日付:1978年
夏期講習の御講話(6)より
壁を築く者は、より高く、高く築き続けるだろう
井戸を掘る者は、より深く、深く掘り続けるだろう
パヴィットラートマ・スワルーパの皆さん、
神性という面において、人は絶えず揺れ動いています。人はアートマを理解するためにさまざまな異なる努力をして、より気高く高尚な知識を見つけようとします。時おり、人はこのアートマの神聖な面を忘れ、外界の事物にかかわるものを追いかけることに多くの時間を費やします。前者〔アートマ〕には内を見る目が必要であり、後者〔外界の事物に関わるもの〕には外を見る目が必要です。バーガヴァタの神聖さは、人の内を見る目と外を見る目を調和させ、人にこの二つの面の一体性を見させることにあります。カウラヴァ一族は、財力と体力があったがゆえに、クリシュナの力を見抜けませんでした。ジャラーサンダ〔カムサの義父〕は、自分がクリシュナの生まれたヤーダヴァ族よりも身分の高い一族に生まれたことをたいそう鼻にかけ、その考えによって盲目になり、クリシュナの偉大さに気付くことができませんでした。パンディト〔学僧〕たちは、学識の中で英知を見失い、自分たちの心〔マインド〕が創り出す真実性のない思いのせいで、クリシュナの神聖な人格を認識することができませんでした。自らの出自から来るプライド、自らの富から来るエゴ、自らの教養から来る傲慢さが原因となり、他にもクリシュナの偉大さに気付けなかった人々がいました。
神の行動はリーラー〔遊戯〕であると言うことができます。誰もそのようなリーラーの性質を特定することはできません。リーラーを理解することもできません。ただ出来事が起こった後で、人はその意味を理解することができるのみです。というのも、そのようなリーラーは通常マーヤー(迷妄)に覆われており、それゆえ、人はそれらの原因である神性に気付かないからです。もっぱらこのマーヤーのせいで、人は人と人の間にある神聖な繋がりにも気付くことができません。すべての執着はマーヤーのせいで生じます。マーヤーがなければ、人類の進化そのものが停止することでしょう。いずれにせよ、マーヤーは悪いものではありません。事実、マーヤーは、マーヤーのさまざまな側面を理解している者には、大きな助けとなるものです。理解していない者にとっては、大きな害をもたらすかもしれません。実のところ、マーヤーは、まさしく人に必要なものであり、神を探求する上での王道になり得ます。マーヤーの側面を理解していない者には、それはとても難しい道になるでしょう。
猫を例に取ってみましょう。親猫が自分の子猫を捕まえたとします。親猫がそうするのは、子猫を安全な場所へ連れて行くためです。一方、同じ猫がネズミを捕まえるときは、ネズミを殺すことが目的です。神性の側面を理解していない人々にとって、マーヤーはネズミを捕まえる猫のようなものです。神を理解している人にとっては、マーヤーは子猫を捕まえる親猫のように大きな助けとなります。マーヤーとは、実際は神の道具であり、それゆえ時おり、神は「マーヤーをマントとしてまとう者」と描写されるのです。
マーヤーは基本的に、維持、破壊、創造に関与しています。そうした時と場所と状況に応じて、マーヤーの作用は変化するでしょう。マーヤーは電流に似ています。私たちは、扇風機を回したり、電球を点けたりするのに、電流を利用することができます。機械や便利な装置を作動させたりするのに使うこともできます。電流はとても役に立つものですが、あなたがそのことに感謝しようとして電流に触るなら、即座に死んでしまうでしょう。このように、電流は良いこともすれば、害を及ぼすこともあるのです。この世の中で、マーヤーのない場所を見つけることはできません。仏陀は、この世界全体はまことに儚いものであり、その中に永続する価値のあるものは存在しない、と述べました。これに関連して、私たちが周りに見ている一切のものは、実際には主なる神のリーラー〔遊戯〕であると悟るべきです。私たちが何をしようとも、それを主のリーラーと見なし、そうすることで真理〔真実〕を体験しなければなりません。
パーンダヴァ兄弟は王国と財産を失い、森の中を放浪していましたが、常にクリシュナを思っており、クリシュナはそんなパーンダヴァ兄弟に主の恩寵を降り注ぎました。パーンダヴァ兄弟は富と地位も失いましたが、主なる神への信仰の強さは持っており、それゆえ主の恩寵を受け取ったのです。バーガヴァタは、人間にとって最も重要なのは、ダルマと神への信仰から来る強さを持つことである、と私たちに教えてきました。
戦争は終わり、勝利へと導いたクリシュナはパーンダヴァ一族と共にハスティナープラの都に帰りました。しばらくして、クリシュナはドワーラカーに帰る計画を立てていました。このクリシュナの意向を聞いたクンティー妃は、クリシュナのもとに駆けつけました。彼女はクリシュナの両手を取り、こう言ってクリシュナに語りかけました。
「あなたは、弱き者、困難にある者の守護者です。あなたは私の子供たちの世話をして、私に大きな幸運を授けてくださいました。私たちが最も助けを必要としていた時、あなたは私たちを助けてくださいました。私は、最も重要なものは愛と愛着である、という迷妄の下におりました。今、私は、それは実際には最も有毒な性質だということに気づいています。あなたの愛を楽しむことができたのは、私の幸運でした。あなたの愛以上に素晴らしいものはありません。
若いころ、私はドルヴァーサ仙から教わったマントラを唱え、太陽神を介して生まれた息子を授かりました。世間から浴びせられるであろう批判を怖れ、私はその幼い息子、カルナを捨てました。その日から、私は息子を失ったことで苦しんできました。パーンドゥ王と結婚した後、夫と共に森の中を旅していたとき、私は神々の好意と恩寵〔マントラ〕により、3人の息子、ダルマラージャとビーマとアルジュナを産みました。妹〔第2王妃〕のマードリーは、〔マントラにより〕2人の息子、ナクラとサハデーヴァを授かりました。けれどもマードリーは、私たちの夫の後を追って自らの命を絶ちました。私は、自分が夫の後を追って死ねば、幼い子供たちの世話をする者が誰もいなくなることを心配しました。そして、この種の愛着のために子供たちの世話をしていたのです。聖仙たちの恩寵により、私はハスティナープラにやって来ましたが、その日以来、残忍なカウラヴァ兄弟たちはありとあらゆる類いの嫌がらせをしてきました。しかも、私の子供たちが住んでいた家に火をつけて、子供たちを焼死させようとさえしたのです。彼らは、心優しい私の義理の娘であるドラウパディーを辱めようとしました。
これらすべての時に、あの日から今日に至るまで、あなたは私の子供たちの面倒を見て、導き、慰めてくださいました。あなたは私の子供たちにとって、兄弟であり、父親であり、母親、親族、そして、神様なのです。私は、あなたの5フィートの背丈の人間の姿に惑わされたり、欺かれたりはしません。あなたはまことに神であり、それには何の疑いもございません。あなたは私の喜びと慰めの源です。喜びは、常に二つの苦痛の合間にあるものです。そしてその間の苦難のすべてにおいて、あなたは大きな慰めの源でした。あなたはその間、ずっと私たち全員の面倒を見てくださいました。一瞬でもあなたがいらっしゃらなければ、私は生きていられません。なぜ今、あなたがドワーラカーへ行ってしまわれることに賛同できるでしょう?もうしばらく滞在し、経験の浅いダルマラージャに王国を統治する手法を教えてくださるようお願いいたします」
ここで私たちは、クンティー妃がクリシュナを「マーダヴァ」と呼んでいることに注意すべきです。「マー」はラクシュミーを意味し、またマーヤー〔迷妄〕も意味します。「ダヴァ」という言葉は主人を意味します。これらの意味において、クリシュナは自然〔プラクリティ〕であるラクシュミーとマーヤーの主人です。神はあらゆる面で独立した実在です。神はこれこれしかじかであるべきで、特定のやり方で振る舞うべきだと言う人々もいますが、それは不可能なことです。グナ〔三属性〕を超越している者にとって、特定の性質などあるでしょうか? 姿形のない者にとって、姿形の制限などあるでしょうか? 神は、世界を利するためであれば、どんな姿でもとり、どんなグナでも持ち、自分の好きなどんな行動でもすることでしょう。これは帰依者たちの行動に対する応答として決意されるのです。そして、神は帰依者たちの祈りに応えて特定の姿を取るでしょう。
小さな場所に家を建てるとします。家は割り当てられた土地の中に築かれ、外側の土地は利用できません。外側の土地は使えなくても、家の所有者には家の中で動き回る十分な場所があります。同様に、この宇宙は主なる神の館です。神はあらゆる場所を自由に動き回ります。だからこそ、開かずの扉を開けてほしいと頼むとき、クリシュナの顔には微笑みが浮かぶのです。全宇宙がクリシュナの館であるならば、この館の正面玄関を探すことの何が面白いのですか? 主自身が常に自分の背後にいるなら、どこで正面玄関を探し、どこで主を探せばよいのでしょうか? 神の御名という弦楽器を奏で、カイラーサの主〔シヴァ神〕に集中しなさい。それが主の館の正面玄関です。アーナンダ〔至福〕に満たされた私たちのハートこそが真のカイラーサであり、神は私たちのハートの中で動き回る一切の権利を持っているのです。
クンティー妃は、神が自分のハートの中に住んでいることに気が付きました。この悟りよりも以前、彼女は執着とモーハ(妄執)は重要な人間の性質であると錯覚していました。クンティー妃はまた、主の偉大さを悟り、主を信頼する者にはどんな種類の危険もないという真理に気が付きました。
神は、時おりあなたに悲しみを与えないと幸せではありません。母親でさえ、子供が必死に泣かないかぎり幸せではありません。子供にキスをする時でさえ、母親は子供の頬をつねり、それからキスをします。同様に、神もまた困難や試練を与え、それからあなたを喜ばせるのです。この理由から、クンティー妃はクリシュナにこう言いました。「あなたの帰依者が不快な目に遭い、泣いている時、幸せそうにヴィーナ〔弦楽器〕を奏でるのは、あなたの性分です!」
神は、後からあなたに最高の至福を与えるため、あなたを泣かせるだけなのです。もしお腹が空いていれば、より多くの食べ物を食べることができ、よく消化することができます。もし食べた物が消化されなければ、どうやってそれ以上食べることができますか? 同様に、神はまず、困難や悲しみや苦痛を与え、次に、あなたがそれらを消化した後、幸せや至福を授けるのです。これに関連して、私たちが主の神聖な行為を簡単に理解するのは不可能であることを悟らなければなりません。それらを体験できる者だけが、それらを楽しむことができるのであって、それ以外の人々は決してこれを理解することはできません。
外界の困難のせいで、私たちは神をとても不親切なお方だと考えます。これは間違っています。実のところ、神はあなたが永遠の幸福を受け取れるよう準備しているのです。物質的な喜びは一時的で儚いものです。クンティー妃はこの基盤となる真理〔真実〕に気付いたため、クリシュナとの別離に耐えることができませんでした。
クリシュナに対するクンティー妃の熱烈な愛がわかる小さな例を取り上げましょう。クリシュナがニルヴァーナ〔涅槃〕に到達した後、アルジュナはすっかり意気消沈してハスティナープラの都へ帰りました。帰り道の途中でも、アルジュナはたくさんの悪い兆しを目撃しました。王宮に戻るとすぐ、アルジュナはクリシュナが涅槃に到達したという訃報を告げました。パーンダヴァ一族は皆、悲嘆に打ちひしがれました。アルジュナはとても強靭な人だったにもかかわらず、クリシュナがニルヴァーナに達した後は、弓を引くことさえできなくなりました。その時、アルジュナは、自分のすべての力、マハーバーラタの戦いに勝利した力、カンダヴァの森を焼きつくした力は、実際はクリシュナとの親密さによって得た力であったことを悟りました。アルジュナは、自分自身の固有の力などなかったことに気付いたのです。
アルジュナは、この悲報をどのように高齢で盲目の母〔クンティ妃〕に伝えることができるだろうということも考えていました。パーンダヴァ兄弟が館に入ってきた時、クンティー妃はアルジュナが帰ってきたことを知らされました。高齢だったので、クンティー妃の見聞きがおぼろげなのは自然なことでした。アルジュナが入って来たことに気が付くや、クンティー妃はアルジュナはクリシュナの近況を持ち帰ってきたのだと思いました。クンティー妃はアルジュナに矢継ぎ早に質問を浴びせ、クリシュナについてたくさんの質問をしたがりました。アルジュナは悲報をクンティー妃にどう伝えればよいか、とても悩みました。母の質問に答えることができず、アルジュナは悲鳴をあげ、クリシュナはもはやこの世に生きていないことを告げました。悲報を耳にした途端、クンティー妃はまるでクリシュナを探しに行くかのように自らの命を捨てました。クリシュナがいなければ、一瞬たりとも生きていられなかったのです。
パーンダヴァ兄弟もまたクリシュナに大きな愛情を抱いており、彼らは普通の人々ではありませんでした。パーンダヴァ兄弟はクリシュナにとって5つのプラーナ〔生気〕のようなものであり、クリシュナは彼らの頼みの綱でした。ある時、ドリタラーシュトラ〔カウラヴァ兄弟の父王〕はクリシュナに、パーンダヴァ兄弟とカウラヴァ兄弟はクリシュナにとって等しく重要なのだから、パーンダヴァ兄弟をえこひいきするべきではない、と言ったことがありました。これに対してクリシュナは、恐れも偏見もなく言い返しました。
「パーンダヴァ兄弟とカウラヴァ兄弟の間には何の類似点もない。今、あなたに私とパーンダヴァ兄弟との関係を教えてあげよう。ダルマラージャは身体の頭のようなものだ。アルジュナは肩の部分に当たる。ビーマは腹であり、ナクラとサハ―デーヴァは2本の足のようなものだ。そのような身体において、私は心臓であり、動く力なのだ。身体がなければ心臓は存在せず、心臓がなければ身体は存在しない。これが、私とパーンダヴァ兄弟の間にある切っても切れない関係なのだ」
そのように答えたクリシュナは、パーンダヴァ兄弟を大きな愛情をもって遇し、お返しにパーンダヴァ兄弟もクリシュナを自分たちの命の原動力として遇していました。実際、パーンダヴァ兄弟は、どんな時も、苦しみの時も喜びの時も、楽しみの時も悲しみの時も、安らかな時も困難の時も、常にクリシュナを思って人生を送っていました。だからこそ、パーンダヴァ兄弟は、クリシュナのニルヴァーナ〔逝去〕を聞かされた時、大いに動揺し、心を乱したのです。
この出来事の後、パーンダヴァ兄弟がこの世に対して募らせた類いの無執着は、他のどこの家族にも見られないものです。ダルマラージャは、身体を離れた母の頭を自分の膝の上に置きました。ダルマラージャは兄弟の1人に声をかけ、母の葬儀の準備をするよう頼みました。別の兄弟には、パリークシット〔アルジュナの孫〕の戴冠式の準備を進めるよう頼み、また別の兄弟には、隠遁生活を送るために兄弟が森へ出発するための支度を整えるよう頼みました。一方では母親の葬儀の支度をし、もう一方では戴冠式の準備を整え、またもう一方では超然とした隠遁生活を送る準備を整えていたのです。このような出来事の組み合わせは非常にまれであり、特異なものです。こんなことが同時にできたのは、パーンダヴァ兄弟が抱いていたクリシュナへの愛ゆえです。バーガヴァタは、世の人々にパーンダヴァ兄弟のこうした神聖な信愛を伝えてきました。クリシュナは、パーンダヴァ兄弟に対して、非常に強い、愛情深い思いをかけていた、偉大な人物でした。ですから、皆さんはクリシュナの神聖な行為を、真の観点から理解するよう努めるべきです。
近ごろシネマ〔映画〕やドラマ〔演劇〕で描かれているクリシュナは、真のクリシュナではありません。実際、時おりクリシュナは、多くの不浄な考えを抱いて無責任な行動をとる現代の学生のように描かれていることがあります。本当は、クリシュナの相〔特徴〕はとても神聖であり、クリシュナの行為は神の愛に満ちています。こうしたクリシュナの神聖な行為は、バーガヴァタの多くの場面で見られるものであり、皆さん全員が十分に、正しく理解しておかなくてはなりません。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch6