サティヤ サイババの御言葉

日付:1976年12月25日
場所:ブリンダーヴァン
クリスマスにおけるババの御講話より

神性の開花

回教徒にとっては、神はアッラーであり、クリスチャンにとっては、神はエホヴァです。ヴィシュヌ神を崇める人々にとっては、神は維持者としての神であり、シヴァ神の召し使いたちにとっては、神は束縛から解き放つ神です。本当のことを言えば、神は真実を開示する存在であり、神を崇めるすべての人に、深い愛から命と健康と富とを授ける、唯一無二の存在です。神は、私たちが神の御名を呼ぶ時に答える唯一の存在です。神は、天地創造の始まる前から存在しています。神は、一切のものを維持している存在です。神は、すべてのものが存在しなくなった時にも、存在し続けています。サンスクリット語では、神の御名はバガヴァンと言います。

生きた神の化身である皆さん! 一人ひとり、すべての人が神の種子です。小さな一粒の種子が大地に蒔かれます。それは柔らかな芽を出し、徐々に繊細な若葉をつけた植物へと成長していきます。そして、ついには巨大な樹木となります。人間の身体を授けられた一つひとつの魂には、段階を追って成長し、完全に進化した神になるチャンスが与えられています。

木の台に二つの車輪を付ければ、遠くまで行ける荷馬車になります。飛び始めたばかりの若鳥は、しっかりした二つの翼が育つことにより、天空へと舞い上がることができます。二つの車輪がなければ、木の台は少しでも動くことができるでしょうか? それは荷馬車と呼べるでしょうか? 二つの翼がなければ、羽毛に覆われた鳥の体は、大空に舞い上がって、その歌声でこの世を讃美することができるでしょうか? それはナイチンゲール(サヨナキドリ)と呼べるでしょうか? もし、私たちに二種類の知識が備わっていれば、人間の身体は、神がそれを通して流れ出す、生きた通路(チャンネル)に変わります。私たちには、この世的な知識と、より高次の知識との両方が必要です。この世的な知識によって、私たちは肉体を維持することができます。神に通ずる扉を開くには、人生のより高度な側面に関する知識が必要です。物質界に関する知識は、私たちに、生活費を稼ぐ手段を与えます。神に関する知識は、生きる目的に向かう道を明るく照らします。この世的な知識は、私たちが人生の目的を認識し、そこに到達するのに充分なほど、寿命と健康を保つためのものです。

食物を集めることや、次から次へと物品を貯えていくことが人生の目的ではありません。人間は、ただ単に肉体生命を維持する上での必要物品を集めるためだけに、地上に生を受けるのではありません。私たちがこの世界に生まれて来たのはなぜでしょう? 世界とはいったい何でしょう? 誰がそれを創造したのでしょう? 私たちの人生の目的は何でしょう? この世界は、私たちが人生の目的を達成できるように、神が、神の本質を素材として創り出したものです。人生の目的とは、神を捜し、神に到達することです。あらゆる宗教の目的は、人生の本当の目的を開示することにあります。ただ単に生活費を稼ぎ出す方法のみを並べているだけの宗教というものは存在しません。

あらゆる人間が、神を把握するために、必要な苦難を経なければならないという、基本的な必要性を有しています。数多くの試みの末に、私たちは、いかなる必要を満たすためであれ、神に頼らなければならない、ということを学ばなければなりません。私たちは、神の本質を人間の中に導き入れなければなりません。それこそが人生の本当の目的です。神を喜ばすためには、私たちは神の原理の生きた手本とならなければなりません。これらの原理に関して神が私たちにだんだんと与える訓練は、規律を要求します。私たちは、それを霊的規律と呼びます。

神の法則に逆らって動くことは、神に逆らうことであり、それは必ず失敗に終わります。それは生命の基本的性質に逆らって動くことであり、あなたの人生は生きながらの死となって、いずれかの時点で、この誤った行為には終止符が打たれなければなりません。生命を維持するために定められた聖なる自然法則が余りにも甚だしく犯された場合には、人類全体が、さらにはまた、実に生きとし生けるもののすべてが滅びてしまうのです。このことが原因で、多くの原始的動物たちや人間たちが、現在の地球上にはもはや存在していないのです。

地球上の生活環境は絶えず変化しています。命を維持するために必要なものが変化します。それぞれの時代の必要に答えるために、神は、聖賢や神の化身を差し向けて、地上の人類の命を維持します。神の法則の生きた手本であるこれらの人々は、理想的な生活を送り、それぞれの時代に応じた神の計画に即して生きるのに必要な規律に関して、人類を指導しました。

現在必要とされているものは、新しい社会でも、新しい形の教育でも、新しい宗教でもありません。今や人類は、内面的、精神的純粋さにおいて、はるかに高いレベルヘと進まなければなりません。人間が生き残ろうと思うのであれば、意識を純粋にしなければなりません。人類は、巨大な石、すなわち自我という不浄な重荷のわなにはまっています。妬みと憎しみと身勝手が、今日のほとんどの人間たちの生活様式を支配しています。悪は栄えません! 愛が輝き出さなければなりません! 私たち一人ひとりが、利己的興味という重荷から自己を解放しなければなりません。そのとき、ついに人類社会は、本来の自然なレベル、すなわち神のレベルにまで上昇するのです。

真に人間らしくなるためには、人と人との関係の本来の性質を認識し、理解しなければなりません。すべての人々の間に存在する本来の神性を体験しなければなりません。より広い視野を持たなければなりません。父親と息子との間に、また母親と娘、兄弟同士、姉妹同士の間に、神聖な関係を育てなければなりません。さらにまた、社会集団、富める者と貧しい者、教育を受けた人と受けてない人、そして国と国との間に神聖な関係を育てていかなければなりません。愛を放棄してはなりません。あなたは愛を見つけなければなりません。

聖なる岸辺に到達するために、現代世界の人々は、人と人とを隔てる相違という幻想を超えていかなければなりません。私たちは、規定された個人の領域をか細く守る、ほとんど動物と変わらないような存在になってしまいました。一人ひとりが自己関心という狭い世界を超越してしまわなければなりません。私たちは、愛そのものになって、愛として広がり、人生のあらゆる限界を完全に満たしてしまわなければなりません。神の愛の領域を把握しなさい。愛によって変容を遂げ、無限の神の意識による神聖な世界へと入っていきなさい。個人という限界を超えて成長しなさい。本来の自己の性質を完全に花開かせなさい。あなたと、あなたを取り巻く広い世界との関係がはっきりと見えることでしょう。あなたは、狭い自己関心を忘れ、神の創造した宇宙の豊かさの中に生きて呼吸することの、尽きない喜びを知るでしょう。

このはるかなる大宇宙が私たちの生命を支えていなければ、人類は存在するすべがありません。広々とした海から離れてしまえば、塩水の小さな一滴はすぐに乾燥してなくなります。その同じ一滴の海水も、それが広大な太平洋の一部として海と共にある時は、太平洋と呼ばれます。一滴の海水が、海から離れて、すぐ消えてしまう独立した存在であろうとする時、いったい誰がそれを太平洋と呼ぶでしょうか? それ自体の潜在的豊かさは失われてしまいます。私たち一人ひとりは、広大な海、すなわちその中に私たちが住んでいる、私たちを取り巻く世界の一部として、完全に機能しているときにこそ価値があるのです。

真に人間的であるためには、人は皆、自分自身を、私たちが外の世界と呼ぶ全宇宙に充満している、生きた真理であると見なさなければなりません。他と競い合う類の自己関心や、偏見や、憎しみを、自分自身や他の人々の内に育てることは、決して人間の義務ではありません。

微細な水滴が巨大な海の中に解放されれば、水滴の中身は徐々に広がっていき、二度と海から取り除くことはできません。私たちを他人とは無関係であると感じさせる基盤そのものが消滅して、普遍的神性と一つに溶け合うとき、私たちは神の心を持ち、無限にして永遠なる命を知るのです。一人ひとりが、広い心と、信仰心に満ちた態度と、想いの純粋さとを育てなければなりません。私たち一人ひとりが、人格の力と意識とをより大きく、純粋なものにした時、世界中のあらゆる国々と、地球全体が、神の平安と無限の喜びとを知るのです。

今日は非常に神聖な日です。イエス キリストの誕生日です。イエスが人間の姿で地上に生きていた時、イエスの最初の声明は、「私は神の使いである」というものでした。イエスだけが神に使わされた使者であったわけではありません。私たち一人ひとりが、神から使わされた使者としてこの世に生を受けるのです。この地球に生まれたすべての人々が、一人残らず同じ使命を持ってこの世に生を受けます。あなたの目的は、人生の偉大な秘密を開示することです。あなたは、人生の真の本質である神性を覆っているベールを取り除き、その無限の美しさを、人類と分かち合わなければなりません。

あなたは、目が覚めている間のすべての時間を、次々と利己的欲求を追いかけることに使うために、人類社会の一員となったわけではありません。貴重な時間のすべてを、生活費を稼ぐことに使ってしまうために、地上に生かされているのではありません。あなたの人生の使命をまっとうするには、まず自分がなぜ人間になったかを理解しなければなりません。高度に進化した人間の身体は、あなたが無限なるものを見るための道具であり、神の真の力と神聖な可能性とを世界に宣言するための道具なのです。あなたが生きた手本を示すことにより、全人類にとって、神の神秘がいっそう明らかになります。あらゆる人間の真の本性は、まばゆいばかりの神の光です。あなたは一日中、一瞬ごとに神の聖なる本質を発散させていなければなりません。

神はどこにいるのでしょう? 神は、特定の場所にしかいない存在ではありません。神には、洞窟の中や高い山の頂上だけで会えるのではありません。神は東洋に隠れているのでも、明るい照明に満ちた西洋の都市に隠れているのでもありません。神は何千年も前に死んでしまったわけではありません。あなたは、神が現れるのを何千年も待つ必要はないのです。神は、常に、あらゆる人の心の中に存在しています。神を見たいと心から願うのであれば、本当に究極の神の姿を見たいと切望するのであれば、あなたは、別の時代に生まれて来なければならなかったなどと考える必要はありません。自分の家庭を出て、どこか遠いところまで旅をする必要はありません。

間違いなく、あなたは神を見ます。必要なのは、ただあなたの意識を、物質世界の興奮から引き離すことを始めることだけです。自分自身の内面に、もっともっと完全に焦点を当てなさい。これを成し遂げた時、あなたは神を知るでしょう。あなたは、すべてを圧倒する神の愛を体験します。決してそれを疑う必要はありません。

インドの宗教的言語であるサンスクリット語で書かれた「神の詩(うた)」、すなわち、バガヴァッド ギーターの中に、はっきりと、「十万の太陽よりさらに明るく輝く神が、あなたの心の中に輝いている」と書いてあります。ところが、あなたは神を忘れて、すべての時間を、外の世界の無知の中に浸り切って過ごしています。

今日地上で入手できる最古の詩は、インドのヴェーダ聖典に見いだすことができます。時代を超えて歌い継がれて来たこれらの叡知の詩章は、「あなたが不滅の生命の子どもであることを知りなさい」と言っています。人間たちは、この叡知を無視して、自分は単なる肉体に過ぎないと考えています。あなたは、この幻想を確かなものと納得して、肉体的なさまざまな物事に関する心配の重荷に苦しみ、力を失っています。

現存する最古の成文経典であるインドの真理の書、すなわちヴェーダは、あなたのことを、「不滅の真理と、無限の聖なる意識と、尽きることのない至福の化身である」と表現しています。あなたは、真理と至福とをあなた自身の中に発見しようと努力していますか? それとも、その代わりに、あなたの想像上のひ弱さに気落ちして悲しみを感じながら、いつもぶつぶつ不平をこぼしているのでしょうか?

あなたが現在持っているすべての問題は、三つの根本原因から発生しています。あなたは、自分の中に十万の太陽より明るく輝いている神を忘れてしまっています。自分が不滅の生命の子どもであることを忘れてしまっています。あなたは、自分が生きた至福の化身であることを忘れてしまっています。自分が神であることを知らないために、物質次元のさまざまな心配事に悩み苦しむのです。あなたは自分の本来の性質を無視しています。

あなたは、この世において、まばゆいばかりの神の光で輝くために人間になるのです。あなたはいつかは死んでしまう肉体をまとっています。あなたが決して死なない者であることをすべての人々に示すために、そしてあなたが無限の至福であるということをはっきりと皆に伝えるために、あなたの身体は問題の多い世の中を歩いているのです。神はこれらのメッセージを全人類に伝えるために、あなたをこの世に送ったのです。

「私はパン代を稼ぐ者であり、食べて寝るために生きているのである」と語ることは、無知の極みです。あなたの使命は、無知を追い出し、それを遠ざけておくことです。あなたは、あらゆる状況において理想的な行動を示すことによって、あなたの中にある神の本当の性質を証明するためにこの世に生きているのです。他の人々は、あなたの行動によって、人生の本質を認識し、人生の本当の目的を達成しようとし始めるのです。

あなたは神聖な魂の化身です。空を飛ぶ鳥たちのすべてが、食べ、眠り、伴侶を得、子孫を増やし、恐れに反応します。あなたはそのようなことのためにここにいるのですか?

あらゆる種類の生物の身体の中で、人間の身体だけが、魂が三種類の智恵に近づくことを可能にします。あなたが人間の身体を持っている間は、物質に関する科学を習得することができます。あなたは、ものごとの理解の範囲を、霊的向上の科学にまで広めることができます。あなたは、神を体験するまでたゆまぬ努力をして、神の実態であるところの無限の智恵が湧き出る泉になることができます。この神聖な機会にもかかわらず、人々は眠りや怠慢を望みながら日々を送ります。あるいは、食べ過ぎや野放しの官能的な行動などによって、感覚の欲求を追い求め、力を浪費してしまいます。彼らは、不条理な恐れのために感情のバランスを失ってしまいます。どんな動物でもこのような生き方をすることができます。あなたは人間らしく生きているでしょうか?

あなたは本当に技術的知識を獲得するために長い時間勉強しなければならないのでしょうか? 教養のない動物たちの生活様式を身につけるために、大学で何年も過ごして学位を得る必要があるのでしょうか? もしあなたが動物のように生きるのであれば、どうして人間の身体を持っている必要があるのでしょう? 人間の身体はいったい何の役に立つのでしょう? あなたは動物と同じですか?

いいえ! 決してそうではありません! あなたは動物と同じではありません。聖なる神の真理と愛こそが、あらゆる人の根本的性質です。あなたは、神の法則に調和した最高の聖なる行為を行うことができるのです。人生におけるあなたの役割は、動物の能力を遥かに超えたものです。人間として生まれるのを許されることは、動物として生まれることとは比較にならないほど難しいことなのです。

イエスは、人間であることの価値を知っていたので、神の使いとして人生を送りました。イエスは、みずからの神性を見る一方で、他のすべての人々の内にも神を見ました。イエスは、一人ひとりの内にある神に奉仕することは社会に奉仕することであり、社会に奉仕することは直接神に奉仕することであると知っていました。

無私の心で何年か人類に奉仕したあとで、イエスは、自分が肉体をはるかに超えた存在であること、自分が肉体の生死をはるかに超えた何者かであるということに気が付きました。イエスは、自分が不滅の生命の子どもであるということ、すなわち神の子であるということに気が付いたのです。イエスが自らを完全に神と同一化したので、神の聖なる諸性質が、彼を通して現れ、全人類に恩恵をもたらしました。

あなたがもし、本来の自己である高次の神性として花開くことを望むのであれば、大いなる謙虚さを持って、また利己的な収穫を全く心にかけずに、人類に奉仕をしながら、与えられた人生を送らなければなりません。

イエスは、自らを全人類に対する聖なる奉仕に完全に捧げ切ったとき、あたかも神が人間の姿で世界に奉仕しているかのように、自分が世界に奉仕しているということに気がつきました。イエスは、周りの人々に話している時、自分の状態を「私と父なる神とは一つである」と説明しました。

私たちが、自分のことを、「神の子」と呼べば、それは笑えない冗談になってしまいます。私たちは神のごとき行動を注意深く避けています。私たちは、私たちの人格の素晴らしさによって神が知られるという一切の希望を、台無しにしています。その代わり、私たちは、自らのさまざまな悪い性質を完成するためにせっせと励み、自分たちの誤った行動を誇張して語ることにしばしば喜びを見いだします。

もしあなたが、「神の子」の名にふさわしくありたいと望むのであれば、少なくとも、神の性質を身に帯び、神により近くなるように成長する努力をしなければなりません。少しずつ善い性質を養うように努めなければなりません。善い(GOOD)性質とは神(GOD)の性質のことです。

神のごとき諸性質を一つひとつ培い、それらのものを心から望み、育てるにつれて、私たちは徐々に、神の真の性質をより完全に知るようになります。神の神聖な性質を完全に知った時に、私たちは神と一体になるのです。私たちと神との間には、何ひとつ違ったところはありません。

インドにおいては、人生の聖なる本質は、三つの異なった霊的哲学によって説明されています。一つは、価値ある神の使者となるように努めることに関係しています。この哲学を実践する人は、神がその人の行動の一つひとつを見ていると感じます。その人は、神を喜ばせる方法を学ぶことがいかに大切なことであるかを知っています。この哲学は、二つのもの、召し使いと神、が存在する状態として知られています。その人の世界の中には二つのもの、その人自身と神、があります。その世界は二元性に基づいています。この霊的哲学は、「二元論」と呼ばれています。

神と人類に奉仕するにつれて、神の愛と温かさと神の加護に関する理解が格段に深まります。やがてその人は、神が愛に満ちた父親のごとく自分を見守っていることに気が付きます。その人はもう分離感を覚えません。その人は、自分と神とは一つの家族であると感じます。そして、あらゆる存在を、神の愛する子どもたちと見ます。誰もが一つの神聖な家族の一員です。この霊的哲学は、もはや「二元論」ではありません。以前は分裂があったところに、今は調和が存在しています。それは、「条件付き不二一元論」と呼ばれる、一種の「一元論」です。

人の霊的成長の最後のころには、不完全で劣っているあらゆる性質が消えてしまいます。善良で、神のごとき性質のみが残ります。この状態にある人は、その人の個人的性質がどこで終わり、どこから神の性質が始まっているかが分かりません。その人は、自分と神を区別することができません。そして、全人類に内在する神に奉仕する活動を愛に満ちて続けます。その人がもはや二つに分離したものを見ることがないために、この第三の哲学は、完全な「不二一元論」と呼ばれます。それは神との完全な調和と一体性とを表しています。

「私は神の使いである」という聖書の言葉は、インド哲学の「二元論」に対応しています。神と神の使いとは、別個の二つの存在です。人生は、神と神の使いという、二つの重要な配役が登場する劇です。「二元論」という言葉は実に適切です。

神との特別な個人的関係が生ずるにつれて、「条件付不二一元論」という哲学が登場して来ます。西洋の霊的哲学は、この状態を、「私は神の子である」という言葉によって、非常に明確に表しています。

これらの二つの哲学において、「神の使者」と「神の子」との間には大きな違いがあります。「神の使者」は「神の召し使い」です。「神の子」には神の権威があります。神の子が、徐々に、神の神聖な諸性質を、以前にも増して着実に育てていくにつれて、その人は完全なる神性を備えた人間になります。この究極的な神性の状態は、「私と父なる神とは一つである」という言葉で表現されています。東洋の霊的哲学においては、この一体性の状態は、「不二一元性」と呼ばれています。

すべての人が、それぞれの人生において、神との分離感を覚える「二元論」の状態から、神から信頼された子どもとしての、「条件付き不二一元論」の状態へと進まなければなりません。次に、天なる父と一体となる、完全な「不二一元論」の状態に到達しなければなりません。あなたがたとえ誰であっても、これらの段階を一つひとつ通って成長するように努力しなければなりません。

私は、皆さん方全員が、最高の霊的段階に到達するようにと願ってやみません。私は、皆さん方の一人ひとりに、神と完全に一つになる喜びを知って欲しいのです。最も頭の鈍い生徒でさえ、同じ教室に座って一年生の教材を果てしなく繰り返しながら、学生時代の全体を過ごしたいとは思いません。

すべての人間が、この世的な知識と、霊的向上に関する知識と、神を直接体験することによって認識される知識とを習得できる潜在的能力を、生まれた時から備えています。何も知らない子どもでも、あるいは智恵の遅れた子どもでさえ、毎年新しい学年に進級しようとして奮闘します。ところが、無限の知識を獲得する能力のある大人たちは、一生同じ学級に留まろうとしています。物質世界のさまざまな勉強を繰り返すばかりで、決して、そこを卒業して、霊的レベルあるいは神のレベルヘと進むことなく、人生の全体を費やしてしまうことは、何という無知の極みでしょう!

無限なる霊魂の生きた化身として、あなたは自らの可能性を完全に実現しようと努めなければなりません。自分が神とは別者であるという心の狭い考え方から、より高く進歩向上しなければなりません。物事をよくわきまえた、神の召し使いになりなさい。愛に溢れた神の子と呼ばれる資格を獲得しなさい。成長して、あなたの可能性を最大限に活かせるようになりなさい。

東洋の哲学用語で言えば、神の忠実な使いとしての二元的な分離主義から、神の子としての条件付き不二一元論を経て、神と融合する不二一元性の状態にまで進化しなければならないのです。あなたは、神との一体性を知ることによる永遠の聖なる至福を楽しまなければなりません。

神に帰融した状態は、東洋哲学の用語では不二一元性と言います。キリスト教においては、人が神に受け入れられることと、神と一つになる行為とは、聖書の中で、「彼は聖霊に満たされた」と表現されています。

ですから、最初のステップは、神の召し使いとなって人類に奉仕することです。第二のステップは、聖なる奉仕に完全に没頭してしまったときに生じます。第三の段階に到達すれば、あなたと神と人類を隔てるものは何もなくなってしまいます。すべては愛です。すべては一つです。あなたの聖なる手は神の聖なる御手です。

偉大な皇帝たちや王たちは、大帝国を統治することを誇りに思っていました。昔の国王や王妃たちはどこにいるのでしょう? 彼らは今や記憶の中にすら存在しているでしょうか?

地球の長い歴史を通して、正義を復興し人類の繁栄を励ますために、数え切れないほどの魂が地上に現れました。これらの人々の記憶は、すべての人の心に生きているでしょうか?

最も良く記憶されているのは、あらゆる利己的興味を手放して、神と全人類に対する無私の奉仕を百パーセント実践した人々です。彼らは模範的人生を送り、すべての人々に対して神の御言葉を語りました。他の人々は、彼らの自己犠牲という手本に従います。利己的興味を犠牲にすることによって生じた無私の愛こそ、神の特質そのものです。私たちは、このような私心のない不滅の救世主たちの誕生日を祝います。

魂本来の神のごとき最高の性質が、すべての生き物の中に存在しています。それは最高の真理です。それは私たちの真の本性です。それだけが常に神と一つになっています。それは、私たち一人ひとりに内在する神です。神が自分の中にいるということに気が付きさえすれば、自ずから、神を完全に知りたいと願うようになります。あなたは、神の形である果てしない至福の大海の中に憩うことを切望します。あなたと無限の聖なる至福との間には、二つの障害物があります。二つの扉が開かれなければなりません。この二つの扉は一緒に開いたり閉じたりします。この二つは、あなたが神に至る道を塞ぎます。それぞれの扉が悪い癖を表しています。一つの扉は、いつも自分自身の行為を褒めるという癖です。もう一方の扉は、他人を非難することです。これら二つの扉は、あなたの嫉妬というかんぬきによって一緒に固く閉ざされています。

無限の神の喜びに到達するためには、他の人々を非難することをやめなければなりません。自分自身の行為を褒めることによってエゴを膨らますことをやめねばなりません。これらの悪い癖によって、あなたは自分が神から分離していると感じるようになります。それらのものは神に至る道を妨げているものです。この二つの扉は開かれなければなりません。

私たちのほとんどが、誤った方向に動いています。私たちは、絶えず他の人々を非難し、いつも自分自身を褒めています。私たちは、嫉妬というかんぬきを、膨らんだエゴという巨大な錠で、しっかりと繋ぎ止めています。膨らんだエゴという錠を外すためには、聖なる鍵を使わなければなりません。その鍵は神の愛です。立派な人格の大いなる着実さと共に、無限にして神聖な心の平安という手で、嫉妬というかんぬきを優しく外さなければなりません。しかるのちに、聖なる平安という手に持った神の愛という鍵で、二つの扉を広く開け放たなければなりません。エゴを膨らます自己称賛という扉と、他を悪く思うことによって作られた扉とが行く手から取り除かれたとき、あなたは神の至福という無限の我が家に入ることができます。

人間の形を取った無限の神として、次のことを考えてごらんなさい。現代の人々は、教養のある人として皆に知られたり、さまざまな学問の専門家となったりするために、非常に長い時間努力し、大きな個人的犠牲を払います。あなたは、機械類の使用法とその修理法をマスターするために、10年かけるかも知れません。政府に雇用されるためには、12年から15年の間勉強するかも知れません。博士号を取るために20年かけるかも知れません。もし、神を喜ばせたいと思うのであれば、神があなたを地上に送った目的を成就しなさい。宇宙の神聖な法則に調和した人生を送りなさい。あなたは、霊的教育を追及しなければなりません。それは永続的な重要性を持った唯一の教育です。

霊的でないすべての学問は、完全なる霊的知識という無限の大海に流れ込む、小さな曲がりくねった水流のようなものです。この世的な教育の、さまざまな浅い流れの一つひとつの最終的な成果は、あなたを無限の至福の大海との融合にほんの少しだけ近づけることです。

「神の意志に霊的に全託する達人」と呼ばれた、ある南インドの詩人はこう書きました。「世界中の水で自分を清めようとして、一つの川から次の川へと走り回ることに人生を費やす必要はない。ただ、すべての川が海に合流する地点を見つけるだけで良い。あなたはそこで、あらゆる個々の流れの小さな喜びが、尽きることのない神の至福の大海の中で一つに集結しているのを見るだろう」

霊的知識を体得することに毎日を使いなさい。その他のすべての学問は、あなたが霊性を追及する中で見いだす一つの根本的な神の真実の副産物です。神が不在のところで存在することのできるものが何かあるでしょうか?

ですから、神聖で信心深い皆さん、あなた方は、すべての人が神の神聖な顔を覆っているさまざまな顔に過ぎないということを、理解しなければなりません。神を憎もうとすることは無知の極みです。人生には、いかなる人に対する憎しみも存在する余地はないのです。

東洋においては、「すべては神に満たされている」と言われています。この神の戒めは、イエスに対しては、「愛する息子よ、すべての命は一つである。すべての人々に等しくあるように」という言葉で与えられました。

本当にはつらつとして生きるためには、心を神の愛で満たし、同胞であるすべての存在を愛の目で見なければなりません。あなたの愛を、すべての同胞を通して光を放っている、同一の神を見るために使わなければなりません。

無数の宗教が存在しているのではありません。ただ一つの宗教、神聖な愛の宗教があるだけです。ただ一つの人種、人間という人種があるだけです。ただ一つの言語、心の中の神聖な愛の言語があるだけです。ただ一つの神が存在するだけであり、神はあらゆるところに存在しています。単なる言葉だけには何の価値もありません。皆さんはこれらの真理を理解しようと努めなければなりません。その聖なる理解を、日常生活において徐々に実践に移していかなければなりません。実践の伴わない言葉は嘘になります。

すべてを一つのものであると見るためには、見解を広めなければなりません。広くて愛に満ちた心を育てなければなりません。利己心をなくさねばなりません。あなたは、人生のより大きな意味、すなわち信心深さを見出さなければなりません。霊性修行と宗教的修行のすべては、信心深さを獲得するための努力の形式です。信心深い生活をしようと努力することだけが、本当に神聖な行為なのです。

イエスは、この聖なる惑星の、神の栄光のために生きました。彼の行動そのものが、周りの人々のためのものでした。彼にとって、人々のために捧げる犠牲は、たとえどのようなものであっても、決して大き過ぎるということはなかったのです。彼は、人類の幸せのために自らの肉体の血を犠牲にしました。

今日はこの聖なる人の誕生日です。今日はイエスが地上に現れたことを記念する日です。そのように神聖な日を、御馳走を食べるために使うことに、いったいどのような意義があるというのでしょう? 感覚のコントロールの達人であったイエスの誕生日全体を、私たちの感覚を過度に満足させるのに費やすのは神聖なことでしょうか? 今日という日を、あなた自身と全人類にとって有意義で有益なものとしなさい。イエスが人々に説き、また、イエスがそのために命を捧げたさまざまな理想の中の、少なくとも二つか三つは実践しなさい。

いかなる偉大な人物の誕生日でも、高価な料理を腹一杯食べるために使うことは馬鹿げています。そのような行為は、いったい誰の名誉になるというのでしょう? あなたの人生における本当の生まれ変わりの日を祝いなさい。偉大な人物によって示されたどのような理想でも良いですから、それを実践しなさい。あなたの神聖な行為は、あなたが信じている理想的な人物の形を取って現れた神を称えることになります。

皆さんは神の生きた愛の化身です。イエスの誕生日を記念して、あなたは、自分の生き方を変え始めなければなりません。イエスが行動したように行動することによって、人々の記憶に今も残るイエスの想い出を敬わなければなりません。私は、皆さんがそれを実行されるよう希望します。

本日、この日から、他の人々を非難しないように最善を尽くしなさい。非難は、妬みと憎しみの炎に燃料を与えることになります。今日という日を限りに、自分自身を褒めずにはいられない状態にあることをやめなさい。自己賛美はエゴを膨らませ、あなたを神から遠くに追いやってしまいます。あなたの時間を、神の愛の光の中に生きることに使いなさい。神の愛を、神の仕事をするために使いなさい。あなたが出会うすべての人々に愛を注ぎなさい。自分たちの所属している社会に奉仕しなさい。イエスが始めた人道主義的な事業を継続して行いなさい。

皆さんは今、神に与えられたエネルギーをさまざまな脇道に注いでいます。自分の行動を説明するために、あなたは無数の理由を挙げます。その理由の中には、誤ったものも、偽りのないものもあります。あなたは、そんなにたくさんの物事をしようという病的な忙しさの本当の動機に、気が付いていないことがほとんどです。方向の誤った忙しい仕事は、何一つ、あなたの国の役には立ちません。利己的な利益は、社会のためにも、あなた方自身の高次の本質のためにもなりません。人生の見方を広げなければなりません。より視野の広い見解を培わなければなりません。愛に溢れた行動によって、あなたのものの考え方が変わらなければなりません。神の愛によって心を清めなければなりません。皆さんは、無私の愛で一杯に満たされなければなりません。そうすれば、すべての人が、過ぎていく一日一日を、地球上のすべての国にとって善い日であると見なすことでしょう。

一部の人々は、他者を犠牲にしてでも、自分たちに有利な、狭い活動にすべての努力を注ぎ込みます。これは、その人自身の善い人格を破壊するばかりでなく、人類全体の面目をつぶすことです。この不名誉な行動は、地上におけるあなたの人生の、価値ある産物と言えるでしょうか? 神は、地上での生活に適した身体をあなたに授けました。神があなたに与えた身体は、しばしば空腹を覚えます。あなたに腹のすく身体を与えたのと同じ神が、あなたの空腹を満たすために、食物を供給するに違いありません。神はあなたに身体を贈った時、将来あなたが必要とするもののこともよく知っていました。もしあなたが神を信頼し、神によって世話されることを受け入れるのであれば、あなたへの贈り物である身体の必要物を、神自身が満たしてくれます。

食物は肉体が生き続けることを助けます。あなたは、毎日を食物を捜す苦労で一杯にするために、地上での生活を与えられたわけではありません。食物を得るための金を稼ぐことや、食物を買うこと、食物を料理すること、そして食物を食べることや、次の食事のことを考えることなどが、あなたの生涯を通じての仕事ではありません。

神聖な行動の理想となるために人生を使うように努めなさい。十万もの神聖な言葉を暗記して、あらゆる機会にその内容をまくしたてる必要などは全くありません。もしあなたが周りの人々に説く言葉の内の一つでも実践するのであれば、その方がはるかに善いことです。神があなたを創ったのは理想を確立するためですが、善い行動をすることによってその理想に近づくことができるのです。

あなたは、「愛」というただ一つの言葉のみによって生きるべきです。純粋で私心のない神の愛によって生きるのです。心の中に愛があるとき、あなたの心の中には神が居ます。慈愛に満ちた心は神の寺院です。太古の智恵は、身体を神の寺院と見なしました。あなたの本当の神聖な姿は、その寺院に住む神なのです。

あなたの神聖な身体を、悪い人格を育てるために使ってはなりません。あなたは、他の人々への悪い見本となってはなりません。寺院であるあなたの身体を、真の礼拝の場所としなければなりません。神に奉仕するために身体を使いなさい。神の愛を体験しなければなりません。神の愛に基づいた人生哲学を会得しなさい。私は、皆さんが人類への奉仕を進め、人類に注がれたイエスの愛の生きた見本となるように祝福します。イエスの誕生日を祝うために、愛という、一生の使命に取り掛かりなさい。最善を尽くしなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:An Eastern View of Jesus Christ(『サイババ イエスを語る』の原書)より
*Sathya Sai Speaks Vol.13 Ch27に掲載されている同日の御講話「Jesus」はこの御講話の抄訳です。