日付:1977年12月25日
クリスマスにおけるババの御講話より
カッコウが歌えば
必ずそこら中のカラスが集まって来て
カッコウをつついて殺そうとする
これは自然界の事実
ある人が明らかに善良であった場合
他の人々はそれをねたましく思う
これも自然界の事実
人間の姿をとった、光り輝く神の霊〔真我、アートマ〕である皆さん! 神は、皆さんの手の届く範囲に多種多様の力を配置しました。すなわち、身体の筋肉の力、技術を持った手の力、理性の力、他に影響を及ぼす地位の力、科学的知識の力、いかなる状況をも意のままに制する力、そして、神に帰融したときに神から与えられる力などです。各人が自分なりの方法で、より大きな力を持つことができるように、自己本来の力を完成し増強しようと努めます。一切が神から来たものであり、すべては神です。神は、人類を一つの巨大な生命体として創造しました。全人類が一個の人間であり、すべての生命が一つなのです。
人々をその行動によって区分した場合、二種類の人々が明らかになります。善良な人々は、常に善い行動をしようと心がけ、善い習慣だけを育て、善い人々とだけ交流するよう努めます。彼らが善行をするのは世のため人のためです。彼らは、意識的に、あるいは無意識的に、神の法則と調和して生きています。彼らの生活は、喜んで他に奉仕することに捧げられています。彼らは、本当に他の人々の役に立つことであれば、何であれ奨励しようと努めます。善良な人々は、他の人々が肉体的、霊的に強くなることを大いに喜びます。
悪い人々は、悪い習慣や、悪い出来事や、悪い話を、とても面白く感じます。悪い人々と交わることが、彼らの唯一の楽しみです。彼らは、可能な限り、どんな所ででも、あらゆる所で、悪い人々を捜し出します。自分たちのよこしまな行為が、彼らの人生における誇りです。彼らは、他のために善いことを行う人々を不快に思います。悪い人々は、他に奉仕するために働く人々に対して、非常な嫉妬を覚えます。彼らは、他の人々が善い人々を憎むように仕向けようとします。
善良な人々と悪い人々との間に、第三のグループの人々、すなわち、中間のグループがあります。インドにおいても、世界中の他の国々においても、中間のグループの人々を救うために、聖なる救世主たちが、神から地上に送られてきました。
人生は、広大な海に似ています。悲しみと幸せの波が、いつも寄せては返しています。悲しみと幸せの潮流が相互に作用し合って、多種多様な波の形が生まれます。休む間もない人生という大海の捕らわれ人となって、人は、絶えざる渇望と限りない野望と、無意味な感情の奴隷になってしまいます。この、暗く不自然な海の中で道を見失い、人類は、所有する定めになっていないものを手に入れようとして、絶望的な試みを絶えず繰り返しています。この世に生まれ落ちた瞬間から、あの世に移る瞬間まで、人間は、人間本来の状態である平安を決して知ることがありません。
神は、心の動揺という暗闇に浸っている人間たちのために、聖なる運命に至る道を霊的光によって明るく照らし出すことのできる、光を掲げる人々を地上に送ります。私たちは今、イエス キリストの神性のしるしであった、行動の聖なる理念を研究し、理解しようと努めなければなりません。イエスの一生は、最高の美徳と極度の苦難とに満ちていました。偉大な魂の持ち主たちは、神の光を放って他の人々が見習うための神聖な基準を設ける目的で地上に生まれて来るときは、神の自然の法則に従って生きるために非常な困難を経なければなりません。
普通の人々の場合も、すべての楽しみや喜びは、何らかの不快や悲しみが終わったときに生じます。楽しい期間は、不快や苦痛が戻って来たときに終わります。人々は、苦痛を無視したり避けようと試みたり、あるいは、悲惨さや不快なもの以外のものに注意を集中しようと試みるかも知れません。しかし、楽しみとは、本来、苦痛と苦痛との間の期間のことであり、また、苦痛とは、楽しみと楽しみの間の期間のことである、ということを認識しなければなりません。楽しみと安楽とは、一つの困難と次の困難との間、あるいは、一つの動揺と次の動揺の間にのみ存在し得るのです。快楽を味わおうと思うのであれば、私たちは、その魅惑的な輝きと人を引き付けてやまない魅力が、苦痛と苦痛の間、もしくは、不快と不快の間にだけ現れるものであることを知らなければなりません。これは自然界の法則です。
私たちは、キリストの生涯の中で、彼が善き人々に囲まれていた幸せな期間に引き付けられます。そして、イエスが悪しき人々の手にかかって、苦痛とさげすみを体験しなければならなかったときのことを嘆きます。しかし、人がもし非常に善良であろうとするならば、非常によこしまな人々に直面し、対処しなければなりません。善は悪なしには存在し得ないのです。
神を祀る寺院や神殿は、人類の幸福のために建てられました。それらは人間の心の純粋さを完成させるためのものです。その聖なる使命を果たすためには、神殿は神聖なる調和の波動を伝える雰囲気を提供するものでなければなりません。そこは、人々の善い行動と、善い習慣と、善い行いとが、一つに調和統合された場所でなければなりません。そこは、すべての生命が神聖な一大調和であることを示すものでなければなりません。神殿には、純粋で神聖な目的があります。この事実に反して、不純な活動が、定期的に神殿の敷地の中で発生します。そうしたいかがわしいものは、人間から心の平安を奪い、人々が栄光を称えようとしている神から人々を引き離してしまいます。
エルサレムの神殿では、高利貸しの商売が横行し、罪のない小鳥や動物たちが、血の生贄の儀式に使う目的で売られていました。貴重な生命を無益に殺生することは、その生き物に命を与えている神を欺くことになります。そうしたよこしまなやり方に異議を唱え、神に至る本当の道を示すために、神はイエスを遣わしました。当時のエルサレムにおいては、ユダヤ教の宗教的慣習として、いつでもヤギやその他の動物たちの血の犠牲が含まれていました。貧しいユダヤ人が、神を崇めたくても、ヤギを買うことができなければ、その人は鳩を葬ることによって神を喜ばせようとしました。
イエス キリストは、鳩やその他の動物たちが神殿の中で売られているのを見ました。高利貸しは、自分たちの儲けを聖職者たちと分け合っていました。神を崇める人々は誰でも、強制的に動物を買うか連れてくるかさせられて、虐殺に参与させられていました。一人としてそれを免れることはできませんでした。イエスは、神の名のもとに建てられた神殿には、流血と金貸しと買収が占めることのできる場所など存在しないと人々に告げました。イエスは、商売人たちを襲って神殿から追い出しました。それから、もはや礼拝に金銭が関与しなくなったので、イエスは、貧しい人々や、苦悩する人々や、孤児たちや、困っている人々などを神殿の中に招き入れました。イエスは彼らに、人生の悲惨さから開放されるために神に祈る純粋な方法を教えました。一部の学者や聖職者たちは、イエスの存在を恐れました。彼らは、イエスが一般の人々に強く訴えかける力を妬みました。彼らは、イエスが見えなくなると、すぐに貧しい人々を神殿から締め出しました。
次の日イエスが戻って来ると、神を真剣に求めているおびただしい数の人々がイエスの後について神殿に入りました。イエスは所せましと集まった人々を受け入れ、神の言葉を伝えて、神を喜ばす本当の道を教えはじめました。神は、罪のない小鳥や動物たちが、神の家で恐ろしい状況の下に殺されることを望みません。無限の恩寵と聖なる慈悲の大海である神が、無用な虐殺とよこしまな行いとをどうして喜ぶことができるでしょう?
神は愛です。生きた愛です。神は、一人ひとりの人間が、純粋で汚れのない無私の愛の道を着実に歩むことを望みます。イエスは、そこに集まった人々に単純でわかりやすい言葉で語りかけました。人々は、堕落した聖職者や学者たちが、よこしまな教えを広めていたことに気が付きました。人々は、神は善であることを感じ取りました。私たち人間の本性は聖なる愛と慈悲であり、一人ひとりが見るものすべてに神の慈悲と愛を注ぐべきである、とイエスが語るのを聞いて、人々は歓喜しました。イエスは彼らに、
「すべての命は一つである。あらゆる人々に同じ心で接しなさい。あなたが見るすべての人とすべてのものに愛をほどこしなさい」
と、言いました。
聖職者や学者は、自分たちから人々の心が離れていくのを感じました。彼らは、自分たちの富と、持ち物と、強大な社会的地位とが、すべて消えてなくなる日がいつか来ることを知っていました。彼らは、イエスの教えがそれ以上広まる前にイエスを亡き者にしようと決めました。聖職者たちは、さまざまな計画を練り始めました。悪計を企て、邪悪な思いに取り憑かれました。心には著しく利己的な感情が芽生え、神を無視しようとしました。彼らは、他の何ものにも増して、自分たちのプライドと自尊心を大切にしました。儀式的な屠殺を行っていたために、聖職者たちの心はかたくなになり、「私たちは、人を殺しても、それによる苦しみを逃れることができる」と考えていました。
そのように神を無視することは、エゴの極致です。普遍的正義という神の法則を無視することは、必ず将来のある時点において、何らかの重荷を背負う原因となります。神をだますことはできません。自尊心や、尊大さや、利己心や、膨らんだエゴが人の心に入り込めば、たとえ誰であっても、必ずその人の心の中の愛の精神は死んでしまい、その人は最低のレベルにまで沈んでしまいます。それは、自らを膨らませるエゴが例外なく引き起こす結末です。それに触れられた者は誰であれ、神の好意から遠ざかってしまいます。
今、利己的なプライドやエゴは、どの程度まで人間を支配しているのでしょうか?物事をある特別な見方で見ることによって、その答えが得られるかもしれません。人間の身体は、広大な宇宙の中にあって、実に小さなものです。宇宙全体の中の、ごく小さなこの惑星に焦点を絞って見ましょう。世界地図を見れば、私たちの住んでいる国は非常に小さな場所であることが分かります。一つの国の中でも、私たちの住んでいる州や県はさらに小さく見えます。その州の中で、私たちの都市や町や村ははるかに小さいものです。私たちの近所はそれよりもなお小さく、私たちの家は、一層小さなものです。その家の中において、あなたの身体はどれほどの大きさがあるでしょう? それほどに小さな生き物である一個の人間が、この広大な宇宙の中ではほとんど目にもとまらない存在でありながら、プライドで膨らんで、誇らしげに歩き回っている姿を想像してご覧なさい。そこには何らかの正当性があるでしょうか?
エゴを膨らませて送る人生は、全く無駄な人生です。エゴに従えば、人生を無駄にしてしまいます。無駄はエゴの特質です。意識的であれ無意識的であれ、自らに妬む心を許すとき、自分は他の人々から孤立していると感じ、心の中にエゴが生まれます。自分は他の人々から離れていて孤独であると感じるのは、エゴの性質です。エゴは、私たちのあらゆる悪い性質が繁殖する基盤です。
あなたは非常に強靭な肉体を持っているかも知れません。あなたには理性の力や、高等教育による力があるかも知れません。高い地位による力があるかも知れません。さらには、あなたには富の力があって、有力で大きな影響力を持つ多くの人が喜んであなたに従おうとするかも知れません。これらの力はどれも、あなたに自分は非常に強い人間だと感じさせるかもしれません。しかし、あなたの内に神の愛の力が躍動していなければ、あなたが一つ新しい力を身に付けるごとに、あなたの人格の欠陥が露呈されることになります。あなたは、力を求めて手を延ばせば延ばすほど、ますます弱くなっていくのです。力それ自体は、神と手を携えていない場合には一種の病気でしかありません。
神聖な霊(真我、アートマ)が宿っている皆さん、よくお聞きなさい! この世的な力はすべて、風に吹かれる雲のように過ぎ去っていきます。それらは長続きしません。神の愛の力は、決して薄れることはありません。私たちの頭上にある天は一つです。私たちの足元の大地は一つです。私たちが呼吸する大気は一つしかありません。私たち一人ひとりの中の生命力である神はただ一つです。いったいどうして私たちが他の人々と違うと言うことができるでしょう? これらの違いはどこにあるのでしょう? どうして相違点を指摘して、それを追及するのでしょうか? すべてのものを、一つひとつ別々で、他とは違うと見ることは、無知の根本的な性質です。すべてのものは一つであって、すべては神の息吹であることを、はっきりと理解すればするほど、私たちは真理に近づきます。
無知は死よりも悪いものです。人々は、肉体が死ぬ時に、人生に関してより多くのことを学びます。無知の狭量さを追及していけば、人類同胞からますます離れていき、人生は生きながらの死の状態になります。肉体的な死による霊的覚醒は、無知の状態で送る人生の弱々しい手探りの盲目状態よりも、はるかに甘いものです。私たちの目から無知による盲目状態を取り除くためには、心の中に神の英知という明かりを灯さなければなりません。炭の塊をどれほど水で洗っても、それは相変わらず黒いままです。黒い炭はどうすれば白くなるでしょう? 炭を火の中に入れれば、徐々に白い灰となります。これは自然のことわりです。
イエスの御名をどれほど繰り返して唱えても、祈りのためにどれだけ長い時間ひざまずいても、神の愛についてどれほど黙想しても、欠かすことのできないある種の理解が伴っていなければ、あなたの無知という黒い炭は純白の霊的純粋さとはなりません。あなたが、神の本質と、神の理想とする地上のあり方とを把握しはじめるとき、神の英知の光は、おのずから、この世と次の世のあらゆる側面を明るく輝く純白なものに変えていきます。そこでは、無知の闇は存在する余地がありません。無知はおのずと消えてしまいます。神に関する知識が育てば、無知は自然に去っていきます。この世的な事柄によって神から注意をそらされることを自分に許す限り、私たちは無知に取り囲まれてしまいます。
水に浸したマッチ棒を手にしていれば、乾いたマッチ箱に何回こすり付けてみても、火は点きません。マッチが燃えないということだけでも始末に終えませんが、濡れたマッチは、乾いたマッチ箱をもダメにします。感覚的な楽しみや、物質的対象物や、この世的な業績に対する渇望で一杯になっている時のあなたの心は、水びたしのマッチのようなものです。もし、あなたの心がこの世を強く求めているなら、どんなに長い時間をかけて努力しても、神に関する知識の栄光を知ることはできません。水びたしのマッチは、この世的な物事への欲望で濡れて、感覚的な情念のしずくを垂らしているあなたの心に似ています。神の愛の栄光と暖かさとが、あなたの心の中で輝いて、情念と感覚的欲求を乾かしてしまうまでは、あなたが善いことをしようとしてどれほどあがいても、それをすることはできません。神の愛がそのように働いた時に、初めてあなたは、すべてを包み込む神の愛による慰めを知ることができるのです。その時、あなたは神の永遠の光の栄光によって輝くことでしょう。
皆さんは、人生を霊的に生きなければなりません。毎日のうちのいくらかの時間を、静かに神を黙想することに充てなさい。あなたのすべての行いを神に捧げなさい。神の愛と慈悲とにふさわしい人間になりなさい。神の恩寵を勝ち得なさい。
対になった鳥が一緒に空を飛ぶのを見たことがありますね。雄の鴨は、見る目に大変美しいものであるとされています。その連れ合いの雌の鴨は、くすんだ茶色をしており、あまり魅力的ではありません。次々に時代は変わっても、長い地球の歴史を通して、この鳥のように対になっているものが見られます。それはすなわち、神の英知と人間の無知、永遠のものと束の間のもの、非物質的なものと物質的なもの、苦と楽などです。どこを見ても、それらは常に対になって存在しています。雌と雄の鴨のように、それらは別々のものに見えますが、そのどちらとも、もう一方の存在なしには存在し得ないのです。それは宇宙の性質です。それは神の法則です。困難と快楽、心配と幸福は、それぞれ、他から独立しては存在し得ません。その一方のものは、それぞれが、一対のものの片方です。世界はそのように設計されています。苦しみと楽しみは、必ず一緒に存在しています。誰もその二つを分けることはできません。楽しみと苦しみは、互いにもう一方に依存しています。あなた方がどこを探しても、幸福のみが存在しているのを見いだすことはできません。苦痛が十分に進展して熟した時、それは快楽へと変わります。
私たちは、朝日が新しい一日を運んで来ると言い、夕日が沈めば、一日が終わったと言います。朝の光を運んで来る太陽と、真っ暗な夜の来る前に見える太陽との二つの太陽があるのでしょうか? 同じ一つの太陽が、光と闇との両方を先導するのと同様に、同じ一つの心が、私たちに英知の光と霊的自由を与えたり、あるいは無知の暗闇と感覚への隷従をもたらしたりするのです。私たちの幸せと悲しみとは、同じ一つの心による産物です。
おお、形のない唯一の神の聖なる子どもたちである皆さん! 私たちはこの点に関して、もっとはっきりと理解しなくてはなりません。錠前と鍵のことを考えてみましょう。鍵を錠に差し込みます。鍵を右に回すと錠は外れます。鍵を左に回すと鍵がかかります。私たちは、錠を外すのにも、鍵をかけるのにも、同じ鍵と同じ錠前とを用います。鍵を回す方向によって、鍵がかかったり錠が外れたりします。あなたの心の中の神聖な意識が錠前です。あなたの心が鍵です。物質的な利益や、この世的なものに対する渇望に心を向ければ、心は、欲望や心配や葛藤で一杯になります。あなたは、自分自身の努力に縛られてしまいます。そして平安を失います。心を神に向ければ、神の愛が心を満たします。あなたは神の微笑みの歓びを知るでしょう。そして善を行う無限の自由を手にするでしょう。
さまざまな時代を通じて、神は多くの霊性の教師をこの世に送りました。彼らは人々に、神に至るたくさんの道を示し、神に通じる道に添って進むさまざまな方法を教えました。彼らは人々に大いなる霊的遺産を与えました。瞑想にはいくつかの方法があります。その中には次のようなものがあります。声を出して、あるいは心の中で静かに神の御名を繰り返して唱える方法、聖典の中の一節を黙想する方法、神の愛について黙想する方法、神を私たちと常に共にいる伴侶と見る方法、そして、神の光について黙想する方法などです。彼らは、祭壇における儀式として、祈りの際にひざまずくことや、神に香を手向けることや、蝋燭の火を神に捧げることなどを勧めました。
また、次にあげるような祈りの方法が与えられました。一人で神に祈る方法、魂の救済を祈る方法、仕事をしながら一日中祈る方法、四六時中絶えず祈る方法、水に全身を浸しながら祈る方法、集団による祈りの方法、そして聖霊に満たされるための祈りの方法などです。
霊性の教師たちはまた、次のことを勧めています。すなわち、私たちの命と日々の糧に関して神に感謝を捧げること、神の祝福を受けた食物を食べること、自らの過ちを認めてそれを改善するよう努めること、そして、家庭における霊的生活の在り方として、夫や妻や家族の中に神を見ることによって神に仕えることなどです。グループによる礼拝の種類には、聖典の言葉を読んでその意味を話し合うこと、聖者たちの生き方を研究すること、神の栄光に関する物語を語ること、集会礼拝に出席すること、神の栄光を歌うこと、神の言葉を広めることなどが含まれます。
次に、霊的な社会生活の要点をあげます。それは、悪い仲間を避けること、善い人々と交わること、動物を親切に扱うこと、貧しい人々や苦しんでいる人々を助けること、そして、すべての人々に神の愛を及ぼすことです。
霊性の教師たちは、聖地への巡礼と、聖者たちからの祝福を求めることも評価しました。彼らはまた、人々が人生の指針とすべき聖なる諸原則を、身をもって示しました。それらの原則とは次のようなものです。すなわち、真実を語ること、自分の人格の欠陥を改善しようと努めること、善いことをすること自体を目的として善行をすること、一つひとつの行為を神に捧げること、すべてを神に頼って悪の力を追い払うことなどです。
神の愛に至る道はたくさんあります。あなたのたどる道がどの道であっても、いつかは必ず同一の神にたどり着きます。あらゆる偉大な宗教哲学には、それぞれの聖なる創始者がいました。一つひとつの宗教の創始者には、それぞれ独自の近しい弟子たちがいました。
インドの三つの主な宗教哲学は、それぞれ、太古のヴェーダ聖典を基盤としています。「すべては一つである」――すなわち、神のみが存在している、という哲学の創始者には、14人の主だった弟子がいました。そのうちの4人が最も重要な地位に就きました。私たちは皆神の子どもであるということを認識するように、と主張する哲学を広めた霊的教師には、6人の主だった信奉者がいました。私たちは皆、神の立派な召し使いとして振る舞うべきである、と宣言するためにこの世に送られた神の御使いには、3人の傑出した信者がいました。人類に対して、それぞれが果たすべき霊的な貢献に関するビジョンと共に地上に送られた優れた魂たちは、自分たちの宗教を開き、少数の弟子たちの助けによって教えを広め、さらに、それを強化しました。
キリスト イエスには12人の主要な弟子がいました。その12人の中で、シモン ユダだけは、自分たちの教師であり魂の救い主であるイエスに危害を加えようとしました。今、シモン ユダは、自らの霊的指導者であり守護者であった者を裏切った弟子として、よく知られています。重要な弟子だったユダは、心に潜む貪欲さゆえに危険な存在でした。金銭にまつわる誘惑のために、彼の判断力は弱まりました。ユダは、イエスを何らかの方法で司祭たちの手に渡すことを約束しました。ユダは、わずか30枚の銀貨のために神を裏切ったのです。イエスはひざまずいて一人で祈っていました。ユダは、その姿を見ると、静かに立って待ちました。イエスが祈りをやめた時、ユダはイエスの右手を取って、その手に優しく口づけをしました。ユダは、偉大な帰依者ならばそうするであろうように、暖かい言葉でイエスにしばらく語りかけました。それからユダは、イエスを人気のない寂しい所へ連れていきました。これが、司祭たちに準備の時間を与えました。彼らが二人だけで立っていると、司祭たちがやって来て、ユダはイエスを司祭たちに渡しました。
イエスは、最初から純粋で私心のない、いつも愛にあふれた人でした。イエスは自分を計算に入れず、自らのすべての行いを世の中が善くなるために捧げました。生涯の初めのころ、イエスは、「私は神の使いです。私は神のすべての子どもたちに仕えるために来ました」と皆に告げました。
その後イエスは、一人になって神の本質を深く黙想するために世間を離れました。イエスは12年の間、自らの内なる神に完全に没入していました。脇目もふらない集中力の深さは、彼をより一層神に近づけました。その神聖な意識の力によって、イエスは段々と神に近づいて行き、ついには、自分は神の子であるという認識に達しました。
一層熱心に神を求めて、イエスは、ヒマラヤ山脈の人の住んでいない地域へと聖地巡礼の旅をして、さらに深く、間断なく神の愛に没入しました。イエスはこの修行を5年間続けました。山での隠遁期間中、イエスは数々の徹底した霊的修行を行いました。イエスは、父なる神の、すべてを包括する愛は、イエス自身の根本的性質であることに気がつきました。イエスは、「私と天なる父は一つである」と宣言しました。
イエスが自分は全能の神と同じであることを完全に認識したのは、インドに滞在していた間の出来事でした。神との聖なる一体性を獲得し、自らは聖霊と一体であって不可分の存在であると気がついた後、イエスは、西方の国々へと帰っていきました。イエスが他の人々のための手本として行動し、魂の救いをもたらす生き方を示す時が来たのです。イエスは、その時までの17年間を、ほとんど一人だけの状態で過ごしていました。イエスは、自分だけが神の使いであるのではないと教えました。私たちは、すべてが神の使いであり、人類の歴史に聖なる足跡を残すために地上に送られてきたのです。
このような「神に遣わされた者」たちが「行方不明者」になってしまっています。神の聖なるメッセージを伝えるために神から遣わされたにもかかわらず、今や私たちの多くが、信仰深い聖者たちの階層からこぼれ落ち、行方がわからなくなっています。行方不明になった神の使者たちは、人類を破壊することを目的とした邪悪な動きに加担しています。彼らは心の中にある神聖なメッセージを忘れてしまったばかりでなく、それとは正反対のメッセージを人類に伝えています。
イエスの時代の悪人たちは、イエスを苦しめはじめました。彼らは、向こう見ずにも、神実現に至った人間を事実そのように扱ったのです。世界中のいつの時代でも、どんな国においても、例外なく罪深い事件が発生します。エルサレムにおいても同じでした。ユダは、何回かの試みの後、イエスを司祭たちの手に渡し、その司祭たちがイエスの地上での生活に終止符を打ちました。それまでイエスの神聖な愛に触れていたので、神の恩寵により、ユダの心の中の不浄なものや、弱点や、疑いは、一部分は浄化されていました。邪悪な性質という重荷が軽減されたとはいえ、ユダは、依然として確信が揺らいだり、誘惑に負けたりすることがありました。ユダは後悔する心も持っていました。ユダの心のぐらつきと自己規律の欠如は、ついにユダにとって命取りとなりました。ユダは、自分の命とイエスの神聖な命とを、わずか銀貨30枚と引き替えにしたのです。ユダは、裏切り行為ののち、そのことを考えて後悔しはじめました。「自分のしたことは、私を導いてくださった尊い救い主の死につながるかもしれない。自分はこの上なく残酷な男だ。私は比類のない罪人だ」
こうした思いが心の中に渦巻きながら、ユダは、イエスが有罪判決を受け、死刑の宣告を受けようとしている、ローマ政府機関の大法廷へと駆けつけました。ユダは建物の中へ飛び込み、法廷に立って言いました。
「このやり方は律法に反している。私は偽りの証言をするようにと司祭たちに買収されたのだ。ここに連中が私にくれた何枚かの銀貨がある。司祭たちのせいで、私は嘘をついたのだ。彼らは法廷が誤った判決を下すように画策している。これは真っ当な裁判ではない。間違っている」
ユダは全員に聞こえるように、大声でそう言いました。この時、その裁判を司っていた知事が立ち上がって、
「私は彼に罪を認めることはできない。私には、全く罪を犯していない人を罰することはできない」
と、言いました。司祭たちは、こういう状況に対する準備を整えていました。彼らは、自分たちの配下のたくさんの者に金を払って、裁判を見守っていた人々の中に混じってその場に入り込ませていました。裁判官が、そこに集まった人々の票決を求めた時、彼らは、
「罰すべき犯罪人だ! 犯罪人! 犯罪人! イエスは有罪だ! イエスは犯罪人だ!」
と、叫びはじめました。法廷は、神よりも金を拝む人々の叫び声を、公衆の判定であると受け取りました。司祭たちに支配された人々は、彼らに割り当てられた邪悪な仕事を成し遂げたのです。ユダは、事態は自分が予測したよりもはるかに遠くへ行ってしまったことを知りました。すべてを失ったと感じて、ユダは自ら命を断ちました。知事は法廷を出ていきました。すると、司祭たちは集まって、慈悲の権化であるイエスを亡き者にする手筈を整えました。
完全に神を実現した人は、どれほど多くの悪がその人に対してなされても、あるいは、どれほどの苦しみを人々が与えても、決して、怒ったり嫉妬の心に駆られたりすることはありません。人類を向上させるために神から遣わされた聖なる救い主たちは、自らの神性と完全に一つになっています。彼らは、体験を通して神の荘厳さの本質を知っているのです。彼らは、自分自身の存在の3つのレベルにおいて、はっきりと神を見ています。彼らの身体は、神の愛を放射しています。彼らの心は、神の愛がほとばしる川です。彼らは絶えず、神の無限の広がりである純粋な愛という究極的な意識に憩っています。
こうした偉大な魂たちは、私たち一人ひとりは実は一人の人物なのではなく、三人の人物であるということを人類に教えています。
あなたが自分だと考える人物――あなたは自分自身を肉体として体験し、また、五感の欲求として体験します。
他の人々があなただと思っている人物――人々はあなたを、外見や個性や思考作用として体験します。
本当のあなた自身である人物――神は、あなたを神自身の無限の神性意識の一側面であると見ます。これがあなたの本質なのです。
2万年以上前、ラーマがインドの善を守っていたころ、彼の召し使いであったハヌマーンは、三層構造になっている自分の本質を完全に理解した者として知られていました。ハヌマーンが真実に対する洞察を世の人々と分かち合うことができるように、ラーマとして化身した神は、
「そなたは私をどのように礼拝しているのか?」
と、ハヌマーンに尋ねました。ハヌマーンは答えて言いました。
「私が肉体次元から主を見ます時には、主よ、私は主の召し使いであり、主を私のご主人として礼拝いたします。
私が魂の次元から主を見ます時には、主よ、あなた様は唯一の実在であり、自分が鏡に映ったあなた様のお姿であるということを存じ上げたうえで、主を礼拝いたします。
私が存在そのものの完全さの次元から主を見ます時には、おお主よ、私にはどこからどこまでがあなたで、どこからどこまでが自分であるという意識がありません。私とあなたとは一つであって、私はあなたであり、あなたは私です。愛する主よ、私たちは一つでございます」
神は、時の初めより、インドとその他の国々において、神の性質を備えた教師たちを地上に遣わしてきました。彼らは、魂の救いに至る道を示し、地上に聖なる調和を回復します。彼らのうちの何人かは、よく知られています。また、そのうちの何人かは忘れ去られています。彼らの一人ひとりが、神の計画を実行に移しました。
神の教えを伝えるいずれかの教師をその誕生日に敬うには、その人が送った人生と、その人が世界に伝えたメッセージの内的な意味を知らなければなりません。私たちが心に浮かべる人がイエスであっても、あるいはそれが、ラーマやクリシュナやサイであっても、クリスマスツリーその他のシンボルを使ってその人を敬う時には、その人が人類に与えたメッセージを理解しようと努めなければなりません。
現在私たちは、今日をイエス キリストの誕生日であると考えています。その本当の意味は、豪華な飾りや、おいしい御馳走や、いつまでも続く娯楽の催し物のプログラムなどによっては明らかにされません。もし、神人の教えを本気で実践するように努めるなら、私たちは、その人の誕生日の本当の意味を体験することができます。今の時代の人々は、この聖なる機会を無駄にしています。神聖な誕生日を無駄にしています。人々は、この日を、イエスがしてはならないと戒めたことを行って祝っています。不浄の行いが、浄らかで神聖な結果を生むことなど有り得るでしょうか?
イエスとその教えは、二つ別々のものではありません。それらは一つのものです。もし、イエスの姿を描いた絵に敬意を表しながら、イエスの教えに全く注意を払わないとすれば、その崇拝にはどんな意味があるでしょう? それは全く無意味です。イエスを尊敬しているふりをしながら、イエスが我々に与えた教えを尊敬しないことは、他の人々の心の中にあるイエスの地位を落としめ、人類に対するイエスの贈り物をあざけることになります。千回の祈りを捧げても、イエスが示した道に従う真剣な努力をしなければ、イエスを尊敬することにはなりません。イエスが我々に求めたような人生を送りなさい。そうすれば、あなたが形式通りの礼拝をする時間がなくても、多くの人々のためになります。
神とあなたの緊密さは、あなたが人生においてどれだけ神に価値を置き、神を信頼するかによって決まります。礼拝する絵の中の人物に対する、あなたの態度の質が大事なのです。あなたの家の中の、イエスの絵や像が置いてある場所だけを唯一の神聖な場所として扱ってはなりません。あたかも神は特定の絵や石の像の中にしか宿っていないかのように礼拝してはなりません。神はあらゆる所にいるのです。あらゆる場所で神を礼拝しなさい。イエスの絵によって神を思い出すようにしなさい。絵を通して神を見ることによって、その絵を聖別しなさい。イエスの像を見たら、神を思いなさい。その像を、あなたの人生観を高めるために役立てなさい。それこそが、あなたが日々の生活の中で現さなければならない霊性です。それが真の礼拝です。絵を見たら、そこに神を見なさい。神を単なる絵と見てはなりません。その絵のことを考える時はいつでも、神の戒めを思い出し、それらを実践に移す努力をすることを決心しなさい。あらゆるものによって神を思い出すようにしなさい。どんな時にも神があなたに望むように生きることを心掛けなさい。心の底から真剣にこの決意をしなさい。
西洋人たちは、人が石に向かって頭を下げているのを見ると、面白がって、「愚かな人々よ、なぜ君たちは石を崇めるのですか?」などと言います。インドの礼拝形式を理解するには、インド人が石を見るとき、彼らはそこに神を見るのだということを知らなければなりません。彼らは神を一かけらの石と見ているのではありません。ここにインドの二つの考え方があります。つまり、存在するすべてのものは形のない神から作られているという概念と、全宇宙が神の神聖な御姿であるという概念です。インドにおいては、すべては一つであるという認識は不二一元論と呼ばれています。
皆さんは、神の霊〔真我、アートマ〕そのものです。皆さんが神の姿をどのようなものと考えていようとも、神をどういう名前で呼ぼうとも、穢れのない心と、神に対する純粋な概念と、純粋な愛とでそうするのであれば、善い結果が生まれることは間違いありません。純粋で神聖な愛がなければ、いかなる道も神には通じません。神は無私の愛をとても大切にします。神の御姿は愛であり、神は愛であるのです。
イエスは神の愛の化身です。聖なる愛の道こそが、神に通ずる道です。ある特定の山の頂上にたどり着きたいと思うのであれば、あなたはその山に登らなければなりません。どんな資質においてであれ、その資質の最高の完成に到達することを望むのであれば、あなたは絶えずその資質を磨いていなければなりません。神の愛を知りたいと願うのであれば、あなたは神への愛を育てなければなりません。愛は神です。真実(真理)は神です。神に関する真実を知りたければ、真実の道を歩かなければなりません。愛の道だけが神の愛へと通じています。
暗い夜に涼しく照らす白い月を見たいと思う時、かがり火や懐中電灯は、月をもっとはっきり見るのに役に立つでしょうか? 月は、月自体が反射する光によって見ることができます。「私はイエスを待ち望んでいる。私はイエスを見たい。私はイエスを感じたい」と、あなたは言うかもしれません。イエスは聖なる愛の化身です。心を聖なる愛で満たせば、あなたは、愛であるイエスを体験するでしょう。その他には道はありません。あなたが本当にイエスの神性の真実を見たいと切望するのであれば、イエスを見るまで、真実の道を非常に忠実にたどりなさい。
私は皆さんが愛であることを知っているので、次のことを言っておかなければなりません。人類にとって霊的に高い価値のある人がいる場合、その人が行く所にはどこへでも付いて行く、邪心に満ちた人々が必ずいます。そうしたよこしまな人々は、その人を苦しめ、数々の困難を投げかけます。このことは、イエスの在世当時にも起きました。それは今日でも起こっており、これから先のいつの時代にも起きることです。
ダイヤモンドのことを考えてごらんなさい。その多くの面を太陽の光にさらして人々が明るい輝きを賞賛することができるようにするために、ダイヤは何度も擦られ、削られ、砕かれます。カットされればされるほど、その価値は高まります。もしダイヤの原石が自然のままの状態で展示されても、人々は好奇心からそれを見るかもしれませんが、「あれはカットされていない石だ。あれに本当にどの位の値打ちがあるのか、誰がわかるだろう?」と言うでしょう。
黄金を例にとってみましょう。例えば、あなたは、古いトランクの中に、金塊がいくつか入っている小さな袋を見つけるかもしれません。それを誰かが、ある金額で買おうと申し出るかもしれません。もしあなたが、その金塊をきれいにして、火を加えて不純物を取り除き、その純化された金を叩いて指輪にかたどれば、それははるかに値打ちのあるものとなります。
神が地上に送る神の使いたちは、貴重な金やダイヤモンドのようなものです。彼らが苦しみを受け、試され、非難され、攻撃されるようなことがあればあるほど、ますます、彼らの霊的名声は世界中に広められます。彼らの直面する試みは、決して彼らの本来の神性を低下させるものではありません。プラフラーダ少年の邪心に満ちた父親が、プラフラーダを攻撃して神から引き離そうとすればするほど、ますますプラフラーダは救いを求めて神を呼び、神への帰依心は一層深まりました。
かつて遠い昔に、正直なことでよく知られた信心深い一人の王様(ハリシュチャンドラあるいはハリ王)がいました。激しい気性で名高い賢者、ヴィシュワーミトラは、王を試すことにしました。ヴィシュワーミトラ仙は、さまざまな手段で、王から王国も財産も王妃も息子も剥奪しました。どのようなことが起きても、ハリ王は誠実さを失わず、自らの言葉を守りました。王が一切の妥協をせずに真実を守ったために、王の名声は非常に高まりました。王の通った極度の試練のために、ハリ王は、真実の守護者として、今でもインド全国でよく知られています。マハートマ ガンディーは、ハリ王の物語に感動し、誠実さを指針として自らの人生を築き上げました。ですから、現在のインドは、独立国としての自由を、ハリ王という見本に負っているばかりでなく、彼を厳しく試みたヴィシュワーミトラ仙にも負っていると言うことができます。敵対者たちは、後世の人々のために非常に貴重なものとなるのです。
イエスは、ユダヤ教の司祭たちや悪漢たちによって苦しめられました。イエスは、苦しめられれば苦しめられるほど、ますます有名になりました。苦しみと誘惑は、偉大な魂の名声を高めます。神の化身たちは、受ける挑戦や苦難によっては、いささかも害を受けることはありません。苦難の道に一身を捧げた人は、一時的に心の平安を失うかもしれません。私たちは、手の指にはめられた指輪を見て、それはとても単純なものだと考えます。私たちは、その単純な指輪を作るのに必要な、金鉱の発掘作業や精練の際の熱、そして、鎚で叩いて望む形にすることや、やすりをかけたり磨いたりする作業のことを忘れます。私たちのインドの霊的伝統に従う人々が抑圧され、苦難に会い、数え切れない悲しみや無情な仕打ちを受けるとき、その人たちは純粋で無形の神にさらに強く集中させられるということに気づきなさい。このような圧迫は、もし私たちが、それをその実体の通りに、通り過ぎてゆく雲のごとく見なすのであれば、忍耐することは難しくはないでしょう。それは永遠に続くものではありません。
愛の化身である皆さん、人間としての私たちの生命にはさまざまな制限があります。脈拍や血圧には限界があります。人間の目は、限られた狭い範囲の明るさの特定の種類の光しか見ることができません。血液は血管の中を循環しなければなりません。血液が血管の外を流れれば危険です。食事の量が一定の量以上であっても、それ以下であっても私たちの肉体は苦しみます。音が大き過ぎれば私たちの鼓膜は破れます。私たちが地上で生活できる機会そのものが、短期間のものでしかありません。それにもかかわらず、私たちは、肉体をいつまでも生かしておくために、次々とさまざまな試みを重ねます。これは愚かなことです。命の長さは神の意志によって決まります。地上での生命は、神が肉体から私たちを引き離す時に終わりを告げるのです。地上で生きている間の私たちの務めは、自分のエネルギーを、他の人々への無私の奉仕に捧げることです。そうするためには、私たち自身の意識と心とを、純粋で愛に満ちた状態に保っておかなければなりません。あなたは、自らの生活の中で、神の愛を現していかなければなりません。無私の奉仕は神です。機会あるごとに、無私の奉仕をするように最善の努力をしなさい。立派な人格を持った人々と、神についての平安に満ちた心の温まる会話をすることは、非常に有意義なことです。あなたは、神は愛であるという信念と信頼で心を満たしていなければなりません。神は慈愛に満ちた方であることを、決して忘れてはなりません。
「神が私を困らせている。神は私を試している。神は私に怒っている」などと考えながら人生を送ってはなりません。そういう思いはあなたの想像にすぎません。それは全くの思い違いです。私たちが意識しているといないとにかかわらず、私たちの行動そのものが、それに対する反動を引き起こします。私たち自身の行為が、私たちの体験する苦痛や喜びを作っているのです。私たち以外に、それを私たちに与える者はいません。私たちが善い行いをすれば、善いことがやって来ます。正しい生き方というものがあります。善い思いを育てなさい。いついかなる時にも善い行いができるように準備していなさい。常に善い行いをし続けなさい。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:An Eastern View of Jesus Christ(『サイババ イエスを語る』の原書)より