サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年3月24日
場所:ブリンダーヴァン
テルグ正月のババの御講話より

アーナンダと名付けられた年

現代では、どの国でも人は権力に狂い、まったく良心の呵責なく、無味乾燥な演説と自画自賛という手段に訴えるようになっています。人々は他人に対して憎悪を募らせ、嫉妬を抱き、自らを破滅させるようなエゴに火をつけています。人々は自分の属する社会を恐れと苦悩と混乱に追いやっています。高い理想を掲げてそれを実践すれば永遠の名誉得ることができるということを、人々は知りません。人々は価値のない拍手喝采や一時の評判を得て満足しています。

あなた方がここに集まったのは、今日がユガーディの祭日〔お正月〕だからです。この日は、新しい名前の付いた新しい年の到来を告げる日であると考えられています。今日が元日と呼ばれているのは、ただあなた方がそう呼ぶと決めたからです。今日は、天文学的にも、気候の上でも気象の上でも、昨日や明日と何ら違いはありません。元日といっても、元日と呼ばれる日はこれまで何十万回も地上にやって来て、それらは祭日として何十万回も祝われてきました。同様に、今日は来て、そして、去っていきます。もし元日が、新しい生き方を始める日、奉仕を通じた神我顕現すなわち自分を拡大することを目指す新しい一歩として、誰か一人にでも活用されるなら、元日は意味と重要性を持ちます。けれども、そうでないなら、元日に価値はありません。カレンダーの赤い字は、元日を他の日と区別して、あなたが負っているそうした義務をあなたに知らせて思い出させているのです。

何も期待しないで神に委ねよ

今日始まった新しい年の名前は、人を鼓舞する吉兆な名前です。今年はアーナンダ、すなわち、霊的な至福、内なる歓喜、揺らぐことのない平穏――と呼ばれる年です。その名前は声高な呼びかけであり、この新年の365日ずっとあなたの耳に、「アーナンダを得よ、アーナンダであれ、アーナンダとなれ」と、その名が鳴り響いていなければなりません。意識というあなたの道具を浄化して、奉仕に身を捧げなさい。そうすれば、あなたはエゴの力を弱らせて、社会的な一体性の力を強めることができるでしょう。ジャパ(唱名)とディヤーナ(瞑想や座禅)に親しみなさい。そうすれば、あなたは至高神へと向かって上昇することができるでしょう。ジャパやディヤーナは手段であり、それによってあなたは自らアーナンダを得て、アーナンダに落ち着くことができます。

あなたにできるかぎりの知性を使い、できるかぎりの信愛を込めて、自分の義務に従事しなさい。自分の義務を、あたかもそれが神に捧げる礼拝の行為であるかのように実行し、その行為の果報は神の意志と恩寵と慈愛に委ねなさい。期待していた結果にならなかった時、それに動じずにいなさい。一切の期待を持たず、神に委ねなさい。あなたに時間、空間、理由、物、考え、技能、チャンス、幸運を与えたのは神であり、あなたがしたことはほんの少しです。なのになぜ、あなたは自分が行為者であるかのように感じなければならないのですか? 真摯なサーダナ〔霊性修行〕として自分の義務を行いなさい。

この年の名前はアーナンダで、あなた方はそのことを喜んでいます。ですが、あなたがそれに何かを入れるか、何かを取り出さないかぎり、その名前が何になるでしょう? ラーマと名付けられた人は、その名前に鼓舞されて、ラーマの御名が到達した不死という特質を自分の中に顕現させなければいけません。ダルマプットラ(ダルマの息子)という名前を背負っている人は、『マハーバーラタ』のダルマプットラ〔長兄ダルマラージャ〕がしたようにダルマに立脚してその重荷を正当化することをしないなら、その人の名は恥ずべき重荷となってしまうでしょう。あるいは少なくとも、生活の中でダルマを示すためにベストを尽くして努力しなさい。

人は生きていくのに十分なだけ稼ぐべし

富を蓄えることや、人気を集めること、あるいは、分厚い書物を大量に頭に入れるだけでは、自分の人生の報いをこの世で完全に刈り取ることはできません。徳を養い、徳を表すこともしなければなりません。ダルマを守らなければなりません。シャーストラ(経典)は、人はダルマアルタ〔ダルマにかなった方法で富を得ること〕、すなわち、生きていくのに十分なだけを正直なやり方で稼ぎ、余った時間と技能を万人にとって良いことのために使うべし、と定めています。ダルマ(正しい行い)によってアルタ(富)を得なさい。そうすれば、確実に神の恩寵を豊富に得るでしょう。先祖代々の継承物の分与を合法的に要求していた従兄弟のパーンダヴァ五兄弟と戦ったクルの百人兄弟の父、ドリタラーシュトラ王は、あり余るほどの財産、優れた軍隊、偉大な軍事力、偉大な戦略を持っていましたが、ダルマとアルタは二つとも持っていませんでした。そのため、ドリタラーシュトラ王は自分の王家と王国が完全に消滅するのを見るはめになりました。人々の多くは、ドリタラーシュトラ王のように偽りを追い求め、真実を無視します。取るに足らないものを集め、大切なものを無視します。

人々は、自分の背後に死が静かに忍び寄っていることに気づいていません。時間が早足であることに気づいていません。人々は、人の体、人の理智、人の社会、そして、自分を今ここに連れてきてくれた継承物を得るチャンスが、自分にとっていかに貴いものであるかがわかっていません。人々は、同じ神の火花が自分のすべての思考と言葉と行いを照らし、かつ、全世界のすべてのものを動かしているということを知りません。人類は兄弟であるという感覚がなく、すべてのものが親族であるという気持ちに胸が躍ることもありません。

人は動物や獣より上であらねばならない

人々は、自画自賛という汚いへどろの中で大の字になって寝そべっています! 自分のエゴの奴隷になっています。そして、その結果、恐れと心配から逃れられずにいます。人々は、他人のスキャンダルを広め、そのせいで自分自身に罪を負わせています。人を敬うようにと言いながら、人を嘲笑と憎悪の的にしています。人々は、他人の欠点を探し、そのせいで欠点しか目に見えなくなっています。どんなものにも良い点を見ず、そのせいで妬みと貪欲にかられています。他人を支配しようとしてはなりません。あなた自身を支配しなさい。あなたの五感、あなたの心を支配しなさい。それが真の勝利であり、真の敵はそれらです。

無駄話をして時間を浪費してはなりません。忠誠心が変わったり、周囲の環境が変わったりしても、あなたの信心を変えてはなりません。他人をご都合主義だといって非難している時、自分が同じ悪に陥らないよう注意しなさい。神はすべてのものの中に、すべての生き物の中に、生来存在しています。あなたは、あなたが見るすべてのものの中に、そして、あなたが行うすべてを通して、神を見つけることができます。神はあなたのハートの中にある黄金の聖杯を満たす英知です。その事実に目をつぶって、あなたはそれをつかみ取ろうと外に向かって手を伸ばしています。あなたは慈悲深いかもしれませんが、あなたの感情は、整えられた清らかなものでなければなりません。

慈悲深い男が、ある時、水があふれた川の土手で一匹の魚がもがいているのを見て、その魚を家に運んで帰りました。男はその魚を畳んであった温かい毛布の間にはさんで寝かせ、魚の喉に熱いコーヒーを注いでやりました。男は、その魚が苦しんでいたのはあまりの寒さに発作を起こしたからだと思ったのです。熱いコーヒーはその哀れな存在を死なせてしまいました。水の中に投げ戻してやれば、魚を救うことができたでしょうに。その男には、何をしたらいいかを教えてくれる知性がなかったのです。

現代の多くのリーダーたちは、慈悲はあっても理性がありません。彼らは人が苦しんでいるのを見て同情しますが、その解決法を知りません。彼らは家庭の平和を確立する必要性や諸外国の繁栄について語りますが、彼らの行いは彼らがその術を知らないということをあらわにしています。彼ら自身が憎悪や不正を煽っているというのに、どうやって上手くいくことなど可能でしょうか? 悪い手段を用いて勝ち得た成功は、ささいな一時のものとなるでしょう。平和的な手段、愛で形作られた手段だけが、長続きする利益と本当の平和を確実にすることができます。

恐れることはない、怖がることはない――これは神から人へのメッセージです。動物は恐れ、獣は怖がります。人間はこの両方の弱点の上にいなければなりません。真実を信じ、道徳に定まっていなさい。あなたは誰も恐れる必要はありません。なぜなら、神はあなたの側にいるからです。あなたが怖がることはありません。なぜならあなたが見るものはすべて神だからです。

「私は行為の照覧者であって参加者ではない」

名前に関する話ですが、このことも言及しておきましょう。誰か真実やダルマを気にしない人たちが、サティヤ サイの名の付いた団体を立ち上げるかもしれません。彼らが望んでいるのは、名声と富という外側の殻だけです。彼らは私とは関係がなく、彼らは私が認めていない行為に従事しているということを、あなた方は知っていなければなりません。実に、私は行為の照覧者であって、参加者ではありません。私は扇風機のようなものです。あなたがスイッチを付ければ、扇風機は涼しい風を与えます。スイッチを消せば、扇風機はあなたを暑さで汗だくになるままにします。私には好きも嫌いもありません。私のことを悪く言う人たちも、私の名前を心に浮かべ、私の悪口を言うことで喜びを得て、ことによると、そうすることで何銭か儲けているかもしれません。彼らは嘘を書いて喜びます。あなた方は真実を歌って喜びます。私はどちらにも関係していません。私は自分に課した務めを果たすためにやって来ました。称賛も非難も関係なく、その務めは勝利から勝利へと進み続けます。それは、やめさせられることも、遅らせられることもありません。

真実は敗北も恐れも知らない

わずかな恐れが、真実の光輝をまとって輝いているハートの清らかさを汚すことはできません。私は、サティヤ サイ〔真実・真理のサイ〕です。サティヤ サイとは、真実を基盤とする者、真実にもたれる者を意味します。〔ヴィシュヌ神が大蛇シェーシャのとぐろに巻かれることなく大蛇の上に横たわっているのと同様に、〕大きな物欲のとぐろが真実を巻き込むことはできません。真実は敗北を知りません。真実は恐れを知りません。真実は、歓呼の声にも賞賛の声にも耳を傾けることなく、ゆうゆうと歩いていきます。

世間に執着しすぎないようにしなさい。世間は、素早く、激しく変化し続けています。生きている間に与えられたチャンスに感謝して、いつでも喜んで潔く死の手の中に捕らえられてもいいように、準備を整えていなさい。決して嘆き悲しんではなりません。なぜなら、神はあなたの真実としてあなたの中に住んでいるからです。後に、あなたの一生の最終段階で、あなたが自分の失敗と成功を振り返って見る時、あなたはプーランダラダーサ〔ヴィッタラ神を讃えるカンナダ語の歌を47万5千曲作った聖者でカルーナティック音楽の父と称される〕が言ったように、こう言わなければなりません。「ああ、我々は人としての生の中には喜びは見つけることはできないのだ」と。そのまま日々を過ごしてはなりません。たった今、その警告を受け入れなさい。愛と歓喜と平安を目指す旅に割り当てられた日々を役立てなさい。

元日は、この国のこの地域では、ユガーディ、すなわち「ユガ(時代)の始まりの日」と呼ばれています。あたかも新しい時代が今日幕を開けたかのように。元日は、時間の大きさ、時間のスピード、今生で自分に分け与えられた時間の短さ、そして、その時間を最大限に活用しなければならない、ということについてよく考える機会です。ものごとの始まり、自然の始まり、命の始まり、人間の始まり、ハートの始まり――すべては神から生じ、神に向かって旅をします。誕生から解脱へと前進していくことの偉大さについて深く考えなさい。あなた、自然、そして、すべては、今存在し、過去にも存在し、この先も存在する、そしてそれは神である、ということに気づきなさい。その気づきに到達するためには、愛が最も確実な方法です。

誰にも行いと言葉で痛みを与えてはなりません。あなたの情念、激情や衝動、特に、怒りと妬みと貪欲を制しなさい。それらはエゴを栄養にして大きくなって、危険な武器に成り果てます。あなたが自分の情念の奴隷になっている時、どうやってあなたは立ち上がって前に出て、敬意を要求することなどできるでしょう? 弱虫だけが自分の五感や激情に屈します。勇敢な人はそれらに立ち向かい、勝ちます。英雄とは、自分の心を支配する人、自分の衝動を抑えられる人であり、最低の人とは、それらに支配される人です。波が打ち付けてきたら、岩のようにふんばりなさい。あなたの理想を信じなさい。神を信じなさい。あなたの戸口に失敗が入ってきた時、信心が薄れることを許してはなりません。新たなチャレンジとしてそれに立ち向かい、勝利しなさい。

あなたのヴィシュワーサ(信心)は、あなたのシュワーサ(息)のようであってはなりません。なぜなら、息は入っては出ていくからです。今入ってきたかと思うと、すぐに出ていってしまいます。あなたの信心を、入口と出口を往復することのない、しっかりと定まったものにしなさい。もしあなたの信心が一つのとうとうとした流れとなれば、恩寵も一つのとうとうとした流れとなって、あなたに降り注がれることでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C9