サティヤ サイババの御言葉

日付:1976年8月1日
場所:バンガロール

ハートを拡げなさい

サティヤ(真理/真実)、ダルマ、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)がなければ、いくら学識を積み上げても、それは不毛の業績です。これらがなければ、あらゆる慈善も奉仕も果報をもたらしません。これらがなければ、権力者の地位に昇りつめても、それは迫害という地位になります。これらがなければ、善行や功徳も果報をもたらすことはできません。

人には主に四つのタイプがいます。(一)すべてのこと、すべての人の中に善を見る人。(二)善を善と見て、悪を悪と見る人、(三)善を悪と見て、悪を善と見る人。そして、最後は、(四)善をまったく見ない人。なぜなら、彼らは善を見ても、それを悪に変えてしまうからです。これらのうち、おそらく先の三つは許容することはできるでしょうが、四番目のタイプは間違いなく邪悪です。

教育は今、混乱に巻き込まれており、国を繁栄と同胞愛に沿って導く代わりに、外国文化と堕落の道に沿って導こうとあがいています。今の教育は、インド文化の強固で持続的な基盤上に構築されておらず、マコーリー〔植民地時代にインドの刑法や教育を統括した英国人の政治家〕の計画に基づいています。現代教育の産物のほとんどは、道徳的美徳、正直さ、誠実さ、奉仕の熱意、放棄の心構えは、ほんのわずかも見出せないものです。

食べるために生きる人は罪人

古代インドで実践されていた教育は、はるかに実り多く、はるかに優れていました。なぜなら、それは学生に自力本願〔アートマへの信頼〕という健全な精神を身につけさせていたからです。それは学生に心の平和と均衡をもたらしました。それは決して学生を他の文化のきらびやかな幻想や魅力の奴隷にさせることはありませんでした。それは、落ち着きのないものと安定したもの、自分を上に持ち上げるものと下に引っぱるものを識別するよう学生に教えました。それは学生に、活き活きとした顔をして、目を輝かせて母国の御足に自分の人生を捧げることを委ねました。それは、自己文化と自己実現の道に置かれるあらゆる障害に立ち向かうよう学生を武装させました。それは、休息や息抜きをすることなく、非真と不正と暴力に対抗するよう学生に訓戒しました。

ところが、これらの高い理想を育て、それを私たちの教育制度に組み入れる代わりに、人々は今、異なる遺産を持つ他の人々から教育の理想を借りています。そして、先祖たちが何千年も賞賛してきたシステムを信用していないのです。

教育は、生計を立てる手段としてではなく、幸福で平和で進歩的な人生が人を動物の段階から、神のいる間断なく愛と光によって統治されている場へと導くための、不可欠な必要条件として重んじられるべきものです。食べるために生きる人は、まさしく大罪人です。自分の本来の実体の完全なる覚醒へと到達するために生きる人は、祝福されます。前者は罪人(パーピ)であり、後者は祝福された人(ゴーピー)です。

手放す覚悟ができていることは人格における最善の美徳

理性は人間の特別な印です。理性を拡大し、磨くために、あらゆる努力を払わなければなりません。そうすれば、理性は内側と外側の世界を理解するのに適した道具となることができます。知性と共に、人格も同じように大きく培わなければなりません。なぜなら、そうして初めて、知性は社会に役立つよう使われることができるようになるからです。他の人の負担を和らげるために自分の喜びを放棄する準備ができていることは、人格の最善の美徳です。モークシャ〔解脱〕は解放を意味しますが、放棄も、手放すこと、すなわち、解放を伴います。どちらの秘訣も同じです。

正確には何を手放さなければならないのでしょうか? 欲望は最悪の敵です。識別心を持って欲望を方向づけ、あなたを悩ませなくなるまで欲を減らさなければなりません。欲に加えて、怒りと貪欲も捨てなければなりません。なぜなら、怒りと貪欲は、欲望があるところはどこにでも存在するからです。あなたが「弓を持つ人」と言うとき、その人は弓といっしょに矢も持っていることも意味します。それと同じように、欲望はつねに怒りと貪欲と結び付いています。欲望は、たとえ名声と権威を欲するものであっても、悪です。多くの人間の生活を台無しにするのは、力とお金を欲する強欲です。

人生は旅です。ここの学生は長旅をしなければなりません。ですから、幸せに旅ができるよう、学生たちに技術と熱意と安全を与える必要があります。学生たちのハートは清らかで、定まっていて、包括的です。年長者は、学生たちのハートを汚したり、狭めたり、復讐心を抱いたりさせないような振る舞いをしなければなりません。学生たちは、集中的な社会奉仕を通じてハートを拡大すること、ハートを柔らかくすることを奨励されなければなりません。

富が歓喜あふれる満足感をもたらすことはできない

私たちの教育機関は、過ぎし時代の高い基準を維持できていません。昔、聖仙たちのアシュラムでは、学科で100点を取った場合にのみ合格とされました。しかし、今では30点を取れば合格証書を渡されます。つまり、70の間違いをしても無事でいられるということです。この程度で簡単に学位が取れて、その学位が権威ある地位に就くための基準であるならば、そうして地位に就いた人は、たとえ100の仕事でそれぞれ100の間違いを犯しがちであっても、その人の地位は安泰です。そうした人たちが、どうやって明日のインドの救世主や柱となることができるでしょうか? ですから、私はいつも私の大学の学生に、「マーク」(点数)を得ることよりも「リマーク」(批判)されないことを重視するようにと言っているのです。富が、歓喜あふれる満足感をもたらすことはできません。それを与えることができるのは神のみです。神を切望しなさい。そうすれば、歓喜と平安があなたに付加されるでしょう。

神聖なるアートマンの化身たちよ! これら人を高める理想を追求するとき、あなた方は他の人たちがその道に置く多くの障害に直面するでしょう。ですから、彼らのもっともらしい言い分に丸め込まれないよう、いつも油断なく警戒していなければいけません。

気づくことが人生です。あなたの内にある強さと栄光に気づきなさい。愛のこもった社会への奉仕を通じて、その栄光を表現しなさい。北インドでは、ヨーギ(霊的に進歩している人)と聖賢と僧侶は、「マハーラージャ」すなわち「大王」と呼ばれています。なぜなら、大王とは、無執着と奉仕という貴重な宝石の入った宝箱を持っている人のことであり、貴金属でいっぱいの蔵を持っている人のことではないからです。あなたが秘蔵している財産はあなたのものではなく、あなたが人と分かち合っている財産はあなたのものです。なぜなら、あなたに属する財産を隠す必要はないからです。

悪口や非難も良いことをする

あなたが人に与えた富は、実に、あなたのものです。それが、「行為によっても、子孫によっても、財産によっても、不死を得ることはできない、不死は放棄によってのみ勝ち得ることができる」とヴェーダ(古代の神聖な経典)が宣言している理由です。若者は、人類に恩恵を施す者や導師となって、インドが繁栄して輝くことを助けることができるようなあらゆる技能と美徳を身に付けなければなりません。それから、人生という大邸宅の土台となる自信〔アートマへの信頼〕を深めなければなりません。それから、自己満足〔アートマを満足させること〕という壁を築き、そこに自己犠牲〔アートマへの犠牲〕という屋根を付けなければなりません。そうすれば、その家に住んで、自己実現〔アートマの顕現〕を達成することができます。こうして若者たちは、これらのステップに沿って進歩し、インド文化の栄光の中でインドの文化の輝ける模範にならなければなりません。

インドの栄光の復活のためのサナータナ ダルマ〔古来よりの永遠の法〕の再建に対して嫉妬を覚えている人々は、再建の土台となる信仰心を弱らせて、若者の心を混乱させようとしています。ヒバリの歌はカラスの耳には酷いものに聞こえますが、それに対するカラスの批判はヒバリを黙らせはしないでしょう。天の白鳥(ハムサ)はアヒルから醜いと非難されますが、そのことが白鳥を悩ませることはまったくありませんし、アヒルが天の白鳥の栄光を曇らせることもできません。悪口、非難、侮辱はすべて脇に置きなさい。それらを見る必要はありません。それらに価値を置くことはまったくありません。実際、それらそれなりに良いこともしています。なぜなら、それらは光の卓越性を強調して増長することに貢献しているからです。それは物事を明るく輝かせるための箔です。加えて、ある人が「ノー」と言って、もう一人の人が「イエス」と言うなら、それは個人の問題です。

若者は決して狂信的な呼びかけに耳を傾けるべからず

サイの光輝に影を落とそうとする試みが成功することは絶対に不可能です。一つの手段を除いては。サイの光輝を一定の長さの線だとしましょう。こすったり消そうとしたりしてその線を短くしようとしても、それは短くなりません。けれども、もしその脇にもっと長い線を書けば、サイの線は自動的にそれよりも短いものになります! ですから、サイがしているのと同じことを、もっと壮大で印象的なスケールで行うのです。そうすれば、サイの名声は確実に減少するでしょう。これは、根拠のない話をでっち上げるよりも、ずっと効果的な方法です。もちろん、その試みを始める人は、そのための資格と権限を持っていなければなりません。どのやって蟻に海の深さを測ることができるでしょう? それでも、多くの人がこの場に入ってこようとします。なぜなら、彼らにはそれより増しなすることがないからです。彼らはしょせん、この土地の静かな空気をかき乱すことに成功するだけです。イエスは棘の冠をかぶせられました。木が柵で囲ってあったら、それはその木には食べられる果物が豊富に実ることを明確に証明しています。そのようなゲームをして貴重な時間を無駄にすべきではありません。自分の神性に気づくことと、社会に奉仕することに時間を費やすことが最善です。

サイの行いはすべて、無私で、神聖で、有益です。サイは一度も害を与えたことはありません。サイは、真実の道、道徳の道、神実現への聖なる道を敷いているところです。ですから、サイの仕事は勝利に向かって進んでいくでしょう。サイが恐怖のあまり自分の仕事をあきらめるように仕向けることのできる人は、これまで生まれておらず、今後も決して生まれないでしょう。なぜなら、真理は難攻不落であるからです。真理は勝利しなければなりません。

一匹の犬が自分の映った姿をライバルの犬だと思って吠えはじめると、他の犬たちも理由がわからないままそれを合図に吠えだして、そこいら中が犬の吠える声だらけになります。星に向かって吠える犬がいても、星は動じません。あなたも、意味のない騒音に乱されることなく、今しているように、いつもの熱意を持ってあなたの奉仕の使命を果たしなさい。若者は決して狂信や革命の呼びかけ耳を傾けるべきではありません。今の年若い年齢から、自分の激情を制しようと努めなさい。一方では、扇動は役に立ちます。なぜなら、あなたはその厳しい条件の中で自御の練習をすることができるからです。

あなたの主人はあなたのハートであり、そこには神が住んでいる

私はセヴァ オーガニゼーションのユニットの皆さんに言いたいことがあります。それは、近いうちに皆さんはユニットの理想のすべてが実現するのを目の当たりにするだろうということです。けれども、成功すると、その反動として、あら捜しと中傷も増えるでしょう。井戸を深く掘ると、その脇に積み上げられる土の山は高くなります。それは当然のことです。井戸の深さに注意を払う人もいれば、土の山の高さを見る人もいます。

私はいつもあなた方に一つの真理を語ってきました。それは、あなたの主人はハートであり、神はそこに住んでいるということです。あなたは一人ではなく三人います。あなたがあなただと思っているあなた、他の人があなただと思っているあなた、そして、本当のあなたです。本当のあなた、それは神です。神は、あなたの中に、あなたと共に、あなたの上に、あなたの周りに、あなたの後ろにいます。あなた方は皆、本当は神なのです。名前と姿形の違いは、一時的かつ外部的なものにすぎません。

自分自身に対する最高の義務を果たしなさい。それは4つのFに従うことです。主に従い(Follow the Master)、悪魔に立ち向かい(Face the Devil)、最後まで戦い(Fight to the End)、ゲームを終わらせる(Finish the game)のです。そうすれば、あなたは完全に私の愛を勝ち取るでしょう。愛は私の最高の奇跡です。愛はあなたが全人類の愛情を集めることを可能にさせます。愛はいかなる利己的な目的やアプローチも許容しません。愛は神です。愛の中で生きなさい。その時、すべては正しく、すべてはよい状態になることができます。あなたのハートを広げなさい。そうすれば、すべてを包み込むことができます。ハートを狭めて、ハートを限定された愛の道具にしてはなりません。

私は奇跡で人々を引き付けようとしている、と言われています。奇跡というのは、パワーを示すために「パフォーマンス」するものではありません。奇跡は、ただ起こり、パワーの証拠として働くだけです。実際のところ、誰かが本人の身体的、心的、経済的、霊的なパワーを誤用したときには、サイはいつもそれを強く非難します。ですから、サイのパワーはユニヴァーシティ(大学)の試験の題材にはなり得ません。サイのパワーはユニヴァーサル(全宇宙)の試験の題材です。サイは自らの意志によってのみ制限されます。しかし、近しい親愛なる関係が確立されると、人はサイの神秘をもう少し深く掘り下げることができるようになります。これは達成可能な最高の成果です。

神聖なるアートマンの化身たちよ! 心の平安と均衡を育み、苦しんでいる人、病気の人、恵まれない人への奉仕といった神聖な務めにあなたの人生を費やしなさい。これが私のアドバイスであり、それはあなたに私の祝福を保証するでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C21