サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年
夏期講習の御講話(8)より

私たちの周りの神の創造物は沢山のことを教えてくれる

グル〔教師〕と学生の皆さん、

もし人が救いを得なければならないなら、ヴィッディヤー〔知識〕とタパス〔苦行〕が必要です。ヴィッディヤーには2種類あります。一つは外界の状況に関わるヴィッディヤーです。もう一つは内なる状況に関わるヴィッディヤーです。最初のヴィッディヤーはあなたが辛うじて生計を立てられるようにし、2番目のヴィッディヤーはあなたが目的地に到達できるようにします。私たちは、真のヴィッディヤーを構成するものは何であるかを考察し、結論を出さなければなりません。今、学校や大学で習得している類いの教育は、真のヴィッディヤーと呼べるものではありません。これは、皆さんを何らかの職業に就かせ、さほど困らずに日常生活が送れるようにしてくれるだけです。これは、生計を立てることを可能にする教育、と言っても良いでしょう。これは世俗の生活に関わるものです。下は掃除人から上は総理大臣に至るまで、皆が生計をやりくりするために働いています。職業や地位に違いはあるかもしれませんが、これらの人々がしていることはすべて俗世間に関することです。

ブラフマ・ヴィッディヤーは、人を究極の目的地へ連れて行くものです。この世界と霊的世界において、今生や来世において、幸福と至福を授けるものがブラフマ・ヴィッディヤーです。私たちがブラフマ・ヴィッディヤーと呼んでいるものは、他のあらゆる種類の教育よりも優れています。あらゆる種類の教育は川のようなものであり、ブラフマ・ヴィッディヤーは海のようなものです。すべての川は海へと流れ、融合し、すべての種類の教育は私たちをブラフマ・ヴィッディヤーへと導きます。私たちがブラフマ・ヴィッディヤーと呼ぶものは、パラ・ブラフマー〔至高神〕の側面を明らかにします。これは皆さんにパラ・ブラフマーについて教えてくれます。しかし、タパス〔苦行〕は皆さんをパラ・ブラフマーへ連れて行き、パラ・ブラフマーに融合させてくれます。求道者にアートマとパラ・ブラフマーの意味を伝える能力こそが、人をグル〔導師〕たらしめるのです。グルの真の意味は偉大な人間というものです。グルの偉大さについて語るとき、私たちが意味しているのは、グルがブラフマンの側面を体験し、それらを他人に教える能力についてです。それゆえ、グルの地位について語る場合、それは今日私たちが一般的に話しているようなことは意味していません。「グカラ」というのは、グナ〔属性〕を超えたもの、「ルカラ」というのは姿形〔ルーパ〕を超えたもの、を意味します。ですからグルは、創造世界の中の姿形とグナの影響を受けない創造世界を体験できなければなりません。サーダナ〔霊性修行〕を通して、私たちはそのようなグルの地位を手に入れようと努めなければなりません。

タパス〔苦行〕とは、家庭や家族から逃げ出して森の中で葉っぱを食べて暮らすことではありません。これは真の意味のタパスではありません。またコウモリのように逆さになることがタパスでもありません。真のタパスの側面とは、思いと言葉と行動を一致させる能力に関係しています。皆さんは、仕事〔行動〕と心〔マインド〕と話す言葉を一体化させなければなりません。タパスはそれができる能力を授けます。私たちがブラフマ・ヴィッディヤーと同一視しているヴィッディヤーと、タパスは、人にブラフマンを体験させてくれるでしょう。グルにとって、この二つは両目のようなものでなければなりません。泥の付いてしまった布を洗いたいなら、きれいな水と石鹸が必要です。同様に、私たちの心に付いてしまった泥を落としたいなら、ブラフマ・ヴィッディヤーと同時にタパスが必要です。通常、私たちは普通の人間はブラフマ・ヴィッディヤーを得ることができないと考えています。ブラフマ・ヴィッディヤーは、あなたに心と行動を制御する力を与え、それらを神に向かわせます。

この創造世界〔森羅万象〕がイーシュワラ〔神〕に満ちていることは立証されてきました。人が自分の物質的財産を手放すことは偉大な犠牲ではありません。本当に偉大なのは、自我を捨てることです。バーガヴァタはこれらの側面を教えている点で神聖です。この物語の中に出てくるグルとグルの足元に座っている弟子たちが良い例です。もし彼らを理解することができれば、皆さんは正しい道に導かれるでしょう。クリシュナはバーガヴァタの主要人物です。アルジュナもこの劇の中の主要な登場人物です。アルジュナは弟子の理想的な実例です。クリシュナは理想的なグル〔師〕です。ここ〔バーガヴァタ〕では、最高の人間であるアルジュナが弟子であり、神々の中でもっとも偉大なクリシュナがグルです。ガーンディーヴァの弓〔火の神アグニからアルジュナに与えられた弓〕を保持していたアルジュナが弟子です。ヨーゲーシュワラ〔ヨーガの主〕であるクリシュナがグルです。

これほどのグルと弟子の組み合わせに匹敵する例を見つけるのは容易なことではありません。これほどの弟子とグルの結び付き、この組み合わせの神聖さを、バーラタ〔インド〕の人々に教えることがギーターの基盤です。グルとは、プラグニャー〔智慧〕という警鐘によって、眠りこけている無知な帰依者たちを目覚めさせる人のことです。グルは言い続けます。「目覚めよ、起きよ、そなたは平凡な人間ではなく、神であるという事実に目覚めるのだ」と。これが真のグルの仕事です。グルと呼ばれる人は、その人自身がパラ・ブラフマー〔至高神〕の体験を持っていなければなりません。

昔むかし、ある人が旅に出て、途中で大きな川に出くわしました。初めての川だったので、旅人にはその川の深さや幅がわかりませんでした。助けてくれそうな人は誰もいないと思っていると、近くの木の下に2人の人が座っているのが見えました。川の深さを尋ねると、2人は、川は簡単に渡れるし、さほど深くはないと言いました。2人をよく見ると、一人は足が不自由で、もう一人は盲人でした。盲人は見ることができず、足の不自由な人は歩くことができません。旅人は、盲人や足の不自由な人の確信に基づいて川を渡ろうとするのは愚かなことだと思いました。それは、旅人にとって実に良識ある判断でした。

今、私たちは家族という重荷を背負ったまま人生という川を渡りたいと望んでいます。中には盲人や足の不自由な人のように、川の深さも知らず、それに伴う努力も知らないグルたちもいます。このことが原因で、学生たちの振る舞いに不浄な行為が入ってくるのです。ですから、グルたちを正しい道に置くことができれば、学生たちが間違った道を追い求めることはないでしょう。これに関連して、サティヤ・サイ・バーラ・ヴィカス〔バルヴィカス〕のグル〔教師〕たちは、清らかなハートと体験によって生徒たちを注意深く教え込まなければなりません。バーラタの未来が幸福であるのは疑いないことです。バルヴィカスの教師たちは、少なくとも1つか2つの善いことを心に留めて、子供たちにそれらを教えなければなりません。私たちの人生には12人のグルがいると言われています。この12人のグルは12人の姿をしているわけではありません。教えのさまざまな側面が12の姿と同一に見なされているだけです。生まれてくることはグル、地上に生きることはグル、幸せでいることはグル、強くあることはグルです。学校や大学にだけグルがいるというのは正しくありません。ビジネス〔商売〕をする時にも何らかの学びはあります。土地を耕す時にも学びはあります。このように、どこにいても私たちが学ぶべきことはあるのです。実際、全世界は総合大学のようなものです。

それだけでなく、私たちの周りの森羅万象〔被造物〕は重要なグルの立場にあります。どのようなカースト〔階級〕や信条の違いも関係なく、木々は万人に平等であることを明らかにしています。山々は、雨や太陽や寒さの中でびくともせず、どのように忍耐強くあるべきかを示し、私たちが過度に肉体に執着したり心配したりしないように教えてくれます。鳥たちは、変わりゆく日々に無頓着であることを教えてくれます。この世界は永遠ではない。家族は単なる幻想にすぎない。死を迎えてこの世を離れていこうとする人はそう言います。あなたには、これは私のもの、あれは私のもの、と言い続ける権利はありません。あなたの周りにある森羅万象は、何一つあなたに属していないことを思い出させ続けています。本当に自然を理解したいと思うのであれば、森羅万象は最高の学校です。グルはシュリーパティ(繁栄の化身)そのものです。

森羅万象に含まれる一切のもの——山々、木々、川——は絶えず私たちに教えています。私たちを取り巻く自然が授けてくれる教育は、グルや母親や父親から与えられる教育よりもずっと多いのです。ですから、もし私たちが周囲の被造物の秘密を本当に理解することができれば、心が物質世界の魅力を追いかけることはないでしょう。神の創造物ほど素晴らしく、畏怖の念を起こさせるものは他にありません。

学生諸君、もしスプーンやコップを作りたいのなら、鋳型を作り、同じ鋳型から同じ品物の写しを作り続けますね。私たちはすべてを複製しようとします。神の創造物には、無数の人間や無数の昆虫、山々や木々があります。どれか一つでも、他のものに似せて完全にそっくり同じように作られたものがあるでしょうか? 一人の母親から生まれてくる双子でさえ、何らかの相違点があるでしょう。決して完全に同一のものはありません。一つのものと別のものの間に類似性はありません。これらの花はすべてジャスミンの花ですが、一個のジャスミンの花と別のジャスミンの花に完全な同一性はありません。これほど驚くべきことがあるでしょうか? これは、どれほど多くのことを教えているでしょう? 誰がそのようなものを創れますか? これは神の偉大な御業です。この神の側面を理解しようと努めることができれば、すべてを理解することができるでしょう。

今、まさにこの状況を私たちに気づかせることのできるグルが必要とされています。パラ・タットワすなわち神の側面、に気づいている教師こそが必要不可欠です。バルヴィカスの教師は、神聖なハートで愛と寛容を持って生徒たちを教えようと努めなければなりません。グルは怠け者になってはなりません。もし自分の子供がカーマ〔愛欲〕によって生まれた子であるならば、生徒として自分のもとへやって来た子供はプレーマ〔神聖な愛〕の子として扱われなければなりません。自分の子供に対して示す以上の情愛をもって、その子供たちを遇しなければなりません。その子供たちを別扱いしてはなりません。本校の教師たちは、平等心を持ち、カースト〔階級〕や宗教などの他の側面に基づくどんな差異にも場を譲ってはなりません。

先ほど開催されたトレーニング・キャンプにおいて、皆さんは新しいことをいくつか学びました。これを素晴らしいチャンスと見なさなければなりません。子供たちの心に奉仕の精神を吹き込むことを神聖な任務と見なすべきです。教師たちが生徒たちを助けることに取りかかり、そうすることによって、この国の古の文化を復興させるのを助けることを私は願っています。皆さんは最初から生徒たちにヴェーダの声明の真髄である、「マートゥル デーヴォー バヴァ、ピトゥル デーヴォー バヴァ」〔母を神として敬いなさい。父を神として敬いなさい〕を教えることを続けなくてはなりません。また年長者に会った時は謙虚に振る舞うことも子供たちに教えるべきです。何を食べるにせよ、それを神に捧げてから食べることも教えなくてはなりません。そのような実践をしなければ、子供たちの振る舞いはとても歪んだものになっていくでしょう。

ある程度まで、子供たちは自分の母親の振る舞いに倣って自分を形成しているでしょう。太古の時代、女性の思いや考えはとても神聖でした。当時、女性たちは妊娠すると、プラフラーダやマールカンデーヤやドルヴァやクリシュナの話のような神聖な物語を聞いたものでした。近ごろでは、妊娠した女性は1日に3本の映画を見ているありさまです。その結果、映画の中に含まれている悪い考えが女性たちの心に入り込み、生まれてくる子供たちは悪い思いや感情でいっぱいの「映画の申し子」です。そのような子供たちを矯正し、改善させるのはとても難しいことです。この任務では多くの困難を経験せざるを得ないでしょうが、それは私たちの国と国民のために必要なことです。この広い世界で、皆さん一人ひとりは小さなネジやボルトのようなものです。私たちは責任を負い、義務を果たすためにエゴ〔自我〕を持たずに努力することを学ばなければなりません。どんなエゴにも余地を与えてはなりません。エゴがあれば善いグルにはなれません。私たちが決定したことを皆さんが実践に移し、子供たちに善いことを教ることができるよう、私は望んでいます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch8