日付:1976年11月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
51歳の御降誕祭の御講話より
神を肯定する人と神を否定する人、神はどこそこにいると断言する人と神はどこにも見つけられないと断言する人との衝突は、決して終わりません。それは長い年月を経て続いています。こうした状況を考える時、目を覚ましている人を起こす必要はないということ、眠っている人を起こすのは容易であること、いくら頑張っても、目を覚ましたくない人を起こすことはできないということを、思い出さなければなりません! 知らない人には、その人は何を知らないのかということを、単純な実例を上げて教えることができます。しかし、生半可な知識しかないのにその知識を自慢に思っている人には、教えようがありません。
二つの目は広大な光景を見せてくれますが、目にはその目が付いている顔を見ることはできません! 目は体の重要な器官ですが、目には体全体を見ることはできません。あなたが自分の顔や背中を見たい時、自分の前に一枚の鏡を置いて、さらに自分の後ろにもう一枚鏡を置く必要があります。そうすれば、前の鏡に後ろの鏡が映り、その中に自分の背中が映っているのを見ることができます。それと同じように、あなたが自分の今の現実(顔)と将来(背中)を知りたいなら、自分の前に「自信」(自分は神我であるという信念)という鏡を置き、自分の後ろに「神の恩寵」という鏡を置かなければなりません。この二つがなければ、あなたは自分の真実、自分の運命を知っているというあなたの主張は、まったくの幻想にすぎません。
神の化身は不可解な行為によって引き付ける
神は、限られた人間の言葉において共通のさまざまな言葉によって名付けられています。人々は、神の御業である現象に「奇跡」、「魔法」、「不思議」などという名前を付けます。当然ながら、人は自分が持つことができるもの以上のものを自分の心の中に入れることはできません。人は言葉で表現できないものは表現できません。深く潜って、根底に横たわる愛の原則に触れたことのある人だけが、神性をある程度明確に描くことができるのです。神性、すなわち私〔ババ〕は、これまで取得されたことも獲得されたこともなく、また、この人生の途中で、数年後に付加されることも明示されることもありません。
神は、こうした顕現〔御業〕を通して自らを明らかにしなければなりませんが、それは時代や地域や文化的環境の特質によって広く形作られ、修正されます。私が顕現させる不可思議には名前が付けられていますが、そうした名前には目的や効力が伴っていません。それらはチャマートカーラ(人を引き付ける不思議な神の御業)と呼ぶことができます。それはサムスカーラ(浄化の行為)へとつながり、次に人をパローパカーラ(他者を助けること)へと駆り立て、最終的にサークシャートカーラ(神我顕現)を引き起こします。チャマートカーラ(人を引き付ける不思議な神の御業)は、不可解ゆえに魅力的なあらゆる行為です。引き付けるという側面は、アヴァター(神の化身)に本来備わっているものです。「ラーマ」という御名は「喜ぶ者、喜びをもたらす者」を意味します。「クリシュナ」には「引き付ける者、自分のもとへ引っ張る者」という意味があります。引き付けるという属性は神に典型的なものです。
引き付けることはまさしく神の特徴
神はなぜ引き付けるのでしょうか? それは騙したり、誤った道に導いたりするためでしょうか? そうではありません。それは、変容、再建、改造といった、サムスカーラ(浄化の行為)と呼ばれるプロセスをもたらすためです。何のための再建なのでしょうか? その人を有益で社会に役立つ人物にするため、その人のエゴを消し去るため、神の中で万物は一つであるということをその人に確信させるためです。サムスカーラ(浄化の行為)のプロセスを通った人は、助けを必要とする人々の謙虚な召し使いになります。これは他者を助ける段階(パローパカーラ)です。深い尊敬と無私の精神で行われるこの種の奉仕は、「多」に遍満している唯一者を悟るための準備を整えてくれます。最後の段階は、神我顕現(サークシャートカーラ)です。ヴェーダ経典は、不滅の命――生まれることも死ぬこともない普遍的実在に人が融合する段階――は、儀式や子孫や富によってではなく、捨離と無執着のみによって実現可能であると宣言しています。利己的な願望を手放した時、その人の愛は宇宙の隅々にまで届いて、その人は、チャマートカーラ(人を引き付ける不思議な神の御業)、サムスカーラ(浄化の行為)、パローパカーラ(他者を助けること)、サークシャートカーラ(神我顕現)という四つのプロセスのすべてを養っている、普遍的な愛を認識するようになります。私はすべての人の内にあるこの基本的な愛の衝動を知っていますが、私がそれを知っているのと同じように皆さんもそのことを知ることは、大切なことです。
チャマートカーラ、すなわち、人を引き付けて不思議をもたらす行いについて、考えてみましょう。花を見た時、あなたはその花の色や香りに引き付けられた場合にだけ、花を摘みます。市場に行って果物の山を見た時、あなたがその果物に引き付けられなかったら、それを食べたいという衝動は起こりません。引き付けることは、まさしく神の特質なのです。
理性では神を測れない
ひとたび人が近くに引き寄せられると、サムスカーラ(浄化の行為)のプロセスが始まります。これがなければ、人は未開拓で、弱いままです。そのような人には尊厳や人格はありません。価値のない鉄の塊が、巧みな技術と組み立てによって数百ルピーもの価値を持つ時計に変わります。これはサムスカーラ(浄化の行為)の結果であり、それが鉄の塊を時間を示す便利な道具に変えたのです。ですから人間も、善い考え、善い気持ち、善い行い、善い感情を植え付けることによって、高貴で、有能で、幸せで、規律正しい、社会の一員へと変わることができるのです。そうして変容した人は、人間の福祉を促進するという務めに自発的に従事します。彼らは、人間は皆兄弟であり神は父であるという理念を促進する人となるでしょう。
今日、霊性の科学の経験や知識がなく、神という概念がない人々は、そうした主題について、それらは邪道であるといった発言をします。目は見ることができるだけ、舌は話すことができるだけ、耳は聞くことができるだけです。それぞれが自分の限界を受け入れて、それに甘んじるしかありません。神は、愛、信心、そして、普遍的な愛が染み込んだ霊性修行によってのみ、つかまえることができます。神を測るには、理性は弱すぎる道具です。神を否定することで神を無にすることはできません。論理で神を明らかにすることはできません。今、神に浴びせられている手厳しい非難の一切は、便宜主義者である無神論者からのものです。ですから、あなた方の義務は自分の平静を保つことです。自分に正直で、揺るがずにいなさい。私は賞賛や非難には影響されません。私の愛と慈悲はすべてを包みます。私の恩寵は万人が供されうるものです。私がこのことを宣言するのは、あなた方が忍耐を持ってそうした一切に立ち向かうことができるようにするためです。掘れば掘るほど、嘲笑は深まります。積み上げる土の山が高ければ高いほど、賞賛は高まります。鼻が悪い人は花の香りがわかりません。神のよさがわからない人や神を認識することができない人たちは、そのような病気に苦しんでおり、それが彼らにそうさせて、彼らを不利な立場に立たせているのです。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C25