サティヤ サイババの御言葉

日付:1972年7月26日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
グル プールニマー祭の御講話より

海が教えてくれること

今日は「世界の教師の日」です。これは、最初の師であり、ヴェーダ経典の分類者であり、第五のヴェーダとして名高い大叙事詩『マハーバーラタ』、そして、もう一つのバクティの偉大な経典『バーガヴァタ』を編纂した詩聖である、ヴィヤーサ仙というアディ グル(最初あるいは原初の師)の名にちなんで名付けられたものです。

実に、この世界そのものが、偉大な教師であり、導き手であり、インスピレーションを与え続ける存在です。だからこそ、人間は世界によって取り囲まれ、世界によって維持されているのです。鳥、動物、木、山、星、虫けら――どれも皆、人間への教えを有しています。人間に学ぶ気がありさえすれば、学びたいという渇望がありさえすれば、世界は人間にとって、まぎれもなく、学ぶべき大学となります。世界はグルクラ(師と弟子の神聖な親交の場、古代インドの学び舎)であり、そこにおいて、人間は生まれてから死ぬまで一生徒なのです。

人間は、自覚している、いないにかかわらず、終始、環境から学んでいるものなのです。だからこそ、人間の未来に関心を寄せる者たちは、サットサングを求めるよう、そして、誹謗中傷、派閥争い、傲慢、暴力を避けるようにと、強く言うのです。最初のグルは母親です。母親の手本、母親のアドバイス、母親の忠告は、人に最も深く長い影響を及ぼします。二番目のグルは父親です。父親は、力と知識によって子から敬われ、与える罰によって子から恐れられます。次のグルは教師です。教師は子供を導き、物質的な知識の迷宮へと子供たちを案内します。

けれども、内にある目を開き、直感という内にある道具を磨くことができるのは、グル(霊性の師)だけです。グルは、あなたに、「デーハム?」(私はこの体なのか、それとも、この体は自分が使っている乗り物にすぎないのか?)と自問して「ナーハム」(私はこの体ではない)という答えを発見するようにさせます。それから、自分の実体、「コーハム」(では、私は誰なのか?)を探る深い探求が始まります。そして、その答えが、「ソーハム」(私は神である)、つまり、自分はその栄光の一つの火花である、私は神である、という純粋意識を明らかにするのです。

心を理性と至福へと向けよ

粗体〔肉体〕には、それぞれ、身長、体重、胴回り、体型、名前、カースト〔階級〕、宗派、国籍といった特徴があります。粗体は器であり、入れ物です。それは考案され、設計されます。粗体は崩壊します。粗体は破壊されます。粗体は「あなた」ではあり得ません。微細体は、器に入った水のようなものです。それもまた、何者かによって注がれるものです。それはその中から生じたものではありません。それはそれに不可欠な一部ではありません。それはそのダルマではありません。ですから、微細体も「あなた」ではありません。原因体は、反動と反映を通じて、執着と無執着、世界と世界のものに影響されます。ですから、原因体も「あなた」ではありません。あなたはこの三つすべてを超越しています。一つの入れ物の中にもう一つの入れ物が入っており、奥の入れ物ほど精巧さを増すというこの三つの入れ物によって、あなたは制限されません。

五つの鞘があり、「私」はその中で輝いています。当然、粗体〔肉体〕が食物鞘(アンナマヤ コーシャ/物質の鞘)です。微細体は、その奥の三つの鞘である、生気鞘(プラーナマヤ コーシャ)、心理鞘(マノーマヤ コーシャ)、理智鞘(ヴィグニャーナマヤ コーシャ)で構成されています。原因体は歓喜鞘(アーナンダマヤ コーシャ)です。歓喜鞘さえ、一つの制限であり、相であり、特質です。「私」というものには、そのような限界も束縛もありません。あなたの心こそが、あなたにその「私」というものを理解させることができるグルです。心を理性と至福へと向ければ、あなたは正しい道に入ります。心を生体、すなわち物質へと向けるなら、あなたは破滅の道に滑り落ちます。

一なる者しか見えないなら、あなたの目は澄み切っている

教師に献身する満月の日、グル プールニマーは、解脱へと続く道を熟考すること、そして、その道を見つけてくれた人たちに感謝を捧げることに費やすべきものです。今の人間の中には、三つのタイプのグルを見出すことができます。それは、弟子の所有物を奪って私腹を肥やす者、弟子の個人性と理性を奪って自らが独裁者として君臨する者、弟子の不安と苦痛を奪って自らを恩恵で満たす者です。多くのグルたちは、この日、追随者たちに対して、これ見よがしにグルを崇めて、グルの御足に特別な寄付を捧げることを強要します。そのような特別な寄付という形を要求し、それを受け取ることは、軽蔑に値します。弟子は、「サタタム ヨーギナハ」(常に神と親交している状態)であらねばならず、自分は高い理想を固持しているかどうかを常に注意していなければなりません。師は、このヨーガにおいて、確固たる、この上ない手本であらねばなりません。

グルは、プールニマー、すなわち、完全であり、どんな疑念にも、不足にも、欲求にも、乱されません。グルは、満月のように、喜びと涼やかさと安堵を授けます。少し間、静かに座ってみなさい。あなたは自分がこのラインに達したかを自分自身で判断することができます。もしあなたに二心があるならば、あなたはまだ半分盲目です。もしあなたが一なる者しか見えないなら、あなたの目は澄み切っています。二つに見えるのは、目が病気にかかっているしるしです。一なる者、永遠、真理、すなわち、神のみを見なさい。神へと上がりなさい。至高神を、あなたのいる人間のレベル、あるいは、動物のレベルにまで引き下ろしてはなりません。神をあなたの目の前にある絵姿だと思って礼拝せずに、目の前にある絵姿を神と思って礼拝しなさい。なぜなら、神はあらゆるものの中にいて、どの象徴を通しても把握することができるからです。神が内在していないものはありません。神とは別の力や正義は存在しません。

目はものを見ますが、目を見る存在、目によって得られる印象によって把握する主体は何ですか? それは心(マインド)です。現象界は「見られるもの」(ドルシャ)であり、目は「見るもの」(ドラシタ)です。けれども、心にとって、目は「見られるもの」であり、心は「見るもの」です。さて、心は、理智が「見るもの」である場合には、「見られるもの」でもあります。つまるところ、理智も「見られるもの」です。というのも、アートマこそが最終的な「見るもの」であり、それは、マノー ラマ(心の本質の戯れ、心を喜ばせるもの)の目撃者としてものを見ているからです。

蜂や木や犬から教訓を得なさい

心は、いつも落ち着きがありません。アルジュナがクリシュナに訴えたように、心は「落ち着きのなさ」の中に落ち着いています。心は惨事をはらんでいます。心は根深く、落ち着かせることは難しいと、アルジュナは述べています。クリシュナはそれに同意しましたが、英知を獲得することと、自制心を培うことによって、心を手なずけて無害なものにすることができるとアルジュナに請け合いました。

デリーから来た人が、今朝、それと同じ問題を私の前に提示しました。私は彼に、一つ簡単な解決法があると言いましたが、彼はため息をついて答えました。

「私は何人もの聖者を訪れ、どの聖者も“簡単な解決法がある”と言いました。それらは簡単なのかもしれませんが、私にとってはどうしようもなく難しいことでした」

私は彼に言いました。

「あなたはすでに、私が勧める解決法よりもずっと難しい行をしています。ですからまったく大変なことはありません。やる気をなくしてはなりません。あなたの中には大きな力が隠れていて、あなたはその力を引き出して成功することができます」

それから、私は彼にマルハナバチの例をあげました。大きさからすれば、マルハナバチは小さな蜂ですが、最も堅い木にさえ穴を開けることができます! マルハナバチはカルナの鋼鉄のような太腿の筋肉を貫いたという伝説があるくらいです!

そのマルハナバチも、日暮には蓮の花に止まり、とろけるような蜜を吸います。マルハナバチは我を忘れ、その媚薬に打ち負かされてしまいます。マルハナバチが蜜を吸い続けているうちに、日が沈み、蓮の花びらは閉じてつぼみの状態に戻ります。マルハナバチはその柔らかな花の中に閉じ込められ、ビロードのようなその花びらの覆いに穴を開ける力さえありません! 私はデリーから来た人に言いました。

「あなたの心に御名の甘露を吸わせなさい。あなたの心に神の蓮華の御足という媚薬を味わわせなさい。そうすれば、心は動けなくなって、無能になり、害をもたらすこともできなくなるでしょう」

海はたくさんのことを教えてくれる

あなたは、高い学識と名声と幸運を持っているかもしれません。それでも、あなたは、マルハナバチから、苦痛を逃れる方法を教わることができます。木から、寛容と辛抱強さを教わることができます。木は、年令や性別や宗教、国籍や経済力を問わず、どんな人にも木陰を提供します。木は、自分の幹に斧を振るう者にさえ、木の実と木陰を与えて助けます! あなたは、犬から、信じること、無私の奉仕、そして、献身の仕方を教わることができます。

人間は、感謝の心を持たないことで面目を失います。人間は、富の一切を与えてくれた神にさえ感謝の心を持っていません。今日は満月なので、海は大いに喜んで、うねり、打ち寄せます。海は、幸せに満足しきっている充足感のみを知っています。太陽が海の水から蒸気を奪って雲を昇らせても、海は泣き言を言いません。雨が川のように豊富な貢物で海を満たしてくれるでしょう。海は勝ち誇りません。海はあなたに、浮き沈みすることのない、平常心を教えているのです。あとからあとから岸に押し寄せてくる海の波を見てごらんなさい! 波は、漂流物や舟から投げ捨てられたものの一片や、瓶や小枝、丸太や何かの残骸の一部をいっしょに運んできて、それらを岸に置いていきます。きれいな海面を保つために、海はそのようにして、ひっきりなしに努力しているのです。あっぱれなサーダナです。人間はそれをよく見習うことができます。

意識の内なる領域を支配する深みの静けさ、プラシャーンティ(平安)について、改めて考えてごらんなさい。海は、表面は荒れ狂っているように見えても、その下は安らかに落ち着いています。人間もそのような海をグルと見なして、海のようであらねばなりません。今日の、このグル プールニマーに、すなわち、世界の教師の日に、世界をあなたのグルと見なしなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C44