日付:1974年5月
夏期講習における御講話より
自分の心を征服するなら、平安に帰着する
平安を見出すなら、すべての物事をいつも変わらぬ同じ心で見ることができる
善と悪、尊敬と不敬、好きと嫌いは、すべて同一のもののさまざまな側面
それは、ブラフマンの側面
青年男女たちよ! ヴェーダから来ている単語、そして、それらの単語自体の中にあるものは、すべての姿の名前であり、それゆえ、それにはビバルティという名前が付いています。このことは、『マヌスムルティ』〔マヌ法典〕の中で、「すべてのジーヴィは自らの内にビバルティの側面を持っている」と説明されています。したがって、ビバルティの側面とブラフマンは同一であるということになります。この連なりにおいて、ヴェーダとリシ〔聖仙/ルシ〕という単語の同一性は、一番最初の段階で立証されています。
こうした背景の中で、私たちはリシという単語の内的意味を認識することができます。なぜなら、ヴェーダとブラフマンを直接体験することのできる人物には、リシという名前がふさわしいからです。ヴェーダの本質的な姿を説明し、詳述することのできる人は、リシと呼ばれ得ます。プラーナは、ヴァシシュタ仙〔ヴァスィシタ〕は最初のリシであると述べています。ヴァシシュタ仙は、自らの内にブラフマンの側面を有しており、ブラフマリシ〔梵仙/ブラフマルシ〕と呼ばれていました。ヴィシュワーミトラ仙〔ヴィシヴァーミットラ〕は自分もブラフマリシという名を得たいと思い、大いなる苦行を経て、ブラフマンの側面を獲得しました。その苦行の結果、ヴィシュワーミトラ仙はブラフマンのヴィジョンを得ることができました。ブラフマンのヴィジョンを得るやいなや、ヴィシュワーミトラ仙はブラフマー神自身からブラフマリシと呼ばれました。ヴィシュワーミトラ仙はそれに満足せず、自分はブラフマリシと呼ばれることだけでは満足できない、とブラフマー神に言いました。そして、オームカーラと、ヴェーダに述べられているヴァシャトカーラの直接体験がしたい、と言いました。ヴィシュワーミトラ仙は、ただブラフマリシという名前を得るだけではブラフマリシの側面を得ることはできない、ということを理解したのです。オームの音とヴェーダの音の意味を完全に把握して、初めて本当のブラフマリシになれるのです。
ヴァシシュタ仙は、スーラ、すなわち神聖な人々に知られているすべてを理解した者、という意味の称号を得て、すべての神聖な人々の頭として知られるようになりました。ブラフマリシを自称するのはいとも簡単なことですが、ブラフマリシの特性を得るのはとても難しいことです。もしブラフマリシの側面を得たいと望むなら、ブラフマンに帰融して、ブラフマンと同一となるべきです。ヴィシュワーミトラ仙は一切をブラフマー神に全託したので、ブラフマー神自身によってそれらの側面を説かれました。
もしブラフマー神の恩寵を得ることが可能になれば、一切が自分の配下となります。もしブラフマー神の恩寵から離れれば、あらゆる邪悪な惑星が影響を及ぼします。ヴィシュワーミトラ仙はヴェーダの内容を何も知らない人でした。彼はオームカーラの側面を理解していませんでした。にもかかわらず、ブラフマー神自身が恩寵としてそれらをヴィシュワーミトラ仙に教えたのです。主はヴィシュワーミトラ仙にシャクティパータを与えました。
私たちはこの単語の意味を調べる必要があります。「シャクティパータ」とは、グルが一度にあらゆる能力を弟子に降り注いで手渡すということを意味すると言われていますが、これは正しい意味ではありません。なぜなら、もしそう言うならば、それはグルが存在し、それから、グルのシャクティ〔力〕を手渡す弟子が存在するということになり、「サルヴァム ブラフママーヤーム」(ブラフマーはすべてに内在している)という言明に矛盾することになるからです。シャクティパータは、それを受ける価値がある場合にだけ与えられるものです。それを受ける価値がないところには与えられません。シャクティは、すべての人の中に隠れて潜在した形で存在しています。グルがすることは、ただ、本来存在する力を覆い隠している無知のベールを取り除くことです。グルが何も新たに手渡しはしません。
ブラフマンの側面は、一人の人からもう一人の人へ手渡せるものではありません。ところが今、カリの時代の影響で、誰かがお金を支払えば、別の誰かがそのお金を受け取って、それを弟子に売ったり転送したりできるかのように思われています。至福は体験できるのみです。もし人が自分のすべきことをし、自分の選ぶべき道を選ぶなら、ブラフマンの力は自然と自動的にもたらされます。
私たちの国の古代の学者たちがブラフマンを何か手の届かない存在、説明のつかない存在として描写していたので、この国の人々はずっと勇気をそがれ、望みを失っていました。実際、人々はブラフマンのこうした側面を理解しようと試みることを断念していました。人々は、ブラフマンのこうした側面を説明するのに、不適切な、人を混乱させる単語を使ってきました。もし古代の学者たちにブラフマンという単語の意味を教えてくださいと言ったら、彼らはただ、自分でも意味がよくわかっていない、さまざまな単語を用いることでしょう。これは正しい類の解説ではありません。ブラフマンの側面を認識するのはとても簡単です。ブラフマンを説明するのはもっと簡単です。ブラフマンを理解する方法についての知識がない中で、人は、自分の目の前にある何が正しいものなのかを理解することができません。人は闇の中で手探りしています。
このことを示す小さな例があります。この例はあなたのハートに直に伝わって、あなたはそれを容易に理解することができるでしょう。ある人が一冊の本を手に持っていました。そして、それを読みながら、友人のところに行きました。友人に会うと、その人は10ルピーを貸してくれないかと言いました。友人はその人にお金を貸そうと思いましたが、その前に、その本を見せてくれないかと言いました。本を見ている最中に、友人は本の間に10ルピー札が一枚挟んであるのに気が付きました。友人は、君はここに10ルピーがあるのにどうしてお金を借りようとするのかと尋ねました。するとその人は、自分はそのことをすっかり忘れていた、もうお金を借りる必要はない、と言って去っていきました。ここで私たちは、その10ルピー札は友人がどこかから持って来たものだったのか、あるいは、友人はただそこにあったその人の10ルピー札を示しただけなのか、を問わなければなりません。実際は、10ルピー札はその人のもので、自分で本の間に挟んでおいたのを友人に指摘されたのです。その人は自分のものである10ルピー札の存在に気づいていなかったのです。
これと同じように、現代では、人はハートという本を持っていながら、ハートの中に英知が隠れているということを忘れています。人々はパンディト〔学僧〕のところに行って、英知と知識の神聖な道を示してくださいと頼みます。それを頼まれたグルは、人のハートという本の中には根本的な英知が存在する、と言ってそのことを指摘するだけです。この側面を認識すると、自分の中には神の側面があり、自分にはもはやグルは不要であると、弟子は感じます。ですから、私たちがグルやシャクティパータについて話す時、それらは何か自分の外にあるものとコミュニケートするようなものではないのです。私たちが行っているのは、ただ自分の注意を自分のハートの中に存在している力や英知に向けることなのです。
この方法において、ブラフマー神がヴィシュワーミトラ仙にしたことは、もともとヴィシュワーミトラ仙の中にあった力を覆い隠していた雲を取り除いたことだけです。ヴィシュワーミトラ仙がやり通したタパス(苦行)の数々が、ブラフマー神のダルシャン〔御姿を見ること〕をもたらし、それから、ブラフマー神が、ヴィシュワーミトラ仙が自分の中にすでにある力に気づくことができるようにしたのです。ブラフマー神は、ヴィシュワーミトラ仙にブラフマンはあらゆる場所にいることを認識する方法を教え、主の恩寵を歌いなさい、ブラフマンはいたるところに存在するということを歌いなさいと言い、それから消えてしまいました。ですから、ブラフマンの側面は何か別の場所にある特別なものではなく、いたるところに存在するものなのです。それは特定の姿形のある物質的なものではありません。それはパラールタ(精神)であり、パダールタ(物質、物体)ではありません。それはどこにでも存在しているものです。
ブラフマンを指す多くの名前があります。このブラフマンの側面は、ヴァークパティであるとか、ヴァーチャスパティ、あるいは、ブルハスパティと呼ぶことができます。これらは、ブラフマンと等しい御名、同意の御名です。人々は、なぜブラフマンはとても多くの名前を持たなければならないのか? と疑問を抱くかもしれません。人々は家庭で神の千の御名を唱える礼拝をしていますが、その御名の一つひとつは主の特質をそれぞれ言及しています。人々は、千の御名はどれも主に適したものなのか? それらは本当に主の真の側面を本当に表しているものなのか? と疑問を抱くかもしれません。日常生活において、私たちはそれらさまざまな御名の意味するものを体験しています。家長である家の主人のことを、その息子は「お父さん」と呼び、嫁は「義理のお父さん」と呼び、孫は「おじいちゃん」と呼び、妻は「私の親愛なる夫」と呼びます。その家の主人がさまざまな種類の人間関係を築いたために、彼はさまざまな人から別のさまざまな名前で呼ばれるのです。一人のブラフミンが、プージャーをしている時にはプージャーリと呼ばれ、料理をしている時には料理人と呼ばれます。その時々に自分がしている仕事によってさまざまな名前を得るのです。それと同じように、時や状況や国によって、ブラフマンはそれぞれの状況や仕事に適したさまざまな名前を付けられてきたのです。
昨日、私たちはヴァークパティとヴァーチャスパティとうい御名の意味を理解しました。今日は、ブラフマナスパティとブルハスパティという御名を取り上げましょう。インドラ神とヴァルナ神は、マントラは万物の土台であることを認識しました。なぜなら、ブラフマー神はマントラの主なので、ブラフマナスパティと呼ばれているからです。ブラフマー神はマントラを司る者なので、ブラフマー神はブラフマナスパティと見なされているのです。ブラーフマナという単語はブラフマンから生じたものです。ブラフマー神はマントラの上に乗っており、マントラはブラフマー神を運んでいるので、ブラフマー神はブラフマナスパティと呼ばれているのです。もしブラフマンを支配したい、あるいは、ブラフマンの恩寵を得たいなら、ブラフマンを運ぶもの、すなわちブラフマンが乗っているマントラを、まず制御下に置かなければなりません。
こうした内的意味は、マハーバーラタやバーガヴァタの中にいくらでも載っています。ある時、ブラフマー神がヴァールミーキ仙のところにやって来て、サラスワティー女神を贈り物として与えるからラーマーヤナを書くように、と言いました。ブラフマー神がヴァールミーキ仙のところにやって来てサラスワティー女神を贈り物として手渡したというのは、私たちにとって理解し難い状況です。なぜなら、私たちはサラスワティー女神をブラフマー神の妻と見なしているからです。「パティ」〔主人〕という単語が付いているので、私たちはブラフマー神をサラスワティー女神の夫と見なしています。これは正しくありません。「パティ」の本来の意味は「カルタ」、すなわち「状況の頭」というものです。ブラフマー神はすべてのマントラの頭、すなわち制御する者である、という場合、それをすぐさまブラフマー神はサラスワティー女神の夫だと解釈すべきではありません。ブラフマー神はマントラの主と見なすべきなのです。ブラフマー神は実際にマントラを制御する者、すなわちマントラの主であり、ブラフマー神には妻や家族があるなどと言って誤った解釈をするのは正しいことではありません。主であるブラフマー神はそういった関係は持っておらず、そうした解釈は誤りです。
ここで私たちは、サラスワティー女神が意味するもの、サラスワティー女神が表しているものを理解すべきです。サラスワティー女神は自分の乗り物としてハムサ(白鳥)を有しています。「ハムサ」という単語は、「ソーハム」、すなわち息を吸ったり吐いたりして呼吸することを表しています。ですから、ブラフマー神がヴァールミーキ仙に贈り物として手渡したのは、ソーハムの側面なのです。きちんと息を吸わなければ単語を発音することはできません。呼吸は、ハムサつまり白鳥を運ぶものであり、それに乗る者はサラスワティー女神です。これは、ブラフマー神はヴァールミーキ仙に言葉をもたらすソーハムすなわち呼吸の側面を与えたということであり、それをラーマーヤナを書くのに使うようにと言ったということを意味します。
しかし私たちは、ブラフマナスパティという称号から、ブラフマンは主人でありマントラを完全に支配している、ということを理解しなければなりません。世界は私たちの周囲で見られるようなあらゆる物質的なものでできています。物質は言葉から生じました。言葉の意味は言葉から生じました。私たちは出る音を招いたのはブラフマンであるということを学習しました。ですから、もしブルハスパティという単語の意味が、ブラフマー神は全世界の主人である、というものであるならば、私たちはブルハスパティはブラフマンのもう一つの名前にすぎないという結論に達します。このようにして、もし私たちがブラフマンに適したそれぞれの御名を、その真の意味を認識して解するなら、ブラフマンはあらゆるところに存在しているということ、そして、それらの御名の意味を容易に理解することができます。
バーラタの国民は、常に、より神に近づくことを好み、それゆえ、神にふさわしい、より多くの御名を作りました。こうした理由により、そして、どの人も神に近いことから、各人が主にふさわしい御名を付けました。神を喜ばす御名を各個人が神に付けました。人々はさまざまな御名と御姿を付与することを楽しみました。西洋人は、神は一つなのにどうしてさまざまな御名と御姿を作るのか、と問いました。一つの名前と姿だけを持つべきである、と西洋人は考えます。私たちは、自分たちの考えと能力を基に、神のさまざまな御姿を作ってきました。
このことを示す小さな例があります。10人の子供が布屋に行って、皆で生地を選びました。それから仕立て屋に行き、一人ひとり寸法を測って、それぞれ自分にぴったりに仕立ててもらいました。生地は全員同じものでしたが、それぞれ自分に合った寸法にする必要がありました。これこそが、行うべき正しいことです。もし仕立て屋が全員のシャツを同じ寸法に縫って、子供たちに何とかしてこれを着るようにと言ったとしたら、それは正しいことではありません。もしどの子供も自分に合ったサイズのシャツが着られたら、満足がもたらされます。もしそうでなかったら、満足できません。もしサイズの合わないシャツを与えられたら、そのシャツを着るよりも、何も着ないでいるほうがましです。
ですから、もし何かの宗教がすべての人に、この一つの道に従いなさい、一つの均一の解釈を受け入れなさい、と言ったら、それは無意味なことです。均一を指図することは正しいことではありません。信者たちが自分自身の望みや力を考慮して自分の好む形を作るのを、許し難いとするようなことがあるべきではありません。昔、西洋人たちは、一つの均一の宗教を受け入れるよう人に無理強いしましたが、これはすべての人に同じサイズのシャツを着るようにと言う状況と同じようなものです。これは正しい方法ではありません。私たちの国の国民であれ、他国の国民であれ、これは受け入れられるような状況ではありません。
ブラフマンの側面は誰のハートの中にも輝いていて、各人の描く、各自の中の輝けるブラフマンに基づいて、人は特定の側面を選ぶ権利があるのです。もしこうした多くの選択を受け付けないなら、どうやってブラフマンのその側面を理解することができるでしょう? 「選択の自由」という言葉を使うとき、人は自分自身の神の理解に関してのみ、この言葉を使います。その理由は、神には限度はなく、人はそれに関する自由を有し、その上さらに、限界がないという神の側面を楽しむことができるからです。
限界がないという側面を理解するには、「アナントー ヴァイ ヴェーダハ」すなわち、ヴェーダは無限である、そして、ヴェーダはそれらを通じて人々が神の概念を得られるものであると言われている、ということを理解することです。時おり私たちは、神の一つの側面を描写するのにどうしてこれほど多くのヴェーダが必要なのか、と疑問に思うかもしれません。もしこのことをよく理解したいと思うなら、宗教はどれも異なるけれども、どれも同じ目的地へと人を導く、ということを理解しなければなりません。布地はさまざまに異なるかもしれませんが、素材、つまり、さまざまな種類の布を作り上げている糸は同じです。アクセサリーはどれも異なっているかもしれませんが、アクセサリーを作っている金は同じです。牛の色は一頭一頭多種多様であるかもしれませんが、牛から採れる牛乳は同じです。花にはさまざまな異なる種類があるかもしれませんが、花を使って行う礼拝は同一です。
人間はこの重要な点を見逃していて、無知ゆえに、それを理解することができずにいます。そして、無知ゆえに、多大な困難を甘受せざるを得なくなっているのです。神は一つですが、人はそれぞれ自分の好みに応じて、自分のための神の御姿を作ることが可能であるべきなのです。塩は、海水の中にあると、海とは別個のものではなく、海の一部です。私たちは、塩味について語る時、それは海に存在する性質だと言います。海水は塩辛いと言う時、人は海の水を全部飲んで味わう必要がありますか? 海水は塩辛いと言うには、一滴の海水だけで十分です。
それと同じように、あなたのハートの中にあるブラフマンの小さな一つの側面を体験すれば、あなたはブラフマンの神の側面全体を理解することができます。ですから、ブラフマンについて語る時、各国にそれぞれ一つのブラフマンがいるのだと考える必要はありません。世界全体に一つのブラフマンがいるのです。そして、内在のブラフマンは人によって異なるものではありません。ここにはいろいろな電球があり、電球はそれぞれ違うと私たちは思っています。実際には、電球から発せられる光はそれぞれ違って見えても、電球を流れる電流はどれも同じです。世界の人々の体は皆、電球のようなものであり、ブラフマンの側面が、シャクティパータという形となって人間という電球の中を流れているのです。しかしながら、一部の電球は無知ゆえにヒューズを有しておらず、そうした電球は光が点きません。ただ光っていないからといって、その人の中にはブラフマンは存在しないと言うべきではありません。どの人にも光る能力はあるのです。そして、そのことは、「プラグニャーナム ブランマー」、すなわち、ブラフマーはプラグニャーである、と述べられています。
古代人は、四つのヴェーダの中から、四つの非常に特別な宣言を引用し、その意味を人々に説いています。それは、「プラグニャーナム ブランマー」、「アヤム アートマ ブランマー」、「タット トワム アスィ」、「アハム ブランマースミ」の四つです。これらの宣言は、ブラフマーはプラグニャーと同意語であり、アートマはブラフマーであり、ブラフマンはあなた自身であるということを示しています。溶け込んだ状態ではすべてのものが一つであり同じであるということを、私たちはこれらの宣言の中に見ることができます。溶け込んだ状態では、善と悪、引き付けるものと引き付けないもの、等々はすべて、一つに、そして同じに見えます。すべてのものが同一であるかのように見えます。名前と姿形の違いを認識しなくなります。この状態では、人は至福を味わうのみです。
このことを示す小さな例があります。人々は、大量のオレンジを大型トラックで運んできて、工場に降ろし、オレンジから果汁を絞り、会社の名前の付いたボトルに詰めます。オレンジが運ばれてきた時は、緑だったり、黄色だったり、熟したものもあれば、熟しすぎたものもあり、さまざまです。しかし、果汁を絞って瓶詰めされれば、それ以前に存在したオレンジの形状の違いはもう見られません。このジュースのこの部分はあのオレンジから来たものである等々と言うことはできません。もう見分けはつきません。
人々が皆自分をブラフマンの側面に帰融させると、個人の姿と名前を認識するのは不可能になります。見えるのはただ、すべての人の中にある共通のブラフマンの側面だけになります。明らかに名前と姿という概念の上にいる人だけが、ブラフマリシと呼ばれることができます。ブラフマリシの段階にありながら、世界の繁栄のためにある種の物事を行っている場合もありますが、そうした人たちが物事を行うのは、平等観を有していないからではありません。
今の世の中には、ブラフマリシという名で通っている人が何人かいます。ヨーギ、リシ、マハリシ〔マハルシ、大聖仙〕、ヨーゲーシュワラという名で通っている人も、何人か存在します。しかし、そうした人々はそれらの呼称に当然不可欠な特質を持っておらず、また、それらを認識もしていません。この数日の間に、あなた方は何人かの人から、ヨーガという単語の意味と重要性を詳しく説かれましたね。自分の心を制していない人が、どうやって他のものを制することができますか? 自分の心を悪い欲望からそらすことができない時、どうやって自分をヨーギだのヨーゲーシュワラだのと呼ぶことができるでしょう? そのような輩が、ヨーギという言葉に不名誉をもたらし、この言葉の本当の意味を人々に誤解させています。
道を歩いていて、脇を流れるどぶの汚い水を見て、雲から降ってくる雨水もそれと同じように汚いなどと考えるべきではありません。そのように考えるのは愚かなことです。ただ自分が見た水が汚かったからといって、あるいは、自分が手にした水が汚かったからといって、すべての水が汚いということにはなりません。多くの人は、そのようなきれいでない不純な水を見るだけで、どこかにきれいな水はないか見てみようという試みさえしていません。彼らはきれいな水を見ても、それをきれいな水だということがわかりません。彼らはそのようにして自分の時間を無駄にしています。そのような人々が私たちの文化と伝統に不名誉をもたらしていて、それによって、この国の人でない人に私たちを嘲笑する余地を与えているのです。
私たちの文化をよく理解し、ヨーガとは本当は何を意味しているのかを知ることが、ここに集まっている学生諸君と若者の目的であるべきです。そしてさらに、その知識を実践に移すべきです。それらを実践に移すことによって未来を正し、それらの原理の力を身を持って示すことができるのは学生諸君のみである、と私は固く信じています。盲めっぽう何にでも従って事を始めてはなりません。自分が見ているものは真実か否か、その性質は永遠のものか、つかの間のものかを、常に調べなさい。
この世界のどの国でも、善悪は一つのものの中に入り混じって現れます。善いものだけを信じ、悪いものは忘れるべきです。もし、ささいな事でも自分の心を支配することができないならば、どうやって自分の人生を支配することができるでしょう?
清らかなアートマの化身(パヴィットラートマ スワルーパ)たちよ! あなた方にこういったことを説明しているのは、私が、あなた方には私たちの文化の神聖さを理解して私たちの文化を打ち立てる力を得ることができる、という希望を持っているからであり、誰かを批判しようと意図しているからではありません。
これからの15日間、皆さんがブラフマンの側面を理解しようと試みる時、まるで鏡を見ているかのようにすべてがクリアになることがわかるでしょう。あなた方は皆、私が手に持っているこの一枚の布を見て、これをハンカチと呼びますが、もし私が全部は見せずに端の部分だけしか見せなかったら、これは何かを言うことはできません。今日、皆さんがブラフマンについて知ったことはとても小さな側面ですが、これから15日の間に皆さんはその全貌を見るでしょう。ひとたびそれを見れば、このことについてどんな疑問も生じる余地はなくなるでしょう。同様に、ブラフマンのすべてを学んだ後、あなた方はブラフマンの複雑多岐な側面の一切の中にあるブラフマンを知るでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Summer Showers in Brindavan 1974 PartI C5