日付:1978年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習の御講話(1)より
私たちが存在しないと言っているものは存在する
私たちが存在すると言っているものは存在しない
実に、常に存在するものはただ一つ
そして、それは神——遍在の神
神がいなければ、この宇宙は無
純粋な真我(パヴィットラ アートマ)の化身たちよ、
美しき(シュリーマド)『バーガヴァタ』〔クリシュナ神にまつわる神話集〕は、12階建ての大邸宅であるといえるでしょう。ナーラダ仙はその十二の章〔スカンダ〕それぞれに名前を付けました。どの章も等しく重要ですが、最も重要であると見なされ得る章があり、その章が他のすべての章の基礎を構成しています。その章は「ヴァースデーヴァ ウパーサナ」〔神の礼拝あるいは神の近くにいること〕と呼ばれています。他の11の章は、この土台のような「ヴァースデーヴァ ウパーサナ」を基にしています。
ヴァースデーヴァ〔ヴァスデーヴァ(クリシュナの父)と結び付いている者あるいはヴァスデーヴァから生じた者〕という言葉は神〔クリシュナ〕を意味しますが、この言葉は、すべてのジーヴァ〔個人〕に宿っているデーヴァ〔神〕の象徴でもあります。デーヴァ〔神〕は各ジーヴァ〔個人〕に内在しているだけでなく、すべての創造物の基盤でもあります。すべての思考と言葉と行いが完全に同期している人はまさにバーガヴァタ〔バガヴァットすなわち神と結び付いている者あるいは神から生じた者〕である、ということができます。ジーヴァ〔個人〕の行いの一切は、ヴァースデーヴァに向けられなければなりません。
顕現していない神の姿を直に探し出すのは不可能です。あなた方には形と名前を有する体があるので、あなた方にとって、顕現していない神の御姿を認識することは非常に難しいのです。この世に執着があるうちは、御名と御姿を通じてしか主を理解することはできません。このことに基づいて、『バーガヴァタ』は、「ヴァースデーヴァ ウパーサナ」とは御名と御姿の助けを借りて主を理解することである、とも教えています。ですから、私たちは、ヴァースデーヴァと関連のあることだけを行い、見、聞くことが必要なのです。私たちがあらゆる場所で実際に見いだすのは、神の側面のみです。アートマの側面を理解している人は、このサーダナをするに値する人です。
ヴェーダの伝統に従っている私たちには、時間の重要性を認識すること、そして、時間を神聖なものとして崇めることは、普通のことになっています。時間という側面の中で、私たちは1年を12か月に分け、その12か月を聖化するために、「オーム ナモー バガヴァテー ヴァースデーヴァーヤ」〔ヴァースデーヴァ(クリシュナ神)に帰依します〕というように、神の御名の文言も12文字で綴っています。〔サンスクリット語では、オームは1文字、ナモーは2文字、バガヴァテーは4文字、ヴァースデーヴァーヤは5文字で、合計12文字となる〕。ここで私たちは、時間の神は12の文字を有していることがわかります。このことに基づいて、ヴィヤーサ仙は『バーガヴァタ』を12の章で組み立てたのです。
カリユガは時間の単位です。カリユガが、クリタユガ、トレーターユガ、ドワーパラユガの長さを測るための単位を構成します。この時間の単位を使うに際しては、定められた特定のルールがあります。カリユガの長さは43万2千年(432,000年)です。ドワーパラユガは、この単位の2倍、つまり86万4千年(864,000年)です。トレーターユガは3倍、つまり129万6千年(1,296,000年)です。クリタユガは4倍、つまり172万8千年(1,728,000年)です。これら4つのユガで構成される期間をマハーユガと呼びます。ですから、マハーユガは432万年(4,320,000年)あります。カリユガの長さとマハーユガの長さの差については、カリユガの長さに0を1つ加えたものがマハーユガの長さです。
〔ババは1976年夏期講習『青い山の夏の薔薇』の中で、現在のカリユガは紀元前3102年にクリシュナがこの世を去った日に始まったとおっしゃっている〕
日と月と季節が繰り返されるのと同じように、ユガも定期的に何度も何度も繰り返されます。ユガとユガの変わり目〔接点〕や、ユガからユガへの移行時には、山や川や居住地など、創造世界のさまざまな構成要素が大変動をこうむります。ユガが変わるとダルマの側面も変わります。その変化の結果として、善いものが悪いものに変わることもあります。
これに関連して、4つの分類の人々が認識されていました。それらは、タパスヴィ〔苦行者〕、マハリシ〔大聖仙〕、ブラフマリシ〔梵仙〕、ラージャリシ〔王仙〕です。そして、それぞれが自分の背景と能力に応じて、特定のダルマの規定に従っていました。『バーガヴァタ』の物語において、シャミという名の聖仙は建築家の長でしたが、到達した霊性の段階において、シャミ仙はブラフマリシ〔梵仙〕でした。シャミ仙にはシュリンギという名の息子がいました。息子はタパスヴィ〔苦行者〕でした。ブラフマリシ〔梵仙〕であるシャミ仙は、ブラフマン〔梵〕についてすべてを知っていて、平等観と平常心の状態で生きていました。苦と楽、悲しみと喜び、非難と賞賛を同じ態度でとらえ、起こることに動じず、すべてを同じ無執着で迎えていました。シャミ仙には何人かの弟子がいて、弟子たちと一緒にアドワイタの哲学〔不二一元論〕の学びに没頭していました。シャミ仙は神に完全に全託した状態で生き、神の至福を享受していました。
息子のシュリンギも立派な人物でしたが、タパスヴィ〔苦行者〕と呼ばれたのみでした。シュリンギは物事を識別する力を持っていませんでした。大きな力を備えた人物でしたが、呪いをかける権限は持っていませんでした。ある時、シュリンギは怒りのせいで平静を失い、偉大なラージャリシ〔王仙〕であったパリークシット王に呪いをかけました。ここで私たちは二種類の過ちがあるのがわかります。すっかり知っていながら犯した過ちは、世間に多大な害を及ぼすことになります。一方、よく知らずに、はからずも犯してしまった過ちは、個人に害を及ぼすのみで、世間には害を与えません。パリークシットは偉大な王で、完全な信愛を持って神に全託している状態でした。パリークシット王は知らずに間違いを犯したので、その報いは本人に影響を及ぼしたのみで、他人に迷惑をかけることはありませんでした。パリークシット王の過ちは、悪い動機からではなく、知らずに犯されたものでした。そのパリークシット王の行為に対して、シュリンギは自制を失い、パリークシット王に呪いをかけたのです。その呪いは、そのような状況の下でかけられたので、王国全体に多大な害をもたらしました。
それはさておき、『バーガヴァタ』の起源と意味と目的は、最初の章にはっきりと示されています。『バーガヴァタ』という偉大な聖典は、ナーラダ仙で始まり、それからヴィヤーサ仙が多大な貢献をし、シュカ仙〔スカ仙とも呼ばれる〕によって最高潮に達しました。ナーラダ仙による始まりとシュカ仙による最高潮の間にいくつかの物語が添えられ、それらが後に続く11章の内容となっています。
ドラウパディーとアッシヴァッターマ〔ドラウパディーの子供を皆殺しにした人物/アシュワッターマンとも呼ばれる〕との会話は、『バーガヴァタ』での重要な出来事を引き起こします。ウッタラー〔パーンダヴァ兄弟の最後の子孫となったパリークシットの母〕への降伏の神聖な筋書き、クンティー〔アルジュナの母〕によるクリシュナ神の称賛、ビーシュマがシャーンティパルヴァンという形〔平安の章と呼ばれる説法〕でダルマラージャに助言を与えたこと、そして、最後にクリシュナがバガヴァッド ギーターという形でアルジュナに教えを説いたこと——これらはどれも『バーガヴァタ』の偉大な出来事です。ウッダヴァ ギーター、プラフラーダの物語、クチェーラの物語、他の偉大な帰依者たちにまつわるエピソードが、『バーガヴァタ』の真髄を構成しています。
実に、『バーガヴァタ』の文章はきわめて甘美です。『バーガヴァタ』の甘さを体験した人間が再び生まれ変わってくることはないでしょう。このことを理由に、詩聖ポータナは、『バーガヴァタ』をテルグ語で執筆するという行為自体、自分が前生で行った偉大な善行の果報でしかありえないと述べました。ポータナは、自分は人間の姿をとって降臨した主ナーラーヤナ御自身のリーラーを綴るという大いなる幸運を得たのだ、と思いました。
『バーガヴァタ』において、バクティすなわち信愛の側面と神への全託は、私たちが認識すべき最も重要なものです。バクティと全託のどちらにおいても、プレーマ〔神聖な愛〕の側面が見事に例示されています。プレーマとは、自分の心の中で生み出された甘い想いを意味します。『バーガヴァタ』は、すべてのヴェーダから搾り出した乳のごとき神聖な抽出物でもあります。これに関連して、私たちは『バーガヴァタ』の物語から救いを得た偉大な人物が大勢いることを理解すべきです。『バーガヴァタ』をゴーピカー〔牧女〕の話だけが描かれている聖典だと見なすべきではありません。『バーガヴァタ』の中に含まれているプレーマの神聖な側面を認識することができ、それらの想いに酔いしれて自らを高められる人は、ごくわずかです。人は、クリシュナの御名を思うことで、我を忘れることができます。ブラフマンを思うことで、ブラフマンと同一になることができます。ですから、常にクリシュナを思っていることで、主と同一になることもできるのです。
『バーガヴァタ』の厳密な特質を言い表すのは容易ではありません。『バーガヴァタ』は、平均的な人、真理の求道者、そして、最高の知識人にも応えることができます。『バーガヴァタ』には、誰にでも応える力があります。マンゴーの木があなたに与えることのできるのはマンゴーだけ、ライムの木が与えることのできるのはライムだけですが、『バーガヴァタ』は、すべての求道者に、各人の望みと切望に応じたあらゆるものを与えることができます。このことを示す小さな例があります。
ある裕福な実業家が外国に行きました。その実業家には四人の妻がいて、それぞれの妻に帰国する時に何を家に持ち帰ってほしいかを尋ねる手紙を書きました。年長の妻は、あなたが無事に元気で帰ってきてくれれば私はとても幸せですと書きました。二番目の妻は、私の病気を治すのに役立つ薬がほしいですと返信しました。三番目の妻は霊的な聖典を読むことに常に興味があり、私は外国の霊的な聖典を望みますと書きました。四番目の妻はとても世俗的なところがあり、最新流行のサリーと宝石を持ち帰ってくださいと頼みました。どの手紙も夫に届き、夫は必要だといわれた品物をすべて持ち帰りました。二番目の妻には薬を、三番目の妻には霊的な聖典を、四番目の妻にはサリーと宝石を与え、自分は一番目の妻の住む家に腰を落ち着けました。他の妻たちはそのことにたいそう焼きもちを焼きました。この裕福な夫は、「年長の妻は私だけを望んだので、私は彼女のもとに行った。他の妻たちは物を頼んだので、私はそれぞれの要求どおりにさまざまな品を与えたのだ」と説明しました。
これと同じように、パラマートマ〔至高の真我〕には、アールタ〔何でも欲しがる者〕、アルタールティ〔富を欲しがる者〕、ジグニャース〔解脱を欲しがる者〕、グニャーニ〔叡智者〕という名の四人の妻がいるのだと思ってごらんなさい。主は先の三人の妻のそれぞれの必要を満たし、自らはグニャーニ〔叡智者〕のハートの中に座ります。
パラマートマがあなたに与えるのはあなたの仕事の果報のみであり、仕事それ自体を与えることはありません。神があなたに授けるあなたの行為の果報は、あなたのカルマ〔行いと因果応報〕と、あなたの資格と、あなたの祈り次第です。『バーガヴァタ』は、たいへん重要な教訓を、さまざまな方法で私たちに教えています。
ある時、クチェーラですらクリシュナを疑っていたことがありました。クチェーラは、いくら幼なじみでも、クリシュナはとても裕福で強力な王になったのだから、私が誰かということさえわからないだろうと思ったのです。クチェーラはとても不安になりました。一方、クチェーラの妻は一度もそのような疑いを抱いたことはなく、クリシュナはとても広い心の持ち主で、自分の友人を忘れたりはしないから、クリシュナに会いに行ったほうがいいと勧めました。神様は人の心(マインド)と人格の純粋さに価値を置くのですから、見てくれには価値を置かないでしょう、と。疑い、悩んだ末に、クチェーラはクリシュナの豪邸に入っていきました。クリシュナは心からクチェーラを歓迎し、クチェーラを礼遇しました。頼まれずとも、クリシュナはたくさんの物質的な富と、たくさんの恩寵をクチェーラに与えました。神の恩寵が注がれた瞬間に、人は自分の望みすら忘れてしまうものです。〔クチェーラは自分と家族を極貧から救ってもらえたらという望みを胸にクリシュナに会いに行ったが、結局、そのことは言わず、手ぶらで帰途についた〕。
その後、クチェーラが自宅に戻ると、驚いたことに、みすぼらしかった家は大邸宅に変わっていました。クチェーラは、クリシュナがどう自分に尽くしてくれたかを妻に語り、それから言いました。「クリシュナは、とても私に会いたがっていたかのように私を迎えてくれた。そして、優しさと思いやりの権化のように親切にしてくれた。クリシュナは、貧しきクチェーラからの少しばかりの打ち飯〔ライスフレークで作る粗食〕を受け取って、私たちにこの大邸宅を与えてくれた」。もしあなたがほんのわずかでも主に差し出すならば、主はそれを何倍にもして返します。もしもあなたに、せめて一歩でも前に進もうという気があるならば、神はあなたを受け入れるために、あなたに向かって十歩進むでしょう。
あなたが神に目を向ける時にだけ、神はあなたに目を向けることができます。もしあなたが別の方を見ていたら、神があなたを見ていても、それが何になるでしょう? これについての小さな例があります。あなたが私の目の前にいる時、あなたは私の目を見ることができ、私はあなたの目を見ることができます。もしあなたが遠くにいて別の方を向いていたら、私はどうやってあなたを見ることができ、あなたはどうやって私を見ることができますか?
クリシュナは常に自分の目を信者に向けていた者であり、『バーガヴァタ』はクリシュナの物語です。『バーガヴァタ』は、クリシュナがいかにしてゴーピカーたち一人ひとりの目の前に、それぞれが最も好む姿で現れて、それによってコーピカーたちに至福を与えたかを述べています。そのようにしてクリシュナは、姿形の多様性は神の唯一性にほかならないということを実証しました。このようにして、『バーガヴァタ』は私たちがこの世の多様性の中に見るべき唯一性について教えています。その物語は愛に満ちていて、そこに含まれているものと同じものを、あなたが自分のものにすることができるよう、あなたに合った方法で、あなたに与えてくれるでしょう。私は、あなた方が耳を傾ける内容の一部でも、あなた方が理解して吸収することを望んでいます。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1978 Ch3