日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
第6回夏期講習における御講話より
アートマの知識は、極めてきれいな心の持ち主だけに手が届くもの
それは聖者でさえ手に入れることはできない
このサイの言葉は真理の道の声明なり
純粋なアートマの化身たちよ!
この世界で、人は美しいものから幸福感を得ます。美しい花を見ると幸福感がわいてきます。美しい鳥や素敵な家を見ると幸福を感じます。その幸福は永遠に続くものなのか、それとも、一時だけのものなのか、よく考えてみなくてはいけません。きれいな薔薇の花は人をとても幸せな気持ちにさせてくれますが、夜が来れば薔薇はしぼみ、さらには、その花びらも朝方までには散ってしまい、そうなるともう、幸福感を湧き起こしてはくれません。それと同じように、美しいものはどれも一時の幸福感を湧き起こさせることができるだけです。人は永遠に続く恒久的な幸福をどこで見つけることができるのか、よく理解しなければいけません。それはアートマの相の中で、そして、神を思うことの中でのみ、見つけることができます。永遠の幸福は、永遠のものからしか得ることはできません。はかないものからは、決して永遠の幸福は得ることはできません。真の至福は、永遠の幸福を味わってから初めて得られるものです。どこかにその真の至福を探しに行くことはできません。それは魚市場にダイヤモンドを探しに行くようなものです。魚市場で見つかるのは魚だけで、ダイヤモンドは見つかりません。この世は一時のものであり、諸行無常なのですから、この世界で永遠の幸福を見つけることはできません。
ある学生が占星術師のところに行って将来を占ってもらいました。占星術師は、
「あなたの手相は頭脳線がとても太くてはっきりしています」
と言いました。学生は嬉しくなって我を忘れて喜びました。しばらくすると、占星術師は、
「あなたは今生で高い名声を得るでしょう」
と言いました。学生はそれを聞いてさらに嬉しくなりました。それから占星術師は、
「あなたはたくさんのお金を稼いで、大変なお金持ちになるでしょう」
と言いました。しばらくすると、占星術師は、
「どれもこれも素晴らしいのですが、あなたの命はとても短いでしょう」
と言いました。学生はとても不安になりました。たとえすべてを得たとしても、命が短ければ意味はないからです。人々は多くの富、多くの影響力と力を得るかもしれません。けれども、アートマの認識を寄せつけないなら、短命であるのと同じです。牧女たちは永遠の幸福を得る必要性を認識していました。私たちも、永遠の幸福は永遠のものからのみ得られるということを認識しなければいけません。
牧女たちは、カールッティッカ月〔インド暦の8番目の月で10月から11月に当たる〕の特定の月曜日に、特別なカーティヤーヤニー ヴラタ〔断食と供養礼拝をすることで自分の望む主人が得られるようカーティヤーヤニー女神に祈願する誓願の儀〕を執り行いました。この神聖なヴラタを執り行うことの意義を認識すべきです。牧女たちは言いました。
「私たちは、永遠のものではない、実体のない姿形は求めません。私たちは永遠不変の真理の化身である、聖なるクリシュナに到達することを求めています。クリシュナが肉体をまとっているからというだけで騙されて、クリシュナは永遠のものではないと信じることなど、私たちにはありません。私たちが今着ている衣服のように、神はこのユガ〔時代、循環期〕に、あの特定の人間の姿をとることを決めたのです。ユガは変わるかもしれませんが、神は変わりません」
牧女たちはクリシュナの中の神聖をはっきりと認識しました。人は年齢に応じて、子供、青年、大人、老人と言われます。しかしながら、クリシュナに関しては、いつも子供か青年です。これは人間のあらゆる理解を越えています。クリシュナは不死であり、いつも平安に満ちています。このように、クリシュナは永遠の美の象徴です。クリシュナは肌の色が黒かったにもかかわらず、実に魅力的な容貌をしていました。それはクリシュナの持っていた神性によるものでした。それは万人にあるものではありません。神特有の性質です。牧女たちは、その様相の中にのみ真の美しさを見出すことができることを認識し、それゆえ、神聖なヴラタを執り行ったのです。
牧女たちは、クリシュナを自分たちの「主人」(ナータ)として得たいと望みました。時の経過と共に、人々は人間にありがちな行状や性質がゆえに、この言葉の真の意味を忘れて、間違った意味を受け入れてしまいました。一般に、「主人」(ナータ)という言葉は、妻にとっての「夫」を意味すると思われています。しかし、実際には、この場合の「主人」は「人の面倒を見る者」を意味します。自分たち全員の面倒を見るという重荷を背負うことができるのはクリシュナだけであり、だからこそクリシュナを主人として得たい、というのが牧女たちの気持ちでした。16,108人の牧女がクリシュナをそのように見なしました。そうした牧女たち全員をクリシュナの妻だと考えるのは間違っています。すべての生き物に内在する者である神にとって、誰が夫で、誰が妻ですか? そういった身体的な関係は一切、神に当てはめることはできません。牧女たちはアートマの純粋で神聖な映しです。牧女たちはクリシュナに自らを全託した人々でした。16,108人の牧女がそうした気持ちを持ってドワーラカーで暮らしていました。
ここで、牧女たちの幸せは世俗的な感情から生じたのか、それともクリシュナの永遠の相から生じたのかを問うべきです。牧女たちの概念では、永遠のもの、かつ、神と結び付いているものでない限り、この世に美しいと言えるものはありません。牧女たちはその2つの相をクリシュナにのみ体験していました。灯油ランプに油が入ってなければ、光は灯りません。電球に電流が流れていなければ、明かりは灯りません。崩壊(プララヤ)のあるところ、たとえ太陽であれ月であれ、消え去ります。決して消えることのない唯一の光は、アートマ ジョーティ〔真我の光〕です。牧女たちは、クリシュナはアートマ ジョーティであると信じ、その全き信心をもってクリシュナに祈りました。
体と体の器官に執着しているせいで、人はこの世の美しさを称賛し続けます。ラーマーヌジャ〔条件付不二一元論を打ち立てた11世紀のタミルの哲学者〕の弟子に、とても美しい瞳を持つ妻のいる者がいました。その弟子は妻の美しい瞳を常に守っていました。妻が川に水を汲みに行くときでさえ、妻の瞳を守るために傘を差しかけてついて行きました。弟子のその尋常でない行動に気づいたラーマーヌジャは、
「なぜそのような行動をするのか?」
と問いました。すると弟子は即座に、そして、はずかしそうに、
「妻の瞳がとても美しいので、太陽の光から瞳を守っているのです」
と答えました。ラーマーヌジャは、
「もし妻の瞳よりも美しい瞳を見つけたら、妻の瞳を守るのと同じようにその瞳を守るか?」
と尋ねました。弟子はそれを請け合いました。
ラーマーヌジャは、瞑想を終えた後、弟子たちと共にシュリー ランガの寺院に出かけて行きました。ラーマーヌジャがランガ神の瞳の美しさを説明し始めると、ランガ神の瞳が美しく光り輝きました。それは、えも言われぬ美しさと輝きを放っていました。その美しい瞳を見た日から、弟子はその美しさを楽しむようになりました。
同様に、牧女たちは、名前と姿形を持つ様々なもののあらゆる美しさを体験した後に、クリシュナの神聖な美しさを体験し始めました。それ以来、牧女たちは他には何も求めなくなりました。
こうしたことが起こっていた中、紀元前3102年の2月17日から18日にかけての真夜中に、クリシュナは自らの滅びゆく肉体を手放しました。それより前の紀元前3138年に、クリシュナはダルマラージャ〔パーンダヴァ兄弟の長兄〕を王位に就かせました。この2つの出来事の間の36年間、クリシュナは牧女たちがクリシュナの神性を体験することを可能にさせました。それはドワーラカー〔クリシュナが治めた王国の首都〕の他の多くの人々にとっても幸運なことでした。聖典には、クリシュナが涅槃(ニルヴァーナ)に入ると、牧女たちは大変悲しみ、不安にさいなまれたと述べているものがありますが、これは正しくありません。パーンダヴァ兄弟がクリシュナはいなくなったと感じたというのは本当ですが、牧女たちは、クリシュナは不滅であり不死であると考えていたので、クリシュナがいないと感じたことは一度もありませんでした。
マハーバーラタの戦いの前にはいくつかの悪い兆しがありました。パーンダヴァ兄弟が森に入る1年前にアビマンニュ〔アルジュナとスバドラーとの間の息子〕が生まれました。その年の1年と森での12年、それから、世を忍んでいたもう1年を合わせると、14年になります。ですから、マハーバーラタの戦いのとき、アビマンニュは14歳で、ダルマラージャの前で子供のように遊んでいました。ダルマラージャが戦いを仕掛けられたとき、アルジュナがいっしょにいなかったため、ダルマラージャはいくらか躊躇しました。するとアビマンニュは、
「何が問題なのですか?」
とダルマラージャに尋ねました。ダルマラージャは、
「ビーシュマのような偉大な人物が私に戦いを仕掛けてくるのだ」
と説明しました。ダルマラージャが心配していると、アビマンニュは即座に言いました。
「戦争から引き上げるのは私たちにとって正しいことではありません。そんなことをするなら、いっそ私が戦いに行きます」
私が皆さんにこの出来事を話しているのは、パーンダヴァ一族に生まれた者たちがいかに立派で勇敢であったかを示すためです。
ダルマラージャは言いました。
「アルジュナが不在であるがゆえ、戦いに行く前に母君から許しを得るように」
ここでもダルマラージャは、両親に尋ねて両親の指示を受け入れることが非常に大事であることを示していました。
アビマンニュは母のもとに行き、戦いに行く許可を求めました。母はアビマンニュに向かってこう言いました。
「偉大なる神の祝福があなたに注がれますように。そして、あなたがこの家の貴い伝統を守ることを可能にしてくださいますように。あなたが、主なる神の恩寵により、この家に勝利と栄光をもたらしますように」
聖典のなかには、この場面について、アビマンニュの母は息子がまだ幼いので戦いに行くのを嬉しく思わなかったという見解を述べているものもあります。しかし、それは正しくありません。そうではなく、アビマンニュの母は戦いに行きたがる息子の勇気を知って喜びました。
アビマンニュが16歳のとき、息子のパリークシット〔アビマンニュとウッタラーの子〕が生まれました。パリークシットが生まれたのはアビマンニュが死んだ後でした。パリークシットは母の胎内で死にかけましたが、クリシュナによって救われました。このように、パリークシットは母の胎内にいるときでさえクリシュナの恩寵を得ていました。こうして、パリークシットは、『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の神話集、シュリーマド バーガヴァタムとも呼ばれる〕の中で最も重要な登場人物となりました。それゆえ、長老の呪い〔パリークシットは晩年ある聖者の呪いにより王国を捨てて隠遁し、そのおかげで神に浸る生活を送ることができた〕さえ祝福と見なされました。それはパリークシットが常にクリシュナのことを考えていて、心の中にクリシュナの御姿が焼き付いていたからです。パーンダヴァ兄弟も、クリシュナを思うがゆえに自分たちが持っていたものすべてを犠牲にした偉大な帰依者でした。パーンダヴァ兄弟は、クリシュナの偉大な力だけでなく、クリシュナの神の相も認識していました。
牧女たちはそれとは性質を異にしました。牧女たちはクリシュナの神の相に完全な信仰を置いており、クリシュナへの揺るぎない信仰心を抱いていました。牧女の信仰心は神聖で、純粋で、無私無欲な信愛でした。牧女と牧童たちはカリユガ〔最悪の時代の意、末世〕に生きる人々の理想的な手本です。
「ラーサクリーダー」というクリシュナと牧女たちの戯れ〔クリシュナが分身して牧女一人ひとりと踊ったり遊んだりしたこと〕は、人間的な楽しみを伴う遊びだと思われていますが、それは違います。実際には、それはジーヴァートマ〔個々の真我〕とパラマートマ〔至高我〕の神聖な合流でした。牧女たちは自分のハートをブリンダーヴァン〔クリシュナが子ども時代に牧女たちと戯れた緑豊かな森〕へと変え、自分の思念を聖なる小川へと変えました。
牧女たちは神性の相においては無形でした。自分の体に執着があると、人は五感に執着します。牧女たちは自分の体にまつわる錯覚に陥っていませんでした。その理由は、牧女たちはクリタユガ〔正の時代の意、黄金時代〕の前世で聖仙だったからです。クリタユガで聖仙だったときには、神の姿を見ること(ダルシャン)を得ることだけができました。聖仙たちは、トレーターユガ〔三なる時代の意、銀の時代〕では、神の化身ラーマの猿となりました。クリタユガでは神の姿を見ること(ダルシャン)がかなっただけでしたが、トレーターユガでは神との会話(サムバーシャナ)の機会を得ました。その後、猿たちは神に祈り、神に触れる(スパルシャナ)機会を得ました。神に触れる機会を得るために、クリタユガの聖仙たちは、トレーターユガでは猿になり、ドワーパラユガ〔疑いの時代の意、胴の時代〕では牧女になったのです。
これは、3つの属性〔グナ〕である、激性、鈍性、浄性でもあります。鈍性を有する者は神の姿を見ること(ダルシャン)がかなうのみであり、激性を有する者は会話(サムバーシャナ)も得ます。浄性を有する者はさらに触れ合い(スパルシャナ)も得ます。
神との接触(スパルシャナ)によって得られる神聖な相を明らかにするために、ちょっとした例をあげましょう。炭は黒い色をしており、黒いことで無知を象徴しています。火は光明すなわち光を放ち、知識を象徴しています。火と炭が離れたところにある限り、炭は火を見ることができるだけで、光明を得ることはできません。しかしながら、炭が火に入れられて接触すると、炭も赤く燃えて光明を得、火の1部となります。このように、神の御姿と触れ合うと、人の体の中の無知が取り除かれるのです。少し風を当てれば、炭はもっと速く燃えて火になります。霊性修行とは、風を当てるということです。霊性修行によって、無知な人も賢者になることができます。
この真理を認識していたので、牧女たちはクリシュナの近くに集いました。クリシュナにとっても、牧女たちは愛おしく大切な存在でした。牧女たちの行いの一切は、不死へと到ることを意図したものであり、どんな利己的な動機でなされたものでもありません。『バーガヴァタ』で読むことのできる出来事の一切は、純粋で神聖なハートを持った牧女たちによってなされた行為と見なさなければいけません。牧女たちは自分を神の1部と見なしていました。牧女たちは万物が1つであることを体験しました。行為を表面的に行ってはいけません。牧女たちの欲望は神を想うことで完全に燃え尽くされました。
もし牧女たちの至福の状態を体験したいなら、牧女たちの信愛の状態に到達しなければいけません。目に見えるものはすべて、本当は存在しておらず、いつか消えゆくと言われています。消えゆくものが人に幸福をもたらすことはできません。世の中のものを手に入れると、その瞬間は幸せですが、それと引き離されると悲しくなります。お金や財産が入ってくると人は幸せを感じ、それらが出て行くと不幸せだと感じます。こういったものはすべて、やって来ると人に幸せをもたらし、出て行くと悲しみをもたらします。人は結合によって幸福を得て、分離によって悲しみを得ます。愛という神聖な相だけを探し求めようとすべきです。なぜなら、その愛には結合も分離もないからです。この種の神聖な愛は理由を持ちません。これは人の内にある神性の自然な姿です。これは、実に、人間の本当の財産です。
人間としての生を得ることは大変な幸運です。けれども、人はそれほどのものである人間としての生をありとあらゆる物欲で満たしているために、自分の人生を悲しみで満たしているのです。欲がなければ悲しみは一切得ることはありません。欲がない人よりも幸せな人はいません。悲しみはすべて自分で作り出したものです。心配には姿形はまったくありません。心配はあなたが自分で作っているものにすぎません。心配は無形です。自分の欲望が自分の悲しみの原因です。実体のない問題からは離れているようにして、幸せな人生を送りなさい。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 C12