サティヤ サイババの御言葉

日付:1975年7月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
グルプールニマー祭の御講話より

完全マイナス完全

あれは完全、これも完全、
完全なるものから完全なるものを取っても、
完全なるものが残るのみ

〔イーシャーヴァースヤ ウパニシャッドより〕

これはウパニシャッドの格言です! 神は完全です。創造は完全です。創造が起こり、神から生み出されるべく宇宙が現れても、完全なるものの完全性はまったく減少することはありませんでした。完全であることは至高神の属性であり、本質です。それが宇宙の創造の過程によって縮小することはありえません。なぜ創造は完全なるものとも呼ばれるのでしょう? なぜなら、それは完全なるものから生じたからです。

椰子糖(ジャガリー)を一キロ買うために商店街に行ったとします。店員が店の奥から大きな椰子糖の塊を持って来て、目分量で一キロほどの椰子糖分を切り出します。それからその重さを正確に量って、椰子糖一キロ分の代金と引き換えに椰子糖をあなたに渡します。味見した椰子糖の塊の甘さと、買った一キロの椰子糖の甘さは、当然同じです。家に帰って、パーナカムという甘い飲み物をこしらえようと、その椰子糖をいくらか入れました。そのパーナカムも、一キロの椰子糖も、元の椰子糖の塊も、すべて同じように甘い味がしました。完全性は神の特質です。それは、部分の中にも、塊の中にも、半分の中にも、全体の中にも見られます。尺度となるものは量ではありません。質です。神という実体から切り取られたこの目に見える世界でも、その質は同じように完全であることが見出されます。世界を神よりも下回るものと見なしてはいけません。

神は世界の中、万物の中に存在する

むろん、学者たちのなかには、世界は無であり、そこには隠れた力も表に現れている力もなく、夢、幻にすぎないと宣言する者もいます。これは無知の盲目の印です。神は、まさしく世界の中に存在しています。例外なく、世界の中の万物に内在しています。ギーターの中で、主はこう告げています。

「私は生き物の中では人間であり、動物の中では牛であり、野獣の中ではライオンであり、蛇の中ではコブラであり、鳥の中では鷲であり、羅刹の中ではプラフラーダ〔羅刹でありながら神の帰依者であった少年〕である。」

どんなものでも、これは神にふさわしくないといって捨てることはできません。神が動かしていない体はなく、神が宿っていない姿形はありません。神は香りであり、輝きであり、甘さであり、味であり、知性であり、武勇であり、苦行であり、名声であり、満足です。神は望ましいものすべてであり、望ましくないものや望ましくない特質でもあります。人は、普遍にしてすべてを内包する主の栄光を知ることによってのみ、本物の至福を獲得することができます。

主の恩寵を確保するための四つの段階があります。その方法は、

  1. 心を神に執心させること。
  2. 心が執心している神の姿を愛すること。
  3. ハートにその御姿を据えること。
  4. 自分が持っているすべてのもの、自分が行うすべてのことを、ハートに据えたその御姿に捧げること。

皆さんには、これらの段階を進むことに成功して人生の目的を実現した偉大な模範がいます。それはマハーバーラタに出てくるエーカラヴィヤです。ドローナーチャールヤ〔アルジュナたちの武術の師匠〕は自分の弟子になりたがったエーカラヴィヤを受け入れませんでしたが、エーカラヴィヤはドローナを心のグル(師匠)とし、自分のハートの中に据えました。そして最終的に、エーカラヴィヤはドローナーチャールヤの恵みを通して勝ち得たすべての技術と名声を、グルの御足に捧げたのです! 〔エーカラヴィヤの物語は『子どものためのバルヴィカス物語集2』二章第五話を参照のこと〕

知性の三つの等級

グルプールニマー祭を祝うことが、お決まりの繰り返しになっています。この日、グルは崇(あが)められ、神々は礼拝され、称えられ、歌とごちそうでなだめられます。しかし、それで十分でしょうかと、私は問います。お祭を祝うことが果報をもたらすのは、この日のもっと深い意味を把握し、それについて瞑想した時だけです。

グルとは、自らが発する光によって無知の暗闇を滅ぼす人です。ほとんどのグルは弱々しい間接光しか持っていません。暗闇の除去は完璧でなければならず、わずかに潜む影もあってはなりません。毎年のこの日の満月のように、人の心はうっとりするぐらいに美しく、涼やかで、すっかり満ちていなければなりません。光というその贈り物は神からのみ生じることができます。なぜなら、神は自ら光を放つ存在だからです。神はすべての惑星、星、万物にとっての光源です。

ヴェーダーンタの用語であるチットとアチットという二つの語は反意語であり、その二つの間には創造世界が包括されています。チットは「知的であること」を意味し、アチットは「知的でないこと」を意味します。このような反意語は他にはありません。そこには等級があり、一つの段階からもう一つの段階へ、つまり、下等な知性から完全な知性へと進んでいきます。実は、等級は二つではなく三つあります! 一つめは、シュッダ タットワ、二つめは、ミシュラ タットワ、三つめはヴァーサナー タットワです。

(一)シュッダ タットワ
これは、キリストが神の王国と呼んだものです。それは心には手の届かない、はるか向こうにあります。そこは浄性である平静の領域です。
(二)ミシュラ タットワ
これは、この地上の王国であり、休止と活動、怠惰と冒険、鈍性(タマス)と激性(ラジャス)を交互に繰り返します。一つめのものがニッティヤー ヴィブーティ(神の永遠なる栄光)として語られるのに対し、この二つめのものはリーラー ヴィブーティ(絶えず変化し続けて絶えず新鮮な神の遊戯という栄光)として語られています。〔神聖灰を意味する語として用いられるヴィブーティという語には、神の栄光、力の表れ、偉大な力という意味がある〕
(三)ヴァーサナー タットワ
これは、不活発、無知、惰性、すなわち、鈍性の領域です。

ヴェーダーンタの視点

宇宙は神が戯(たわむ)れる場です。あらゆる瞬間にこの事実を意識しているなら、あなたが幸せに存在していくのに必要なことは、他には何もありません。なぜなら、その時あなたはあらゆる場所で、あらゆる瞬間に、あらゆる思考を通して、すべてにおいて神との接触を持つからです。神のリーラー〔神聖遊戯〕は、最も小さい花においても、最も遠い星においても明白です。そうした神の摂理の証明を黙想することによって得られる喜びを言葉で言い表すことはできません。クリシュナはギーターの中で、つねに自分は喜びに満ちた者の側にいると言いました。あなた自身が喜びに満ち、その喜びを他の人に分かち合いなさい。自己中心的に喜びを自分にとどめ、自分だけ幸せでいるのは悪いことです。

第三の段階は、ヴァーサナー タットワと呼ばれます。これは、あなたの狭い利己心が主導権を握り、あなたを奴隷にする所です。ヴァーサナー〔過去生から持ち越された潜在的傾向〕とは、長期にわたる五感への隷属という、生来の根深い力です。あなたはその霊妙な影響力を圧服して、その縛りからあなたの意志を解放しなければなりません。

祈りと規律正しい修行によって、無執着、こだわらない、衝動を無視する、という態度を育みなさい。これはあなたをダルマと真理へと導くでしょう。そうなれば、あなたはダルマの柱(ダルマ スタンバ)、あるいは真理の柱(サティヤ スタンバ)を得る資格を与えられます。これはヴェーダーンタの観点とも呼ばれています。ヴェーダーンタ〔ヴェーダの末尾、ウパニシャッド〕とは、家や人々の集まりから逃げ出して森の独居に逃げ込むことを意味するのではありません。(どこに避難したとしても、家庭があなたを悩ませることは確実である)。それは、この(イダム)すべて(サルヴァム)を神聖な完全なるもの(プールナム)であるとして認識して、思考と言葉と行動のすべてを神に捧げることを意味します。あなたがヴェーダーンタの見方を持っている時、そのことによって、あなたのいる所はあなたにとってカイラーサ山〔シヴァ神の住む聖山〕となるでしょう。

リーラーは神を誘導する時に八つの形態をとる

太陽が神を照らすことはできません。神が太陽の光源だからです。波は、自分は海のものだと言うことはできますが、海は自分のものだと主張することはできません。人は神に「私はあなたのものです」と言うことはできますが、「あなたは私のものです」と神に言うことはできません。神は支えです。あなたは支えられています。ニッティヤー ヴィブーティ〔永遠の栄光〕はリーラー ヴィブーティ〔神聖遊戯の栄光〕の支えです。海は基盤であり、波はその上に生じます。

リーラー〔神聖遊戯〕は、神を誘導する時、八つの形態をとります。それは、シャブダ ブランマーマイー(絶対の清らかさ)〔音〕、チャラーアチャラマイー(動くものと動かないもの)、ジョーティルマイー(光)、ヴァーングマイー(声)、ニッティヤアーナンダマイー(永遠の至福)、パラーットパラマイー(この世と次の世の超越)、マーヤーマイー(迷妄の幻惑)、シュリーマイー(富の輝き)です。神は属性を持っていませんが、心、知性、エゴ(自我)をまとい、それから、壮大なリーラーが始まりました!

起きている状態の経験は、夢を見はじめると脇に置かれます。夢の体験は熟睡状態になると消えてしまいます。そうなると存在自体も失われます。キリストは、「夢の中では命は失われている」と言いました。しかし、何であれこの三つの状態のいずれかで経験されるものは、根本的な真理を基にして起こります。その真理とは神です。それは、恐れと不安、蛇を叩いて殺すという行為の一切が、無知ゆえに縄を蛇と間違えたことが基になっているのと同じです。

あなたの愛がすべての生物と無生物を包み込むようにさせなさい

ですから人は、この幻から脱出して、完全に照らされた英知の状態に達するよう努力しなければなりません。人がそうするのを助けることのできる一番の霊性修行は、愛です。「私」や「私のもの」に付着している小さな種である愛を育て、それをあなたの周囲の人々への愛へと芽吹かせて、それから、それを全人類への愛へと成長させ、その枝を動物や鳥や這(は)う生き物らへと伸ばし、その愛がすべての世界のすべての生物と無生物を包み込むようにさせなさい。少ない愛から多くの愛へ、狭い愛から広がる愛へと進んでいきなさい。「非真から真実へ」という言明は正確ではありません。進歩はつねに、小さな真実から神なる真実へと向かうのです。

この話は神々に関する物語ですが、人間の欲望を扱ったものです。その日、天界は快晴でした。シリーマン ナーラーヤナ神〔シリーマンとは、シリーすなわち徳や美を有する者、あるいは、ラクシュミー女神を捨てない者の意〕と、その配偶者であるラクシュミー女神は、吟遊詩人のナーラダ仙がその場に入ってきて二神の注意を引くまで、何時間もずっと話をしていました。ナーラーヤナ神はナーラダ仙に、地上の住人たちは幸せにしていたかと尋ねました。ナーラダ仙は、ナーラーヤナ神を崇めてナーラーヤナ神の恩寵を勝ち取ったおかげで、どこの人間たちもたいそう繁栄し、幸せにしていましたと、答えました。

それを聞いて、ラクシュミー(富の女神)に妬みと怒りがわいてきました。というのも、ラクシュミー女神が人間たちに授けている幸福が知られていなかったからです。地上では自分よりもナーラーヤナ神のほうが崇められているというのなら、それを証明するようにと、ラクシュミー女神はナーラダ仙に要求しました。

ラクシュミー女神の挑戦

ナーラーヤナ神はその挑戦を受けて立ちました。ナーラーヤナ神は黄土色のローブを身に着けて僧侶に変じ、村や町に下っていって、道を説きました。何千人もの人々が集会にやって来て、心を引き付ける説法に耳を傾けました。人々は行く先々にその僧侶を追いかけていき、熱狂的に崇拝しました。ナーラーヤナは、人々の信愛と称賛の大波の上にゆうゆうと乗っていました。

それを見たラクシュミー女神は、もう我慢できませんでした。ラクシュミー女神は妬みにのまれました。そこで、ラクシュミー女神もサンニャースィン(苦行者)のローブを身にまとい、ナーラーヤナ神が勝利を収めた地に下っていきました。人々はラクシュミーの放つ光輝に引き寄せられ、多くの人がナーラーヤナの説法の集会から去っていきました。

何人かの人々がラクシュミーを家の夕食に招待しました。ラクシュミーはそれに同意しましたが、私は自分のお皿以外から物を食べないという誓いを立てているのですと打ち明けました。ラクシュミーは、私は自分のお皿とカップと飲み物の容器を持参しますと言いました。ラクシュミーを夕食に招待した主人は、ただその要求を大いに喜んだだけでした。というのも、それは〔ラクシュミーを招くにあたっての〕数ある悩みのうちの一つを解消する助けになったからです!

ラクシュミーは、自分のお皿とカップと水を入れる器を持って、主催者の家に行きました。それは三つともすべて金製でした! 主人はその豪華さと富の見せびらかしに感心して、さらにラクシュミーを賞賛しました。そして夕食後、ラクシュミーがこれも自分の誓いだからと、自分が持参した皿等々はこの家に置いていきますと言った時、主人はびっくり仰天し、それから歓喜しました!

ラクシュミーを崇めて夕食に招くとたいそう得をするという噂が広まると、ラクシュミーの恩寵を求める熱烈な叫び声が上がりました。大勢の人がナーラーヤナの説法からいなくなり、人々は黄金を与えてくれるラクシュミーの周囲にたむろするになりました。人々はナーラーヤナに、元いた場所に戻ってくださいと懇願しました。というのも、もはや人々には、ナーラーヤナの訪問を受けたり、ナーラーヤナに耳を傾けたりする時間はなかったからです。ラクシュミーが人々の注意を独占したのです!

そこで、ラクシュミー女神はナーラーヤナ神に会うために天界に戻りました。ナーラーヤナ神はすでに天界にいました。ラクシュミー女神はナーラダ仙に尋ねました。

「どちらが多く崇められていますか、ナーラーヤナですか、ラクシュミーですか?」

正しい行いは真理に促される

ナーラダは逆に質問をして返しました。

「あなたは誰を崇めておいでなのですか?」

ラクシュミー女神は答えました。

「なんですって? もちろん、私はナーラーヤナ神を崇めています。」

すると、ナーラダは言いました。

「ナーラーヤナ神の恩寵こそが、あなたが黄金の贈り物を授ける助けとなって、それが人間たちにあなたを崇めさせているのだということをあなたはご存知ですね。」

ラクシュミーは高慢の鼻をへし折られました。けれども、人間の愚かさは今も続いています。人間は、ヴァースデーヴァ(内に宿る神/クリシュナ神の別名)ではなくヴァスデーヴァ(単なる地上の富/クリシュナ神の父の名前)を、ナーラーヤナではなくラクシュミーを崇めています!

正しい行いは真理によって促されます。真理〔真実/サティヤ〕はあらゆる信仰の基本的な教えです。道徳と愛もそうです。この三つは定着します。

今日はグル プールニマーです。今朝、私は真理の柱のための基盤を据えました。それは愛と道徳という二つの美徳を支えて維持します。あなた方は、柱を建てる場所を聖化するヴェーダの儀式の中で、地上で成長する九種の穀物と、地下で得られた九種の貴重な宝石が用いられたことに気づいたはずです。あれはバクティ(信愛)の九つの形、人が神へと向かう旅の九つの段階、すなわち、ナバヴィダ バクティ〔九つの信愛の方法〕の象徴です。このなかで最も不可欠なものは、同胞へのセヴァ(無私の奉仕)です。私は、あなた方がこの務めに完全に身を捧げ、そのあなた自身の真我への奉仕という第一の義務を十分に認識して生きることを強く勧めます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C16