サティヤ サイババの御言葉

日付:1978年8月13日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
オームに関する御講話より

魂の音楽

神は、山のこだま、木の葉のサラサラという音、人のささやき、子供の片言であり、あらゆる所に漂っているオーム(神の音)です。神はあらゆる場所に存在していますが、神を認識するには、聖人たちは千もの方法を定めなければなりませんでした! 神はすべての人の中にいますが、ごく少数の人以外には見つけられません。全能である神は、すべての贈り物の贈り主であり、私たちにあらゆる才能を与える摂理でもあります。

サルヴァム アーヴリッティヤ ティシタティ
(神はすべてを包含している)

神以外には何も存在しません。自然は神の表れです。人は、すべての人間の中に、そして、存在するすべてのものの中に、神を認識しなければなりません。ジーヴァ(個々人)は、自分の視点を自分が宿っている肉体だけに限定し、自分の注意や関心、愛や愛着を血縁や友人の小さな輪に限っているせいで、神のことも特定の御名と御姿に限定し、神の慈悲や恩寵、恩恵や祝福を、その特定の御名と御姿を崇拝する「信者たち」の限られた小さな輪の中に見ています。人間の願望は狭量なので、それを叶える神の恩恵も狭量だと人は思っています。ですから、理想的には、祈るときには完全に委ねて、「御心のままに」と言うべきであり、あれこれ求めてはいけないのです。というのも、人は自分にとって何が一番善いのかを知るための、英知も先見も持っていないからです。

プラナヴァ〔原初の音〕であるオームは神のギーター〔歌〕

バガヴァッドギーターは、嫉妬と貪欲は愛と無執着を実践することで克服できる、と教えています。人々は、バガヴァッドギーターが生まれた日として日を定め、豪華なプージャー〔供養礼拝〕やスピーチをして祝っています! その混雑の中で、ギーターの本質的な教えは無視されています。ギーターは正確にはいつ生じたのでしょうか? ギーターとは何を意味するのでしょうか? ギーターとは、文字どおり「歌」という意味です。神は遍在しているのですから、神の歌も遍在しているはずです。ですから、実のところ、プラナヴァ〔原初の音〕(OM/オーム)が神のギーターなのです。神の歌は、少数の人のためだけのものではなく、一部の人のためだけのものでもなく、一つの国でしか理解できない言語でもありません。オームは普遍であり、永遠であり、オームにはすべての霊的なことのエッセンスが詰まっています。ですから、オームこそが神の真のギーターでありえるのです。そして、オームは人間が祝うべき誕生日を持つことはできません。なぜなら、オームは時が始まる前から存在しているからです。

私たちの自己〔真我〕はプラナヴァと共鳴しています。しかし、市場の喧騒や、日々の生活での売買の騒音の中では、私たちの小さな自己はそれを聞くことができません。私たちの五感は、私たちの注意は自分のものだと主張します。私たちの心(マインド)は、外の世界の快楽の中に解放されることを切望します。ですから、ハートから湧き出る主の歌、オームを聞くためには、まず私たちの激情や偏見を静めなければならないことは明らかです。

奉仕への感謝さえも受け取らない

あなたの目をしっかりとゴールに定めて進みなさい。過去のこと、過去の過ちや失敗を気にしてはいけません。もうこれ以上、心の気まぐれに従ってはなりません。心の気まぐれや思いつきは、賞賛や非難を耳に詰め込み、あなたをアーディヤートミカ(霊的)な道から引き離します。すべての生きとし生けるもののハートから生じる、神の呼びかけに従いなさい。見返りを期待することなく、礼拝をするのだという姿勢で、生きとし生けるものすべてに奉仕しなさい。感謝さえも受け取らず、自分のすべての行いを内なる神に捧げなさい。そうすることで、あなたは浄化され、それによって、あなたの呼吸が刻々と繰り返す「ソーハム」に耳を傾けることができるようになるでしょう。「ソーハム」は、サマーディ〔三昧〕の過程で「神」と「私」の区別がなくなると、オームへと変わります。

ソーハムがオームへと変わっていくのはSAIの原理である、ということを信じなさい。「SAI」の「S」はSaiを、「A」はAndを、「I」はSaadhaka(サーダカ、霊性の求道者)を表しています。このように、SAIはヴェーダの格言である「タット トワム アスィ」(汝はそれなり/タットワマスィ)を象徴しています。サーダカは、第1段階では「私はサイの中にいる」と言い、第2段階では「サイは私の中にいる」と言い、最終の第3段階では「サイと私は一つである」と言い、二つの間の二元性が取り除かれていきます。暗雲の中の一筋の稲妻のように、真理が個人を打ち、それが続くと、それは至福を授け、その光が当たった瞬間にオームの威風の全容が明らかになります。クリシュナの教えを実践することで、人はその光、すなわちグニャーナ ジョーティ(英知の光)であるオームを得ることができます。

クリシュナの笛は、4つのヴェーダを表現するもの、説明するものであり、オームはその真髄です。「A」、「U」、「M」〔AとUとMの音が一つにつながってオームという音になる〕、そして、「点」(ハートの奥底でオームの音が反響すること)は、4つのヴェーダの象徴です。オームは「ラーマの原理」の象徴でもあります。4兄弟である、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは、それぞれ、リグ ヴェーダ、ヤジュル ヴェーダ、サーマ ヴェーダ、アタルヴァナ ヴェーダを象徴しています。

人は、自分の本質である神の側面を顧みず、遍在にして全能のオームに気づくことを確実にしてくれるサーダナ(霊的規律)〔霊性修行〕を追求することもせず、エゴに支配された衝動や本能の餌食となって、物質的な利益への信心を深めています。人は、富や力や権威を集めることに人生を費やして、他人を自分の支配下に置くことが望ましい業績であると信じています。

人は知る価値のあることをほとんど知らない

もし天国に空きがあったら、人はきっと神の地位に応募することでしょう。なぜなら、自分にはそれに必要な属性がすべて備わっていると思っているからです! けれども、抜きん出るための真の属性は自分のアートマの実在への揺るぎない信心である、ということを人は忘れています。ちっぽけな自分だけを知っていても、それが何の役に立ちますか? それは、医学を身に付けたと称する医師たちが、この部分のことを少し、あの部分のことを少し知ってはいても、癌や風邪といった病気の治療法を知らないのと同じです。科学は、人間が知る価値のあることをほとんど知らないことを明らかにして、人間を謙虚にさせなければなりません。

あなたの人格の神聖な側面は、謙虚さ、真実への立脚、愛、奉仕への熱意、不屈の精神、無執着を促します。あなたの生活の中でこれらの資質が芽生えたら、大切に持ち続け、チャンスがあればいつでも実践しなさい。人類を聖化する生来の兄弟愛は、心(マインド)に育つ妬みという雑草によってだめにされてしまいます。妬みという雑草は人の人格をだめにします。この雑草はその人の首を絞めるほどに成長するのです。

悲しみはエゴに付きまとう影です。近所の人が愛する人を失って悲しんでいたら、あなたは「この世のものを失って泣くのは賢明ではありません。泣いても亡くなった人は戻ってきません」と言って慰めます。しかし、あなたの家族に死が訪れると、その隣人があなたを慰めるのにその言葉をそのまま繰り返さなければならないほど、あなたは悲しみます。このようなことが起こるのは、アートマへの信心を深めず、舌の上にナーマ(御名)を置かず、ハートにプレーマ(愛)を持っていないからです。

ある人が瀟洒(しょうしゃ)な家を建て、家の周りに造った庭や、室内の塗装の色の効果などを自慢に思っていました。もしその家の庭を囲む壁に、選挙期間中、青年がスローガンを落書きしたら、彼はその青年に腹を立て、無垢な壁の白さを台無しにしたといって、この悪党め、叩きのめすぞ、とその若者を脅します。しかし、その家を売り、家が自分のものでなくなると、家が瓦礫の山になっても彼は何とも思いません! エゴに耳を傾けると、知らない間にそのようになるのです。あなたが生まれる前は、親類縁者はおらず、あなたが死ねば、彼らはあなたを一人で逝かせます。それなのに、なぜ短い一生の間だけ彼らとの絆を深め、そのために、この人生が与えられた目的を忘れてしまうのですか? この世での業績はもろいものだということを常に意識しながら、あなたの才能や技術や他の一切を、人の内にいる神への奉仕に、可能なかぎり最大限に役立てなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 Ch9