サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習の御講話(5)より

ナーラダは不死の魂だった

鉄は、塵(ちり)に触れるなら錆(さび)を引き寄せる
火に触れるなら錆を取り除く
このように、他人との付き合いは、
触れ合う仲間の種類によって異なる結果をもたらすのだ
このサイの言葉は真実の声明なり

パヴィットラアートマ・スワルーパ〔清らかな真我の化身〕である皆さん、

創造物の動くものと動かないものの中身には、パラ、パシヤンティ、マディヤマ、ヴァイカリという4つの異なる区分があります。それらのタイプの詳しい意味に注意深く目を向ければ、最初の3つ〔パラ、パシヤンティ、マディヤマ〕は外には現れず、潜在的に存在していることがわかります。創造世界の生命や生き物の、誕生し、死に、変化するという特徴に関連している4つ目の相〔ヴァイカリ〕は、創造の中身の4分の1でしかありません。他の3つの部分は不死に関連しています。不死に関わるこれらの特徴が、実は全体の3つの部分を占めているにもかかわらず、私たちは何であれ、日常生活に関係することに大きな重要性を置いています。これに関して、古のリシ〔聖仙〕たちは私たちに、「ヴィシュワム ヴィシュヌフ」〔一切はヴィシュヌである〕と教えてきました。これは、創造物全体はヴィシュヌ神の現れにほかならない、ということを示唆しています。

ナーラダ仙はこの教えを完全に理解していた人でした。ナーラダは、絶えずヴェーダが唱えられていた家で働いていた女中の息子でした。ある行事を祝うため、ナーラダの母親が働いていた家の主人は、大勢のリシ〔聖仙〕たちを招待しました。その行事は、雨季の神聖な4か月にわたる祝祭で、その間、すべての行為と思いは神聖なものでなければなりませんでした。ナーラダは、その祝祭が行われている4か月間、その家の客たちの世話をする役目を与えられました。当時、ナーラダは6歳でした。リシたちと一緒に座っていた時、ナーラダは詠唱されているヴェーダに一心集中していました。ナーラダは何の疑念も抱くことなく、リシたちの命令を受け入れ、実践していました。ナーラダは、リシたちの皿の残り物をプラサード〔恩寵としての神への供物のお下がり〕として食べていました。時折、母親はナーラダを見て、息子のこと、そして、毎日息子が食べ物を集めるやり方を、哀れに思ったものでした。

4か月の祝祭が終わり、リシたちは自宅に帰る支度をしていました。ナーラダは後に残りたいとは思わず、リシたちと一緒に行きたがりました。しかし、彼はまだとても幼く、母親の愛情深い世話を受けていたため、リシたちはナーラダを一緒に連れて行くことはよくないと考え、代わりに主のさまざまな神聖な相について教えてやりました。リシたちはナーラダに12文字のマントラ、すなわち「オーム ナモー バガヴァテー ヴァースデーヴァーヤ、オーム ナモー バガヴァテー プラデュムナーヤ、オーム ナモー バガヴァテー アニルッダーヤ、オーム ナモー バガヴァテー サンカルシャナーヤ」を教え、6歳のナーラダはそのマントラを集中して唱えていました。また、リシたちはナーラダに、全創造物〔森羅万象〕は実は一時的なものであり、心象にすぎず、それゆえ、ヴィシュヌ神の投影なのだと教えました。リシたちはナーラダに、欲望は束縛であることも忠告しました。

何かを得たいと思うことが欲望であるように、何かを避けたいと思うこともまた欲望です。「私」という概念に関連するエゴは、「私」の不在という感情と等しいエゴです。「私」という感情があるところに神は存在できず、神が存在するところに「私」という感情が語られることはありません。この二つは、互いに相反する、排他的な言葉なのです。リシたちはナーラダに、いかなる混乱させる思いが湧き上がることも許してはならず、他には何も思わず、ただ神への思いだけを育てるように、と教えました。その日から、ナーラダは神への思いだけに集中し、喜びを引き出していました。

こうした生活を送っていたある日、ナーラダの母親が明け方の薄暗い牛舎へ行ったとき、暗がりのコブラに噛まれ、瞬く間に息絶えました。ナーラダはその場にいて、母親が苦しんで死んでいく光景を目の当たりにしました。これは、ナーラダにとって初めてのテストでした。ナーラダはこの出来事を神のリーラー〔遊戯〕の一つと見なし、母親の死に落胆することはありませんでした。ナーラダはあたかも自分は幸せであるかのように振る舞いました。家の所有者がやって来て、なぜ喜んでいるのかと尋ねました。ナーラダは答えて言いました。「これまでの日々、僕のお母さんは絶えず僕のことを思い、心配し続けていました。今、それが終わって、もうその執着がなくなったことが嬉しいのです」。つまりナーラダは、母親にはもう息子を心配するという問題がなくなり、息子への執着のせいで苦しまなくてもよくなったため、幸せだったのです。母親が生きていれば、母親はナーラダを心配して心を乱していたことでしょう。ナーラダは、その鎖(関係)が断ち切られたことが嬉しかったのです。

翌日、ナーラダは長期にわたる北方への滞在に向けて出発し、鬱蒼(うっそう)とした恐ろしい森を通り抜けて旅をしました。絶えず野生動物たちのうなり声が聞こえていましたが、その時ナーラダはわずか7歳でした。いつでもどこでも、ナーラダはハリ〔ヴィシュヌ神、ナーラーヤナ〕の御名を唱えていました。彼は、食べ物のことも休息のこともまったく考えませんでした。彼はただ、いつ主のヴィジョン〔御姿を見ること〕に恵まれる日が来るのかを自問していました。ナーラダの肉体は衰弱していきました。皮膚は荒れて硬くなりました。声は弱々しくなりました。そのような状態の中で、ナーラダは天の声のようなものが自分に問いかけるのを聞きました。「いったい何の目的で、そなたはそれほど苦闘しているのだね? 私が見たいのかね?」。その声はさらに言いました。「私のヴィジョン〔御姿を見ること〕を手に入れたい者は、あらゆる欲望を捨てなくてはならない。私のヴィジョンを見たいという欲望は神聖な欲望である。しかし、私のヴィジョンを得るために、そんな場所を旅することはあるべき欲望ではない。さらに、そなたは主のヴィジョンを得たいという欲望のために必死に苦闘している。その『私』というエゴがあるかぎり、そなたが神のヴィジョンを得ることはないであろう。全世界はヴィシュヌ神の住処なり、という神聖な格言がある。そなたはこの真理を忘れている。神のヴィジョンを得るために遠くまで旅をする必要はない。そなたはまだ、自分の心〔マインド〕を十分に清めていないのだ」。

ナーラダはすぐさま、自分が誤った道を歩んでいたことを理解し、正しい道を歩むべきだと思いました。まだとても幼かったにもかかわらず、当時の彼の認識は実に深いものでした。神は、決して年齢や学歴、裕福さ、性別、所属団体〔共同体、カースト〕などで物事を見ることはありません。神はただ、心〔マインド〕の切望の揺れや切望の深さだけを評価します。私たちの国の叙事詩で語られている偉大な人々の物語は、十分この真理〔真実〕を裏付けています。ヴァールミーキはどんな評判の良い家庭に属していましたか? ナーラダ仙はどんな有名な村の出身でしたか? クチェーラはどんな富を持っていましたか? ドゥルヴァの年齢は何歳でしたか? シャバリーの年齢は何歳でしたか? ヴィドゥラが持っていた識別力はどのようなものでしたか? ハヌマーンが持っていたのは何の知識でしたか? これらの例を見れば、年齢、富、性別、評判、力は、主の恩寵を得るための決定的な特徴ではないことがわかるでしょう。

神聖な声を聞いた後、ナーラダは木の下に行って座りました。ソーハム、息を吐いたり吸ったりすることは神の相です。ナーラダはヴェーダの完全な知識を持っていたわけではありませんが、息を吸うことはサーマ・ヴェーダの相であり、息を吐くことはリグ・ヴェーダの相であると見なしていました。このようにして、ヴェーダで規定されていることを実践しているうち、ナーラダは臨終の時を迎えました。呼吸が止まり、彼は永遠なる者に融合したのです。

その後、ナーラダは新しい生命の姿を手に入れました。プラーナ〔古伝説〕によれば、ナーラダはタンブーラ〔インドの弦楽器〕を用いて主の栄光を歌いながら世界中を巡回していると言われています。これは象徴的な話にすぎません。私たちは、ナーラダのヴィーナは脊柱(せきちゅう)を表し、ナーディーすなわち気道はそのヴィーナの弦を、呼吸はハリの御名の憶念(ハリナーマ・スマラナ)を表しており、ナーラダの新しい姿は、ゴーヴィンダやナーラーヤナといった御名を唱えながら絶え間なくあらゆる空間を移動している姿に描かれれているのだ、と見なすべきです。

ナーラダは、平凡な人間の姿を示しているのではありません。私たちは、私たちの生命体系の絶え間ない呼吸はナーラダの神聖な姿であると見なすべきです。ナラという言葉は水を意味し、プラグニャーナ〔叡智〕を示唆しています。川の水全部が海に向かい、海に溶け込むように、ナーラダから発したプラグニャーナ〔叡智〕の光はすべて、ブラフマンという究極の姿の中に溶け込みます。プラグニャーナはブラフマンから発し、それらの光はブラフマンの中に溶け込むため、マハー・ヴァーキャ〔大格言〕において、それは「プラグニャーナム・ブラフマン〔叡智は神なり〕」と言われているのです。ナーラダは、ブラフマンの相はオームカーラ〔原初の音〕の姿をとって常に脊柱に存在しているはずである、という真理を明らかにしました。これは自然の音であり、人工の音を創り出すことによって得られるものではありません。

私たちはナーラダを、天上の音楽を奏でながら永遠にあらゆる時間に存在する者、と見なすべきです。各カルパ〔劫、千のマハー・ユガ〕の中で、ドワーパラ・ユガと呼ばれるユガ〔時代)は何度も繰り返しやって来ます。他の三つのユガであるトレーター・ユガ、クリタ・ユガ、カリ・ユガも周期的に繰り返しやって来ます。バーガヴァタを、過ぎたばかりのドワーパラ・ユガに起こったことと見なすべきではありません。ヴィヤーサ仙を、一つのドワーパラ・ユガに存在した一個人であると解釈すべきではありません。誰であれバーガヴァタの意味の詳細を説明できる人はまさしくヴィヤーサ仙である、と見なされるべきです。また、すべてのカルパにおいて、ドワーパラ・ユガの終わりには一人のヴィヤーサが現れるでしょう。

バーガヴァタの物語は、まさに最初のカルパ〔劫〕の最初のドワーパラ・ユガに起こっていたことと見なさなくてはなりません。これは、ブラフマーからナーラダへと教えられ、それから、ナーラダによってヴィヤーサに教えられました。そのようにして、各カルパと各ドワーパラ・ユガの中で、出来事の数々は調整され、説かれてきたのです。バーガヴァタを、約5千年前の特定のユガ〔時代〕に起こったものであると考えるのは、正しいことではありません。

同様に、クリシュナというのは、過ぎ去ったばかりのドワーパラ・ユガに存在していた誰かのことではありません。マハー・ユガにおいて、トレーター・ユガにも、他のすべてのユガにも、クリシュナの相は存在しています。実際、神に関するあなたの切望を満たすことのできる者は、クリシュナと呼ぶことができます。そのようにクリシュナを見ることは、私たちの心の暗闇を取り除き、悟りをもたらす概念へと導きます。

クリシュナという単語は、「クルシ ティー イティ クリシュナハ」という格言によって詳しく説明できます。クリシュナは私たちのハートという畑を耕して、良い思いという形の良い種を蒔くことでしょう。皆さんは、自分たちに幸せを授ける者としてクリシュナの相を考えることができます。それゆえ、「カルシャ ティー イティ クリシュナハ」、「クルシ ティー イティ クリシュナハ」、「クシャティー イティ クリシュナハ」は、クリシュナの三つの異なる相です。これらはサット・チット・アーナンダ〔存在・意識・至福〕という三つの異なる姿であり、すべてのユガに存在します。私たちのアプローチは一般的に非常に狭い範囲に限られるために、クリシュナは一人の人間であり、デーヴァキーとヴァスデーヴァの息子である、という狭量な見方で私たちは考えています。それと同じで、ラーマはトレーター・ユガだけに属している、ラーマはダシャラタ王とカウサリヤー妃の息子である、と考える必要はありません。プラーナ〔古伝説〕は、私たちにラーマ、すなわち惹きつける力と至福を与えるものは、ラーマの相であると教えています。ラーマやクリシュナといったアヴァター〔神の化身〕を、ドワーパラ・ユガやトレーター・ユガに限定して考えるべきではありません。彼らはいつも、あらゆるユガに降臨して、人々を助けているのです。

このカリ・ユガの後、また別のマハー・ユガがやって来るでしょう。そして、ドワーパラ・ユガとトレーター・ユガが繰り返され、ラーマとクリシュナの相が再びやって来るでしょう。こうして、物事や状況は循環する形で再び巡って来るのです。もし今日が火曜日であれば、同じ火曜日は今から八日後に再びやって来るでしょう。それを別の火曜日、または新しい火曜日、と考えるのは正しくありません。同じ火曜日が再びやって来るのです。今、私たちが雨季と呼んでいるものは、一年後に再びやって来るでしょう。それは、全く別の季節ではありません。同じ季節が再び訪れるのです。今日はヴァサンタ〔春〕の時期だと話したとしても、それはしばらくすれば再びやって来ます。これらのすべての相は、しばらくすればまた繰り返し起こるのです。

しかしながら、過ぎ去った青年時代と、流れていった川の水が再び元に戻ってくることはありません。ですから、青年期を適切な方法で用いる努力をすることが重要です。あなたのもとにやって来たチャンスを有効に使うようにすべきです。ナーラダはサット・チット・アーナンダ〔存在・意識・至福〕の姿です。それゆえ、ナーラダが言ったように、バーガヴァタの神聖な相について考えることによって、私たちは心〔マインド〕の平安を手に入れることができるのです。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラという三相は、神聖なバーガヴァタの中に共に溶け込んでおり、私たちはそれを理解する努力をしなければなりません。ナーラダが言ったりしたりしたことは何であれ、世界の善のためでした。通常、私たちはナーラダを、単にもめごとを引き起こす人物だと考えています。これは正しくありません。ナーラダのしてきたことはすべて人間を助けるためでした。そういうやり方で、ナーラダは人々に、エゴ〔自我〕があるかぎり人は神に近づこうと思うことができない、ということを教えてきたのです。バーガヴァタの中にはいくつかの神聖な出来事がありますが、最も重要なものはドラウパディーの平常心にまつわるものです。他にも、クンティー妃の主への敬慕やビーシュマの神聖な教え等々のようないくつかの相があります。明日から、そのような神聖な相について話をしていきましょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch5