サティヤ サイババの御言葉

日付:1977年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習 ラーマーヤナの解説(9)の御講話より

悲しみは人にとって自然なことではなく、幸せが人の性分

人は皆、カルマを持って生まれ、カルマの中で成長し、カルマから解脱を得る
実際、すべての人にとって、行いは神
そして、行いは人の悲しみの原因であり、喜びの原因
この世では、悲しみと喜びはすべて、人間の行いによってのみ引き起こされる

神聖アートマの化身たちよ、

個々人(ジーヴァ)には常に付随している特質があります。個々人の悲しみ、出生、行い、憎悪、好き嫌い、識別力の欠如、無知は、常に個々人に付随する特質です。無知は、識別力の欠如と混合します。識別力の欠如は、執着心を高めます。執着心は、怒りを生みます。怒りは、憎しみを生みます。憎しみは、出生と悲しみを生みます。これらの特質はすべて、互いに不可分に結び付いているのです。

悲しみの原因は出生であり、出生の原因は自分自身のカルマ〔行いとその報い〕です。ですが、悲しみは人間にとって自然なものなのか、それとも人生の途中でやってくるものなのかと問うならば、もし本当に悲しみが人間の一生にとって自然なものだとしたら、人は一生、悲しみを取り除くことはできません。悲しみは人間にとって自然な性質だと考える根拠はありません。自然な性質であるならば、悲しみはどんな方法を用いても取り除くことはできません。

ひとたび自然な性質を破壊すれば、その物自体も破壊されます。自分の真の姿を破壊しようとする人は誰もいません。椰子糖(ジャッガリー)の場合、その自然な性質は甘いことです。甘いという自然な性質が姿を消せば、椰子糖も姿を消すのではありませんか? 椰子糖も、その自然な性質も姿を消したら、椰子糖それ自体が存在しなくなるでしょう。

燃える力と光る力は火の本質的な性質であり、燃える力と光る力が破壊されるか、取り除かれるかすると、火も存在しなくなります。火と火の自然な性質が取り除かれると、火は姿を消して、石炭へと変わります。姿形とその自然な性質は切っても切れない関係にあります。以上のように分析すると、悲しみは人間の自然な性質ではない、という結論に達します。悲しみは図らずも外からやって来たものなのです。

このことに関する、とても良い例があります。人が幸せで、うまくやっている時には、誰もその人のところに行って「あなたはどうして幸せなのですか?」と尋ねることはしません。けれども、人が悲しみに足を踏み入れると、人々はその人のところに行って「あなたはどうして悲しんでいるのですか?」と尋ねるでしょう。ここで私たちは、悲しみは自然なものではない、ということがわかります。幸せや至福は私たちにとって自然なことです。私たちは、まさしく、アートマの化身であり、至福や幸せに自然と結び付いていますが、それと同時に外界ともつながっているので、時折、悲しみに悩まされるのです。すべての悲しみは過ぎ行く雲のようなものです。

母親が子供を揺りかごに寝かせ、子供が揺りかごの中で楽しく遊んで幸せでいると、母親はまったく心配することなく、その場を離れて家事をします。何分かして子供の泣き声が聞こえると、母親はどうしたことかと急いで駆けつけて揺りかごを覗き込み、蚊か他の虫か何かが子供を痛がらせたのかどうかを見つけます。このように、子供が幸せなときには、母親はそのことを何気なく自然に受け取ります。けれども、子供が泣いていると、即座に何か異常があるのではと考えて、その原因を探しはじめます。

ダシャラタ王は、幸せや至福は人間の自然な性質であることがわかった人でした。ダシャラタ王は、幸せは人間の自然な性質であることを認識していたので、ダシャラタ王の家では、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの姿をした4ヴェーダが幸せに遊んでいました。彼らはヴェーダの化身です。シュリ ラーマチャンドラはヤジュル ヴェーダの象徴です。ヤジュル ヴェーダは、ダルマは最も重要なものであり、ダルマの実践は私たちの人生に必要なことである、と述べています。ラクシュマナは、ラーマの命令を決定的なものとして受け入れ、そのとおりに自分のマントラを繰り返していました。ですから、ラクシュマナはリグ ヴェーダの体現です。バラタは、主ラーマの御名を歌うことは救いを与えてくれると常に信じていたので、サーマ ヴェーダの体現です。シャトルグナは、三人の兄であるラーマ、ラクシュマナ、バラタのアドバイスに従い、すべての敵を滅ぼそうと努めました。ですから、シャトルグナはアタルヴァ ヴェーダに喩えられます。

このように、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは、それぞれ、ヤジュル ヴェーダ、リグ ヴェーダ、サーマ ヴェーダ、アタルヴァ ヴェーダを象徴しています。彼らはダシャラタ王の子として生まれました。実に、ラーマの姿をとった燦然と輝く太陽の光が、月、すなわち、アヨーディヤーの民の心と都に射したので、民たちは月の清涼とラーマから放たれる太陽の光を享受していました。そのような神聖な雰囲気の中で暮らし、奏で、歌い、その神聖さを享受したアヨーディヤーの民は幸運でした。

すべての行いには原因と結果があります。私たちのすることにはすべて、反響と反射が現れます。その見事な例をダシャラタ王は示しています。若かりし日のある時、ダシャラタは森に狩りに行きました。夜、獲物が現れるのを待っていた時、何か音がするのが聞こえました。熟練のハンターであったダシャラタは、音のする方向からその位置を特定することができました。ダシャラタは音のする方向に矢を撃ちました。ほどなくして、ダシャラタは自分の放った矢がリシ〔聖仙〕の息子に命中していたことがわかりました。ダシャラタは大変すまなく思い、その少年の亡骸を父親のもとに運んで行って許しを請いました。息子が死んだことを知ると、リシは悲しみに染まり、傍らに横たわる亡骸にすがって泣きました。苦悩の中でリシはダシャラタを呪い、この罪によって、おまえも同じような苦しみを味わい、息子がそばにいない時に死ぬだろうと言いました。ダシャラタは、人が何をするにせよ、その行いの報いは必然であり避けられないということを悟りました。自分は自分のしたことの報いに苦しむほかないのだと自分に言い聞かせることで、ダシャラタは自らを清めました。ダシャラタ王は王仙〔ラージャ リシ〕でした。悲しみは来ては去っていくものだと悟り、ダシャラタ王は自らの生涯によって世に例を示しました。

ラーマーヤナの物語では、登場人物の一人ひとりが大切な理想を映し出しています。さらにダシャラタ王は、自分が老いてきたこと、体力と活力が衰えてきていることに気づいた時、もはや統治者としての仕事を請け負うべきではないということを世に示しました。

ある夜、ダシャラタ王が就寝中に喉の渇きを感じて水差しの水をコップに注いで飲もうとした時、水差しの水を注いでいる手が震えているのに気がつきました。ダシャラタ王はもう一睡もできませんでした。夜が明けるや、ダシャラタ王はグル〔導師〕であるヴァシシュタ仙とヴァーマデーヴァ仙に迎えを送りました。ダシャラタ王はグルたちに、自分の活力と器官の力が低下しつつあるので、もう国を治めることはできないと伝えました。ダシャラタ王は、ラーマを王位に就かせるべくすべての準備を整えるようグルたちに求めました。ここでダシャラタ王は、自分の器官を支配することができない者に国を支配する権利はない、という真理を定着させました。国を治めるという件に関して、ダシャラタ王は、国王にふさわしい行動規範、民衆にふさわしい行動規範を示しました。

誰であろうと、どれほど立派な人であろうと、個々人は自分の周囲の状況を認識し、周囲に適応しなければなりません。しかし、ラーマーヤナにある例の中でも、とりわけ、ダシャラタ王はラーマが森に向かっている間に悲しみに耐えられず卒倒してしまったと言われています。ここでもダシャラタ王は、こうした悲しみは付きものであり、人体に対する関係と執着ゆえに生じるものであると断言しています。

人には自分の子供が生まれてくる前には子供はいません。そのような状況の中で、どうやって自分の息子に起因する悲しみや痛みを理解することができるでしょうか? 肉親関係があるからこそ、父親は悲しみを経験するのです。ここで明らかなのは、息子がもたらすどんな悲しみや痛みも、人生の途中でやって来るものであり、人にとって自然なものではないということです。

結婚する前、自分の妻の態度について知っている人は誰もいません。結婚前には、その若い女性がどんな困難に遭ったとしても、夫はそのことについて心配することはありません。けれども、ひとたび結婚式を挙げると、妻にちょっとした痛みや困難があると、夫もたいそう悲しんで苦しみます。この例から、こうした悲しみや困難は人生の途中でやって来るものであり、私たちにとって自然なことではない、という真理が明らかになってきます。ダシャラタ王はこの真理を理解していたので、森へと発つ間際にラーマを祝福することができたのです。ダシャラタ王は、ラーマが森の中で困難を抱えないよう、そして、早く幸せに戻ってくるよう助言しました。こうした祝福を与えたのは、ダシャラタ王が状況をわかっていたからです。ラーマはいつも真理を固守し、その資質のおかげで、森で問題を抱えることにはなりませんでした。

ラーマは理想的な息子でした。よく、息子がいれば父親が救いを得るのは難なきことであると考えられています。しかし、常にそうだとは限りません。カウラヴァの王〔ドリタラーシュトラ王〕には大勢の息子がいませんでしたか? 彼はその息子たち全員からどんな恩恵を得ましたか? シュカ仙〔スカ仙〕には子供は1人もいませんでしたが、彼は救いを得られなかったでしょうか? 100人の息子がいたドリタラーシュトラ王には自分の葬儀をしてくれる1人の息子も残りませんでしたが、子供のいなかったシュカ仙は救いを得ました。良いことも悪いことも、子供から来るわけではありません。両親に良いことがやって来るのは、息子が正しい道を歩んだときのみです。父の恩寵と優しさを享受した息子は、お返しに良いことをすることで、感謝の気持ちと共にそれに報いるべきです。神聖なものである人としての出生の要因は、両親です。人としての出生を確実にしてくれたのに、その恩返しに親に感謝の気持ちを示さないなら、それは無駄な人生です。

こういった真理を世間に定着させるために、ラーマーヤナの中でラーマに「真理を固守するために森に行きなさい」と言ったのはダシャラタ王でした。ダシャラタ王には執着とおぼしきものはなく、善悪を識別する能力がありました。ダシャラタ王は無知な人ではありませんでした。ダシャラタ王は、すべての執着は1つの体ともう1つの体との間の関係にすぎず、そうした執着はまったく世俗的なものであるということを認識していました。

ある時、ドゥルヴァーサ仙がヴァシシュタ仙を訪れた際、ダシャラタ王はドゥルヴァーサ仙に自分の王朝の年代記を尋ねました。ダシャラタ王は、自分の家系が真理とダルマを貫くかどうかを見極めようと、ドゥルヴァーサ仙に質問を投げかけました。その時も、ドゥルヴァーサ仙は、これから得るであろう息子たちはダルマの化身であるということ、そして、彼らは真理を守護し、いくつかの善良な資質を持っているだろうということを、ダシャラタ王に話しました。その日以来、ダシャラタ王は、たとえ息子1人しか持てなかったとしても、その息子が評判と栄光をもたらしてくれるなら満足だと考えていました。これに関連して、カラスになって長く生きるよりも白鳥になって短く生きるほうがいいと言われています。ロバの乳を何樽持っていても何の意味がありますか? スプーン一杯の良い牛乳を持っているほうがましです。ですから、たとえ1人でも、時間のすべてを周囲の共同体のために費やすことができれば、それだけで十分です。

あなたの肉体の力、精神の力、知性の力が良好でパワフルなときに人生を人助けに使えないというのなら、あなたの人生は何の役に立つというのでしょう? 人生は無駄になってしまうでしょう。水に触れることのない、水面の油の滴のように人生を送ることはできません。あなたの出生、あなたの生活、あなたの行動律は、すべてあなたの周囲の共同体と密接につながっています。もし、周囲の共同体のことが頭になく、いつも自分の利己的な利益のことばかり考えていたら、あなたは誰の役にも何の役にも立たないでしょう。

実に、バーラタという神聖な国に生まれ、バーラタの伝統と文化を経験してきた皆さんが、バーラタ文化の良いものを吸収することができないなら、人生そのものが無駄になってしまいます。皆さんは数多くの講話を聞き、自分でもいくつか講演をしているかもしれませんが、もし自分が聞いたことや言ったことのすべてを生活の中で実行していないなら、生活そのものが嘘で固めた作りものになってしまいます。美味しい食べ物や美味しい料理の話を聞くだけで、空腹は癒されますか? お金の話をすれば、貧困者の貧困は解消されますか? 薬の効き目の話をしたら、あなたの病気は治りますか? 銀行にある全財産の話をしたら、あなたの貧困は解消されますか? 暗闇の中に座って千本のろうそくの輝きのことを話すだけで、その闇は払われますか? それと同じように、私たちのハートの中にある無知と嫉妬という暗闇は、良い行いについて話すことではなく、良い行いを実践することによって、除去しなければなりません。その暗闇を取り除いた後には、たとえ小さな電球1つでも役に立つでしょう。

若者たちよ、100のことを言い、100のことについて話す代わりに、少なくとも1つのことをして、それを1つの理想として他の人たちに示す覚悟をすべきです。実際、悲しみや痛みや損失は人生の途中でやって来るものであることを認識すべきです。それらはあなたと一緒に生まれてくるものではありません。途中で来るものは、途中で去っていくものであり、永遠に付きまとうものではありません。この真理をよく理解できれば、あらゆる悲しみや痛みは、まったく私たちを悩ませなくなります。

神聖アートマの化身たちよ、

皆さんはラーマーヤナからの物語をいくつか聞いてきました。ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナ、ダシャラタ王に見いだした理想の中から、少なくとも1つか2つを取り上げて、生活の中で実践しなければなりません。もしそれができないなら、皆さんは時間を無駄にしたことになります。時間を無駄にしただけでなく、人生を意味のないものにしたことになります。道中にやって来た機会を活用し損ねたことになります。

いつも権威を求めることはありません。しようと努めるべきは奉仕です。他者への奉仕をするという道の中で、あなたの体と心と知性を使いなさい。あなたに人間の体が与えれたのは他人を助けるためである、ということを認識すべきです。私たちは毎日、偉大な宗教の師たちによって説かれた偉大な理想を聞いてきました。とてもたくさん良いことを聞いても、あなたの中に変化や変容がないならば、あなたの一生は無駄になります。

すべての宗教が説いているのは、1つの共通の目的地、1つの善良な聖なる道だけです。すべての宗教が共に教えているのは、1つの善だけです。人の心が善良なら、どの宗教が悪でありえますか? 欠点や欠陥は私たちの心の中にあるのであって、宗教にあるのではありません。ラーマは、国民の幸せが自分の幸せであるということ、そして、国民の繁栄が王の第1の関心事であるということを認識しつつ、王国を平和に治めました。

ラーマは、自分が王であり国民は王の下にいる、とは決して考えませんでした。ラーマの心に嫉妬やエゴがあったことは一度もありませんでした。自分は国民を導く運転手であると、ラーマは考えていました。ラーマは自身の行いによって国民を正しい道に行かせ、身をもって国民に理想的な道を示しました。ラーマが言ったこと、したことはすべて、ひとえに国民に幸せを与えるためのものでした。国民に模範を示し、真理を守るために、ラーマは自分の妻を森に行かせました。真理とダルマを守るためなら、ラーマにとって相手が自分の結婚した妻であろうと、自分のもとに生まれた息子であろうと、関係ありませんでした。

若者たちよ、私は皆さんが私たちのこの神聖な国にラーマ ラージヤ〔ラーマの王政〕を復興することを望んでいます。皆さんは自分の思考と言葉と行いをシンクロさせなければなりません。もし、自分の思っていることとはまったく違うことを言い、そのどちらとも違う行動をとるような道を歩むなら、皆さんは自分の国を裏切ることになるでしょう。国を裏切れば、あなたの一生は無益なものとなるでしょう。これが自分の母国である、これが自分の母国語であるということを、誇りを持って公言し、それらに対する自分の義務を果たすことができないというのなら、生きていることが何になりますか? それでは死んでいるも同然です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1977 C9