日付:1977年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習 ラーマーヤナの解説(7)より
アートマには、誕生も死もない
始まりもなく、終わりもない
その永遠の魂には、始まりと終わりを分かつ合間もない
アートマは死なず、アートマは生まれず、
他の誰かに殺されることもない
アートマは目撃する意識として存続し、
この世界で起こりゆくことの一切を目撃する
神なるアートマの具現たちよ、
人は、人生の浮き沈みを平等観と平常心を持って正視することを学ばなければなりません。そうすることによってのみ、人生は意味のあるものとなります。忍耐力と平安は日常生活の中でのみ現れてくるものです。生活の中で忍耐力と平安という特質を伸ばすには、アートマに関連する方法〔アーディヤートミカな方法〕、すなわち、霊性の道が大いに必要です。私たちが霊的な道のあらましを述べている古代の伝統と古代の聖典を忘れてしまったために、生活に徳性がなくなっています。
実に、自分はすべてを知っていると主張することによって、私たちは自分の人生に傷をもたらしています。人生に関するすべてを知っている人を見つけることはできません。人間は今、自分は空を飛ぶ方法を知っていると主張していますが、幸福ではありません。この理由は何でしょう?
それは人間が自分を知らないから、つまり、自分が本当に何者なのかを知らないからです。人間は星に着陸したり、空を飛んだりするかもしれませんが、もし自分の本性を理解していないなら、決して幸せにはなれません。もし本当に至福に満ちて幸せになりたいのなら、足かせの性質と意味を知っていなければなりません。どんな足かせが自分を縛りつけているのかを知っている時にだけ、私たちはその足かせを外す方法を見つけようと試みることができます。人にとっての最大の足かせは無知です。無知のせいで、人は自分の本性を知らないのです。そうした無知が残っているかぎり、人は悲しみを取り除くことができません。悲しみに浸っているかぎり、人が生活の中で幸せを得ることはできません。悲しみを取り除いて幸せになるのは重要なことです。このプロセスがサーダナ〔霊性修行〕と呼ばれているのです。
ラーマーヤナに出てくるバラタは、至福を求めて真実の道を探していました。バラタは決してラーマに劣っていませんでした。真実を守ること、正しい種類のダルマに従うこと、必要な時に犠牲を払うことにおいては、バラタはラーマに等しかったのです。
通常の順番では、私たちはバラタを第三の段階と見なします。私たちは、最初にラーマ、次にラクシュマナ、それからバラタ、そしてシャトルグナの役に注目します。しかし、一人ひとりが持っていた信心の種類に注意してみると、バラタは二番目に来ます。生まれた時、四兄弟にはっきりした違いは見られませんでした。その中の誰々は偉大で、誰々は劣るなどと判断して言うことは不可能です。そういった些細な違いを作り出すのは、人々がそうすることで満足するからにすぎません。人々は、バラタ、ラクシュマナ、シャトルグナという三人の弟たちの中に存在する神性を認識できていないのです。
バラタが祖父の所にいた時、グルであるヴァシシュタ仙が、バラタにアヨーディヤーに戻ってくるようにという書状を送りました。その書状を見るや、自分はラーマの戴冠式のために戻るようにと言われたのだと、バラタはとても嬉しく思いました。けれども、バラタはすぐに、これはおかしいと思いはじめました。もしラーマの戴冠式が行われるのであれば、祖父も招待されるはずだからです。どうして自分だけ呼ばれたのだろうかと、バラタは心配し始めました。動揺した心のまま、バラタとシャトルグナはアヨーディヤーへと発ちました。二人はアヨーディヤーの入り口に着きました。バラタは非常に頭のいい人物で、鋭い観察力を持っていました。バラタは、都の正門に歓迎のための青々とした葉っぱのアーチが掛かっていないことに気づきました。アーチのマンゴーの葉はどれも枯れていました。それは繁栄を宣言する代わりに荒涼とした空気を象徴していました。バラタはさまざまな悪い兆しを見つけはじめました。そして、どんな問題が起こったのだろうと思いはじめました。どの通りにも汚いものが散乱していて、どの家もとても汚れているように見えました。その異常な状況は、何かが徹底的に間違っていたのではないか、アヨーディヤーに何らかの悲劇が降りかかったのではないか、とバラタに思わせました。
バラタの馬車は、母カイケーイー妃の館へ直行しました。カイケーイー妃を見ても、カイケーイー妃が当惑して見える意味がすぐには理解できませんでした。数分してから、バラタは、父親の死とラーマが森に追放されたことを知りました。二つの出来事の悲しみに耐えることができず、バラタは自分のグルであるヴァシシュタ仙のもとへ走りました。ヴァシシュタ仙は、起こったことをすべて詳細にバラタに説明しました。
事の詳細がわかるやいなや、バラタは非常に気分を害しました。目は真っ赤になりました。バラタはかっとなって、母親に非常に厳しい言葉を使いました。バラタはもはや一瞬もそこに留まることはできませんでした。バラタはカウサリヤー妃〔ラーマの母〕のもとへ直行しました。夫の死と息子との別離に耐えられず、カウサリヤー妃は深い悲しみにありました。バラタはカウサリヤー妃のもとに走り寄り、足元にひれ伏して許しを請い、自分に悪意はなく、起こったことの原因は自分ではないと言いました。バラタはさまざまな方法でカウサリヤー妃に許しを求めました。カウサリヤー妃とヴァシシュタ仙は二人とも、まず亡き父の葬儀を執り行うべきだとバラタに言いました。
すでに父王の死から14日経っていました。遺体は慎重に保存されていました。当時の防腐剤と遺体の保存方法は現代のものとは種類が異なっていました。バラタは、自分は父の葬儀を執り行うには値しないという結論に至っていました。長男であるラーマこそが葬儀を執り行うべきである、と。バラタは、ラーマが住んでいないアヨーディヤーには一瞬も留まることはできないと言いました。
ここで私たちは、バラタは父の死の悲しみさえ忘れてしまったことに注目すべきです。ラーマとの別離の悲しみは、バラタにとって父親の死よりもはるかに大きかったのです。しかし、バラタはどうにかこうにかカウサリヤー妃とヴァシシュタ仙の命じることに従って、父の葬儀を執り行いました。その翌日、バラタの戴冠式を行うために必要なものがすべて集められました。しかし、バラタは自分が王位を継承することに同意しませんでした。バラタは、戴冠式のために用意したものはすべて自分が森に持っていくべきであると言いました。バラタは、イクシュヴァーク王朝で王位に就く権利のある者は長男のみであると断言しました。自分は弟なのだから、王位に就く権利はまったくない、と。
バラタは、それが物事を行うためのダルマに適った方法であると認識し、ヴァシシュタ仙をはじめとする人たちに、自分を森に行かせてほしいと要請しました。バラタはラーマの戴冠式は森でも行えると思ったのです。バラタはいつも、国民の考えに目を向け、国民の考えに従うことを望んでいました。ですから、バラタはアヨーディヤーの市民の何人かをいっしょに連れていきました。このようにして、アヨーディヤーの市民と共に、バラタは森への旅路に就きました。
いくらか離れた所から、ラーマがチットラクータ山に庵を構えているのが見えました。その光景を見て、ハートが苦しくなりました。バラタのハートに生じた悲しみはとても耐え難いものでした。バラタは、ラーマチャンドラ〔月のごときラーマ〕が髪を整えていないことに気づきました。絹のベッドで寝ていたラーマチャンドラが、木の葉と樹皮と土でこしらえた寝床に横たわっていることに、バラタはショックを受けました。バラタの悲しみを見て、ラーマはさまざまな方法でバラタを慰めようとしました。けれども、ラーマがバラタを慰めるために行った試みはどれも、バラタに何の満足も与えませんでした。バラタはラーマの御足にひれ伏して、ラーマがアヨーディヤーに戻って王になることに同意するまで私はこの御足を離れませんと言いました。
それほど悲しみに満ちた状況でも、ラーマはとても平安に満ちた態度で質問をしていました。「皆、家で元気にしていますか?」、「王国は順調ですか?」、「王国の国民は元気ですか?」と、ラーマは比類のない心の平安を持って質問をしていました。
その会話の中で、バラタは父王が死んだことをラーマに告げました。ラーマはナーラーヤナ神の化身でしたが、人間の姿をとっていたために、そして、人間の姿をした者はそのような状況においてどう行動すべきかを公然と示すために、ラーマは自分も父の訃報に対して非常に苦しんでいるかのように装いました。ラーマとバラタは互いに慰め合いました。
陶工が硬い粘土で器を作ることはできません。粘土は湿った柔らかなペースト状で使わなければなりません。それと同じように、神は、体を創造した後、体に命を吹き込まなければなりません。体に命を吹き込むためには、その原因を両親に背負わせなければなりません。人が生まれるためには、父親と母親がその原因となるのです。神はその証人としてのみ働きます。そのような両親、そのような父と母に、人は恩返しをすべきです。これが、母を神と見なすべし、父を神と見なすべし、師を神と見なすべし、客人を神と見なすべし、と私たちが教えられている理由です。
それからすぐに、ラーマとバラタは川に行き、父親が死んだ時にする伝統的な儀式を執り行いました。二人は家に戻り、さまざまなことについて話をしました。そのすぐ翌日に、バラタは大きな集会を開きました。すべての人が祈るようにと求められました。その祈りは、「ラーマはアヨーディヤーに戻って王国を担うべきなのでしょうか? それとも、息子たちは皆同じ立場なので、バラタもラーマと共に森に留まることを許されるべきなのでしょうか?」というものでした。そうする心積もりだったバラタは、何がしかの理由で、自分はラーマをアヨーディヤーに連れて戻らねばならない、と決意しました。自分の母が罪を犯しているのだから、自分には一切王位を継ぐ責任は担えないと、バラタは繰り返し言っていました。
ラーマはバラタに、バラタの母カイケーイー妃にもこの状況の責任はない、と言いました。実際、彼らは明日ラーマを王位に就かせるつもりだった。一晩のうちに、圧力によってその決定はくつがえされた。それほどの決定を一晩で変えるなど、神の意志によるものに相違ない。あれは人の下した決定ではなかったのだ。このようにして、ラーマはバラタにさまざまな説明をし続けました。その説明の一切にもかかわらず、バラタは自分の決意をあきらめませんでした。
アヨーディヤーを発ったバラタがガンジス川に着いた時、グハでさえバラタの意図についていくらか疑いを抱きました。グハはバラタに、ラーマに何らかの危害を加えようという目的でそれだけの人数を連れてきているのかと尋ねました。自分はどんな答えも返す立場にない。自分はこの女、カイケーイーのもとに生まれたために、こうした屈辱の一切を甘んじて受けているのだと、バラタは自分の母親を非難して述べました。
バラタはそこからバラドワージャ仙のアシュラムに向かいました。バラドワージャ仙もバラタの動機について、いくらか疑いを示しました。バラタがラーマをどれだけ信愛しているかが、そこではっきりしました。バラドワージャ仙はバラタを試したいと思い、大きな王座の椅子とごちそうを用意しました。バラドワージャ仙が用意したごちそうは、少しもバラタの興味を引きませんでした。兄のラーマチャンドラが草の根を食べて森に住んでいる時に、バラタがごちそうに手を付けることはないでしょう。私たちは、当時の兄弟たちの間に存在していた親密な関係と愛情を認識すべきです。
ラーマとラクシュマナの間のつながりを知ったバラタは、ラクシュマナだけがラーマのそばにいるのに値するのだということを、そして、自分はラーマのそばにいる機会を得られなかったということを、非常に残念に思いました。このように、バラタの理想は、つねにラーマに仕え、それによって主の恩寵を引き出すことでした。このようにして、私たちはバラタの信愛と信心を述べ、バラタの信愛と信心はラクシュマナのそれよりもさらに大きい、という結論に達することができます。世間では、これほどの信愛や信心や愛情のある兄弟は非常にまれです。弟たちはずっとラーマに奉仕していました、そして、その奉仕において、弟たちは人類に模範を示していました。各家庭において、兄弟はどのように行動すべきか? 兄弟はどのようにお互いを扱うべきか? これらの問いに対する答えは、この兄弟によって与えられています。
学生の皆さん、
ラーマの一家の兄弟たちの間にあった親密な愛情の類を認識することは、皆さんにとって必要なことです。そこから教訓を引き出して、その理想を実践に移すべきです。私たちは、一つの家族を束ねるべき理想の類を理解するべきです。自分の利己心を取り除き、ある程度は自己犠牲を実践することを試みるべきです。ラーマーヤナの主な教えは、利己心を捨てて、自分の中にある無私の犠牲心と良い資質を伸ばすよう、あなたに求めます。ラーマーヤナの中に出てくる登場人物は皆、この種の理想の生活を説いてきました。そうした理想の生活の手本が、今、非常に必要です。そのような理想の生活においては、規律上の尺度を重んじるべきです。規律がなければ、あなたが自分の生活にどんな理想の手本を置いたとしても、それらに価値はありません。
バラタはラーマの命じることを覆す立場にはありませんでした。バラタは王になりたくなかったし、王国を統治したくもありませんでした。その葛藤において、ラーマはバラタを慰めようとしました。それから、ヴァシシュタ仙がバラタにちょっとした助言を与えました。それはバラタを満足させるものでした。ヴァシシュタ仙は言いました。「あなたはラーマのサンダルを受け取り、サンダルをラーマの象徴と見なし、サンダルの戴冠式を行い、アヨーディヤーの統治を続けることができる。」 バラタにはグルから与えられた命令や提案を投げ出すことはできませんでした。バラタはラーマの命じることに異議を唱えることもできませんでした。そのため、非常に重い心でサンダルを受け取ることに同意したのです。
当時の国民は、良い命令にはすぐに従う国民でした。ですから、国民にはバラタのハートが神聖であることがわかり、それらの提案を受け入れました。バラタはラーマのサンダルを受け取り、サンダルを王座に置き、重い心でナンディ村に行きました。その村で、バラタは公言しました。自分はラーマがアヨーディヤーに戻るまで不眠不休でいる、と。森に住むラーマと同じように自分もナンディ村で禁欲生活を送るのだと決め、バラタはそうすることを始めました。その状況においてラーマとバラタの属性と容姿がまったく同じになった、と聖仙や長老たちは語っています。兄の命じることをすっかり聞き入れ、国の統治を続けていた、というバラタの模範的な行動は、バラタの偉大さを示しています。
ラーマーヤナの物語の主な登場人物を注意深く見てみると、その一切はこの世という舞台の上での芝居として神が組み立てたものなのだ、という結論に達します。人々は、神がラーマーヤナを通して与えている数多くの例から学ぶことができます。神は信者を助けるためには身もかがめます。信者の幸せのためなら、神はどんな類の困難も引き受ける用意があります。たとえ私たちが神を非難しても、神は信者が非難された時に神が感じるような悲しみは感じません。神は属性(グナ)を超越しています。神は属性の影響を受けません。ですから、神は欠点を重視しません。神は遍在です。神は何らかの姿形をとるので、神は特定の姿形をしているのだと人々は思っています。神は遍在である、というのが真実です。どうしたらこの真実を証明できるのでしょう? そのための小さな例があります。
私たちは、地、水、火、風、空が五大元素であることを知っています。これらの元素には属性があります。この五つのうち最も重要な元素は地元素です。地には、「音・形・触・味・臭」という五つの属性すべてが備わっています。この五つの特性があるために、大地は不動となり、静止し、重くなっているのです。
二番目の元素である水を見てみると、水にはいくらかの可動性があります。水においては、特性のうちの一つである「臭」が消えて、四つの属性だけが残っています。属性の一つが消えたので、水はある程度の可動性を得たのです。
三番目の元素である火を見てみると、火には「音・触・形」という属性だけがあります。二つの属性〔臭・味〕が消えたので、火は地や水よりも軽くなりました。火は地や水よりも速く動くことが可能です。
風を見てみると、風は属性のうちの三つ〔臭・味・形〕を失っています。風には「音・触」という二つの属性しかありません。風に形はありません。三つの属性が消えたので、風は〔他の元素よりも〕ずっと軽くなり、速く動き、自由に空間全体を占めているのです。
最後の元素である五番目の元素は、空、すなわちアーカーシャ〔空間〕です。空はすべての特質を失っています。空には形も触も、臭も味も存在しません。だから空は遍在となったのです。空はとても軽いので、どこにでも存在しています。
神は、属性すなわちグナを一切持っていないので、どこにでも存在することができます。一つの特質である音しか持っていない空すなわちアーカーシャがどこにでも存在するのであれば、特性すなわち属性をまったく持っていない神はどこにでも存在することができる、ということです。この点において、もし神が遍在で属性(グナ)を超越しているのであれば、神には属性がないのに、属性の中には神が存在するというのは、どういうことなのでしょうか?
私たちが神はどこにでもいると言った瞬間に、神は属性(グナ)の中にも存在するということになります。神はグナの中にいますが、グナは神の中にはありません。これはどうして可能なのでしょう? たとえば、土は器の中にありますが、器は土の中にはありません。器は作られたものです。器には形があります。形は人工的な方法で与えられています。しかし、神が無形の様相をとったなら、人々がその無形の様相を容易に認識することは不可能です。だから、神は人間の姿形をとってこの世にやって来るのです。このようにして、神は人間が従うべき理想的な道を人々に示すことを望んでいるのです。
学生の皆さん、
私はあなた方がラーマーヤナの物語に含まれている偉大な理想のうちの少なくとも一つか二つを吸収し、自分の日常生活の中でその理想を実践に移すことを願っています。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1977 C7