日付:1974年5月
夏期講習におけるババの御講話(3)より
教育分野の多様な部門は、料理法の詳細と同じ
しかし、多様な部門の一つひとつは、人が作っている料理の一品に相当する
なぜ、料理の一品を味わうことを放棄して、その作り方だけを習いに行くのか?
この問いに含まれている真理に耳を傾けよ、おお、バーラタの若者たちよ!
今日の講話のテーマは、皆さんに「ブラフマン」という語の意味をよく知ってもらうことです。ヴェーダとヴェーダの宗教にとって、ブラフマンという語はそれらのすべての内容物と同義語です。しかしながら、この単語に意味を与えてきた多くの歴史家は、その時々に代替の行路を採択し、さらには、注釈の中に自分独自の意見と考えを挿入して、そうすることで、人々に捻じ曲がったヴェーダのバージョンを差し出してきました。ブラフマンという語には数え切れないほどの意味があり、数え切れないほどの解釈ができるにもかかわらず、そうした解説者たちはそこに色づけと意味添えをし、それらはどの場合も個人的な好みと個人的な経験に依存したものでした。
ブラフマンという語は、一部の人々によって、ヴェーダのブラーフマナ〔祭儀書/ヴェーダの祭儀の解説〕と何か関係のあるものとして説明されてきました。反対に、一部の書き手は、この単語にリグヴェーダのプローヒト(儀式を執り行う者)という意味を与え、その人物をヤグニャのさまざまなルットウィック〔マントラを唱える僧侶〕のうちの一人と混同してはならないと説明を加え、さらには、その人物に特別な場を与え、その人物をホータという名前で呼びました。そうした歴史家たちは、ヤグニャの特別な祭式を注視して儀式が正しく行われているかを見る責務を持つ特定のルットウィックがホータという名で呼ばれていて、その者がヤグニャにおける重要なブラフマンであると見なされてきた、と説明しています。何人かの学者たちは、ブラフマンという語にこの種の関連性を与えてきました。彼らは、その説明において、イーシュワラすなわち神の側面がブラフマンという語の中に含まれていることを見ることには注意を払っていません。
他の歴史家は、この側面を理解し、ブラフマンという語に神の側面を含んだ意味を与えています。これに関連して、私たちのヴェーダ、私たちの文明、私たちの文化を理解する努力をしている西洋の学者の見解を考慮しなければいけません。ある偉大な西洋の学者は、ブラフマンという語は「ブルフ」という語根を語源とするものととらえています。この語根は、「拡大」、あるいは、「膨らむこと」、あるいは「成長すること」を表しています。この学者は、ブラフマンという単語を創造という神の側面を理解するための出発点ととらえています。
もう一人の西洋の学者は、ブラフマンという語に別の意味を与えています。この学者は、ブラフマンという語を神の力や神に向けられた意志の力と特別に結び付いたものと見なしています。私たちはこうした西洋の学者の解釈も調べる必要があります。
この国ではそれほど知られていないであろうこの二人の西洋の学者とは別に、もう一人、この国でより広く知られているマックス ミューラーという西洋の学者がいます。彼もブラフマンという語について見解を述べ、意味を与えています。マックス ミューラーは、ブラフマンという語は音を意味するという考えからスタートし、ヴァーチャスパティ〔声や話す言葉の主〕などといった名前と関連付けました。この点について、私たちは、これらの解釈にはヴェーダの典拠があるのかどうか、これらの解釈はヴェーダに含まれているのかどうかを、調べなければいけません。ブラフマンという語はヴェーダのどこに、どのように出てくるのか、そして、その文脈の中でブラフマンという語はどのような意味を伝えているのかを調べなければいけません。これはサーマヴェーダにおいて、ブラフマーやヴェーダルーパといった同義の語句で言及されています。サーマヴェーダは、ヴェーダの姿はブラフマンであると立証しています。リグヴェーダでは、同様に、ブラフマンの歌はヴェーダのエッセンスであると述べています。さらに、この語をバガヴァッドギーターの視点から見るならば、創造世界の一切はブラフマンで満ちているという結論に達します。
私たちのヴェーダは、単にブラフマンという語に姿形と意味を与えて、そこで止まるようなことはしてはいません。ヴェーダには、ブラフマンという語にもっと独特で特別な意味も与えています。ブラフマンという語の一つの側面は、何か測定可能な大きさを有していない、限りなきものという意味である。とヴェーダは説いています。もしこの世界に成長することのできるものがあるならば、そのブラフマンの側面はその成長をはるかに超える成長力を持っているということです。ブラフマンという語が意味する成長力は、私たちが理解可能なあらゆるものの成長力を上回っています。この、測定不可能で、私たちの理解を超える、無限のものという側面は、ブラフマンという語で描写されてきました。これは、成長と同義語、完全なる成長と同義語であると立証されています。この完全なる成長を象徴するブラフマンは、あらゆる点においてプルシャの特質を象徴しています。
「プルシャ」という語は、完全すなわち「満」というものを体験した者を指しています。プルシャスークタ〔プルシャ讃歌〕は、プルシャのこの側面を、千の頭と千の目と千の足を有する者と描写しています。人はその解釈において、その本当の内的意味をつかんでおらず、それどころか、間違った意味にとらえていることもあります。「サハッスラシールシャー プルシャハ」〔千の頭のプルシャ〕という言葉は、千の頭ということだけを考えて限定的に解釈すべきではありません。それが真に意味しているのは、プルシャのこの側面には幾千もの頭が含まれているということです。「頭」という語から、人々はすぐに普通に世の中で見る頭を連想し、千の頭のある主を思い浮かべます。これは正しくありません。頭という語を使うとき、この文脈では、そこにはプラグニャーすなわち英知という意味が含まれています。ここでの、すべての頭の中に存在するプラグニャーの完全性、すなわち英知は、プルシャの概念の象徴です。
プルシャを「サハッスラークシャ」〔千の目のある者〕と描写するとき、それは主には千の目があるという概念を礼拝するということを意味しています。ヴェーダの典拠によれば、この内的意味は、さまざまな人の目から発せられるエネルギーと光輝のすべて、すなわち、そのエネルギーの完全性は、パラマートマの象徴であるというものです。これが、神をサハッスラークシャ、千の目のある者、と呼ぶことの内的意味です。
私たちはプルシャを、「サハッスラパード」、すなわち「千の足のある者」とも描写します。神を千の目のある者、千の頭のある者、千の足のある者と描写することによって、私たちは何を意味し、そのように神を描写することによって、私たちはどんな利を得るのでしょうか? 肉体を運ぶ体力は足にあります。私たちの足がそれほどの力を含有しているために、私たちはどれほど体が大きくても楽に体を移動することができるのです。完全なる理解力すなわちプラグニャーナ、それから、完全なる輝き、そして、歩行能力に、ブラフマンという名前が与えられているのです。
視力を有して見ることのできる能力、聞くことのできる能力、心を働かせることのできる能力、肉体の重さに耐えることのできる能力は、神によって与えられたものです。これらすべての力は神によって与えられたものなのですから、神のみが、プラグニャーナム ブラフマーすなわち英知の化身、と呼ばれるのです。私たちが「プルシャ エーヴァ イダム サルヴァム」と言うとき、それは自らの内にその力の一切を持つ者であるパラマートマは、その力の一切を現してあらゆる場所を動き回っている、ということを意味しています。
ヴェーダのことを語ろうと、あるいは、フラフマンという語を使おうと、プルシャという語を使おうと、これらは同じ側面に付けられた別の名前にすぎず、これらの語のどれにも含まれている同じ概念を伝えているのです。単語は違っても、それらは一つの同じ概念を描写しています。粗大な姿の中にも、最も微細な極小のものの中にも存在するエネルギーはすべて、ブラフマンの側面の象徴です。
その全知、全能、遍在なる存在である主を心に抱いていたからこそ、アルジュナはヴィシュワ ヴィラータ(宇宙的存在)の姿をとった主にこう祈りました。
「私たちはあなたを理解することができるのですか? おお、主よ! クリシュナよ、あなたは最も小さな微粒子よりも小さく、最も大きな体よりも大きいお方です。あなたはあらゆる場所におり、つねに840万種の生き物の中にいます。そして、人はあなたをすべての泥棒の間で一番の大泥棒だということを知っています。」
アルジュナはこれらの主の側面を理解していたからこそ、主にそう祈ったのです。
そのおかげで、アルジュナは主の真の側面を理解することができました。「ブラフマーナム ブラーフマナ ヴァーハナム」――ブラーフマはブラフマンの運搬車である、とも描写されています。この文脈での「ブラーフマ」という語の意味を調べなければなりません。ブラーフマという語にはマントラという意味も含まれていると理解されています。この意味は、ヴェーダの化身であるプルシャは自らの運搬車としてマントラを有している、というものです。これが、私たちの国の国民が、マントラを基盤にして偉大さに到達した偉大な人々を頼りとしてきた理由です。私たちの国の国民はマントラを習得することを始めて、そうした偉大な人々の助けを借りて自らの浄化を得てきました。ただ「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」であるとか「オーム ナマ シヴァーヤ」といった言葉を唱えても、それはマントラにはなり得ません。マントラには二つの側面があります。一つ目はマナナ〔反芻〕、すなわち、習ったことを自分の心に入れなければならない、ということです。二つ目はトラーナ〔維持〕という側面で、これは、自分の心に入れたものをしっかりと心に定着させなければならない、ということです。もしあなたが心の中に神を入れ、それから、しっかりとそこに定着させて生活を送り、あなたに定められた仕事をすることができるなら、あなたの人生は幸せでいっぱいになるでしょう。
ヴェーダに典拠があるそうしたブラフマンという語の意味が、歴史家たちに捻じ曲げられてきました。そして、そのせいで、人々も周囲の自然界と創造世界の景観を捻じ曲げはじめました。このような状況において、ヴェーダに典拠を持つこれらの語の内的意味と、さまざまな歴史家によって与えられた解釈の意味が大変異なるのは、歴史家たちが自分の考えを解釈の中に持ち込んでいるせいだということがわかります。実際の意味と解釈された意味の間にはきわめて重要な違いがある、ということを心に留めておくべきです。一般の人たちは、そうした歴史家たちから与えられたものにすっかり信用を置きはじめ、彼らから与えられた意味を受け入れて、間違った意見と間違った意味を助長しています。
私たちと同国人であれ、国外からやって来た人であれ、ヴェーダの中にある意味が正式な意味であるということを受け入れることから逃げることはできません。ヴェーダは人間を起源をしているものではありません。ヴェーダは人間以外の源から生じました。すべての歴史は、体験した人々によって作られたものです。人間によって作られたものには変更、加筆、修正の可能性がありますが、人間を起源としていないヴェーダの場合、その可能性はありません。
ヴェーダは、音を聴くことによって得られてきたために、シルティ(聴くことによって学ばれるもの、シュルティ)と呼ばれています。これは主と直接結び付いているものであり、主の息が吐かれたものです。ヴェーダを構成しているその神の息は私たちの生命であり、もし息と生命がなければ信仰もないでしょう。そして、信仰がなければ人間は生命のないものとなるでしょう。ですから、ヴェーダを信じている国民は皆、自らの中に本当に生命を有している人と呼ばれることができます。あなたのハートにイーシュワラの側面が存在しない時、それはあなたの中には人間の特質がないということになります。始まりも終わりもないヴェーダの文化を忘れ、物質的な快適さに信用を置き、周囲に見る物質的な快適さにより多くの重要性を与えようとしてきたために、人々は自分たちの文化にとって必要不可欠なものを手放して、人生に大きな困難をもたらしています。
現代の若者たちは、ヴェーダを信じること、ヴェーダの戒めを受け入れることは、時代遅れで野蛮なことだと思っています。今の若者たちは、ヴェーダやシャーストラの内容はどんなものなのかという問いをしません。さらには、ヴェーダやシャーストラを信じている人たちはただ盲信しているだけだ、などと言っています。これが、若い人たちが持つようになった態度の類です。もし自分が論議しようとすることの内容に自分自身が精通してから論議するなら、どんなに長い時間でも論議することができますが、もし内容もわからずに論議しようというのなら、そのような人と論議するのは不可能です。
目の前に置いた光がどれほど明るくても、盲人はつねに暗闇を見ています。盲人の限られた能力がどれだけ違いを区別できるかということに関するかぎり、たとえ目の前に明るい光を置いたとしても、暗いというのが真実です。盲人以外の人の目には、それは真実ではありません。ですから、絶対的な真実というものは、個人に依存できず、個人によって違わないものです。それは全宇宙にのみ依存しているものです。
しかし、現代人は個人的な側面を認識し、個人として自分が見るものは真実であり、それは自分以外の世界中の人にとっても真実である、と公言しています。現代人は無限なる神性を認識しようという努力を何もしていません。ヴェーダは、サッティヤム(サティヤ)すなわち真実(真理)のさまざまな側面、グニャーナム(グニャーナ)すなわち英知のさまざまな側面、アナンタすなわち無限のさまざまな側面を説いています。私たちは、真実を真実として、知を知として説明する人たちが愚か者なのか、それとも、真実を真実でないものとして、知を無知として説明する人たちが愚か者なのか、と自問すべきです。この問いは、あなた方自身で答えられるものであり、結論に至ることのできるものです。ヴェーダを信じている人は2+2=4と言う人、ヴェーダを信じていない人は2+2=5と言う人のようなものです
私たちは、世界の大きさと基盤にかんする問いを自分に問うべきです。世界には大勢の人がいます。信仰のある人もいれば、信仰のない人もいます。信仰のない人を信仰している人もいます。他国には、神を信じていない人、個人の力を信じている人が、大勢います。彼らは個人の力を公言し、個人の力を名誉に思っています。それだけでなく、他の国の人や、他のさまざまな宗教の人もいます。人、宗教、信仰は、多々あります。クリスチャンはイエスを礼拝し、ムスリムはアッラーを礼拝し、ヒンドゥーはラーマやクリシュナ等々を礼拝しているでしょう。さまざまな人がさまざまな信仰を持ち、さまざまな信仰に忠実です。しかし、そうした人々は皆、自分は異なる信仰を持ち、異なる神を信仰していると公言し、異なる神を礼拝していますが、その中に真実から離れている人は誰もいません。真実というものは、そうした人々全員に共通のものです。ロシア人であれ、中国人であれ、パキスタン人であれ、2+2はいつでも4であり、この真実はそのすべての人によって認識されるのです。
どの国の、どの宗教の人も、ヴェーダは真実の根拠を立証しているということを理解しなければなりません。私は昨日、この一ヶ月の間に私はブラフマンの意味とバーラタという語の意味を説明しますと述べました。あなた方の中には、ブラフマンとバーラタという語はこの国の国民だけに関係のあるものだと感じている人もいるかもしれません。それは正しくありません。これらの語はすべての国の人々にとって重要な単語です。バーラタに属している人たちはブラフマンという語を使い、他の人たちは別の名前を使っているかもしれませんが、ブラフマンの側面に敵対する人は一人もいないでしょう。
タンブラーに水を入れるとします。外国人はそれをウォーターと言い、北インドの人はパニと言います。テルグ語を話す人はニールと言います。別の名前が使われていても、タンブラーの中に入っているものは同じものです。場所は異なるかもしれません。名前は異なるかもしれません。しかし、人々が名前を付けた物質そのものは変わり得ません。それと同じように、重要な神の側面は、さまざまな人がそれを別の場所で別の名前で呼んでいても、同じです。成長の主たる原因であるものが、さまざまな場所で別の名前で呼ばれているのです。バーラタにとっては、それはブラフマンの側面です。それを「自然の力」と呼ぶ人たちもいます。その人たちはブラフマンの側面を描写するのに「自然の力」という語を使っていますが、「自然」という語が何を意味するのかを理解していません。
あらゆる形をしたあらゆる物質は、存在するための基盤を有しています。私たちは、その存在のための基盤を調べて見つけ出さなければなりません。たとえ、それが生まれた原因であるものを見ることができなくても、それを生んだ人は存在するはずです。たとえば、あなたが腕時計をはめていて、それはどこで作られたものかと聞かれたら、あなたはどこかスイスの会社で作られたものですと言うでしょう。そして、そのスイスの会社を見たこともなければ、その腕時計を組み立てた人を見たこともありませんが、その時計を使っています。その時計は自然発生したのでしょうか、それとも、誰かが時間をかけてそれを工場で製造したのでしょうか? その時計を作った人は、当然、時間の分割の仕方と時間の測り方を知っているはずです。もしそれを知らなかったら時計は作れません。ですから、時計の組み立て方を知っている誰かが、どこかにいるはずです。人々は、その時計を組み立てた誰かがいるということを、容易に受け入れています。
それと同じように、空には人工衛星が仮設の星として存在しています。私たちはどこかの科学者がそれらを打ち上げたということを承知していますが、人工衛星やロケットが活動するのは限られた時間だけです。もしあなたが、限られた命しかないロケットが個人によって作られたということを受け入れているならば、私たちの目に見える恒星は誰が作ったのかという問いが生じます。太陽や月や地球の運行は規則的になされ、その規則が崩れることはありません。私たちは、誰がそれらにそれほど規則正しい運行を与えたのかと尋ねなければなりません。計りしれないほど大きなこの世界の創造、これほどまでに規則正しく動いている太陽や月の創造、あるいは、人体における心臓の規則正しい鼓動や肺の機能は、議論の余地なく背後に神の創造の手が存在する神秘です。「これほど恒久的で規則的なものの一切を創ることができたのは誰ですか?」と質問すると、人々はその問いを脇に置き、ただ「それは自然のことです」と言うだけです。人々はその一切を創った創造主を知らないのです。
創造主の存在を受け入れないというのは、非常に愚かなことであり、頭が固いのです。神の力、すなわち、万物の創り手である神の側面は、ブラフマンです。この国の人々は、理性を使って、ある到達点まで上がることができました。そのようにしてある到達点まで上がった人々は、限界というものがあり、その地点を越えて行くことができないということを学びました。そのような状況では、自分たちが知らない何かが存在するということを受け入れたほうがよいのです。それをしないで自分たちの理解を超えるものは存在しないと言うのは、非常に愚かなことです。私たちは、理解する努力をし、真実を探し、それを実行に移さなければいけません。
今日でさえ、科学者たちが本当に学んだことは、存在する学ぶべきことの非常に小さな断片にすぎません。科学者たちがその小さな断片を学んでから積み上げたプライドは、まったく不釣合いなものです。エゴと慢心に入り込む隙を与えた時、人は理解できることも理解できなくなります。科学者たちが自分たちの仕事の結果として行き着いた結論は、しばらくすると、科学者たち自身によって改められています。科学者たちは自らが行き着いて下した結論を批判し、変更しています。そして、これが最終段階であり、もうこれ以上すべきことはない、と言える科学者は一人もいません。
アディヤートミカな道〔アートマに関連する道、霊性の道〕においても、私たちの伝統においても、「これは真実ではない、これは真実ではない・・・」と明言することを慣習としてきました。そして、最終的に自らの内なる目によってある段階に達し、そこでは、これこそは真実であると言うことが可能となり、アートマの側面を表明し、究極の真実とは何かを悟るのです。
今の科学者たちは、機械的な哲学に心酔しています。彼らはマントラの力を知りません。彼らの知識は外的な物事の研究を積み重ねたものです。それは内側から神髄として生じたものではありません。機械に心酔している人、外側からの情報を自分の中に詰め込んでいる人は科学者であり、内面の力を開発する人、マントラの力に心酔する人は聖者です。
科学者と聖者の違いはとても大きく、本質的なものです。この根本的な違いを理解するのはとても難しいことです。この困難な関係性を理解しようとして、そのために時間をかけるのは、すべきでないことです。すべてものの基盤であり、創造世界の一切の土台である力と強さを構成しているものを、私たちの文化はブラフマンと名付けて認識してきました。ブラフマンの側面を理解するために何年かけてたとしても、それは完了しないでしょう。月は私たちの手には届かず、遠くから指差すことしかできません。それと同じように、計り知れず、手の届かないブラフマンの側面を理解することはできず、その神性を何か自分の選んだ言葉で認識するしかありません。ブラフマンの側面は時間を超越しており、容易に手の届く範囲を超越しています。もしそれを理解したいなら、時間の上にある、時間を超越した方法を採らなければなりません。このような状況の中で、古代人たちは「ブランマヴィッド ブランマィヴァ バヴァティ」と述べました。この意味は、「ブラフマンの側面を知る者はブラフマンになる」というものです。
かつて、ヴィヴェーカーナンダは、「もし私の賢さ、私の能力を理解したい人がいるならば、まずその人自身が賢くなり、その人自身が能力を持つ必要がある」と言いました。あなたの努力の結果は、あなたの努力と犠牲の程度によるでしょう。最終的な結果は、もっぱら、あなたが傾ける努力に相応のものとなります。
私たちがブラフマンという語で表現しようとしている力や強さは、外的なものではなく、あなたの外側にあるものではありません。それはあなたの中に、あなたの自己の中にあります。もしあなたが善いことや悪いことを得て、外側に存在するブラフマンがそれをもたらした、あるいは、ブラフマンがあなたを罰している、などと思い違いをすることは、正しい姿勢ではありません。空中に楼閣を描いて、自分がこれをする、あれをする、自分がこれを達成する、あれを達成すると考えて疲れ果てる、という癖をつけてはなりません。あなたが得る果報は、あなたが植えた種に相応のものになります。もし植えた種とは別の果実を得たいという大望を持っても、そんなことは可能でしょうか? あなたはとても賢いかもしれませんが、もしあなたがその卑しさを捨てなければ、賢さはすべて何の役にも立ちません。あなたはどんな善いことや悪いことをしたかもしれませんが、ブラフマンの側面がその善悪を粉々にしてくれることはありません。
パラマートマは、あなたが積み重ねてきた善のすべてと悪のすべてでできた、枯れることのない花輪をあなたに与えます。それは目には見えない花輪で、誰もがそれを首に掛けています。それはまさに、あなたが行った一切の善と一切の悪で作られています。あなたがお母さんの胎内から生まれた時、そのネックレスは目には見えません。あなたの首には真珠のネックレスも金のネックレスも着いていません。あなたはダイヤモンドのネックレスもエメラルドのネックレスも着けていません。そうしたネックレスは着けていませんが、あなたは生まれた時、過去に自分が行った善行や悪行をいっしょに携えて来るのです。
善い行いをして悪い報いを得ることはできず、悪い行いをして善を積むことはできません。どんな種類の行為をしたとしても、その果報はその行為の種類に相応するものとなります。ですから、あなたは今日、自分は善いことだけしかしない、そうすることで来世では善行の果報だけを得よう、と心を決めるべきです。今日善いことをして、そうすることで自分にとって善いことを得たいと望むべきです。ブラフマンはあなたのハート中に存在し、目撃する意識としてずっと働いています。「誰も私が悪いことをしているのを見ていない」と考えて自分を裏切るのは、正しいことではありません。誰かが見ていようが見ていまいが、千の頭と千の目がある者と描写されるブラフマンの側面が、いつもあなたを見ています。あなたの行う善悪を見ています。
このブラフマンの側面は、いつもあなたと共にあり、ずっとあなたの中に存在しています。あなたは、ブラフマンはいつもあなたと共にあるという根本的な真実を知ること、理解することのないまま、神はどこかにいるのだからハートの外の別の場所で神を見つけなければと考えて、多くの時間とエネルギーを使っています。だからこそ、バガヴァッドギーターの中で、神はあなたがどこに行こうとも存在していると描写されているのです。あなたが歩けば神はあなたと同じ歩幅でいっしょに歩きます。実際、神の足音は、たびたび聞こえます。神に向かってこう言って祈る信者がいます。「おお、神よ! あなたは私の困難を見ていないのですか、私の状況を見ていないのですか?」。そのような人には、神の目だけが見えるようになります。「おお、神よ! あなたは私の祈りが聞こえないのですか、なぜあなたは私の困難に耳を傾けないのですか?」と言う信者の場合、神の耳だけが見えるようになります。主は問題を見ないのかと問う人には主の目だけが現れ、主は問題に耳を傾けないのかと問う人には主の耳だけが現れます。そして、主にいつも自分といっしょにいてほしい、自分は主の後をたどって行為をしたいと望む人には、主の足だけが現れるでしょう。
ある信者がクリシュナに祈りました。「私はとても多くの困難を抱えていて、それをあなたにお渡ししたいのです。でも、私はあなたから遠く離れています。あなたに近づくことさえできれば、私はこの困難をあなたにお渡しすることができます」。それから彼女はクリシュナがよく吹いていた笛を求めました。なぜなら、笛はクリシュナの唇に触れるほどクリシュナに近づくので、クリシュナに自分の困難を手渡すにはそれくらいクリシュナに近づくチャンスがある笛を使うのはもってこいだと思ったからです。そのようなことを求めることは、当時から今日まで広く慣習として行き渡っています。神に近い道具を通じて主に求めることが、当時から現在に至るまで続いているのです。
どんな道具が、そして、どんな人間が主に近づけるのかも知るべきです。先ほどの話の中に笛が出てきましたが、笛は主に近づける道具の好例です。笛には一つの偉大な特質があります。それは全託です。笛の中には何も残っていません。どんな欲望も残っていません。実際、笛の内側はまったくの空洞です。笛には9つの穴が開いていますが、私たちの体にも9つの穴があります。笛が主の近くに行けたのは、笛の中には何も竹の繊維質は残っておらず、完全に空っぽだったからです。ですから、それと同じように、もし自分の体から欲望という繊維質をすべて取り除くことができれば、疑いなく、私たちの体という笛も主の近くに行くことができるのです。
「全託」という語は、誤って解釈され、人々は全託という名の下に怠け心を膨らませています。人々は自分の心(マインド)と思考と体を主に全託したと思っています。実際はそれは本当ではなく、人々は主を欺く方向を向いています。人々は主を騙しているのです。あなたの心はあなたの支配下になく、そのような状態で、どうやってあなたは心をつかんで主に手渡すことができるでしょうか? あなたは自分の体への支配力を持っていません。もし小さな切り傷を負って体から血が出たら、あなたはお医者さんのところに急いで行って包帯を巻いてくださいとお願いしします。もし体があなたのもので、あなたが体を完全に制御しているのであれば、どうして流れ出る血を制御することができないのでしょうか? このような状況であなたが自分の心と体を主に全託したと言うのは、真実でない言明です。
「全託」という語は、与える者と受け取る者が存在し、あなたは誰かに全託している、ということを伝えています。全託という語には二元論の感情が含まれています。二心を抱く者は半盲です。そのように二元論の思考を保っていて、どうして不二の側面を認識することができるでしょうか?
全託の真の意味は、すべての人の中、すべての場所に、神は存在する、という事実を認識することです。すべてのジーヴァ〔個々の生き物〕の中の神の存在を認識することが、全託という語の真の意味です。あなたに課せられたすべての務めを義務として行うべきであり、「私はすべてのことを主に全託しています」などと言って自分は怠けてあぐらをかいて義務を怠るのは、正しいことではありません。もしあなたに自分が行うすべての行為は神を喜ばせるためのものだという気持ちがあるならば、それこそが、全託すなわちシャラナーガティの、正しい側面です。あなたが行う悪の報いをすべて神に差し出し、あなたが行う善の報いだけをすべて自分が受け取るというのは、全託の意味ではあり得ません。
多様性の中に存在する単一性はブラフマンの側面です。それはあらゆる場所につねに存在している、というのは認識すべき真実です。この言明を心底信じることも全託の一つの側面です。ですから、もしブラフマンという語の意味と重要性を理解したいのであれば、相当な努力をし、注意を払わなければなりません。そして、今語られていることに細心の注意を払って耳を傾け、理解しなければなりません。
集中力を深めることができるようになるには、ヨーガも実践すべきです。しかし、あなた方が今受けている類の教育と学習は、これらに必要なものとは正反対の習慣をあなた方に与えています。経験豊富な多くの教育者が、毎日あなた方にさまざまな側面を話しに来ています。大きな注意を払って彼らの言うことに耳を傾けるべきです。決して究極の目的を見失ってはなりません。あなたがここで夏期講習に参加した成果として、あなたが日々の大学でのクラスで習慣としている方法が変わらなければなりません。時たま、小人数のクラスでさえも、先生が何か特別な側面について教えている時に、後ろの席で授業とは関係のない役に立たない小説を読んでいる学生がいます。先生がそれに気づくと、その学生はただ、にやにやします。夏期講習でそのようなことをしてはなりません。私たちはこの夏期講習で神聖なことを学びはじめています。ですから、あなた方は自分の行いを制するよう努めるべきです。おしゃべりは論外です。ここはおしゃべりをする場ではありません。もし何かが必要であったり、何かを手に入れたい場合、外に行く必要はありません。そうした手助けをするために特別に任命された人たちがいます。キャンパスの外に出て箍(たが)を外してはなりません。
同様に、もし喫煙や飲酒を習慣にしているならば、そのようなことはやめなければいけません。どんなささいなことでもボランティアの助けを得ることができます。皆さんは将来の国民であり、私たちの国の繁栄の守り手となる人たちなのですから、自分の振る舞いを制する習慣を付けるべきです。もし喫煙のような小さな取るに足らない習慣をやめられなかったら、どうやってさまざまな感覚器官を制する力を得られるようになるでしょう? 小さなことを制することができずに、どうやって難しいことを制するのですか? もし今月中にそうした小さな取るに足らない習慣を制することができなければ、どうやってもっと大きなことを制するという目標を達せられるでしょう? あなたはただ地球のお荷物となって、食べた食べ物を無駄にしているだけになってしまうでしょう。皆さんが自宅に帰った時、両親や友人が、あなたの多くの好ましい変化に気づき、あなたが夏期講習で身につけた善いものを見ることができ、夏期講習のことをよく言うようになるべきです。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Summer Showers in Brindavan 1974 PartI C3