日付:1973年7月8日
場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学新校舎落成2周年祭の御講話より
よい教育とは、世界平和への道を教える教育
狭量な気持ちを取り除く教育
一体性と友情と平等を教える教育
ああ、神聖なアートマの化身たちよ!
教師と教育者の皆さん!
過去200年間、西洋人たちは危険な機械を作ることによって、また、蒸気や電気のような自然の力の助けを借りることによって、優越性を示してきました。科学の名の下に、伝説のヒランニャカシャパ〔羅刹王ヒランニャカシプの別名〕のように、水、火、音、などの自然の力に手枷足枷を強要してきました。当時ヒランニャカシャパが手に入れた恩恵と現代の科学者たちの業績には、まったく何の違いもありません。しかし、万人に存在する神性を顕現させるという面からは遠ざかっています。今日、人間は自然の力を自分の制御下に置こうと奮闘しています。そして、テクノロジーの影響で傲慢になって、浮かれて放縦に耽っています。これは人間の勝利の印などではありません。
人間は自らの人間性の面を正しく理解しなければいけません。神性を顕現させて神聖さを手に入れようと努めなければいけません。今の学問は利己主義に基づいており、生計を立てるためにあります。人間は、自らの真我の原理と人生の真の目的から遠く離れています。人々は最も危険な型の原子爆弾でいつでも世界を全滅させる準備ができています。これはまさしくヒランニャカシャパの歩んだ道です。
人生の現実とは何か?
これが西洋の教育の状況です。自分の人生をどうするかは、この種の教育についてじっくりと考え、識別力を働かせた後に決める必要があります。チャーチルのような合理主義者でさえ、「人間は物事の全体性を理解しようとしない」という見解を述べました。
プラフラーダはヒランニャカシャパに言いました。
「あなたは全世界を征服なさいましたが、ご自分の内にある感覚を征服することはできていません」
ヒランニャカシャパは、自分の内部で心を悩ませている本当の敵の正体を突き止めることができませんでした。その一方で、外界を征服しようと精を出しました。それと同じで、現代の科学と機械は、世界を一つに結びつけることなく、むしろ戦争を作り出しています。この種の教育をヴィッディヤー(学識)と呼ぶことはできません。その総計はゼロ〔無〕です。人を支配しているのはその人の運命です。悪い思考が頭を支配すれば、頭は鈍くなり、理智は石のようになって動かなくなります。今、人は自分自身の真の本質を悟ろうと努めていません。
人は少なくとも人間の本性を保つよう努力しなければいけません。実際、人間が野獣にも劣る邪悪な行為に訴えるのは恥ずべきことです。それゆえ、私たちの大学では、学生たちに真理を悟らせる努力がなされるべきです。現代の教育と昔の教育には大きな違いがあります。昔、人々は平安に満ちた雰囲気の中、可能であれば川岸近くの草庵で、学生(がくしょう)たちにアートマ原理について教えたものでした。当時の人々は、「苦行の村」を大学と見なし、そこのグル〔導師〕が副学長でした。そうしたグルたちは、どんな分野の知識にも欠けることはありませんでした。グルが知らない言語はありませんでした。グルたちは、あらゆる教科、あらゆるダルマ、あらゆる力において傑出していました。今、そのような教育機関はどこにもありません。
当時は、「導師に仕えること自体が教育である」(グル シュシルーシャー ヴィッディヤー)と見なされていました。今、人々はこう言います。「教育の基盤はお金である」(ダナ ムーラム イダム ヴィッディヤー)。何が起こっているかと言えば、人々はお金を稼ぎ、お金を楽しみ、お金を渇望し、お金に関する不安の中で命を落としています。
教育の目的はお金ではありません。教育の目的は徳を身に付けることです。徳こそが真の偉大さであり、真の力です。科学の分野には物理学というものがあります。物理学では、「6ミリの長さの針を熱すれば、6ミリよりも長くなる」と言います。別の例をあげると、ターメリックの色は黄色で、ライムは白ですが、この2つを水で混ぜ合わせると赤い色になります。これは化学的な事実です。生物学的観点からすれば、植物の苗を、葉っぱを下側に、根を上側にして円筒に入れて育てても、しばらくすると、根はいつしか下に、枝は上に伸びてくるのがわかるでしょう。これらと同じく、私たちの人生の科学に付随する一つの現実があります。それは、真理の中の真理(サッティヤッスヤ サッティヤム)すなわち、真理こそがダルマの基盤である(サティヤンナースティ パロー ダルマハ)ということです。
ダルマの殿堂は、真理という土台が基盤になっています。私たちはダルマと呼ばれる建物に住んでいます。ですから、私たちのダルマの家は真理の上に載っているのです。真理は神です。人生の目的は、人生を真理に捧げ、真理の道をたどって神に到達することにあります。これが私たちの道であるべきです。ところが、人はこの目的を軽視しています。起床した瞬間から眠りに落ちるまで、人はずっと真理でないものの中に身を置いています。真理でないものの中で時を過ごしています。時は風のように流れていきます。肉体は、生まれた以上、いつか氷のように溶けてなくなります。寿命は知らないうちに減り続けています。
絶対なる信仰を持て
人は自分の義務も悟らないまま肉体を脱ぎ捨てようとしています。人はいつ解脱するのですか? いつ成就〔自己実現〕を得るのですか?
あらゆる教育の核心は、真理を認識することにあります。放棄〔ティヤーガ〕はウパニシャッドの真髄です。
ティヤーゲーナイケー アムルタットワ マーナシュフ
不滅は放棄によってのみ得られる
真の平安は放棄〔ティヤーガ〕にあります。人は過剰に物をため込むべきではありません。泳ぎでは、水をかいてこそ前進することができます。それはつまり、過去は断ち切らなくてはいけないということです。過去は過ぎたことです。過去は忘れなさい。同じように、未来を思い悩んでもいけません。現在こそが実在するものです。成就に向けて現在を役立てようと努める人はほとんどいません。
近ごろの学生は、書物の知識を教育と見なしています。教育は、生計を立てる手段でもなければ、机上の卓越のためのものでもありません。真の教育は、真理とその目的を熱心に説くものです。教育は神聖な生涯を育くむべきです。これはバガヴァッド ギーターの原理です。これは、いつも私たちと共にある同伴者であり、守護者です。規律と自制は教育の重要な側面です。規律は、一定の原則に基づいた取り組みを伴います。自制とは、あらゆる損失と利益、悲しみと喜びを、信心をもって平常心で耐え忍ぶことです。
これに関する一つの例があります。私たちは皆、シーターが金色(こんじき)の鹿に目をとめて、ラーマにその鹿を捕まえてほしいと頼んだことを知っていますね。ラーマは庵(アシュラム)を離れ、その鹿を追いかけて行きました。ラクシュマナは節操ある規律正しい生き方の理想でした。ラーマの命令にはいかなる代償を払っても従うことは、ラクシュマナが公言していた信条でした。ラーマは庵を離れる時、シーターを一人にしてはいけないとラクシュマナに言いました。
しかし、シーターがラクシュマナに辛辣な言葉を投げかけた時、ラクシュマナは自分の信条と決意を捨て去って、ラーマを捜しに出かけました。つまり、ラクシュマナはシーターが非難を浴びせるという手段に訴えた時、自制心を失って自らの信条を捨てたのです。そのために、ラクシュマナは、ラーマとシーターが被ったすべての苦難の原因は自分にあると思い、サラユー川に入水するまで不名誉と悲嘆に圧倒されていました。
別の例もあります。カサブランカのエピソードです。カサブランカの父親は船長でした。ある日、父親は急ぎの用事で船を降りなければならなくなりました。船を降りる前に、父親はカサブランカに、乗客が目的地に到着するまで操縦席を離れてはいけないと言いました。カサブランカは父親に助言されたとおりに船の操縦を始めました。その後、まもなく舟で火事が発生し、乗客たちは慌てふためいてあちこち逃げ回りはじめました。しかし、カサブランカは、父親に言われたことを守り、自分は火に焼かれても、一寸たりとも操縦席を動きませんでした。肉体は束の間のものです。肉体は遅かれ早かれ朽ち果てます。しかし、カサブランカの名前は歴史の記録に金文字で書き記されています。なぜなら、カサブランカは自分の命を犠牲にしてでも自らの行動規範を貫いたからです。
あざ笑う者には笑わせておきなさい。しかし、私たちは、何があろうと真理から外れるではありません。私たちは忠実に自分の義務を守らなくてはいけません。つまり、両親とグル〔霊性の師〕を敬うことです。これは私たちの教育の聖なる真髄です。古代、子供たちは最も重要な性質として「謙虚さ」を教えられました。識別心は謙虚さに由来します。識別心から純粋さが生じます。そして私たちは、純粋さから正義を体得し、そうすることによって、成就〔自己実現〕を達成するのです。
ダルマは支えてくれるものです。これは私たちの力です。燃えることは火の最も重要な特質です。この特質がなければ、火は火であることを失います。火にとって燃えることが本来の特質であるように、流動は水の特質であり、清涼はそよ風の特質であり、鉄を引きつける力は磁石の特質です。人間の特質はアートマに引きつけられることです。
人はハートにアートマの原理を保ち、神への愛と罪への恐れを育てるべきです。そうすることで、人は自らの真我の性質を悟るべきです。これに従わない人は誰であれ、自分の根本的な義務を怠っているのです。学生は規律の行動規範を心にとどめ、どんなことがあってもその行動規範から外れるべきではありません。
皆さんは将来、母親になることでしょう。皆さんは母性の権化のごとき存在となり、普遍的な教育を促進すべきです。母性の中心的な原理は平安と堪忍寛容です。皆さんはこれらを育み、自分の家族、そして、嫁ぎ先の家族にも、良い評判をもたらすべきです。皆さんは、子供たちを、このバーラタ国のダイヤモンドのようなリーダーに育て上げる可能性を持っています。規律と自制は鳥の2枚の羽のようなものであり、それなくしては進まない荷車の2つの車輪のようなものです。
今はカリの時代〔暗黒時代、闘争時代、末世〕です。その特殊な影響力は言語に絶するものです。神性を忘れること、神聖さをあざ笑うこと、バジャンを忌み嫌うこと、聖地巡礼を揶揄(やゆ)すること――このようなことをすることが徳であると考えられているのです。ですが、それは人に〔本来の〕徳が欠けているということではありませんね? 時として、悪い勢力の影響により、表面下に隠れてしまっているのです。物理学を学んで高い学位を得ようと努力する人がいます。それと同じように、霊的な聖典を学んで卓越した知識を得ようと、懸命に努力奮闘しなければなりません。今、人々は、霊的な聖典を読むことは時間の無駄であり、俗世の学問こそが人生に絶対不可欠なものであると考えています。これは大きな誤りです。永遠のものを一時のものと見なすのは人間の常であり、逆もまたしかりです。
神の恩寵は最良の友
たとえば、約1億4400万キロ離れたところにある太陽は、あたかも手のひらに収まるほど小さく見えます。しかし実際には、太陽は地球の何倍も大きいのです。星々はさらに遠くにあり、そのため空の点のように見えます。ブラフマンは最も微細なものより微細(アノーラニーヤーン)であり、最も巨大なものより巨大(マハトー マヒーヤーン)です。最も大きな星も私たちには小さく見えます。その理由は、星々は人間からはるか遠くに位置しているからです。自然界の喜びと楽しみは、自らは発光していない月のようなものです。自然界の喜びは、それ自体が輝いているのではありません。それらはアートマの力のおかげで輝いているのです。理智と呼ばれる太陽の光が、心〔マナス、マインド〕、すなわち月に降り注ぎ、いたるところに広がって安楽と喜びを与えているのです。それは永続するものではありません。もっと大きく、もっと偉大なものは、人から遠く離れて存在しています。人はそれに到達するよう努力しなければいけません。神は星のようなものです。日中、星は目に見えません。だからといって、星は存在しないと言えますか? 「神は存在しない」と言うのは無知が原因です。無知という原因を取り除いたとき、初めて人は神を五感で知覚することができるでしょう。ハートと思考を清め、無私の行為に着手するなら、人は神性に到達するでしょう。
現代人には俗世(あるいは世間)の教育しかありません。「Ihamuna sukhiyimpa hema taaraka vidya, Paramunasukhiyimpa Brahma taraka vida」。卓越した教育はダルマの学習を伴います。人生という乗り物を走らせるには、この2つの車輪が必要です。
今日、皆さんは学位やランクを得て喜んでいるかもしれません。スワミもそのことを大変嬉しく思っています。しかし、皆さんはそれよりずっと素晴らしいランクを手に入れるために努力しなければいけません。神の恩寵がそれであり、それによってすべての惑星(グラハ)があなたの支配下に入ります。ティヤーガラージャは言いました。
「おお、ラーマ、あなたの恩寵さえあれば十分です。そうすれば、すべてのグラハ惑星は自動的に私に屈服します」
神の恩寵を求めて苦闘してきた人々は、今も燦然と輝いています。皆さんはそうした人々の道に続かなければいけません。反対に、世俗の業績を達成しても、幸福にはなれません。生計を立てるために教育を身に付ける必要はありません。動物や鳥や他の生き物たちは、自分の胃袋を満たすことを目的とする教育など、何も受けていません。私たちは自分のお腹を満たすために人間として生まれたのですか? あらゆる生類の中で人間として生まれるのは最も稀なこと(ジャントゥーナーム ナラ ジャンマ ドゥルラバム)です。このことを悟らなければいけません。人間は840万種の生類すべての中で最も偉大です。人間は、自分の人生を、一時の間だけ途中下車する駅にすぎないと、見なさなくてはいけません。もちろん、生活をしていくために、お金は稼ぐべきです。しかし、野心がありすぎるのはよくありません。過剰な欲望は心に害をもたらします(アティ ブッディ マティ ハーニ)。
幸せでいるためには、生きていく上での限度を守るべきです。西洋人たちはインド人の家族を理想像として述べてきました。アレクサンドロス大王は、インドへ侵攻して来た時に、ある卓越した人物に出くわしました。アレクサンドロスはその人物に尋ねました。
「そなたは何者だ?」
それに対して、そのヨーギは微笑んだだけでした。すると、アレクサンドロスは腹を立て、剣を抜いて言いました。
「このアレクサンドロス大王が目の前に立っているというのに、何がおかしいのか!」
それでも、ヨーギは微笑み続けていました。アレクサンドロスは言いました。
「首を刎ねてやる!」
するとヨーギは答えました。
「それは子供にでもできることです。そのために王になる必要はありません。それは狂人でもできることです。しかし、あなたにはおできにならないでしょう」
アレクサンドロスは驚いて尋ねました。
「そなたはいったい何者なのか?」
するとヨーギは答えました。
「私は、心でも、知性でも、感覚でもありません。私の姿は、純粋で、揺るぎない、無私無欲のアートマ(魂)です。アートマは、水に浸されることも、火に焼かれることもあり得ません。あなたは何であれ、この世の肉体で、やりたいことをなさればよろしい。私の姿は、チット〔純粋意識〕であり、至福です」
アレクサンドロスがインドへ侵攻して来たとき、学者と敬虔な人々は、供儀(ヤグニャ)とマントラの助けを借りて、アレクサンドロスを思い止まらせることができました。その時、アレクサンドロスは、その者たちが原子爆弾より強力であることを悟りました。彼らが強力だったのは、彼らの心が純粋だったからです。一方、今の人々は、瞑想している時ですら、心(マインド)の純粋さを手に入れることができずにいます。なぜなら、心が俗事のことを考え続けているからです。
現代人は、古代人を愚かで無知であると考えています。しかし、実際には、現代人は古代人が持っていた知性の一片すら所有していません。当時、スグリーヴァ〔猿王〕やアンガダ〔猿王子〕といった者たちは、石を使って海に大きな橋を架けることができました。彼らは猿にすぎませんでした。一方、現代では最も卓越した技術者でさえ、それほどの大仕事を成し遂げることはできません。猿たちの成功と幸福の背後には、神の支援と、神性への信仰心があったというのが、その理由です。猿たちが石を手に取って「ラーム」〔ラーマ神の御名〕と唱えながら海の中に投げ込むと、石は水に浮かびました。
現代では、コルクの栓を水に投げ込んでも、沈んでしまうでしょう。それは、人が不純な思考でいっぱいだからです。当時の人々は、私心なく純粋な思いで働きました。近ごろでは、人はまだ勉学の最中の身であっても、自分は何で生計を立てていくか、可能な収入や地位はどのくらいかと考えはじめます。けれども、家族や社会に役立つことについて考える学生には、めったにお目にかかれません。学生は、社会と国と家族の役に立つことのできる犠牲的な姿勢を培うべきです。この「ティヤーガ ブッディ」(犠牲の心)は、「ヨーガ ブッディ」(ヨーガの心)と呼ばれます。この種のヨーガこそが、真のボーガ(楽しみ)です。それゆえ、皆さんは、学生として、自分に生を授けてくれた両親を幸せにするために励むべきです。
いつもこの金言を心に留めていなさい。
マートゥル デーヴォーバヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ
母を神として崇めよ
父を神として崇めよ
霊性の師を神として崇めよ
そして、自分の人生を両親に捧げなさい。もし、両親に幸せを与えないなら、明日にはあなたの子供があなたをないがしろにするでしょう。
皆さんが教育の価値と目的を明確に理解し、以上のことを心に留めるよう祝福します。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C7