は、ヴィッディヤー ローカ〔知識の領域〕です。そこであなたは、ヴィグニャーナマヤ コーシャ(知性の次元)に入り、真と偽り、実と殻を識別することができるようになります。

3つ目は、アーナンダ ローカ〔至福の領域〕です。そこであなた方は、力と平安の永遠の泉を垣間見て、至福に浸ります。

最後は、ゴー ローカ〔神の領域〕です。そこはゴーパーラ〔牛を守る者/神〕が支配する領域であり、そこでは、愛の海(プレーマ サーガラ)の波であるすべてのゴー(神の火花であるジーヴァ/個々人)が、法悦と悟りの中で一つになります!

神へと到るためにあなたの感情を慈悲に浸しなさい

愛がなければ、あなたは神の信者たちとの親しい関係を要求することはできません。単に儀式の厳格さや、大がかりな礼拝や、声高に歓呼することでは、ゴー ローカの門をくぐる資格は得られません! そういったものは、愛という宝箱の前ではブリキやゴミのようなものです。愛は、生から死へ、それから不死へと移行すること、死から不生へと移行することを助ける橋です。あなたがジーヴァの感覚(人間らしさ)からデーヴァの感覚(神らしさ)へと上がったら、もう生まれてくることも死ぬこともありません。解脱は、あなたがあまりにもすべての存在を非常に強く愛しているがゆえに一なるものしか認識していない時に起こります。あなたのハートを愛に浸し、行いを正義に浸し、感情を慈悲に浸しなさい。そうすれば、あなたは最速で神に到達します。

クリシュナは牛や子牛の召し使いだった

現在、ほとんどの人が、寺院の近くにいても神から遠く離れています。というのも、礼拝している時の体の動作や感情や衝動や行為に、誠実さがないからです。あなた方は「これはクリシュナへの奉納(クリシュナ アルパナ)です」と言いますが、実際にあなた方の心が行っているのは欲望への奉納です! あるいは、妻や子供たちへの奉納でしょう! クリシュナにはめったに奉納されません!

神は、いつでも、どこにでもいます。神はすべてを達成します。神は、真理の道において人間を勝利させるために、人々の中の一人として人間の姿をまとって人々の中で生まれ育つという小さな偉業を成し遂げます。神は人間に、神の甘さを味わい、神の栄光を垣間見る機会を与えます。神は、どんな強制もせずに自ら行動します。そうすれば、人はそれと同じように行動するよう導かれるからです。

クリシュナがアルジュナの馬車の馬をヤムナー川の水で洗っていた時、ヴィヤーサ仙がたまたまその場を通りかかりました。ヴィヤーサ仙は涙を流し、人間たちを正しく導くために主が自らに課した義務についてじっと考えました。クリシュナはアルジュナの召し使いの役割を演じました。そうすれば、人間はどうやって奉仕すればよいかがわかり、君主へと向上することができるからです! クリシュナは、牛や子牛の召し使いでさえありました! まだ少年だった時、クリシュナの母親が、牧草地の固い地面で蓮華の御足を傷つけないようクリシュナの小さな足に履物を履かせようとしました。クリシュナは履物を履こうとしませんでした。クリシュナはこう返答しました。

「僕は毎日、牛や子牛の世話をするために、牛たちの後ろを歩いて遠くのまきばに通っています。僕は牛たちの召し使いです。牛たちが履物を履いていないのに、どうして召し使いが履物を履いて主人の前に行けますか?」

クリシュナの息は愛、行動は慈悲

これほど固い絆があったので、牛たちはとてもクリシュナに忠実で、クリシュナに愛情を持っていました。クリシュナがカムサ王からマトゥラーの都に招かれ、マトゥラーからの使者アクルーラがクリシュナを馬車に乗せて都に連れて行った時、牛たちと、そこで跳ね回っていた子牛たちは、クリシュナとの別離に涙を流しました! 動物が、それほどひたむきなクリシュナへの渇望〔クリシュナ トリシュナ〕を持っていたのです! 人間だけが、エゴのはびこる悪の荒野に迷い込んでいます! 他のどの動物も、自分に割り当てられた道を今も歩んでいます!

神は人間を感謝と歓喜で満たすために人間の姿をとります。人間は神の力である真理、叡智である善、そして美を見、その光景は人間に真理と善と美(サッティヤム・シヴァム・スンダラム)を求める悩ましい渇望をもたらします。

クリシュナは、この世の人間をシタール〔インドの弦楽器〕と同じように扱い、仲間意識、英雄的資質、愛、情、慈悲、確信のメロディーを生じさせるために、ハートの弦をつまびきました。けれども、これらのうち、愛と慈悲という2つの感情は、とりわけクリシュナに特徴的なものであり、まさにクリシュナのものでした。クリシュナの息は愛でした! クリシュナの行動は慈悲でした! クリシュナを崇め、クリシュナの首に涙の花輪を掛け、クリシュナの愛を思う時の歓喜によってあふれ出る涙でクリシュナの御足を洗なさい! この礼拝こそは、聖賢たちが求める叡智と書物が絶賛する至福をあなたに与えるでしょう!

クリシュナと呼ばれる愛の権化を瞑想し、愛の中で成長なさい。あなたのハートが、苦悩の叫び、苦痛の痙攣、空腹のうめき声に動かされない時、あなたの愛の泉が慢心による虚飾で塞がれている時、クリシュナはあなたの耳に横笛を奏でません。あなたはクリシュナ神への奉仕のベテランかもしれません。けれども、愛の鍵がなければ、クリシュナ神の住むゴー ローカに入ることはできません! あなたは何年も前からプラシャーンティ ニラヤムにいて、自分はスワミと共にいる、スワミの近くにいると主張するかもしれません。けれども、奉仕という形で表現する愛を育まないなら、私を知ることはできません。

世界は神の輝きであり神の反映

昔、自分の先祖とグル(導師)を自慢する弟子がいました。その弟子の先祖とグルは、偉大なパンディト(学僧)として国中で有名でした。ある日、グルが、おまえは私のどんな質問にも答えられるのかと、その弟子に尋ねました。弟子は痛いところを突かれました! 弟子は言いました。

「なぜためらわれるのですか? 質問なさってください。そうすれば、お答えします! 私はソーマヤージ家の出身です。私の父は世に知れた大学者です。私は何年もあなたの御足のもとで学んできました! その私がすべての質問の答えを知らないわけがありません」

グルは尋ねました。

「ラヴァナという言葉の意味は何かね?」

弟子は笑って言いました。

「ああ、そんな簡単な質問をなさるとは、実に驚きです! 私が知らないとでもお思いですか? ラヴァナは牛糞という意味です」

さて、ラヴァナというのは、どこの家でも普段使っている言葉で、誰でも知っていますが、その意味は「食塩」です! 自惚れ屋の弟子は、そんなことも覚えていなかったのです。これは、長年の帰依者が私について知っていることと、非常によく似ています!

あなたの視界を愛で明るくしないかぎり、真理は見えません。愛は、あなたが万人の中に神を見ること、万人を神と見ることを助けます。全世界は偽りではありません。全世界は罠ではありません。全世界は神の輝きであり、神の反映です。神が映し、全世界が現れました! 全世界は、神の本体が多様性として現れたもの、隠れた力や強力なエネルギーとして現れたものです。行動が意識に従うときにその意識が霧で包まれたり、軽視されたり、干上がったり、惑わされたりすると、ダルマが天下り、アヴァター(神の化身)が人々の間に現れます!

人々は私に、「人類は破滅の瀬戸際にあります。偽善と憎しみの力がすべての大陸で急速に広まっています。不安と恐怖が世界のすべての都市、すべての村の通りに忍び寄っています」と言います。そのことを私に言う必要はありません。なぜなら、私はまさに、それを理由にやって来たからです。世界が混乱の危機に瀕している時、アヴァターは人々のハートの中で荒れ狂う嵐を静めるためにやって来ます。プラシャーンティ(高次の平安)は、まもなく安定するでしょう。まっすぐな神の道を外れる悪魔のような逸脱は修正されます。人間のすべての共同体でダルマが復活し、元気を取り戻すでしょう。

クリシュナを求める狂気に冒されなさい

皆さんは、クリシュナやラーマやサイの誕生日を祝います。けれども、アヴァターたちは生まれることも年を取ることもありません。アヴァターたちは太陽のように現れてはいなくなります。あなた方〔地球〕が回転しているので、太陽は昇っては沈むように見えますが、太陽は定まっていて、常に存在しています! アヴァターたちが太陽のように現れるのは、それによってあなたが無限なるものを実感し、その法悦の中で、自分が縛りつけられている限りあるものを忘れることができるかもしれないからです!

ただ絵姿や像を崇め、神を称える讃歌を朗唱するだけで満足していてはなりません。奉仕活動という、より高い段階へと進むようにしなさい。そして、それから至福(アーナンダ)という最高の段階まで上がりなさい。そこはゴー ローカ〔神の世界〕です!

あなたに明かされたあなたの実体と、すべての存在の実体を知りなさい。その瞬間に、あなたはラーダー〔クリシュナ神に最も愛された牧女〕となります。ラーダーはクリシュナであり、クリシュナはラーダーなのですから、あなたは神の真理であるクリシュナ原理(クリシュナ タットワ)に帰融します。クリシュナを絶えず崇め、それを邪魔する他の思いや感情を持たない者は、誰であれラーダーです。

愛の目で見なさい。愛の耳で聞きなさい。愛の手で働きなさい。愛の思考で考えなさい。すべての神経で愛を感じなさい。そうすれば、愛の神クリシュナは、愛の波に乗ってあなたのもとにやって来て、あなたのハートをクリシュナで満たすでしょう!

神を額縁に入れてはなりません。神を偶像に閉じ込めてはなりません。神はすべての姿形です。神はすべての名前です。神はすべての存在の実体です。この世のものを求める狂気の代わりに、神を求める狂気に冒されなさい。ある人が私についての歌を作り、私〔ババ〕は狂気を癒し、狂気を与える、私は涙をぬぐい、涙を流させると歌いました! そうです。神を見たいという狂気は、富や評判を求める狂気よりも好ましいものです。

愛の力は世界を縛ることができる

アーナンダ(神の至福)の涙を流しなさい。悲しみの涙ではなく! あなたに神の愛(プレーマ)をもたらしてくれる愛を切望しなさい。私は愛より強い力は持っていません。私は地を天に、天を地に変えるかもしれませんが、その力は、世界を縛ること、世界を支配することのできる愛の力の前では、無に等しいのです。愛しなさい。憎んだり、害を与えたりしてはなりません。蚊でさえも、害や傷を与えたり病気を引き起こしたりする自分の力を自慢に思っています! 南京虫にも似たようなことができます。ですから、もしあなたが害を与える才能を自慢に思っているとしたら、それは自分を侮辱しているだけです。愛し、奉仕しなさい。それこそが、あなたに最高の報いを与えてくれるサーダナ(霊的努力)です。

今日のようなお祭りを祝うことが聖賢たちによって定められているのは、こうしたお祭りは、あなた方を霊的向上の基本を熟考する気にさせるからです。根の周りの土を時々すき返すと、若い木はより良く、より速く成長します。それは、そうすると空気と日光が木の力の源に浸透し、木を活性化することができるからです。皆さんが主を常に黙想し、皆さんの心が途切れることなく神の甘さを味わえるよう、私は皆さんを祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C31