日付:1978年
夏期講習の御講話(9)より
良い教育はもっぱら普遍的な平和を教え、
狭量な考えを捨てさせ、一体となって共に生きる能力を促します
昼間に見ているものは、夜の夢の中では消えてしまうでしょう
夢の中で見ているものは、昼間には消えてしまいます
私たちの体験は、それほど儚いものなのです
清らかな真我の化身(パヴィットラアートマ・スワルーパ)である皆さん、学生諸君、
森林の密生した藪の竹は互いにこすれ合い、そして火が生じます。このようにして起こった火は風にあおられ、ますます広がります。火は徐々に森全体を焼き尽くす大きな森林火災になるでしょう。それと同じように、学業の達成、権力、富、地位を得たことにより、大きなエゴを育てる人もいます。このエゴゆえに、彼らは善良な人々や周囲のサーダカ〔霊性修行者〕たちに多大な迷惑をかけるのです。そのような善良な人たちを守り、ダルマを復興するために、神は時代ごとに人間の姿をまといます。そのようなアヴァター〔神の化身〕たちは何度もくり返し出現し、模範的な人生を送り、幸福な人生を送る方法を行動で示すことによって、人類を助けるのです。ドワーパラ・ユガにおけるその神人の姿はクリシュナの姿です。マハーバーラタの戦争が終わった時、クリシュナはビーシュマの葬儀を執り行ったダルマラージャに王国を託しました。クリシュナはウッタラー〔アルジュナの息子の妻〕の子宮に宿っていた子供〔パリークシット王〕を救い、至る所の平安と繁栄を約束した後、ドワーラカーへ帰って行きました。クリシュナがドワーラカーへ帰ることを決意していたため、人々は別れを告げる以外に選択肢はなかったのです。
クリシュナと共に馬車で旅をしたのは、クリシュナの信奉者のウッダヴァとサーティヤキでした。クリシュナが座っていた装飾を施した椅子の背後からは、アルジュナがダイヤモンドのはめ込まれた傘を差しかけ、クリシュナに日陰を作っていました。こうして旅をしていた間、クリシュナはダルマラージャからどんな支援を受けることも禁じていました。にもかかわらず、ダルマラージャは道中の手はずを整えるため、大勢のお供を送りました。それぞれの国を通るたびにその国の王がクリシュナを歓迎し、やがてクリシュナはドワーラカーに到着しました。スーラデーサの国王はクリシュナの力に驚いて、クリシュナに数々の贈り物を捧げました。
マハーバーラタの戦いが終わったと知るや、ドワーラカーの民衆はクリシュナがドワーラカーに戻ってくることを期待しました。民衆はクリシュナを出迎える準備を整えました。幼子が母親に抱きしめられるのを切望して待ち受けるように、ドワーラカーの幼子たちとドワーラカーのゴーピカー〔牧女〕たちは皆、クリシュナの帰還を楽しみにしていたのです。日が暮れるにつれて母牛を恋焦がれ続ける子牛のように、ドワーラカーの人々はクリシュナの帰りを待ち焦がれていました。ゴーピカーたちは皆、クリシュナと離れていることに耐えられず、食事を断ち、着飾ることもせず、心配そうにうろうろしながらクリシュナの帰りを待ちわびていました。食べ物を求めて飢えの叫びを上げる哀れな人のように、ゴーパーラ〔牧童〕たちはクリシュナを求めて泣き叫んでいました。
ドワーラカーの民衆がこのような状況にあった時、ドワーラカーの近くまで来ていたクリシュナは、ホラ貝を吹き鳴らしました。その音が聞こえたとたん、大地は震え、家々は揺れ動き、すべての民衆は飛び上がって喜びました。一瞬にしてドワーラカーの町全体がにっこり微笑みました。馬車や馬たちはすでに完全に支度を整えて、総出でクリシュナを出迎えに行きました。すべての年長者たち、ウグラセーナ、アクルラ、ヴァスデーヴァ、バララーマは、クリシュナを出迎えるために都の辺境まで向かいました。彼らはクリシュナを歓迎しようと都の外で待っていたのです。ドワーラカーの王道はあふれるほどの人でいっぱいでした。女性たちは邸宅のテラスに立って喜びの涙を流していました。道路の上や群衆の中ではクリシュナの勝利が讃えられていました。自邸に到着するやいなや、クリシュナはマンガラ アーラティ〔灯火式〕で迎えられました。クリシュナは大きな喜びをもって歓迎されたのです。
母親たちはクリシュナを心待ちにしていました。デーヴァキー〔クリシュナの生母〕の他に、ヴァスデーヴァ〔クリシュナの実父〕には5人の妻がいました。クリシュナの地位や年齢を顧みることもなく、5人の母たちは皆、駆け寄ってクリシュナを抱きしめました。戦いの時、クリシュナの年齢は84歳でしたが、デーヴァキーはまるで彼が幼い少年であるかのようにクリシュナの世話を焼いていました。ここで注目すべきは、クリシュナがかなり高齢であったにもかかわらず、母性愛がデーヴァキーにクリシュナを自分のそばに引き寄せさせたことです。デーヴァキーはクリシュナから長く離れていることができなかったのです。デーヴァキーはクリシュナにパーンダヴァ家の人々の安否を尋ねました。
他の母親たちもやって来て、クリシュナを抱擁しました。彼女たちは義理の母親でありながら、皆クリシュナの親しみやすさと情愛に惹きつけられました。そのような愛がクリシュナであり、クリシュナとはそのような愛だったのです。これらは2つの異なるものではありません。ドワーラカーの民衆とハスティナープラの民衆は、クリシュナのこの側面をおおいに楽しみました。この種の愛を体験してきた人々は、決して別のものを欲しがることはありません。甘いデーツ〔なつめやしの実〕を味わった人が、代わりにタマリンド〔酸っぱい木の実〕を食べたがるでしょうか? クリシュナのプレーマ〔愛〕を味わったゴーピーやゴーパーラたちは皆、他のどんな類いのプレーマ〔愛〕を味わいたいという願望もなかったのです。
すべての質問に答えた後、クリシュナはゴーピカーたちに会うために奥の部屋へ入って行きました。ここで、私たちはクリシュナの行動を注意深く見極めなければなりません。クリシュナはアーナンダ〔至福〕の姿を持っています。クリシュナの姿に他の余地はありません。彼は平凡な人間のように家庭生活を送っている振りをしていましたが、真実はそうではありませんでした。皆さんは、金(きん)をさまざまな装飾品に仕上げ、さまざまな名前を付けるかもしれませんが、それらすべての素材は同一の金です。神は世の人々のためにさまざまな行為を引き受けるかもしれませんが、基本的にはアーナンダ スワルーパ〔至福の化身〕です。友情であれ、愛着であれ、人間関係であれ、神がその中で示す唯一の性質はアーナンダ〔至福〕であり、それ以外の何ものでもありません。こういったさまざまな状況を体験した人々には、それがさまざまな姿をとっているように見えるかもしれませんが、クリシュナにとっては何の違いもありませんでした。帰依者を喜ばせる目的で、彼はさまざまな方法で振る舞ったかもしれませんが、クリシュナの心の中には恩寵〔神の愛〕の感情しかありませんでした。
クリシュナは女性たちの理想をよく理解していました。クリシュナは、もし自分が1人のゴーピカーの家に最初に現れて、その後、他のゴーピカーたちの家に現れたら、いくらか嫉妬の原因になってしまうであろうことがわかっていました。ゴーピカーたちの間でのそういったことを避けるため、クリシュナは、自分が同時に多様な姿をとって現れることができることを、身をもって示しました。同じ時に、ドワーラカーで1108人のゴーピカーたちがクリシュナの恩寵を切望していました。クリシュナは〔分身して〕一斉に1108人のゴーピカーたち全員の家に入りました。この状況を通して、クリシュナは彼女たちに、至るところに存在するすべての姿は神の姿なり、ということを教えたのです。
ここで、ラーダーと他のゴーピカーたちとの違いを見てみましょう。どのゴーピカーにも、クリシュナは自分のものであって他の女性のものではない、という感情がありました。これは狭量なものの見方です。牧女たちは常に、クリシュナは自分のものであって他の誰のものでもない、という気持ちで行動していました。しかしラーダーは違いました。ラーダーの思いはそうではなかったのです。ラーダーは、ブリンダーヴァンは皆のものであり、ゴーヴィンダは皆のものである、という気持ちを抱いていました。ラーダーは常に、ゴーヴィンダが自分にとって神であるように、他の誰かにとっても彼は神なのだという考えを明言していました。ラーダーは公平な考え方を持っていたのです。こうした具合でしたから、クリシュナが同時にすべての家に入っていった時、どのゴーピカーもクリシュナは真っ先に自分の家に入ってきてくれたという思いを持ったのです。そうして、牧女〔ゴーピカー〕たちは皆どっぷりと幸福に浸りました。
ゴーピカーたちは長い間、クリシュナの姿〔ヴィジョン〕を熱烈に待ち焦がれていました。その間、彼女たちは食を断ち、きちんとした服を着ることもやめ、髪を飾りつけることもやめました。そのように何にも構わない様子でしたので、クリシュナは牧女たちを識別できませんでした。牧女たちは宝石を身に付けることも花をあしらうことも拒否しました。というのも、クリシュナがいなければそんなことをする必要はないと感じていたからです。クリシュナを見たとたん、牧女たちは涙を流しました。このとき涙は牧女たちの顔の飾りとなり、人の顔には喜びの涙以上の飾りはない、という事実を証明しました。ゴーピーたちに美しさを与えてきたものは、彼女たちのグナ〔属性〕だったのです。
カンナダ語〔カルナータカ州の言語〕の詩の中に、「家が村の美しさを作り上げている、蓮が湖の美しさを作り上げている」というものがあります。空にとっては月が最高の飾りです。同様に、女性にとっては善良な性質こそが最高の飾りです。それと同じように、このゴーピカーたちの喜びの涙は彼女たちの飾りとなりました。このゴーピカーたちの様子を見て、クリシュナの目は慈悲に輝きました。クリシュナは彼女たちと会話を交わし始めました。クリシュナはある牧女に、彼女が育てていた鹿はうまく立ち上がれるようになったかと尋ねました。別の牧女には、彼女が育てていた孔雀(くじゃく)は元気にしているかと尋ねました。こうして、クリシュナはさまざまな人々や動物たちの幸福〔安寧〕について尋ねていきました。
牧女たちは、クリシュナの慈悲はすべての生き物に等しく広がっていることに気づきました。イーシュワラ〔神〕は神の創造したあらゆる生き物の中に存在しています。これは、クリシュナによって広められた真実でした。そればかりではなく、ゴーピカーたちはクリシュナを見たとたん一切の困難を忘れてしまいました。しかし、クリシュナは彼女たちの安全について尋ねました。アートマ・スワルーパ〔真我の化身〕は、苦しみの時も喜びの時も、あらゆる状況下で皆さんに幸福を授けることができる者です。ですから、クリシュナは常に幸福を授けていました。このクリシュナの側面は、彼をニッティヤー・ブラフマチャーリと呼ぶことによって述べられています。すべての光線が同じ太陽からもたらされるように、ここではすべての親切〔優しさ〕がクリシュナからもたらされているように思えるのです。
すべてのジーヴァ〔個我〕は一つの源から生じ、その同じ源へと融合しなければなりません。クリシュナは、自分はあらゆる生き物の中に存在していると断言しました。神のこうした広大な側面を理解できず、私たちは神を思い描くとき、時おり自分自身の狭量な考えと理解力を差し挟みます。神の側面とは、神を見ることのできる王道を通ってあなたを連れて行く準備が常に整っているというものです。私たちの人生はタクシーのようなものであり、そのタクシーに乗って脇道へ入ろうとします。この場合、脇道へ入ろうという私たちの考えと、神は王道にいるという状況は、合致しません。
私たちが映画を見て得る考えや、クリシュナについて書かれた本を読んで得る考えは、クリシュナの本当の性質とは大きく異なっています。映画や本の中にある考えはすべて、単に人が自分の想像力によって創作したものにすぎません。一方、神は常に、ただ一つの概念の中に永遠に存在します。行動においては、神は一つの御姿から生じる多様な側面を示すかもしれません。神が持っている重要な力は、愛の力です。神の人生はアーナンダ〔至福〕に満ちています。この種の神聖なアーナンダ〔至福〕には、どんな不純なものも入ってくる余地はありません。「エーカム エーヴァ アドワイティヤム ブラフマン」——存在するものは唯一無二であり、それはブラフマンなり。これに匹敵するものはないのです。
クリシュナはこの真理の道を明らかにし、自ら手本を示しました。クリシュナのプレーマ〔神聖な愛〕はすべての人の目的地です。しかし、世界の繁栄と幸福のために、クリシュナがそれとは違ったように見える行動に着手したことはあったかもしれません。世界の幸福を意図していないかぎり、クリシュナは決してどんな行動も起こしません。中でもゴーピーとゴーパーラたちは、この基本的な真理に気づいていた人々でした。
ラーダーはその絶え間ない愛の流れの完全さを示しており、つまりプラクリティ(自然)がラーダーの姿をまとっていたのです。もしラーダーがクリシュナに執着し、クリシュナがラーダーに執着していたとすれば、それはパラマートマ〔至高神〕とプラクリティ〔自然〕が互いに愛着で結びついていたということです。これは銀のタンブラーです。このタンブラーから銀を取り除くことはできません。というのも、銀とタンブラーが一つに結びついているがゆえに、それは銀のタンブラーと呼ばれているからです。それと同じように、ラーダーとクリシュナを互いに分離することは不可能です。なぜなら、プラクリティ〔自然〕とパラマートマ〔至高神〕は互いにまったく等しい単一の実体だからです。プラクリティ、すなわち被造物がなければクリシュナは存在せず、クリシュナがいなければ被造物を見ることもできないでしょう。糸がなければ布を手に入れることはできず、布がなければ糸もありません。布と糸が一つであることは、ラーダーとクリシュナの相の良い実例です。
私は皆さんに、何度もラーダーは単なる女性の姿ではない、と教えてきました。それは、それよりもはるかに重要なことなのです。言語は、いくつかの文字の集まりとして発達します。いくつかの文字が一体となって単語を形成しています。ラーダー(Radha)という単語にはR-A-D-H-A という文字があります。Aから始めるとAdhar(アーダーラ)、Dから始めるとDhara(ダーラー)で、後ろ側から読むとAradh(アーラーダハ)となります。ですから、ラーダーという単語は、絶え間なく神の御名を唱えている者、という意味なのです。Aradhanaアーラーダナ〔礼拝や奉仕〕をする人は皆、ラーダーと呼ぶことができます。この単語は、女性の名前であることを示す女性形とはまったく関係ありません。クリシュナの相は、神の前ではそのような差異は全くないことを実証しています。このようにして、クリシュナは純粋な愛の概念を広めました。嫉妬を取り除いた時、初めて私たちは純粋な愛を育てることができるでしょう。あなたが欲しいものを望むことに異論はありませんが、他人が持っているものに嫉妬するのは間違いです。このようなやり方で、クリシュナはゴーピーやゴーパーラたちに神聖な道を示していました。
クリシュナの行動はすべて本質的に神聖です。これを理解しないかぎり、クリシュナの真のものの見方を知ることはできません。クリシュナは生きた創造物を同じ態度で見ていました。ここで、皆さんは、そのような人物がなぜ400万人近いカウラヴァ側の人間を殺すという事態を引き起こしたのか、という疑問を抱くかもしれません。そのための単純な説明があります。人間の肉体に悪性腫瘍ができ、この腫瘍に何百万という病原菌がいるとします。これらの病原菌のせいで、全身が病に冒され、ガンになる可能性があります。その時、医者はガンに冒された部分を切除することを決めるでしょう。医者は何百万もの病原菌を根絶やしにすることについて心配したりしません。彼の一番の関心事は手術をして患者を救うことです。手術をして患者を救うことが良いのでしょうか、あるいは、手術をすれば何百万もの病原菌を殺すことになるため、手術はあきらめようと考えるのが良いのでしょうか? 病原菌は他の多くの人々にも害を与えるため、医者はすべての病原菌を殺すという決断をするでしょう。私は、その同じダルマがクリシュナによって実行に移されたことを既にお話ししています。
その当時、カウラヴァ一族の姿をとった悪性腫瘍がありました。カウラヴァ一族の行動の結果として、数多くのアダルマ〔不正〕や不法行為がありました。世界そのものが破壊されようとしていました。その状況下では、カウラヴァ一族の姿を取った悪性腫瘍が世界という全身を損なおうとしていました。クリシュナは、その病原があらゆる限界を超えたことに気が付きました。それゆえ、クリシュナは手術の準備を整えました。クリシュナは5人のパーンダヴァ兄弟を薬剤師〔調合師〕として使い、マハーバーラタの戦争という形で手術をしたのです。この手術では400万の病原菌が駆除されました。この行為は利己的な目的のためではなく、世界の繁栄と幸福のためでした。初めに、クリシュナは言いました。
「この者たちは、善良な王家の一族を非難し、損なうために生まれてきた。彼らの邪悪さは森林火災のように広がり、またスータの息子であるカルナとの友情は、その火災がさらに燃え広がっていくのを助けている。シャクニの姿をした風は、この火災にさらなる力を与えている。その邪悪という火はあらゆる場所に広がってしまった。もし世界の平和が打ち立てられるとすれば、それは雪崩のような矢が飛び交わない限りは不可能だ。この森林火災は実に深刻で、これほどの火災を鎮火させるには少量の水を使うだけでは無理なのだ。大量の矢の雨を降らせなければならない」
クリシュナがしたことは、世界の幸福のためにしたことです。
神が何をしようと、それは常に私たち自身の善のためです。神の行為は、すべて私たちの善〔利益・幸福〕を意図しています。私たちはこの真実をよく理解し、それに応じて行動する必要があります。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch9