日付:1978年
夏期講習の御講話(7)より
ああ! 今日の学生諸君!
もし君たちが辛辣な言葉や悪い行為にふけるなら、
その結果は君たちに跳ね返ってくるだろう!
このサイの言葉は、君たちに真実の道を示している
清らかな真我の化身(パヴィットラアートマ・スワルーパ)である皆さん、
雲は空に集まりますが、そよ風が吹けば散り散りになります。それと同じように、世間の問題は好ましい条件が整えば集まったり離れたりします。誰にとっても、特定の活動の成り行きを予測するのは容易なことではありません。また、時を経るにつれて物事がどのような形を取るかを述べることも、誰にも不可能です。ある意味で、すべてのものは時間に左右されています。時間は神の一つの姿です。そのため、私たちはすべての仕事を、適切な時に自分に役立つ方法でしようとしなければなりません。マハーバーラタの戦争が終わり、ダルマラージャがバーラタを支配する権利を手に入れた時、クリシュナはダルマラージャがずっと深刻な顔つきをしていることに気がつきました。その時、クリシュナはダルマラージャに、戦争に勝利して疑う余地のない王となりながら、なぜそれほど心苦しく思い、落胆しているのかと尋ねました。するとダルマラージャは答えました。
「ああ、クリシュナ! 一個人の利益のためにこれほど大勢の人間を殺すことは大きな罪です。それを思えば、私がグル〔導師〕や兄弟や従兄弟や友人たちを殺し、彼らを滅ぼしたことは大罪です。何百万年も地獄の責め苦を受けたとしても、私の罪があがなわれることはないでしょう。私はそれほど大勢の人々の死に責任を負っているのです。これほど多くの人に苦痛と困難を与えておきながら、私がどんな喜びを感じることができるでしょう? 他人に幸せを与え、自分も幸せを楽しむ者だけが神聖な人間であると言えます。他人に苦痛を与えておきながら自分は幸せである者は、実にひどい大罪人なのです」
ダルマラージャがこのように答えると、クリシュナは笑って言いました。
「ああ、ダルマラージャ! 君はまるで無知な人間のように話しているね。邪悪な者を滅ぼし、自分の王国の民に繁栄をもたらすのは王のダルマではないか。君の王国を安全で幸せに保つことは君の責務だ。君の民の幸福は君の手中にある。そのような任務を果たしているかぎり、君に逆らう者たちを懲らしめることは常に正当化されるのだよ」
ダルマラージャはすべてのシャーストラ〔天啓経典〕とヴェーダを知っており、その学識があったにもかかわらず意気消沈した気分に陥ってしまったのを知って、クリシュナは驚きました。その悲嘆を克服するにはアッシワメーダ・ヤーガ〔馬祀祭〕を執り行うべきだ、とクリシュナは助言しました。ダルマラージャは驚いてクリシュナに尋ねました。
「もし泥を水で洗えば、水も泥だらけになるのではありませんか? 酒を貯蔵するために使われた壺を酒で洗っても、穢れは消えるでしょうか? 私が罪を犯したことで得た悲しみを取り除くために、私は再び殺生せねばならないヤーガ〔供儀〕を執り行うべきなのでしょうか? 私は王国にもヤーガ〔供儀〕にも興味がありません。実際、私はこの肉体さえ望んでいません。この肉体を去る許可をお与えください」
クリシュナはダルマラージャが完全な失望状態にあることに気づき、アルジュナに、二人とも、人生の最期の時を迎えつつあるビーシュマ〔大叔父〕に会いに行くべきだと告げました。クリシュナは他のパーンダヴァ兄弟も全員呼び集め、ドラウパディーを同伴してビーシュマに会いに行きました。
パーンダヴァ兄弟とクリシュナを見たとたん、ビーシュマはとても喜びました。ビーシュマはパーンダヴァ兄弟にそばへ来るように言って、喜びを表しました。ビーシュマはダルマラージャに話しかけ、言いました。「全能の主が人間の姿をまとい、我らの間を歩き回っておられるのはなんと幸運なことだろう」。時折パーンダヴァ兄弟は、クリシュナが自分たちの親戚にすぎないという迷妄に惑わされ、クリシュナが神であるにもかかわらず、そういった血縁関係からみで、クリシュナを平凡な人間と見なすことがありました。私たちはよくそのような迷妄を経験します。誰にも神のリーラー〔遊戯〕を容易に理解することはできません。神の行為は理解できず、簡単に説明できないのです。これは人間の思考と心〔マインド〕を超越しています。事実、神が人間の姿をまとって出現すると、私たちはその化身をありふれた人間のように思い、普通の人間と比較して判断します。
ビーシュマはその時、クリシュナの御前にいるという類まれな幸運に恵まれたことを大変喜んでいました。ビーシュマは言いました。
「まことに神の言葉は常に真実であり、神がなさることはすべてダルマの行為だ。神の言葉は真実を成し、神の行為はダルマを成す。この世には何一つ、神が欲しいものも、神がしなければならないこともない。神の行為は万人の善のために為される。我らの義務は、つべこべ言わずに神が我らに為すよう求めることを為すことだ。我らには主の行為を疑ったり調べたりする権利もなければ能力もない。幼子たちはどう振る舞うべきか、あるいはどう遊ぶべきかについて、誰かが決めたり、原則を定めたりできるだろうか? 幼子には身勝手さもエゴもない。彼らはただ、好きなように微笑み、遊び、泣くだけだ。それと同じように、グナ〔属性〕を超越したパラマートマ〔至高の神、至高我〕は、幼い赤子のようなものだ。彼がどのように振る舞うべきかを決めたり命じたりできる権利や権威を持つ者はいない。彼が何をなさろうと、それは我らの幸福のためなのだ。神の目から見れば、ある人と別の人の間に差異はない。それに照らせば、神は怒ることも喜ぶこともない。パーンダヴァ兄弟が戦争をしたわけではなく、戦争を計画したわけでもない。勝利は彼らに因を帰するものではない。クリシュナこそが彼らを戦わせ、彼らに勝利を得させたのだ。クリシュナの遊戯を理解するのは大変難しい。少なくとも今後は、この真実を悟り、悲しみを乗り越え、幸せでいて、自らの役割と義務を自覚することだ」
アルジュナもクリシュナに、近親者たちを皆殺しにして勝利を得るよりは、食べ物を乞いながら生きる方がましです、と言っていました。クリシュナは予言するような物言いでアルジュナに話しかけ、言いました。
「運命によって定められたことは避けられない。正義は為され、勝利は正しい者に与えられる。真実は生き残るだろう。利己心は滅ぼされるだろう。これはあらゆる時代のダルマである。百人の息子を持つ父〔ドリタラーシュトラ王〕には、今やその遺体のために最期の葬儀を執り行うたった一人の息子さえいないことを知るがいい」
ここで、クリシュナは私たち皆の人生を支配するマスタープランを持っていたことがわかります。クリシュナは私たち全員の面倒を見ており、過去、現在、未来を支配しています。その状況の中で、クリシュナはアルジュナに、運命づけられたことは為されねばならない、と言いました。逃げることはできないのです。
その時、ビーシュマはダルマラージャに、王はいかにして、どんな方法で国民の面倒を見るべきか、どうすれば良い王になれるのか等々を助言していました。また、ビーシュマはダルマラージャに、どのようにヴァルナ・アーシュラマ・ダルマに従って身を処すべきか、人間はどんな段階を経て神性を現すべきかを話していました。ビーシュマがそのような神聖な事柄を説いていた時、何人かの経験豊富なリシ〔聖仙〕たちもビーシュマの話を聞きにやって来ました。そのような神聖な教えがビーシュマによって穏やかに語られていた時、ドラウパディーは大声で笑い出しました。これはドラウパディーにふさわしくないことであり、パーンダヴァ兄弟らは苦痛を感じて恥ずかしく思い、幾分怒りさえ感じました。リシたちは皆大変驚きましたが、なぜドラウパディーが笑ったのかは誰にもわかりませんでした。クリシュナだけがこの理由を知っていました。パーンダヴァ兄弟は腹立たし気にドラウパディーをにらみつけました。ビーシュマは愛情あふれるやり方でドラウパディーを呼び、ダルマラージャに向かって言いました。
「ドラウパディーは決して理由なく笑ったりはしない。彼女はとても清らかなハートの持ち主だ。年長者と話すとき、彼女がいかなる無礼な振る舞いをすることもあり得ない。ドラウパディーは常に大いなる謙虚さを持って行動する。なぜ大声で笑ったのか、本人に説明してもらおう」
ビーシュマはドラウパディーを呼び、なぜ笑ったのかを説明すれば夫たちは納得するだろうと言いました。ドラウパディーはビーシュマに向かって語りかけました。
「あなたは、ダルマの道から逸れてしまった者たちにこそダルマを教える必要がおありです。あなたが今なさっていた助言は、取るべき道を誤った者、エゴやプライド〔高慢〕に苦しむ者たちに必要なのです。そのお説教は、年長者たちに敬意を払い、正しく、誠実で、正直な人生を送ってきた私の夫たちには必要ありません。なぜ、カウラヴァ兄弟が私を辱め、不正なやり方で振る舞った時、あなたはあの者たちにそれを説かなかったのですか?」
すると、ビーシュマは答えて言いました。
「ドラウパディーの質問はもっともだ。残酷で邪悪なカウラヴァ兄弟たちと共に暮らし、彼らの出す食べ物を摂っていたせいで私の血はすっかり汚れてしまった。一切のダルマに適う原理〔行動規範〕は、その血の奥深くに埋もれてしまったのだ。そなたの夫たちが私に矢を放った時、その悪い血はすっかり流れ出し、今やダルマの原理が浮き上がってきたのだよ」
この話の意味と教訓は、私たちの摂る食べ物の種類が、私たちを形成する思いや血の種類を決めるということです。不浄な食べ物を摂れば、たとえ根は善良な人間であっても悪い思いを持つようになります。ですから、私たちの摂る食べ物が私たちの抱く思いの種類を決め、私たちの抱く思いの種類が私たちの行動を決めるのです。
ビーシュマが神聖な行為の必要性を説いていた時、ウッタラヤーナ〔神聖な半年の時期〕が訪れました。ビーシュマはこの神聖な時を56日近くも待っていたのです。ビーシュマはクリシュナの神々しい慈悲深い顔を見つめました。ビーシュマの目がクリシュナの目と合いました。ビーシュマはクリシュナに語りかけました。「ああ、ドワーラカーに住みたまい、人間の姿を取られた神よ、あなたは人々に誕生を授け、人々を維持し、人々に死をもたらす力をお持ちです。あなたは帰依者たちを世話するため、さまざまなアヴァター〔神の化身〕の姿をお取りになりました」。そう言いながら、ビーシュマは自分の命を捨てました。
このビーシュマの称賛と描写によって、パーンダヴァ兄弟は今一度クリシュナが本当に神であることを悟ったのです。以前から、クリシュナの神聖な性質はよくわかっていたのですが、時折マーヤー〔迷妄〕の影響により、彼らはクリシュナを神というより自分たちの義兄弟と見なしていました。このマーヤー〔迷妄〕は、人に善悪の両方のさまざまなことをさせます。実際、もしパーンダヴァ兄弟がこのようなマーヤーの影響を受けていなければ、これほど長い間クリシュナを体験することはできなかったでしょう。もし彼らがクリシュナを簡単に神と認識していれば、実際、彼らが無知ゆえに為したすべてのことは為されていなかったはずです。
神性は常に結合と分離をもたらします。人の行動は執着によって影響を受けます。ここで、執着とは、何かを得るための欲望と解釈すべきです。このための土台はほとんど世俗的な欲望です。そのような欲望にとっては感覚器官が重要です。あなたがどれほど多くの経験を積んでいても、さらにもっと手に入れたくなるでしょう。経験の範囲がどれほど広くても、あなたは満たされません。この点で、無執着を手に入れる唯一のプロセスは犠牲の一つです。これは善い仲間と密接な関係にあります。善い仲間には、善い思いや善い習慣などのような特定の付帯物があります。人間の本性を理解するのにふさわしい道は、執着の状態からヴァイラーギャ〔無執着・捨離〕へと進み、そこから愛の状態へと進むことです。皆さんは、主に対して執着を抱き、世間に対しては無執着であるべきです。その理由は、全世界はほんの束の間のものだからです。悲しみのときであれ楽しみのときであれ、喜びのときであれ苦しみのときであれ、私たちは平等な心で神を思うことができなければなりません。そのような性質を育てなければなりません。ビーシュマは、そのような平等心の神聖さをよく理解していた人でした。
ある時、戦争の最中、ビーシュマの矢の一本がアルジュナに命中し、アルジュナの身体から流れ出した血が、クリシュナの上にぽたぽたと落ちました。クリシュナは全身血だらけになりました。これを見たアルジュナは、クリシュナが本当に苦しんでいるという錯覚に陥りました。クリシュナへの愛ゆえに、アルジュナはいくらか気弱になり落胆したのです。クリシュナはすぐそれに気づき、こう言いました。「アルジュナ! なぜ君はそんなに弱いのだ? 君が戦いを続けるか、それとも私が戦いを続けるか?」。そう言うと、クリシュナは馬車から飛び降りました。クリシュナは自分がビーシュマを殺すと宣言し、馬車から飛び降りたのです。するとビーシュマは言いました。「あなたが馬車から飛び降りるとき、あなたの耳の金とダイヤの耳飾りはキラキラと光り輝きます。その輝きは美しく、全宇宙を満たしてくれます」。ビーシュマは、自分を殺しに来た同じクリシュナが、自分を救ってくれるように祈りました。ビーシュマの平常心と平等心はそれほどのものだったのです。
ここで、クリシュナが殺しに来た時、ビーシュマがラーマやシヴァに救いを祈らなかったことも理解しておくべきです。ビーシュマは、クリシュナ自身に祈りました。ビーシュマの信仰はとても強固だったので、彼はクリシュナこそが救う者であり、また殺す者でもあると信じていたのです。他の誰にもそれを行う能力はない、と。
この状況が訪れた時、アルジュナに大きな変容が起こりました。その理由は、当初クリシュナは、自分は戦争で闘うことはせずに御者になるだけだ、と言ったことでした。アルジュナは、もし今クリシュナが参戦すれば、クリシュナの言葉が価値を失うことを心配しました。そのためアルジュナは即座に戦いを再開し、クリシュナに不名誉をもたらさないようにしました。これを見るとクリシュナはすぐに同意し、アルジュナを戦いに戻すために、自分は戦いに参戦するような振りをしたのだ、と言いました。
何をしようとも、主のすることには目的があります。主は決して人をだましたり、見栄を張ったりするために何かをすることはありません。通常、私たちは自分自身の欠点を探したり認めたりしようとはせず、神にさえ欠点を見出だそうと必死になります。しかしどれほど努力しても、皆さんは神に一点の汚点さえ見つけることはできません。神のハートは清らかで、神の考えは神聖です。自分の姿を鏡で見るように、私たちは神に自分自身の欠点を見ているだけです。神は汚れのない澄みきった鏡のような存在であることに気づかなければなりません。鏡の中にあなたが見ているものはすべて、神の欠点ではなく、あなた自身の欠点なのです。
世の人々を守るため、時折、神は人間の姿をとります。ビーシュマはクリシュナが神であるという真実に気づいていたため、その自覚の結果、パーンダヴァ兄弟を理想の人間として世に示しました。ビーシュマ・ストートラ(賛歌)、すなわちビーシュマによる主への賛美は、パーンダヴァ兄弟たちに力を授けました。
クリシュナは、神性は万人に存在しており、遍在する神性はあらゆる創造物の中で同一である、と常に人々に教えていました。そのようにして、クリシュナは人々に嫉妬やエゴ等の性質を捨てるよう教えたのです。嫉妬とエゴは、人の霊的進歩を妨げる邪悪な性質です。嫉妬とエゴを取り除いた時、初めて私たちは自分を真の人間と呼ぶことができます。自分の欲しいものを願ったり求めたりすることに反対はしませんが、他人の持っているものに嫉妬してはいけません。ゴーピー〔牧女〕やゴーパーラ〔牧童〕たちにこのように教えることにより、クリシュナは彼らに神への道を示していました。クリシュナの神聖なリーラー〔遊戯〕は計り知れぬほど深く、とうてい理解できるものではありません。皆さんがこれらの教えの意義を学び、実践に移さないかぎり、どれほどクリシュナの性質を述べ立ててもすべては無駄です。クリシュナはあらゆる創造物を平等心で見ていたのです。
この点において、もしクリシュナが本当にあらゆる創造物を平等心で見ていたのであれば、なぜ400万人のカウラヴァ軍を殺し、滅ぼすことを引き受けたのかについて疑念を抱く人もいるでしょう。これを説明する例があります。身体にガンが増殖している場合、傷口にはたくさんの病原菌や細菌が見つかります。これは、結果として全身が衰弱し、ガン化する可能性がある状態です。その時、医者はガンになった部位を切り取るか、切除するか決めるでしょう。このような状況下で重要なのは、患者に手術が行われ、医者が治療方針を決めることです。医者はガンの増殖部に存在する無数の病原菌のことは心配しないでしょう。選択肢は二つです。手術をして患者を救うのがよいのか、それとも、手術を中止して何百万もの病原菌を救うのがよいのか? それらの病原菌は、感染によって他の多くの人々にさらに困難を引き起こすことになるため、殺すことが必要です。
クリシュナもこのダルマに従いました。つまり、世界はガンの腫瘍のあるカウラヴァ一族を有していたということです。カウラヴァ一族の行動の結果、世界はアダルマ〔不正〕と不公平のはびこる場所となり、世界そのものが破壊されていました。その時、クリシュナはその病気があらゆる限界を超えたことに気づき、手術の準備を整えました。ここでクリシュナはパーンダヴァ兄弟を薬剤の調合者として受け入れ、戦争という形で手術を行ったのです。この手術において、カウラヴァ兄弟とその支持者たちという姿をとった400万の病原菌が殺されました。この行動は、世界の繁栄と幸福のためのものでした。それは私利私欲のためになされたものではありません。
クリシュナは最初から、カウラヴァ兄弟は王家に悪評と害をもたらすために生まれてきた、と言っていました。この状況に、スータ〔クシャトリヤとヴァイシャの間に生まれた者たちの階級〕の息子カルナ〔スータに属する御者アディラタに育てられた〕が火に油を注ぎました。それに加え、邪悪なシャクニによってさらなる挑発行為が引き起こされました。この森林火災は森中に広がり、今や雪崩のごとく矢を放つ他に解決策はありませんでした。その火は森全体を焼き尽くす類いのものでした。至るところに燃え広がった火は、わずかな水で消せるようなものではなかったのです。今や、世界の平和と幸福のためには、土砂降りの雨のような矢が必要でした。神が何をしようとも、神は私たちのためにそうするのです。神のすべての行動は、ただ私たちのためだけにあることに気づき、それを受け入れなくてはなりません。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch7