サティヤ サイババの御言葉

日付:1977年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習 ラーマーヤナの解説(10)より

善であれ、善を為せ、善を見よ、これが神への道

鈍性を手放さなければ、人は決して神の概念を垣間見ることはできない
激性を手放さなければ、人は真の信者になることはできない
浄性を受け入れることによってのみ、人は献身の道をたどることができる
これはこの世界の単純な真実

愛の具現たちよ、行いは、その人の本当の強さを引き出して他人にその人の能力を見せることができます。顔の特徴を見せるために鏡を使うことができるのと同じように、行いの種類はその人の特性をあらわにします。行いは、その人が鈍性の性質を持っているのか、激性の性質を持っているのか、あるいは浄性の性質を持っているのかあらわにします。行いはバロメーターのようなものです。行いというバロメーターには、その人の状態と、その人の心の状態を評価する能力があります。それに基づいて、私たちは、人の性質を試すには、その人の行いを調べるよりも厳密なものはない、ということを認めることができます。

太古より、私たちの先祖たちは、行いの道、すなわちカルマ マールガをとってきました。行いの道をたどることによって、先祖たちは神の存在を理解して顕現させることができました。とても浄性に見える人でも、行いをしはじめると、表側の浄性のマントの背後に無慈悲が見え隠れする人もいるかもしれません。言葉がとても辛辣で、残酷に見える人でも、何か行いをしはじめると、優しくて親切になる人もいます。このことによって、真の人間性は実際の行いの中ではっきりするということ、そして、外見や言葉だけで判断すべきではないということが、明らかになりました。

神聖アートマの化身たちよ、賢者の行いは、普通の人がするのと同じ類の行いに見えるかもしれません。それは表面的には同じかもしれませんが、結果は異なったものになるでしょう。凡人の行いには、自分はそれを自分の利益のためにしてる、その行いの利益は自分が得たい、という気持ちがつねに伴っています。この種の行いにはエゴが混じっており、私利の気持ちが困難と悲しみを招きます。賢者のする行いの類には、自分がしている行いは神の御名の下に、神のために行われている、という気持ちがつねに伴っており、その気持ちがその人を神と瓜二つにさせるのです。賢者は、この行いは本当に神様がしている、自分はただの道具にすぎないと思っています。こうした思いは、つねに、すべてに良い結果と満足感をもたらすでしょう。

その人の思考とその人のする行いに統合が見られる人もいます。これは善良な本当の人間性の類の表れです。思考と言葉と行いの一致と統合は重要です。人の考えていること、話していること、そして行動は、一つにならなければなりません。これは本当の人間性の真の基盤です。

学生諸君、あなたが霊的な分野でする行いと物質的な分野でする行いは、同じように見えても、実際には、深く見てみると二つの異なる道をたどっていることがわかります。このことに関する小さな一例があります。糖尿病患者の手におできができると、悪化して最終的には壊疽(えそ)になります。その場合、医師は手を切断すべきだと助言します。手を切断しなかった場合、壊疽が体の他の部分にも広がって、大きな害を及ぼすでしょう。全身の安全のために、患者はその時点で手を切断する覚悟をすべきなのです。別の状況で、手にきれいな金の腕輪をはめている人のところに泥棒がやって来て、その金の腕輪を奪おうとしたとします。もし泥棒がその人の腕から腕輪を外せなかったら、その時点で手を切り落として腕輪を奪いたがるでしょう。ここで私たちは、医者は刃物で手を切断し、泥棒も同じことをしたということがわかりました。両者はどちらも、表面的には同じことをしたように見えますが、医師のしたことは人助けで、泥棒のしたことは害悪です。

もう一つ別の例があります。何らかの悪意を抱いていた人が他人の住む家に火を放ち、家が全焼したとします。ハヌマーンも、同じ類の火災による破壊をランカーで行いました。ハヌマーンは、ランカーのすべての家と豪邸に火を点けて破壊しました。ハヌマーンがした行いと悪人がした行いは同じように見えますが、ハヌマーンがしたことは恩恵をもたらし、悪人がしたことは害をもたらします。これらは表面的には同じように見えますが、言葉を発して行動をとる前に心が何を感じていたかによって、結果は変わり得るのです。

ですから、自分の心こそが、人の輪廻と解脱の両方の原因となっているのです。行いの最終結果は、その行いをする態度に左右されます。ハヌマーンは、自分の思考と言葉と行動を総合した者であり、だからこそ、ハヌマーンは重要な登場人物となることができたのです。ハヌマーンはあらゆる類の文法に精通していました。ハヌマーンは四つのヴェーダと六つのシャーストラの知識を持つ学者でした。その学識により、ハヌマーンはすべての物事を平等観と平常心で見ていました。

スグリーヴァ〔猿王〕とハヌマーンは、ラーマとラクシュマナが自分たちの方へやって来るのを見ました。二人はシーターを探している最中でした。しかしスグリーヴァは、ラーマとラクシュマナはヴァーリ〔スグリーヴァの兄であり敵〕の密偵で、自分たちに危害を加えに来るのだろうと思いました。それとは反対に、ハヌマーンは大変善良で心も落ち着いていたので、スグリーヴァに、動揺してはなりません、あの二人はいったい誰なのか私が行って調べて報告いたします、と言いました。何かやりたいことがあったとしても決してあわててはなりませんと、ハヌマーンは助言しました。あわてることは、人の心に本来ある正しい性質ではありません。「あわてることはつねに無駄につながり、無駄はつねに心配につながる。ゆえに、あわててはならない」――ハヌマーンはこうした格言に精通していたので、急ぎませんでした。ハヌマーンは、行って調べて戻ってくると言いました。ハヌマーンは、ラーマとラクシュマナを見ると、大いに謙虚に腰を低くして二人に会い、よく考えて慎重に選んだ言葉で、二人は誰であるのか、なぜ森にやって来たのか、その目的は何か、を尋ねました。ハヌマーンは、落ち着いた心で、あわてることなくその一切を行いました。

ラーマがハヌマーンの質問に対して好ましい返答をしたので、ハヌマーンはとても喜んで、ラーマを自分の肩に乗せてスグリーヴァのところまで連れて行くことを申し出ました。ラーマとラクシュマナがハヌマーンの両肩に座ったとたん、ハヌマーンは自分の罪のすべてが消え失せたと感じました。主のダルシャン〔神を見ること〕のおかげで、自分が過去に犯した罪の一切が根こそぎになったのだと、ハヌマーンは思いました。ラーマという神人が体に触れた瞬間に、ハヌマーンは非常に幸せになりました。すぐさまハヌマーンの心にいくつかの善い考えが芽生えました。ハヌマーンは、ラーマとラクシュマナに会えばスグリーヴァは良い友人を見つけたと思うだろうと、心の中で考えました。さらにハヌマーンは、スグリーヴァの望みも叶い、勝利を得るだろうと考えました。「ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ」すなわち、人の行いは頭の中にある考えの類の反映です。そうしたあらゆる善い考えがハヌマーンの頭の中にあったので、神の頭の中にあった善い考えもそれに同期し、二つは一致しました。ハヌマーンの肩の上にいたラーマは、すぐにラクシュマナに合図して、これほどの善き友を得たのだから、自分たちの努力も大いに実ると保証しました。

使者には三種類います。第一の種類の使者は、主の命令を受けても主に従わず、主の望みに反するような行動をとる者です。第二の種類の使者は、主が言ったことを文字どおりとらえて、何かを加えたり差し引いたりすることをせずに、そのまま従う使者です。そうした行いの結果は受諾され、主のもとに戻ります。三番目の種類の使者は、主の望みを引き受けて、その願いがすべて完全に満たされるような行いをする使者です。そのような使者は勝利を得、主に勝利の知らせを持ち帰るでしょう。ラーマとラクシュマナは、ハヌマーンは三番目の類の使者で、主の命令が勝利の確実な段階に到るのを見る友であると、互いに言い合いました。

本当に、ハヌマーンはいつもラーマのことだけを考え、ラーマだけを思い、他には何も自分の心に入ってくることを許しませんでした。ハヌマーンはラーマの強さと力をとてもよく知っていたので、いつもラーマの足取りを追っていました。ラーマとラクシュマナがハヌマーンの肩の上に座った瞬間から、ハヌマーンはある種の神聖な神の力が自分のハートの中に入ってきたのを感じ、幸せになりました。その時、ハヌマーンは、体といっしょに心も同じように力を得て強くなったという気持ちを抱きました。強い体と強い心の組み合わせのあるところには、神性と神の力があります。その例を見てみましょう。

ここに電線があります。電線にはプラスチックかゴム製の被膜がかぶせてあります。その外側のカバーの内側に銅線があり、電流はその中に流れています。ただ別の電線を持ってきてそのまま電線につなげても、電流は流れません。両方の電線のプラスチックの被膜の一部を切り取って銅線を接合した時、初めて電流は流れます。私たちの体という覆いは、電線にかぶせてあるプラスチックの被膜のようなものであり、私たちの心は銅線のようなものです。ですから、体といっしょに心もつなげた時、初めて神の力が私たちの中に流れ込むことができるのです。体の神聖さと心の神聖さが同時に生じた時に、神の力が発生することができるのです。私たちは体の助けを借りて神聖な行いに着手すべきです。心の助けを借りて神聖な考えを発展させるべきです。体は私たちに与えられたものであり、体は他人を助けるためのものです。体の助けがあってこそ、私たちは良い奉仕をして共同体を助けることができるのです。どんな行いをするときも、これは主なる神に喜んでもらうためにしているのだという気持ちですべきです。

ハヌマーンはそのような神聖な考えを持っていた者であり、いつもそうした気持ちで務めを果たし、自分の行いを主に捧げていました。ラーマの神聖な姿を見た後、すぐにハヌマーンはシーターの捜索という神聖な任務を引き受けました。ハヌマーンは、ラーマの御名の助けを借りること、そして、ラーマとラーマの力と強さに信仰と信頼を置くことで、何マイルも何マイルも海を飛び越えることができました。ハヌマーンのそのすばらしい功績は、ジャーンバヴァンやスグリーヴァ〔猿の軍隊の仲間〕といった他の者たちを大いに驚かせました。

ここで青年たちは、ラーマの命令に対するハヌマーンの絶対の服従を特に理解しておくべきです。ハヌマーンの信愛とハヌマーンの信心は、主の願望を認識するのに大いに役立ちました。ハヌマーンはその信愛と信心と共に、自分に対する大きな自信を持っていました。自信がなければ、信愛と信心を持っていても、物事を成し遂げることはほとんどできないでしょう。また、自分に自信があっても、信愛と信心を持っていなければ、それも助けにはならないでしょう。信愛と自信はプラスとマイナスのようなものです。この二つの組み合わせこそが、私たちが自分の神聖な考えを実現することを可能にさせるのです。その時、ハヌマーンにはハートに神への思いがあり、自信も持っていたので、どこに行っても主ラーマの姿を見ることができました。どんな命令が下されても、ハヌマーンは、果たして自分にその務めを遂行する強さや能力があるのかと問うことはありませんでした。ハヌマーンは、ラーマの命令それ自体が自分にその命令を満たすのに必要とされる強さを与えてくれるのだ、という固い信念を持っていました。

それに基づいて、私たちがすべき最初のことは、自信という側面を伸ばして強化することです。自分自身への信頼は、根底にある基盤のようなものです。私たちは、その自信という基盤の上に自己満足という壁を築き、そこに自己犠牲という屋根を添えるべきです。私たちはその豪邸で自己実現〔神我顕現〕を達成すべきなのです。ハヌマーンは強さと自信の必要性を明瞭な方法で世の人々に示しました。ところが現代では、人は人間性に関して、自信の必要性をまったく理解していないと思えるような行動をしています。人はあまりにも弱くなり、そのせいで、自分の本質、自分の真我を理解することができないまま、他人の本質を見つけよう、他人の誤りを見つけようとしています。そうした神聖でない性質の数が増えているために、人は苦しんでいるのです。そして、人は自分の人間性を理解しておらず、人間の生活の質が低下しているのです。

ランカーでシーターを見つけ、ラーマとラクシュマナのもとに戻ってその幸福な知らせを届けた後、ハヌマーンとジャーンバヴァンとラーマとラクシュマナは、海辺で休憩していました。他の何万匹もの猿たちもランカーへの行進に加わっていました。その夜は満月の夜でした。涼やかな月と、その月がもたらす光が、皆に明るさと涼やかさを示していました。ラーマは少々歩き疲れていたので、ラクシュマナの膝の上に頭を乗せて休んでいました。その夜は、誰も眠ることも休むこともしませんでした。というもの、翌朝は皆、ランカーに行かなくてはならなかったからです。皆、ラーヴァナとの戦いに参戦しなければならなかったので、ラーマとラクシュマナは他の者たちに励ましの言葉を与えていました。

ラクシュマナの膝の上で休んでいたラーマは、黙り続けていることができなくなり、月が光っている時に表れる黒い部分についてどう思うかと、ラクシュマナとスグリーヴァに尋ねました。それぞれが自分の意見を言いはじめました。ある者は、月は地球から分離したので、月に残された土が地球の青さを見せているのだと言いました。他の誰かは、あれは月のいろいろなものでできた塊と、月の土だと言いました。各自が自分の解釈をはじめました。アンガダ王子もナラもニーラも、猿軍の戦士は皆、それぞれ自分の返答をしはじめました。ラーマはとてもリラックスして、楽しそうな雰囲気でした。そのため、ラーマの周りに座っていた者たちは皆、とても楽しげに返答しはじめました。

しかし、ハヌマーンは一言も口にしませんでした。ラーマは自分の周りにいる者皆にハヌマーンの態度と行いの際立った特徴を示すために、一番最後にハヌマーンに月の黒い部分について尋ねました。ハヌマーンの目には涙が浮かんでいました。ハヌマーンのハートにはラーマの御名とラーマの御姿以外、何もありませんでした。ハヌマーンは、ラーマがラクシュマナの膝の上に頭を乗せていたので、ラーマの顔が月の表面に映って月に暗い部分があるように見えているのだと答えました。このように、ハヌマーンの思考とハヌマーンの言葉は、ハヌマーンが何について話しても、何を見ても、何について考えても、そのすべてはラーマのことであり、ラーマの御名である、というほどのものでした。ハヌマーンの体においては、すべての体毛がラーマの御名で満ちていました。

ハヌマーンは、霊的で神聖なラーマの御名につねに浸っていた者でした。ハヌマーンは猿の部族に属し、非常に揺れ動く心を持っていたと考えるのは大変間違っています。ハヌマーンはイーシュワラ〔シヴァ神〕の側面の具現でした。そのような神性が別の神性の側面といっしょになるなら、強さが二倍になることに疑いはありません。どの人間にも神性はアートマという形で内在しています。自分の体の中には聖なるアートマが内在しているということを理解することができるよう、私たちは自分の体をアートマを入れる単なる器だと考えるべきです。

私たちは、体の中から沸き上がる欲望を抑えて制御するようにしなければなりません。その小さな例があります。私たちはしばしば庭園にピクニックに行きます。私たちは自分たちがそこで快適に過ごせるようさまざまな工夫をし、自分の食べる物をこしらえ、腰を下ろして持参したその食べ物を食べ、リラックスして喜びます。森で自分の食べる物を料理したい場合、私たちがしていることは何でしょうか? 現代ではコンロや炊飯器といった器具を持って行きます。古代にはそのような器具はありませんでした。古代人は食事をこしらえるのに必要な材料と器だけを使いました。食べ物を調理したいと思ったら、三つの石で炉をこしらえて、その三つの石の上に器を載せます。それから器に水を入れ、そこにお米を入れて混ぜます。そして、三つの石の上に載っている器の下に火をつけます。火をつけると器の中の水が沸騰し、ご飯が炊けます。私たちが三つの石の間に置いた火は、直接はお米に触れません。火は器に触れ、器を通して水に触れ、水を通してお米に届き、ご飯が炊けるのです。

ここで私たちは、人生はアディヤートミカな道〔アートマに関連する道/霊的な道〕の典型であるということを認識すべきです。人生は森のようなものです。人生という森の中で、三つの石は浄性(サットワ)、激性(ラジャス)、鈍性(タマス)という三つの属性(グナ)です。三つの属性は三つの石のようなものです。人生という森の中で、私たちは体という器を三つの石の上に置きます。私たちの体という器の中にある欲望がお米です。そのお米は神聖な愛(プレーマ)で満たされます。その愛は水に喩えられます。それから私たちは、三つの石の間に置いた英知という火を使います。その英知の火は、愛という水を使ってお米を煮炊きし、お米という欲望を撃退するのです。お米がよく炊ければ、再び生まれ変わってくることはなくなります。欲望が完全に取り除かれれば、悪い欲望を得る機会は失われます。しかし、ここで人は、「すべての欲望を完全に取り除くことは可能なのか?」と問うかもしれません。それは不可能です。しかし、私たちは欲望を正しい方向に向ける試みをしなければなりません。どんな行いをする時も、愛(プレーマ)という側面からその行いをしなければなりません。そうして初めて、神聖な至福を手に入れることができるのです。

幸せの秘訣は、自分が好きなことをすることにあるのではなく、自分がしなければならないことを好きになることにあります。どんな行いをしなければならなくても、あなたはそれを喜んで、楽しく行うべきです。この種の愛を基盤に据えて、ハヌマーンはつねに、まったくの従順さをもって主の命令を受けました。ハヌマーンは決して、ラーマチャンドラの命令に関する疑いや躊躇の余地を心に与えませんでした。

現代人の生活は、疑念と躊躇が束になっています。実に、人は自分の目で物事を見ていながら、自分の目を信じることができません。自分の耳で聞いていても、自分の耳が信じられないことも多々あります。自分の耳や目を信じられないほど弱い人が、他人を信じて他人を信頼することができるでしょうか?

青年諸君、あなた方はこの国の将来の国民たちです。あなた自身の目で見て楽しむこと、あなた自身の経験を楽しむことに努めなさい。西洋の目、西洋の耳、西洋の思考を使おうとすべきではありません。バーラタの国民たる人は、私たちの国の状態、私たちの国の必要性を受け入れて認識し、私たちの国の理想と一致する道をたどるべきです。私たちが吸収する文化の類、私たちが受け入れる道の類は、私たちの国にふさわしいものでなければなりません。他国にとってふさわしいものは、他国には適しているでしょうが、それが私たちに適しているとはかぎりません。国が違い、時が違い、環境が違うのですから、すべての人に共通する一つの生活の規定を定めることは不可能です。その小さな例があります。

今は夕方で、この場所、この国では6時30分です。あなたは部活に行こうとしましたが、友人の一人がアメリカに住んでいるので、その友人と話がしたいと思い、あなたの時間で午後6時30分に電話をかけました。けれども友人は電話に出ず、何の返事もありませんでした。なぜなら、友人は寝室で眠っていたからです。今の時間は、別の国では早朝で、この国では夕方です。ですから、適切な行いは、国の状況と時間に左右されるというわけです。

神聖アートマの化身たちよ、私たちは自分たちの国、バーラタの神聖さを認識し、この国の神聖な文化を受け入れ、神聖な伝統を覚えておくべきです。学生諸君は、私たちの神聖な伝統が差し出している理想の模範を実践に移す準備をしなければなりません。真実(真理/サティヤ)は私たちの命であり、真実は私たちにとっての神であり、真実は私たちにとってすべてです。けれども、もし何か利己的な理由で私たちが真実ではないことをして、不正で不親切な態度で行動するなら、私たちの生活の中に他の人たちに見せるための理想が存在するでしょうか?

学生諸君、ラーマーヤナの物語に含まれている理想の類は、すべての個人、すべての国、そして、あらゆる集団にとって必要なものです。自分の悲しみも転落も、どちらも自分の行いの種類、自分がふけるカルマ〔行い〕が原因です。だから私たちは、「善であれ、善を為せ、善を見よ」と言うのです。これが神への道です。善い行いをし、善いものを見て、善い生き方をし、善人として死になさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1977 C10