サティヤ サイババの御言葉

日付:1974年11月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ババ様の四十九歳の御降誕祭の御講話(上)より

自由への四つのステップ

この太古の国の文化には、国土の広大さと同じくらいの深みがあります。それは人類の発達を力強く支えていくという原則のもとに打ち立てられています。しかし、現代のインド人は、その教えを無視し、物質的な喜びや快楽を求めて身動きが取れなくなっています。彼らは真実の永遠なる価値観を無視しています。彼らは神の呼びかけに少しも耳を貸そうとせず、世俗の魅惑的な声に反応します。これが、二〇世紀、科学とテクノロジーの時代の有様です。そこには、たやすく手に入れることのできる、物質的な快適さや五感を悦(よろこ)ばす快楽がたっぷりとあります。そうして人は、つかの間のくだらないものを気が狂ったように追い求め、滅亡へと向かって突き進み、太古の文化が約束してくれているアートマの宝物(純粋で霊的な宝)という貴重な遺産を見失っているのです。

実際、人は、人生の目的と計画を知っていさえすれば、期限付きの喜びにすぎないものを求めることに自らの年月と才能を無駄に費やしたりはしないでしょう。至る所がそうした無駄な努力に夢中になっている人で一杯だというのは、嘆かわしい事態です。これは、彼らの不運、あるいは無知のせいだと言えるでしょう。当然ながら、人は自分自身が信じられなくなっています。ですから、人が神を信じられないのも当然です。唯一、自分自身を知っている者、自分自身を信頼している者だけが、神について知ることができ、神を信頼することができるのです。まず、あなた自身を知りなさい。そうすれば、世界を知ろうとするあなたの試みは容易(たやす)いものとなるでしょう。

英知は仕事という礼拝を通してのみ得られる

インド文化は、自分自身を知るのに必要な教養を確実なものとするために、個人が成長するための「人生の四つの段階(アーシュラマ)」に重きを置いています。真我の探求(アートマ ヴィチャーラナ)には、人生の各段階の義務(アーシュラマ ダルマ)に関する規定が極めて重要です。行為に関する規律と規定を遵守すること、および、それぞれの段階(アーシュラマ)に割り当てられた学習を通して、知識と英知の獲得は容易いものとなり、自動的に得られるようになります。英知は、礼拝としての仕事を通してのみ、得られます。それぞれの段階(アーシュラマ)は、すべての行為を礼拝へと昇華させるよう人々を導いていきます。

ちょうど私たちに四つの段階、すなわち、幼少期、青年期、中年期、老年期があるように、それぞれに対応したアーシュラマがあります。それらは、ブラフマチャルヤ、グラハスティヤ、ヴァーナプラスタ、サンニャース、すなわち、学生期(がくしょうき)、家長期、隠遁(いんとん)期、出家期です。

幼少期と十代には、社会の仕事を担うのに必要な情報を身につけなければなりません。また、それによって健康と幸福を手に入れ、知識という道具で、英知を獲得できるような道理に慣れ親しまなければなりません。

家族を養い、社会を支える一家の戸主として、さらに人は正義と真実という理想を掲げ、それらを行動によって推し進めていかなければなりません。人類に本来備わっている威厳を感じ取り、その高い信望に従って生きなければなりません。

老いては、隠遁者、そして、出家として、周囲の人々の導き手や教師となり、自らの体験を通して獲得した英知という宝を分け与えなければなりません。

シャーストラ(霊性の科学)は、人が思考と行動の指針とすべき行(くだり)を定めています。その法と制限事項を真摯に守り通すことによってのみ、グニャーナ(霊的英知)は手に入ります。さもなければ、人生の逆流や渦に巻かれて、あてもなくさまよい、ローカ(世界)の性質とローケーシュワラ(世界の主)の栄光の双方に無知なまま、最期を迎えることになります。

無神論の力が強まる現代

より高い道は、子供のころから歩き始めなければなりません。大きくなってからでは身につけられないのです。子供は、言葉と行いにおいて誠実であることを学び、偽りという卑怯(ひきょう)な習性を避けなければなりません。将来、少年少女たちは、自分の感覚に対して、無条件な奴隷になるのではなく、理性的な指揮官とならなければなりません。

家長は、自らに定められた儀式のスケジュールと、それらに定められた礼拝をきちんと守らなければなりません。家長は家族の行いと振る舞いに目を光らせなければなりません。家長は、客人をもてなし、貧しい人たちに慈善を施さなければなりません。また家長は、息子や娘がどんな状況でも心の平安と安定を持てるよう、処遇を施なければなりません。というのも、これらの義務が何世代も無視され続けたあげく、今や無神論がはびこっているからです。

種が欠陥だらけなのに、どうやってその木が豊かな実をつけることができましょうか? 両親と年長者が自らの庇護(ひご)の下に育つ子供たちに良い模範を示すことができないのに、どうして国が繁栄し、不安や恐怖から解放されることなどあるでしょうか? タマリンドの実がまだ青い時には、皮と果肉と種を別々に分けることはできません。ですが、ひとたび熟してしまえば、それらを分けるのはいとも簡単です。それと同じように、人は、数々の体験を通して成熟するまでは賢明とは言えず、自分を肉体や感覚器官や心(マインド)と同一視することをやめられません。それまでは、アートマ(霊的な真我)とアートマでないもの、肉体(クシェートラ)と肉体の支配者(クシェートラグニャ)、プラクリティ(自然)とパラマートマ(至高我)、グナ(人を駆り立てる三属性)とグナを超越しているもの等々の区別がつきません。

人の不安は社会にも影響を及ぼす

一つ小さな例をあげましょう。すさまじい毒でカリニディー川を汚染して、周辺数マイルに棲(す)んでいたあらゆる生き物を滅ぼした蛇王カーリヤを、クリシュナは滅ぼしました。カーリャが殺されるやいなや、ハーレムにいたカーリヤの妻たちは、救いを求めてクリシュナに祈り、クリシュナに降伏しました。これは『バーガヴァタ』にある物語です。さて、この物語は何を意味しているのでしょうか? 人の心の湖(マーナサ サローヴァラ)には、欲望という毒蛇が潜んでいます。その毒蛇が滅ぼされると、欲望が呼び寄せてきたさまざまな弱さや軽率さ、勝利、試行と失敗、苦痛と快楽の数々は、神に降伏するのです。

欲望は、まさしくアートマこそが存在の核であるという確信がはっきりと持てた時にのみ、払拭することができます。物を集めること、五感の欲望を満足させることに、あらゆる労力が向けられている現代にあって、人は争いと派閥、嘘と貪欲の波に翻弄されています。個人は密接に社会と結び付いており、それゆえ、個人の不安もまた社会に影響を及ぼすのです。 個人の意志は、つまるところ、世界の福祉や幸福に対する責任を負っているのです。世界は個人の心象の表れにすぎません。どうやってそれが起こるのかは謎です。ただ言えることは、眠りが夢の原因であるように、マーヤー(根本的無知による現世的な幻影)が創造世界の原因です。医師たちは、夢の原因として、消化不良や強迫観念や心象の混乱など、さまざまな理由をあげます。けれど、確かな理由と言えるのはただ一つ、眠りです! 人がグニャーニ(真理を悟った者)になると、夢は効力を失います。その境地では、人は夜見る夢からも白昼夢からも解放されます。

人生の四つの段階(アーシュラマ)は、人をグニャーニの境地へと覚醒させるために考案されました。現代の教育は、どの学年においても、脳に情報を、腕に技能を詰め込むための一プロセスとなっています。現代の教育は、学をひけらかすこと、弁証法的な論争、互いの差別化にのみ役に立っています。現代の教育は、謙虚もバランス感覚も平等観も教えません。当然ながら、霊性の修練などまったくありません。たぶん、霊性とは個人的な探求であって、森の静寂さの中でしか行えないものだ、という感じなのでしょう。そんなことはありません! 本当の霊性(スピリチュアリティー/アートマに関するもの)は、人は根源的に神と一つであると覚ることです。

人の主な使命は神との合一へと歩んでいくこと

人々は、子供が生まれるとお祝いをします。子供が大きくなって強くなると喜びます。ですが、そのようなお祝いに最もふさわしい時は、子供が人類に仕えるようになった時、あるいは、人類に恩恵を施す人として名声を手にし、自らの生を正当なものとして評価できた時です。

ドリタラーシュトラ王には一〇〇人も息子がいました! 彼も子供たちの誕生を祝ったことでしょう。けれど、彼の息子は誰一人、一つも良いことをしませんでした。皆、傲慢で、強欲で、悪意に満ちていました。それゆえ、息子たちが成し遂げたことといえば、王朝をすっかり崩壊させ、王朝に属していた人全員を滅ぼしたことだけでした!

現代の息子と娘たちは、親の財産を分けてもらうことに必死で、自分の相続分をあっという間に使ってしまいます。彼らは、先祖たちが子孫のために得た経験という、もっとずっと貴重な財産には注意を払おうとしません。彼らは無駄に何十年という時を過ごす中で、自分の健康まで害してしまいます。

現代の子供たちは、十歳になるか、ならないかのうちに眼鏡を掛け、わずか十四歳で白髪を染めます。早く歳を取り、十六歳にして老化の兆候が表れはじめます。今日、「モダン」だから「進歩につながる」からといって受け入れている習慣を人々が褒めるのは、控えめに言っても、実に馬鹿げたことです。

古代の人々が力説したように、食習慣と余暇の習慣は浄性(サットウィック)(身体と精神の健康につながるようなもの)でなければなりません。言い換えるなら、人の激情を喚起させたり煽(あお)ったりしないもの、人を愚鈍にさせたり、怠惰にさせたり、ぼんやりさせたりしないものでなければなりません。

何よりもまず、誰もが皆、人間の主な使命は一体性と平安という理想に向かって突き進むことである、ということを覚らなければなりません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol12. C52