日付:1977年2月16日
マハーシヴァラートリの御講話より
霊性の道とは、無執着の道であり、感覚の制御の道であり、厳しい心の訓練の道です。パールヴァティー女神は最初、身体的な魅力によってシヴァ神を獲得しようとしました。そして、シヴァ神を誘惑するために、恋愛の神であるマンマタに一役買ってもらう計略を練りました。しかし、シヴァ神は恋愛の神を灰にして、パールヴァティーの誘いを断りました。その後、パールヴァティーは厳しい苦行生活に入り、それによってシヴァ神の恩寵を勝ち取ることができ、シヴァ神の聖なる体の左半身となるまでになりました。人はまず、くじけることなく自省をし、継続的に識別をしてから、自分の進みたい道を決める必要があります。モークシャ(解脱)とは、真実(真理)を曇らせて真実でない蜃気楼(しんきろう)を作り出す無知という束縛を取り除くことを意味します。実際、生きることは、代わる代わるにやって来る不幸と幸福、飢えと満足、病気と健康、欲望と充足を得ていくプロセスの別名にほかなりません。人は、一つの欲が満たされるやいなや、新たな欲の対象へと触手を伸ばします。人はいつももがいていて、いつも不幸せです。それは、永遠のものや永続するもの、源や実体を求めようとしていないからです。人は、束の間のもの、ささいなもの、一時的なもので満足しているのです。
他の人を幸せにすることで喜びを得る
真理を通じて解脱に到達するために、体を戦車として使いなさい。その戦車がサティヤ(真理、真実)、ダルマ、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)の4つを車輪に据えてゴールへの道を進むのを見届けることは、あなたの義務です。荷物が少なければ、すなわち、欲望や心配や恐れが少なければ、戦車は道を進んでいくことができます。自分は肉体とその付属物の一切であって、肉体の持ち主ではない、と考えていると、欲望や心配や恐れは増大します。カルマ〔行い〕、バクティ〔信愛〕、グニャーナ〔英知〕は、神への3つの道です。しかし、カルマは欲望によって歪められ、バクティは貪欲によって汚され、グニャーナは怒りによって曇ります。しかし、人はプレーマ(愛)を通じて、欲望と貪欲と怒りを容易に克服することができます。
小さな蟻(あり)から教訓を学びなさい。蟻は、砂糖の塊を見つけると、その事実を他の蟻に隠して独り占めして食べようなどとはしません。反対に、蟻は動き回って友だちや親族を集めます。なぜなら、蟻は自分が見つけたごちそうを分かち合いたいと思うからです。カラスは、軽蔑されていて、よく追い払われる鳥ですが、小さな食べ物の山を見つけると、知り合いや親族がその場所に集まってくるまで、何度も鳴いて知らせます。おいしいものは分かち合われ、まずいものは遠ざけられます。人生は短く、苦しいこともたくさんあるのですから、他の人たちを幸せにすることから喜びを得ることができるよう、全力を尽くしなさい。もし他の人たちが不幸であるなら、どうやってあなたが本当に幸せになることなどできるでしょうか?
人間の偉大さは、意識的な努力によって自分の中の悪を取り除くことができる、という事実にあります。一方、人間以外の動物は、どれほど訓練や教育を受けようと、身を潜めていた根源的な本能が、いつでもわずかな挑発で湧き上がってきます。シヴァラートリは、その日一日断食し、丸一晩徹夜することによって、暗闇を光に変え、シャヴァム(死体)をシヴァム(神)に昇華させることができると言われています。この断食と徹夜は、寝ずに五感の動きを監視すること、五感が害を及ぼすのを阻止することで五感を征服する、という象徴です。
神の行動の背後にはすべて目的がある
悲しみや喜びを他の人と分かち合うための特別な感受性を授かっている生きものである人間が、なぜ時間と空間が変化するこの世界に生まれてこなければならないのでしょうか? 生まれてきたものは死をまぬがれず、建てられたものが崩壊を耐えることはできません。では、なぜ人は、はかないこの経験の舞台に送り出されるのでしょうか? 神の行動の背後にはすべて目的があります。人は、自分の中の神性を顕現させて、その冒険の中で、すべての生きものを率い、導かなければならないのです。人は、自分で努力して自分を解放し、その模範によってすべての生きものを解放しなければならないのです。人は、自分自身の源の中で、自由になり、安全にならなければなりません。これがモークシャ(解脱)と呼ばれているものです。人は、小から大へ、束縛から無限の至福へと解き放たれるのです。
エゴという不純物が人に入り込むのは、もっぱら見かけの多様性に惑わされ、創造世界には多面性があると断定したときです。アグニャーナの薄暗い夕暮れ(原初の無知)の中で誤認される実在が、神です。一なるものしか存在していないところに多を映し出す霧がかかっているのを見抜くこと、それがあらゆる霊性修行の目的です。何年サーダナ〔修行〕を続けても、それがどの宗教で定められた修行であっても、そのサーダカ(霊性の求道者)が違いや区別や多様性を見続けているなら、今生で人間として存在する目的を果たすにはまだまだ道のりは長い、と結論づけることができます。
一なるものに気づくことは揺るぎない平安を確実にする
一なるものに気づいたとき、恐れはなくなります。なぜなら、「一なるもの」に自分自身を恐れることができますか? さらに、そこには欲望も存在することはできません。なぜなら、第二のものが存在しないとき、どうして所有したいという欲望がわいてくるでしょうか? そのとき、妬み、憎しみ、貪欲、高慢といった、人を苦しめ、安らぎを与えない邪悪な情念もまた存在することはできません。一なるものに気づくことは、揺るぎない平安プラシャーンティを確実にします。一なるもの(神やパラマートマやブラフマンや普遍なる絶対者と呼ばれる存在)は、すべての愛、すべての知識、すべての英知、すべての甘さです。「ラソー ヴァイ サハ」(彼〔一なるもの〕は甘さである)と、ウパニシャッドは述べています。そうであるとき、彼、すなわち、人の本質の中に、どんな苦味があり得るでしょう? というのも、人は彼によって、彼から、彼のために顕現しているからです。
トラからヤギが生まれることはありません。神から生じるものは、必然的に神であるのみです。それゆえ、ウパニシャッドの中には、人間の呼称として、「アムルタッスヤ・プットラハ」(不死の子)というものがあるのです。それゆえ、パラマ・アートマン〔至高の真我、パラマートマ〕から生じた存在である人間の中に存在するアートマン〔アートマ〕も、不死なのです。火炎から発せられる火花には、火と同じ発火性があります。体は神の神殿であり、そこに身を置くと決めた神のために有機化されているのです。内なる神を悟り、それによって、この世という荒野をさまよっている間に見逃していた「神秘」は神なのだ、ということを理解するようになるまでは、人は体を維持することに熱心であらねばなりません。
源に融合するために努力し、切望し、もがきなさい
その気づきは、さまよう心(マインド)をつないでじっとさせ、心を内側に向けることによってのみ、得ることができます。シヴァラートリは、心(マインド)の制御という目標を全人類に思い出させます。聖賢らによれば、月は心を司る神であり、現代科学も、心の気まぐれと月の満ち欠けとの間に微妙な関係があることを発見しています。黒分〔満月から新月に向かう半月〕の間は日が進むにつれて月が細くなりますが、これは、心も細くなる過程をたどっていることの象徴であるということになります。今日は〔満月の翌日から〕14日目の夜であり、地球や人の心に影響を与える月は、ほんのわずかしか残っていません。このラートリ(夜)、すなわち無知〔暗闇〕の間に、徹夜やバジャンや断食といった方法で霊的な努力に全力を傾けるなら、心(マインド)は消滅し、心によって陥れられているその人の傾向や態度のすべてを克服することになるでしょう。このようにして、このラートリ(夜)は、まるで天界のようなシヴァ神の輝きへと昇華されるのです。
努力しなさい、それはあなたの義務です。切望しなさい、それはあなたの任務です。奮闘しなさい、それはあなたに割り当てられた仕事です。あなたがこれらを誠実に着実に行いさえすれば、神は悟りという報酬を長い間遠ざけておくことができません。川は、努力し、切望し、奮闘して、自分がそこからやって来た海へ流れ着こうとします。川は、常に油断なくその究極の達成を意識しています。川は、自分の源に歓迎されることができるよう、自分を清らかで澄んだ状態にしようとします。川は、ゴールに向かって首尾よく旅するために、あらゆる地形の障害を克服します。人間も、神が授けてくれた、肉体的、心的、知的、道徳的、そして、物質的な天賦の才をすべて活用し、悟りというゴールへと旅することができるようにしなければいけません。
愛は決して復讐という考えを抱くことができない
現世と来世、こことこの先という、2つのものが存在することを信じることによって、惑わされてはなりません。ここでこの先を実現しなさい。現世は来世と織り合わされています。世俗的なものと霊的なもの、神聖なものと物質的なもの、天上のものと地上のものの間の相違に、真実はありません。すべての世界で実行されているのは、主の命令です。主の意志が風を導いて草の葉を揺らさなければ、草の葉一枚、揺れることはできません。生命という電球は、永遠普遍の動力源であるカイヴァッリャからもたらされる電流によって光を照らしており、その電流は主の法に従って働き、愛というケーブルを通って電球まで引かれています。
その愛がエゴに染まると、電球はまったく光を照らすことができなくなります。エゴには愛がなく、愛にはエゴがありません。エゴは手に入れ、忘れます。愛は与え、許します。愛は決して復讐という考えを抱くことはできません。なぜなら、愛は自分以外のすべてのものを自分と見るからです。舌が歯に傷つけられたとき、あなたは歯に復讐するでしょうか? いいえ、しません。なぜなら、舌も歯もどちらもあなたのものであり、あなたの体に不可欠な部分だからです。
それと同じように、他人があなたを侮辱したり、苦痛を与えたりしたときにも、英知にあなたを支配させなさい。真理を発見し、結論を急がず、常に愛をあなたの導き手としなさい。
むろん、これは困難なタスクですが、人間の能力を超えているわけではありません。奮闘や持続的な努力なしに終えることのできるタスクは、誇れるものではありません。困難なタスクこそが、チャレンジであり、人間の中にある最善と最高を引き出すのです。熱意と信念をもってこのタスクに着手しなさい。ひとたびその勝利が得られれば、それ以外のものもあなたに付加されるでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 Ch30