サティヤ サイババの御言葉

日付:1977年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習、食物に関するババの御講話②より

食前の祈り
~清浄な食物は人が善い性質を
身につけることを可能とする~

どうやって犬に日中の断食の価値が理解できるだろうか?
どやって雄牛に焼き飯の味がわかるだろうか?
どうやって鼻の悪い人に香りを味わうことができるだろうか?
どうやって盲目の人に月光の美しさがわかるだろうか?

学生諸君!

古(いにしえ)の偉大な聖賢たちは、神聖な理想を私たちに伝えてきました。私たちは、バーラタ(インドの古名、神を愛する者の意)の文化と伝統から日常生活に応用できるものを見いだしていく必要があります。そのような偉大な聖賢たちが述べていることは、聖賢たちの幸せで至福に満ちた人生での個人的な経験に基づいています。聖賢たちがたどった道は「黄金の道」と称されるべきものです。聖賢たちが私たちに与えた言葉は、真実の言葉です。その経験が真実のものであったゆえに、聖賢たちがすることはすべて、世界に繁栄をもたらし、人々に幸福を与えてきました。不幸にして、今日の人間はまったく反対の道をたどっているようです。私たちは、祖先から伝えられた規律は皆、迷信のたぐいであり、馬鹿げた根拠の弱いものであると思っています。もし本当に妄信や迷信があって、だれかが正しい論理によってそれが妄信や迷信であると立証できるのであれば、人々は皆、納得するでしょう。その反対に、人々が、意に添わないものや理解できないもののすべてを「妄信」「迷信」と名づけるのなら、それは単に人の心の中の動揺に端を発したものにすぎませんし、そのような主張は利己的な動機から出た利己的な言葉にしかなり得ないのです。

学生諸君!

私は今日あなたがたに、日常生活においての正しい行為とはどのようなものであるべきか、また食事や生活をいかに律していくべきかについてのみを話そうと思います。多くの人々、特に神を信じる人々は、食事の際にはギーターの第15章14節を唱えるべきだと考えています。また、そのようにすることで「食物を最初に神に捧げ、そのあとで、神に捧げた食物を口にしている」と考えています。夏期講習に参加するためにやって来た学生たちは、この宿舎ではいつも食事をする前にいくつかの詩節を唱え、食事を神に捧げてからその食物を口にする、ということを知っています。これを馬鹿げた信仰として片づけてはなりません。その詩節の意味や内容を吟味して、それを経験するよう心がけなければなりません。

昔、一人の王様がヤグニャ(供儀)を主催し、その期間中に多くの学者を招きました。集められた学者の中に、あるしきたりをつねに守っている者が二人おりました。その昔、「旅の間は屋内で食事をしてはいけない」というしきたりがありました。人々は朝早い時間にいくぶんかの食物を集め、それを包んだものを携えて、旅中に食べたものでした。ある日の昼に、二人は川に行き当たり、ちょうどよい木陰のある木を見つけました。二人は、昼食を摂ろうとその木の下に座りました。二人は日々神を想い、必ず食物を神に捧げてから食事を始めていました。その日もまた、二人は「ブランマールパナム(私は、この食物をブラフマンに捧げます)」の句で始まるギーターの第4章24節を詠い始めました。すると、二人が木陰に座っているその菩提樹から音が聞こえるのです。二人は、そよ風で枝と枝が擦れ合って音がするのであろうと考え、音を気にせずに祈り続けました。ギーターの第15章14節を詠い始めてその詩節を繰り返す間、二人は完全に我を忘れ、神への想いに没頭して祈り続けていました。そのような状態で聖句を唱えているとき、二人は偉大な聖者が来て自分たちの目の前に立っていることに気づきました。二人は立ち上がり、この偉大な聖者に敬意を払ってあいさつをして、あなたはどなた様ですかと尋ねました。聖者はこのように語りました。「私はガンダルヴァ(歌曲を司る天界の住人)です。私は数年前、ある聖者に呪いをかけられ、それ以来この菩提樹の上におりました。木の下で唱えられた祈りによって今、呪いから解き放たれたのです」。

ガンダルヴァは二人の学者に敬意を払うと、こう語りました。「私はあなたがたがどこへ行こうとしておられるのかを知っています。あなたがたの使命がすべてわかっているのです。王様が催される会議に参加なさるのですね。私は、お二人に呪いを解いていただいたお返しをしなければなりません。私が王様の心の中に入り込んで、あなたがたがさまざまな恩恵を受けられるように取り計らいましょう」。

二人の学者は王様が主催する集会の場に入りましたが、人が多すぎて王様の所にたどり着くことができませんでした。そこで、二人は会場の隅に座って王様の方を眺めていました。偉大な聖者が口にした言葉は必ず実現します。ガンダルヴァが約束したとおり、王様は二人の学者に目を止めました。王様は二人の所までやってくると、敬意を表し、最前列に座って学識を披露してほしいと要請しました。その日は会議の最終日に当たり、二人の発表内容をことのほか喜んだ王様は、二人にいくつかの村を贈り、余生を幸福に暮らせるように取り計らいました。ここで私たちは、偉大な聖者は、二人の人間に現世のあまたの困難や障害に遭遇したときの克服の仕方を教え、また霊的な祝福の受け方を教えたのだ、ということに思い至ります。霊性の道を進もうと望む人は、行く手に多くの現世的な困難や障害が立ちはだかっていることに気づきます。その障害を乗り越えられたときのみ、私たちは霊性の道から恩恵を受ける機会を与えられます。二人の学者は困難を克服して霊性の道を選んだからこそ、自分たちの村に戻り、授けられた贈り物を通して幸せを味わいました。あなたがたがギーターの第15章にあるこの特別な詩節について考える意義は、現世的な事柄において成功を収め、霊性の道の追求に伴う障害を乗り越えることにあります。今私たちが口にする食物は、将来私たちが自らのために獲得するであろうものをさまざまな方面から決定しているのです。どのような思いが心に芽生えるかは摂取する食物によって決まってくるのです。

食物を口にしながら刺激的な言葉を発すると、その言葉に関連する刺激的な思いが心に芽生えてきます。学ぶべき教訓は、入浴するときや瞑想のために座るとき、そして食物を口にするときにほかの行為やほかの考えを思い浮かべていてはならない、ということです。食事のときにしゃべりすぎることも私たちに害をもたらします。食物を口にしているときには、いかなる種類の話にも入り込む余地を与えてはなりません。幸福なハート(フルダヤ)と神聖な言葉をもって特定の詩節(第15章14節)を唱え、それから食物を口にするべきです。このようにしてブラフマンに捧げられたものは何であれ、ブラフマンの贈り物としてもたらされるプラサードとなるのです。

この詩節の意味は、人の姿であなたの中に存在する神御自身が食物を摂取しているのだ、というものです。それゆえこの詩節によって、我々の食物は神のための食物に変わります。食事をしているときに、興奮したり感情的になったりしてはならず、真に平安な状態で食事をせねばなりません。

たとえ、ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)やタパス(苦行)やヤーガ(修道法)を実践することができなかったとしても、少なくとも神に捧げてから食物を口にするよう注意していれば、良い思いを育むことができます。火の性質が火から立ち昇る煙の種類を決定します。煙の種類が煙から形成される雲の種類を決定します。雲の種類が雲から生まれる雨の種類を決定します。雨の種類が収穫物を決定します。収穫物の種類が私たちが食べる食物を決定します。私たちが食べる食物が私たちの思いを決定します。私たちのすべての思いは食物によって決定されます。清らかな場所に座って浄性の食物を食べれば、その食物を食べることによって清らかな思いを抱くことができます。そのようにして、霊的な思いを抱く可能性が広がります。

食物に関しては、清らかであるようにきわめて注意を払わなければならないものが三つあります。一つめは料理をする際に用いる材料の清らかさです。二つめは食物の料理に使う容器の清らかさです。私たちは確かに食物の素材とそれを料理する用具類を清浄なものとすることができます。三つめは料理の過程の清らかさに関するものです。これはたやすいことではありません。食材の調理が完了するまで、私たちの思いは善良なものに保たれるべきです。

清らかさという点、すなわち容器、料理素材、料理の過程の清らかさが守られなかったとしても、その食物を口にする前にまずパラマートマに捧げるなら、その料理は清いものとなります。このように、摂取する食物を神に捧げることによって、これらさまざまな種類の清らかさがもたらされます。それゆえ祖先たちは、食物に関してはこれらの手順を守るべきであると言い伝えてきたのです。不幸にして今の人間は、空腹であれば、何を食べるか、どのレストランで食べるか、どのような種類の食物を食べるかということには注意を払わず、どんなものでも食べてしまいます。

私たちはもはや古来の聖賢たちを目にすることがありません。私たちが目にしているのは、神聖なふりをする人々だけです。そのために、人々の状況は日々堕落の深みへと落ちこんでいます。祖先たちの敷いた道に従うことができ、ヴェーダのダルマを受け入れることができたときにのみ、私たちは間違いなく向上します。特別の奉仕が捧げられたことに対する報酬として王様が与えたさまざまな村という贈り物は、今日では見られなくなりました。その理由は何でしょうか? 生活様式にもたらされた変化がその理由です。私たちが受容してきた文明と借り物の伝統が、その成り行きと結末を露呈し始めているのです。利己主義が増長し、無私無欲の姿勢や他者への奉仕は消えつつあります。心(ハート、フルダヤ)はどんどん粗暴になっています。知力は向上しているものの、善良な性質は減少しつつあるのです。世界の混乱と平安の欠如はすべて、私たち自身の食習慣にその原因を帰しているとも言えるのです。

あなたは空腹かもしれません。たとえ空腹であっても、清い場所と清らかな食物を探し出す努力をしなければなりません。そして、そのような清い食物を得たならば、まず、それを神に捧げてから食べるべきです。ここだけではなく、どこへ行こうとも、食物を口にするときはギーターの三つの詩節(第15章14節)を思い出し、それを唱えて食物を神に捧げてから食べなさい。もしもこの三つの詩節を知らないというのであれば、ノートに書き写して唱え、バーラタ(インドの正式名称。神を愛する者の意)の立派な国民となりなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1977. C18