サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年5月
夏期講習におけるババの御講話(4)より

サット チット アーナンダは万人にとって自然なこと

人は行為に携わることから英知を得られる
賢人がどんな行為をしても、それは無知な人のためになるのみ
もし賢人たちの敷いた道に従うなら、
人はこの世界のアートマの側面を熟知するようになる

清らかなアートマの化身(パヴィットラ アートマ スワルーパ)たちよ、

学生諸君、青年男女たちよ!

タイットレーヤ ブラーフマナ〔タイッティリーヤ〕は、ブラフマンという単語の音で始まっています。ブラフマンという単語は、ヴェーダに出てくる場合、ウパニシャッドに出てくる場合と同じ意味にも用いられています。このブラフマンの側面は有用です。なぜならば、それはヴェーダの中に詳しく述べられているからであり、さらには、ヴェーダもブラフマンの一つの側面であるからです。ブラフマンという意味で用いられるヴェーダという単語と、ヴェーダという意味で用いられるブラフマンという単語は、互いに不可分に結び付いていています。リグヴェーダの中には、「ブラフマンという単語は根本的なものであり、そこから生じるすべての音と単語の基盤を構成している」という意味の聖句があります。単語がマントラを作るのです。ですから、ブラフマンは、すべての霊的な聖句とヴェーダの基盤なのです。単語を構成している音節どおりに、さまざまな単語が形成されます。音という形で口に出す発声〔ヴァーチ/ヴァーク〕が、単語という形をとるのです。そうした単語の集まりが、ヴェーダを構成しているのです。

何であれ発声によって伝えられたものは、アディデーヤムという名前を得ます。アディデーヤムという単語には、ブラフマンの側面という意味もあります。そうした発声された単語の集まり、すなわちアディデーヤムが、ヴェーダの聖句を構成しています。ですから、すべてのものは言葉が基盤であることは明らかです。そして、発声が生じるための土台は、ブラフマンという単語なのです。

皆さんは、発声には二種類あることに気づくでしょう。一種類はサンスクリット語と結び付いており、もう一種類は一般に話されている言語と結び付いています。この二種類の違いを示す小さな例をあげましょう。「ゴー」と「アッシワ」という二つのサンスクリット語の単語がありますが、一般に話されている言語を用いる時は、「牛」と「馬」という単語を使います。これら二種類の語が伝えている意味に違いがあるかどうか調べてみれば、単語は違っても意味はまったく同じである、という結論に達します。そうであるなら、もう一つの例に注目することができます。「ムルッテュ」という単語がありますが、これは「塵」〔土〕を意味します。これは一般に話されている種類の語です。もう一つ、「ガタ」という単語がありますが、これは「水差し」のことであり、特殊な形の陶器の名称です。この「ガタ」と「ムルッテュ」という単語は、それぞれ「水差し」と水差しを作る「陶土」のことです。これらの単語は発声から生じました。もし基盤を構成する「陶土」が存在しないなら、「ガタ」も存在せず、私たちはその特殊な形の陶器を手に入れられません。

それと同じように、発声は一般的な共通の形であり、単語は発声の特殊な形として生じます。結果として生じる、単語と呼ばれる特殊な形の基盤は、発声です。ここで私たちは、結果として生じる単語と発声との結び付きを見る必要があります。特殊な形と土台すなわち特殊な形を引き起こす基盤との関係について自問と、発声は単語という特殊な形の基盤として存在している、という結論に達します。パダールタ(物質、物体)の意味について自問すると、それは単語という意味を表しているという結論に達します。こうした不可分の関係ゆえに、私たちは、意味を持たない単語は存在し得ず、特定の単語がなければ知覚可能な意味は存在し得ない、という真理に到達します。

リグヴェーダには、「単語の基盤を形成する発声はどちらもブラフマンが土台である」と述べられています。ですから、私たちは、単語と、単語の基盤すなわち発声は、どちらもブラフマンが土台であるという結論に到達します。そうである時、私たちは世界それ自体がブラフマンを自らの土台としている、ということに気づかなければなりません。それに気づかないのは愚かさです。それゆえ、ブラフマンは、単にさまざまな創造物の集まりである世界の基盤なのです。全世界は、単にさまざまな発声の特殊な形で構成されているものです。ゆえに、私たちは、全世界はブラフマンで満ちている、という結論に達します。

音を口に出す時はいつも、その音は単語をもたらし、単語はその語が描写しているものの存在を表します。それは私たちの発声と世界の実物とを結び付けます。創造物のすべては音から生じ、発声は多くの人が知っているものです。音は全世界の基盤であるという共通の事実を無視することによって、人は単語のことは忘れて、単語の意味に一致する物により大きな意味を置いています。そのようにして、人はブラフマンのことは忘れて、物の名前である単語を重視しているのです。私たちはまず、物と物の基盤すなわち土台との関係を知らなければなりません。一度それを明確につかめば、音と音から生じる単語がヴェーダを構成しているということに気づくでしょう。

ヴェーダはもっぱら単語の集まりであり、マントラはもっぱら単語を口から発することなのですから、私たちは、ヴェーダに含まれているものはすべてブラフマンの同義語である、という結論に達します。そうである時、当然、ヴェーダとブラフマンは、二つの不可分なものであり、互いの同義語である、ということになります。以上の論証によって、音が根本であり、音の特殊な形が単語であり、単語はさまざまな物の名称である、と言えるのです。ですから、さまざまな物の名前は単語であり、そうしたさまざまな物で構成されている全世界は、音を基盤としているのです。ですから、私たちは、ヴェーダに含まれているブラフマンの側面はヴェーダそのものを意味するものである、という結論に達します。

ブラーフマナには、「ブラフマンは、シャブダすなわち音と同一である」と述べられています。ブラフマンの側面は私たちがこの世界で見るものとは別個のものであると見なすべきではありません。シャブダすなわち音それ自体が万物の基盤であり、音が単語を生じさせるのです。単語は、私たちが自分の周囲で見るものを意味します。それは人生の8つの側面とつながりを持ちます。それらは次のものです。

シャブダ ブラフマン〔シャブダ ブランマーマイー〕すなわち、音に関連する側面、

チャラーチャラ マイー、すなわち、動くものと動かないものに関連する側面、

ジョーティル マイー、すなわち、光輝の側面、

ヴァーング マイー、すなわち、発声に関連する側面、

ニッティヤーナンダ マイー、すなわち、永遠の至福の関連する側面、

パラーットパラ マイー、すなわち、この世とあの世に関連する側面、

マーヤー マイー、すなわち、幻に関連する側面、

シリー マイー、すなわち、繁栄に関連する側面

これらはすべて、音、動き、明るさ、発声、マーヤー、繁栄、等々で満ちており、ブラフマンと呼ばれています。これら大切なサンスクリット語の単語の中には、非常に重要な意味が潜んでいます。私たちは、大きな木は小さな種の中に潜んでいるということを知っています。それと同じように、これら短いサンスクリットの単語は普通の語に見えますが、それらの単語の意味を掘り下げると、一つひとつの単語には大切で重要な内的意味が含まれている、ということに気づきます。

人々は、ブラフマンのこの無限という側面には三つの意味がある、とも考えています。それは、サット(Being 存在/実在)、チット(Awareness 気づき/覚醒意識)、アーナンダ(Bliss 歓喜/至福)です。最初の単語、「サット」は他の単語よりも重要視されています。「チット」は「無限なるものに関する知識を与えるもの」と見なされています。「アーナンダ」は、「五感で感じる幸福とはだいぶ異なる類の形のずっと高次の幸福の歓喜」と見なされています。最初の特質は「存在していること」であり、これは永遠の象徴のことを言及しています。次の特質は「気づき」であり、三つ目の特質は「歓喜」です。これら三つの特質はブラフマンと結び付いています。

最初の単語、「サット」については、一般的な日常生活の中から例をあげましょう。この世では毎日多くの人が死んでいき、遺体が処理されています。日々、何人かの人が死んでこの世を去っているという事実にもかかわらず、人々は皆、自分はずっと生き続けるかのように思っています。何人もの人の死を見ているにもかかわらず、人々は、それでもなお自分はずっと生きていたいという欲を持っています。自分だけは永遠だと本当に感じているのです。その気持ちは無知のゆえなのか、あるいは知識がないからなのか、そして、それは幻想なのか否か、と自問してみれば、それはとても重大な真実である、という結論にたどり着きます。人の中には永遠性という特質が存在しており、不滅なる神我が人に自分は永遠だという気持ちをもたらしているのです。

人は毎日、悲しみと喜びを見たり体験したりしていますが、それはこの世界ではまったくあたりまえのことです。しかし、人は、歓喜すなわちアーナンダを熱望します。このことにはどんな意味があるのでしょうか? それはブラフマンの側面を意味しています。それは人の中にあるアーナンダの側面なのです。誰もが知っていることですが、一時の困難に陥ると、人は、「ああ、神様! 私をこんなに苦しい目に遭わせるくらいなら、どうして私を死なせてくれないのですか?」などと言いがちです。この言葉は、実際にはハートの奥から出た言葉ではありません。自分は困難な人生を生きるより死んだほうがましだ、などということをハートの奥から言う人は誰もいません。それは、ただ表面的な気持ちであり、自分の心が一時的に困難な状況にあるために生じたものにすぎません。

木を切って薪を売る仕事で生活をしている男がいました。その男がある日、山の上にいた時のことです。男はたくさんの薪を集めた後、それらを売ろうと走って山を下りていきました。男は山を下り終えるまでにすっかり疲れてしまい、薪の束を運び続けることができなくなってしまいました。男は薪を地面に下ろして休憩することにしました。その後、男は再び自分の頭の上に薪を載せようとしましたが、できませんでした。男は疲れきっていて、いらいらしていました。男はそのような心の状態の中で、自分はまったくついていない、死の女神でさえ自分を哀れんでこのいまいましい生活から自分を連れ去ってくれない、と独り言を言いました。男がそのような心の状態にあった時、その場に死の女神が現れました。死の女神は、自分は呼ばれたのでやって来たと言いました。しかし、男には、自分の命を差し出して死の女神といっしょに行く気はありませんでした。そこで男は言いました。「私があなた様を呼んだのは、この木の束を私の頭の上に載せるのを助けてくれる人がいなかったからです。私が望んだのは手助けでございます。」

苦悩や困難な状況に陥った結果として、時たま人々は、自分は死んだほうがましだなどと思うことがありますが、実際には、足腰の利かなくなった老女さえ、この世を離れたがらない、というのが本当です。このことから私たちは、人は永遠という、一人ひとりの中に存在するブラフマンの特性に本当に憧れているのだ、ということを理解すべきです。私たちは、何が人々に永遠に生きたいと思わせ、憧れさせているのかを問うべきです。私たちは、そうさせているのはブラフマンである、という答えを得ます。ですから、アーディヤートミク〔霊的すなわちアートマ的〕な道にいようが、神への信心をまったく欠いた道にいようが、人々はしきりに何かに憧れており、何に憧れているかというと、ブラフマンの側面に憧れているのです。

次の単語、「チット」を理解しようとする時、私たちは本当には何を知っていたいのか、ということを自問すべきです。人は自分が見聞きするすべてのものを知っていたいのです。何人かの人がいっしょになって何かを話しているのを見ると、人はすぐにそこに行って何を話しているのかを知ろうとします。たとえそれが自分と関係のないことであっても、人はそれを知りたいと思います。四六時中子供と時を過ごしている母親や、自分の子供への愛情にあふれ、子供たちのことを気にしている父親は、この側面についてよく理解するでしょう。子供を映画館や展覧会に連れて行くと、両親はさまざまな事柄について質問攻めにされることがよくあります。母親と父親は、しばしば子供からの質問の多さにうんざりしてしまいます。親に連れられている子供が、「これは何?」、「あれは誰?」、「これはなぜ?」等々と質問し続けるのは、どうしてなのでしょう? 子供はこうした質問を親がうんざりするまでし続けます。こうした質問の中には、子供の側はこの美しい世界を見て、全世界を自分の中に入れようとしている、ということが見て取れます。

すべての物事を知りたいという欲は、何の側面に属しているのでしょうか? そうした子供と、子供が理解したがるさまざまな物事との間には、何か結び付きがあるのでしょうか? そうした子供と、子供が学びたがる物事のとの間には、何か関連があるのでしょうか? それらには何の結び付きも関連もありません。子供の中に何か内なる欲求と強烈な気持ちがあり、それによって、子供は自分の周囲のあらゆる顕現について知っていたい、学びたい、と思うのです。これはブラフマンの側面の一つです。だからこそ、「気づきは人生である」と言われているのです。言い換えるなら、すべてに物知りになりたいという欲があなた方のハートの中に存在している、ということです。

三つ目の側面は、「アーナンダ」、すなわち歓喜〔至福〕です。人はいつも歓喜を得たいと思っています。実際、人は歓喜に憧れています。人はどんな時でも、どんな状況の下でも、悲しみを得たいなどとは思いません。歓喜は私たちにとって自然なことです。悲しみや苦痛は人間にとって不自然なことです。小さな例があります。子供が幸せそうに遊んでいる時には、母親でさえ子供に何も尋ねませんし、その幸せはどこからわいてきたのか、などと訪ねることもありません。けれども、もし子供が泣いていると、母親は自分がその時している作業がどれほど重要なことであっても、子供のもとに走っていきます。子供が泣くというのは不自然なことであり、すぐに母の注意を引くのです。もし誰かが幸せで楽しく過ごしているなら、誰もその人のところに行って、どうしてそんなに幸せなのですか、などとは尋ねません。もし誰かが泣いていれば、それに気づいた人は誰もがその人のもとに行って、どうして泣いているのですか、と尋ねます。悲しみは私たちにとって自然なことではないのです。ですから、誰かが悲しみに沈んでいると、どうして悲しんでいるのかと尋ねたくなるのです。もしあなたが幸せであれば、誰もあなたのところに来て、どうしてあなたは最近泣いていないのですか、などと尋ねはしません。ですから、私たちにとってアーナンダ、すなわち歓喜は自然なことであり、それは私たちの強みなのです。その歓喜と幸せが、私たちのアートマという形をとっているのです。この存在、すなわち存在していること、この気づき、そして、この歓喜が、私たちの中のブラフマンを構成しているのです。もしこれらブラフマンの側面を自分の外側に探そうと努めても、見つけることはできません。それは行うべき正しいことではありません。ブラフマンのこの側面は、私たちの命の一部です。ブラフマンのこの側面は、シャンカラによって「ジーヴォー ヴェーダイ」と描写されています。

すべてのヴェーダは、「タット トワム アスィ」という語によっても描写されています。これは、「あれはあなたです」という意味です。至高者すなわちパラマートマと、個人すなわちジーヴァートマとの間にある、この種の同一性は、ヴェーダによって公言されてきました。人は、ブラフマンの不滅の側面を永遠でない自分の体と結び付けていて、自分の神我と結びつけていないため、時おり間違った意味でとらえてしまうことがあるのです。冷たい水の入ったポットに触ると、私たちはそのポットは冷たいと感じます。けれども、実際は冷たいのはポットではありません。ポットの中に入っている水が冷たいのです。冷たいのは水の本性です。もし水が冷たくなかったら、私たちは何かおかしいと考えます。バドリーナートに巡礼に行くと、多くの人はブラフマークンドの近くに温泉があることを思い起こすでしょう。アラカナンダー川には冷たい水が豊富にありますが、なぜその水は冷たいのかと尋ねる人は誰もいないのに対して、泉の水が熱いのがわかると、人々は驚いて、この温泉はどうして湧いているのかと尋ねます。何か不自然なことや通常状態とは逆のことがあるといつも、あらゆる疑問が生じて、質問がなされます。

人が疑問の束を抱える原因は何でしょう? 人がとても多くの疑問を抱く主な理由は、当然送るべき自然な方法で自分の生活を送っていないからです。人は、人間がすべき振る舞い方で振る舞っていません。なぜなら、人は自分の中の神我の本当の意味を理解していないため、人がすべき人間らしい振る舞いをしていないのです。これが、人間のあらゆる疑問の基盤です。人は、探求をしてブラフマンの側面を理解しなければいけません。なぜなら、それが人と人との関係の基本的な原因だからです。ですから、まず第一に、私たちは。ブラフマンの三つの側面、すなわち、サット〔存在〕・チット〔気づき〕・アーナンダ〔歓喜〕を理解すべきなのです。誰の中にもサット〔存在〕という側面があり、誰の中にも知というものがあり、誰の中にも歓喜が内在しているのです。ですから、誰もがブラフマンの側面だけに執着を置かなければなりません。ところが、人は体への執着という幻想を募らせ、そのせいで、ブラフマンの本当の側面を理解できずにいます。

小さな例があります。人々は家庭でラッドゥ〔インドのお菓子〕をこしらえますが、ラッドゥの主な材料はベンガル豆の粉です。皆さんはその粉を味見したことがありますか? 豆の粉だけでは何の味もしません。粉に砂糖を加えるから特別な味になるのです。国内の別の地域では米粉で特別なお菓子をこしらえますが、米の粉それ自体には味はありません。粉に加える砂糖が、米粉をお菓子に変え、甘さをもたらすのです。他の地域では、ラヴァ ラッドゥをこしらえますが、これは小麦粉で作ります。小麦粉自体には味はありません。小麦粉は砂糖が加えられて初めて甘くなるのです。このように、違う種類のお菓子でも、どれも基本の材料は砂糖です。どのお菓子にも共通しているのは砂糖です。これらの類似性と同様に、私たちがこの世界で自分の周囲に見るものにはすべて、共通の構成要素として神の甘さが存在しているので、そのすべてに甘さがもたらされているのです。

それと同じように、プレーマ(愛)という形をとったブラフマンが、さまざまな心に入り込み、人と人との間に執着を作り出します。もし母親が子供に愛情を示していたら、私たちはそれをブラフマンの神性の一つの側面であると解釈すべきであり、ただの身体的な関係だと解釈すべきではありません。それは母親の中にプレーマ(愛)として存在するブラフマンの側面です。ブラフマンの側面がプレーマ(愛)という形となって母親の心に入り込み、愛情という姿をとるのです。プレーマ(愛)は、友人たちの心に入り込むと友情という姿をとります。親類の中に入り込むと血縁関係という形をとります。夫婦の中に入り込むと情欲と愛着という側面をとります。人々の好むさまざまな物に広がると欲望という形をとります。その側面が神に向けられると、私たちはそれをバクティ〔信愛〕と呼びます。プレーマ(愛)というものはブラフマンの側面であり、それゆえ、プレーマ(愛)はすべての人の中に存在しています。私たちが「サルヴァム ヴィシュヌ マヤム、サルヴァム ブラフマ マヤム」(この一切はブラフマンなり)と述べる時、私たちは、真理を、反論の余地のない真理を、明言しているのです。これは私たちが、「愛は神、愛の中で生きなさい」と言う理由でもあります。私たちは、「一日を愛で始め、一日を愛で満たし、一日を愛で終えなさい。これが神に到る道です」とも言っています。一日を満たすこの一つの側面は、神の同義語である愛です。ですから、私たちはこのプレーマ(愛)という側面で心を満たすべきなのです。

プレーマ(愛)は多種多様なものではありません。プレーマ(愛)はただ一つであり、それと同じように、ブラフマンも多様ではありません。だからこそ、私たちは、「エーカム エーヴァ アドワイッティヤーム ブラフマー」すなわち、「ブラフマンは唯一無二である」と言うのです。ですから、もし万物が一つであることを理解したいと望むなら、さまざまな生き物の中に隠れているブラフマンを認識することによって、それを理解することができるのです。もしブラフマンのこの側面を理解しようというのなら、人間の側面から始めて、徐々にブラフマンの側面へと上がって行くことです。

単にあなたに人間の姿が与えられているからといって、自分はまさしく人間だと考えるべきではありません。それは外側の姿は人間であるということを示しているだけです。内側の側面がブラフマンの本当の側面です。ブラフマンは特定の姿も特質も有していない者であり、そのブラフマンがあなたのハートの奥底に存在しているのです。ブラフマンがあなたのハートの中にいるというのに、別のさまざまな者の振りをしたり、偽りの姿を装ったりするのは、正しいことではありません。体は神殿であり、ジーヴァ〔個々人〕はその寺院の中に住む永遠なる主なのです。ですから、永遠であり、真理の象徴であるブラフマンの側面があなたのハートの中に住んでいるのであり、もしそのような状況の下であなたが欲をむきだしにしたり、ねじ曲がったものを見せたりするならば、それはあなたのハートの中に住んでいるその永遠の側面に対して不当なことをしていることになるのです。ですから、私たちはブラフマンのこの側面に達する努力をすべきであり、たとえ少しであれ、そうすることによって、他の人々が善い行いをし、善い道を歩み、善い行いの果報を楽しむことができるよう手助けをすべきなのです。

青年男女たちよ! あなた方の心(マインド)は神聖です。この一ヶ月、神聖な事柄を学んでいる間、あなた方は自分の生活を理想の生活に変えて、他の人々の手本となるべきです。あなた方の中にそれほどの変容が起こるようにするために、私たちの国の文化を熟知している何名かの年長者が、あなた方がその目的地に到達するのを助けようと、自らの知識をあなた方に分け与えて自らの体験をあなた方と分かち合うことに着手しています。バーラタの国民として生まれていながら、もし自分の母国に名誉をもたらすこと、私たちの文化と歴史を理解して吸収することができないなら、それは恥ずべきことであり、不名誉なことです。ですから、私たちの国の文化を理解するためにあなた方が最初に挑むべきことは、私たちの文化に浸透している神聖な側面を理解することです。これから毎日、このブラフマンの神聖な側面と、その側面と物質世界および霊的な世界との関係、それから、それはどのようにして自らをさまざまな状況の中で顕現させているかが、あなた方に話されるでしょう。あなた方は、これから毎日聞くことになるそのブラフマンの側面についての講話を、自分の部屋に戻った時に自分で列挙して要約しなければいけません。そして、もし何か疑問があれば、年長者たちに明らかにしてもらわなければいけません。

一日の講義が終わったら、講義とは関係のないことに時間を使うのではなく、ここで学んだことを要約して実行に移すよう努めるべきです。ここに座っている間は、とにかく聞きなさい。そして、自分の部屋に戻ったら、その題材を食べて消化しなければいけません。ここで聞いたことを自分の中に入れたら、それを実行に移さなければいけません。そうすれば、あなたはそれを消化することができます。全部消化することができたら、すべての疑問は明らかになり、あなたは疑問がない状態という力を得ます。消化する力のない人は、消化不良という病気にかかってしまうでしょう。あなたが聞いて、学んで、吸収したことは、あなたが消化して実行に移す努力をしないなら、何の役にも立ちません。自分は疑問でいっぱいです、と言い続けている人は、消化不良に苦しむ人です。自分自身をはっきりと理解できる人は、決して疑問を持たないでしょう。自分自身を理解できない人、それから、他の人が自分に言ったことを理解できない人は、いつも疑問でいっぱいです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1974 PartI C4