サティヤ サイババの御言葉

日付:1973年11月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ババ様四十八歳の御降誕祭の御講話より

あなたの神を選びなさい

時代はおかしくなりました。人と人との関係、人と神との関係、人と人間社会との関係、そして、人と人の集団を治めることを委ねられた人々との関係が、憎しみと怒りで汚されています。この国の人々は、間違っていることを正しいこととして受け入れ、正しいことを間違っていることとして捨てています。間違った道を盲目的に歩んでいます。しかも、そのことを自慢に思っています。そして、自分たちは進歩していると思っているのです!

幸・不幸は、自分が養い育てている属性の報いであり、その主な三つの属性は、浄性(無私、平等、寛容など)、激性(活発、野心、情熱、情動によって特徴づけられる性質)、鈍性(怠惰、無知、不活発、無精、愚鈍によって特徴づけられる性質)です。人は、浄性が優位なときは幸せで、激性が優位なときは不満で、鈍性が最も優位なときには喜びも幸せもありえません。この三つの属性が執着と快楽の道を追い求めるとき、人は痛みと喜び、生と死の輪に縛り付けられます。もし人が解脱とシンプルさを求めるなら、人は生死の輪から抜け出して愛と光と自由へと向かいます。人は今、疑いと逸脱に捕らわれていて、自分はどの道をたどったらいいのか、どんな準備をしたらいいのかがわからなくなっています。人は、これまで受け継いできた貴重な財産を失い、自分を貶(おとし)め、人は実のところ神であるという自らの本性を否定しています。

理性で心を取り締まり、支配すべし

人々は理論や論証の範疇(はんちゅう)で神の性質を決めますが、知性では神の性質を把握することはできません。なぜなら、そのどちらも個々人の偏見と傾向によって形作られるからです。私たちは自分の好きなものだけを評価し、自分の見たいものだけを見ます。人は、祈りが応えられて自分の望むものを手に入れると、神は本当にいると言い、祈りが応えられないと、神はまやかしだ、想像の産物だと言います! アルジュナは、来る日も来る日も敵が敗北していった時、クリシュナは全能で、遍在する、全知の神だと称賛しました。しかし、争いの中、息子のアビマンニュが殺されると、アルジュナは悲しみのあまり、クリシュナは自分をよく導いてくれなかった、よく守ってくれなかったと怒号しました。アルジュナの心は運命の風が吹くたびに揺れ動きました。多くの人にとって、心は知性の支配者にもなっています。人は用心深くあり、理性あるいは知性と呼ばれる道具の公平さを保持しなければなりません。理性を研ぎ澄ましなさい。そうすれば、理性は、神はどこにでもいる、あなたの中にもいるということを明かしてくれるでしょう。ひとたびあなたが神を宇宙の核、そして、あなたの核として受け入れるなら、信仰は強くて堅固なものとなります。

もちろん、「無信仰」という空気の中では、人のハートの中のランプに光を灯して、その炎が揺らいだり、ちらついたりすることなく、まっすぐに、しっかりと燃え続けるように保つことは困難です。当世では、妻は夫を信用しておらず、夫は妻を信用していません。息子は父親を疑い、父親は息子を疑っています。生徒は教師を信頼せず、教師は生徒を信頼することができません。そうであれば、宗教という一つの分野でだけ信仰心を育てることなどできますか? この災難は、激情と偏見によって理性の機能が鈍くなることを人が許したがために起こったのです。クリシュナはギーターの中で言いました。

「私は諸機能の中のブッディ(知性)である」

「私は君にブッディの識別力を与えよう」

クリシュナは、自分に帰依する人にそう言うのです。理性は、心を取り締まって支配するための道具です。理性は心の気まぐれに従属すべきではありません。

神の化身のための理性

ギーターの話が出たので、ギーターの中であなた方が直面するかもしれない一つの問題について触れることにします。クリシュナはこう言明しました。

「サモーハム サルヴァブーテーシュ、すなわち、私は万物において等しい。私はすべてのものに等しく振る舞う。私に愛憎はなく、えこひいきも偏見もない。喜びと悲しみは、執着あるいは無執着によって君が君にもたらすものであり、私が君にもたらすものではない」

このクリシュナの言明に対して、あなた方の心に次のような疑念が生じるかもしれません。

「ならば、なぜクリシュナは、善人を育み、悪人を罰するために、私はユガごとに化身する、と公言したのか? クリシュナが善人と悪人と言っているのはどういうことだ? それは、クリシュナには好きな人間と嫌いな人間がいるという意味ではないのか? 万人はクリシュナの一部なのではないのか? 波は海の一部ではないのか?」

そうです。万人はクリシュナの一部です。手はあなたのものです。指はあなたのものです。爪はあなたのものです。であれば、どうしてあなたは爪を切るのですか? 尿や便はあなたのもので、あなたの中にありますが、あなたは健康を維持するために尿や便を排出しなければなりません。特定の状況においては、体を救うために手足を切断する必要があります。実際、カウラヴァ兄弟は広範に及ぶ傷をもたらした危険なウイルスでした。クリシュナは、バーラタ〔インド〕という「総体」を救うために、「助手」としてのアルジュナと共に大手術をすることによって、カウラヴァ兄弟を切除する必要があったのです。

「欲望」という泥沼にはまると、人は「良い」と「悪い」を明確に区別できなくなります。善悪を識別するには、知性が清らかで、明晰で、鋭く、まっすぐでなければなりません。人の性格の中に、ほんのわずかでもエゴや嫉妬心や貪欲があってはなりません。なぜなら、それらは論点をそらすからです。揺れる心、さまよう目――これらは知性が正しい決定をするのを助けることはできません。

寛容と愛という理想を重視する

昨今では、人生のパートナーを選ぶときに最初に考慮されるのは外見の美しさと魅力です。次に、経済状態が基準にされます。「相手の男性あるいは女性はどれくらい裕福ですか?」、「稼ぎはどれほどですか?」と。相手の学歴や家柄を問うのはその後です。人々は単なる表面的な飾りやおしゃれにかどわかされて結婚生活に入り、悲惨さや破壊的な家庭生活に巻き込まれます。もしそんな薄っぺらな基盤の上に家庭が築かれるなら、家庭の安定は不可能です。第一に重視しなければならないのは、善い人格、辛抱強さや寛容といった高潔な理想、愛や奉仕という基本的な必要条件です。美しさが薄れたとき、あるいは、富が傾いたとき、絆も弱まっていきます。

それは、あなたが選択し、崇め、共に生きたいと願う神も同じです。神があなたに浴びせることのできる恩恵を求めて神を選ぶべきではありません。神にあなたの世俗的な望みや物質的な望みを満たしてもらうことを期待してはなりません。そして、それがかなわなかったとき、神への道を捨ててはなりません。あなたは、「ババ、今晩、私の夢に出てきてください」と要求し、もしそうならなかったら、「彼はサイ ババではなく、ライ ババ(石のババ)だ」と言って、あなたの言いなりになる他の神を探しに行きます。成功しても失敗しても、望みどおりになっても失望しても、何が起こっても、あなたは自分の信心をしっかりと保ち続けなければなりません。神があなたの核であり、あなたの意識から消すことができないほどしっかりと定まっているとき、上機嫌になったり落胆したりする余地はありません。神は至福であり、神があなたの中の枯れない泉であるとき、あなたはずっと至福でいるでしょう。

バクティ ヨーガの二つの道

人は自分を維持するため、そして、幸福のために、行為に従事しなければなりません。けれども、自分が従事する行為を知的に選ぶこと、そして、その行為の結果に関与しすぎないでいる必要があります。本当に善良なものを得るために行為を用いなさい。最高のもの、最高の価値のあるもの、減少と衰退を超越しているものを求めなさい。それが真のバクティ(信愛)です。バクティは、ゴールを達成することに向けられた愛と切望です。そのための手段がカルマ(行い)です。それはカルマ ヨーガと呼ばれています。なぜなら、行いを律し、献じ、技量で特化したとき、カルマはカルマ ヨーガ〔神との合一のための行〕となるからです。神に献じた真の愛は、神の実体を明らかにし、最高の英知を授けることができます。

木には幹があり、幹には枝があり、枝は遠くまで伸びて広がって、たくさんの葉と花をつける大枝となります。カルマ ヨーガは生命の木の幹です。その枝と葉と香り高い花は、バクティ ヨーガの象徴です。そして、そこに熟した果実とその甘さは、グニャーナ ヨーガ、英知です。もし木が実を結ばなかったり、実が甘くなかったりしたら、それはまったく成長していないのと同じです。

バクティは、二つの道、サグナ バクティ〔属性のある信愛〕とニルグナ バクティ〔属性のない信愛〕に沿って流れることができます。あなたが、神は遠く離れている、はるか高いところにいる、自分をはるかに超えている、と思って慈悲を願い、恵みを嘆願し、恩恵を祈るなら、それはサグナ バクティ〔属性のある信愛〕です。そのとき、あなたは神を主や君主、守護者や救い主として崇め、賛美したり、なだめたり、平伏したり、服従したり、奉仕したり、といった儀礼を経ます。

一方、あなたが神を万物のあらゆる細胞や原子の核に息づいているものとして見るという鍛錬を実践し、すべての創造物は一体であるということを体験するなら、(創造物は神の体であり、あなたもその中にいて、あなたもその体であるという理由により)それはニルグナ バクティ〔属性のない信愛〕です。ニルグナ バクティ〔属性のない信愛〕は、砂糖を黙想することです。サグナ バクティ〔属性のある信愛〕は、あなたが気に入って、あなたの愛と忠誠心を得た砂糖人形を崇めることです。

ヤグニャで行われる儀式の意味

儀式の中には、ヴェーダに述べられている主要な儀式であるヤグニャ(供犠)があります。ヴェーダのヤグニャの中でも重要な儀式は、ソーマパと呼ばれる儀式です。ヴェーダや他の儀式の内的意味を把握するには、象徴化について考える必要があります。たとえば、このソーマパについて考えてみましょう。「パ」は「飲む」という意味で、通常、この儀式はソーマという汁を飲むことだと思われています。

違います! 「ソーマ」は月を意味します。しかし、月が人に飲まれることなどありえません。月は「心」も意味します。つまり、「満ちたり欠けたり、変わりゆく心は、決して長い間同じではあることはない」ということです。こういった理由から、ヴェーダは、心は月によって生み出されると述べているのです。ですから、「月を飲む」というのは、心を支配し、心を無力で無害なものにするプロセスのことなのです。それが、このヤグニャ、つまり、普遍なる永遠の真理の王国を獲得するために心の気まぐれを犠牲として供することなのです。心が何も変わっていないなら、どんなヤグニャも実りはありません。なぜなら、心はあなたを破滅へと引きずり込むことのできる千の策略を持っているからです。

心を主の御名に定めなさい。そうすれば、心はさまようことができなくなります。神は、祭壇でずっと燃え続けるランプの炎、それは言い換えるなら、体です。その炎を、四方八方から吹いてくる風、言い換えるなら、激情と欲望の突風から守り続けなさい。人ごみや、気を散らす感覚や思考から離れて、静かな場所に座りなさい。あなたが御名とその御名の体現である御姿に完全に専心できる段階に達したら、気を散らすことから自分を隔離する必要はなくなります。けれども、それは、今、一部の頭のいかれた人たちがやっているように、あなたの霊性修行を街中で見せびらかしていいという意味ではありません。大衆の称賛や評価を望んではなりません。あなたのよちよち歩きと片言を、神に承認され、受け入れられ、評価してもらえるよう祈りなさい。

すべての瞬間、愛に浸り、神に浸っていなさい

あなたの感情の起伏、激情、衝動、態度、反応を浄化しなさい。これはあらゆる信仰において定められている霊性修行のエッセンスです。あなたの心、あなたの思考を調べなさい。あら捜しをする人を求めてはなりません。清らかさだけを見なさい。誰の悪口も言ってはなりません。そして、もしうっかり人を中傷してしまったら、悔い改め、今度はこんな悪癖に負けはしないと決意しなさい。誰にも屈辱を与えてはなりません。人にはそれぞれ善いところがあるのですから、人々を敬いなさい。あなたの行動に対して人々が感じた悲しみは、あなたの最期にあなたを悩ませることになるでしょう。

あなたの行いの一つひとつが、あなたがこの世を去る時にあなたの信用証明になるようにしなさい。一つの行いも、足を引っ張るもの、あるいは負債にならないようにしなさい。すべての瞬間、愛に浸っていなさい。つまり、神に浸っていなさい。あなたが立ち上がって人々の間を進むとき、もし怒りをまき散らしたり、あなたの言葉と行いによって人々の恨みをかうなら、ディヤーナ〔坐禅や瞑想〕に時間を費やすことが何の役に立ちますか?

ギーターは、「ササタム ヨーギナ」〔つねにヨーギであれ〕、つまり、つねに自制し、節度を持ち、神と結び付いていることをあなたに求めています。ですから、つねに油断なく、堅固で、真剣でいなさい。堅固な人は英知を得ます。注意深く番をしていないなら、火花は大火へと育ちかねません。つねに油断なく注意していることで、大火さえパチパチと音を立てるだけの火花にすることができます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C21