サティヤ サイババの御言葉

日付:1979年
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習、食物に関するババの御講話④より

浄性の食物
~サットウィック フード~

アートマ(真我)の霊妙な光は永遠の輝きを放っている
アートマには生もなく死もなく、始まりも終わりもない
アートマは破壊されることもない
アートマは滅びることのない目撃者であり、
空間と時間のすべてを目撃している存在である

愛の化身である皆さん!

クリシュナはアルジュナに「ナッ シレーヨー ニヤマム ヴィナー」と言いました。不規則で秩序がなく、自制心のない混乱した生活では喜びも善良さもあるいは健康も体験することができません。他者の行動をコントロールし、取り締まる存在は「ヤマ」(死の神。閻魔の語源)と呼ばれます。自分自身をコントロールし、自らの行為を取り締まる人は「サムヤマ」(自制心)という特性をもっています。「ヤマ」は、「サムヤマ」(自制心)の備わっている人をコントロールすることはできません。私たちは自分自身に課した制限どおりに、統制が取れた節度のある人生を送らなければなりません。これらの、自らに課した諸制限が、それぞれの人の「タパス」(苦行)を形づくるのです。抑制されていない人生は不道徳な人生です。風や海など、自然現象は、自然界の普遍的諸法則に従います。地球は地軸の周りを回りながら、一定の周期で太陽の周りを回っています。宇宙に存在する規則正しさは神によって定められた法則です。それらの諸法則には小宇宙同様、大宇宙も従っています。神によって定められた自然界の法則は、宇宙を創造し維持するために必要であり、さらにまた、そのダイナミックな均衡を保つために必要なものです。

そのように自らに課した規律は、真のシャーンティすなわち、心の平安、落ち着き、平常心、何事にも動じない穏やかな心をもたらします。心(マナス、マインド)の平安はこの世でもっとも望ましいものです。それは私たちに心身両面の幸福感を与えてくれます。このシャーンティを獲得するためには、求道者は、グニャーナすなわち霊的叡知に対する渇望を培わなければなりません。求道者はまた、愛と同情心と慈悲の心を身につけ、他の人々に対して無私の奉仕をしなければなりません。シャーンティは瞑想をしている間だけ養われるべきパートタイムの徳目であると見なされてはなりません。シャーンティは変わることのない内的静寂の状態です。その状態は習慣的で本能的なものとならなければなりません。「ディヤーナ」(瞑想)も普遍的で選択的なものです。ディヤーナは空間と時間の壁の制限を受けません。ディヤーナはいかなる特定の宗教信条の教義に支配されるものではありません。ディヤーナとは、人間を100%神聖な存在にする生き方のことです。ディヤーナとシャーンティは切り離すことはできません。ディヤーナはシャーンティを促進し、シャーンティはディヤーナを強化します。神聖な性質は私たちの崇める神像だけに限定されるものではありません。一部の人々は、瞑想を行っている間だけはもっとも深遠な心の平安を体験します。ところが、瞑想の状態から出て来ると、途端に悪魔的な本性を表します。そのようであってはなりません。瞑想中に得られた聖なる諸性質は毎日の日常生活において養い育てられなければなりません。

薬を飲むだけでは病人は癒されません。病気から早く回復したいと思うのであれば、食事療法も行わなければなりません。大いなるこの世の悲しみを癒す万能薬というものはありません。一人ひとりがその人独自の苦しみをもっています。しかし、神を瞑想することは、「ダルマ」(正義・法)の実践と道徳的規律を厳しく守ることによって補われれば、間違いなく人間の苦しみの特効薬となります。私たちは皆お互いに依存し合っています。私たちは他の人々の喜びと悲しみとを分かち合うことを学ばなければなりません。瞑想を行う人は、自らの幸福を祈るのと同じ真剣さで他の人々の幸福を祈らなければなりません。

霊的求道者は他の人々から離れて禁欲的な生活を送る必要はありません。求道者は全人類に対する慈悲心を発揮しなければなりませんが、それはすべての人々の幸福を切に願う心にほかならないのです。全人類に対する慈悲心を養うには、食べ物が重要な役割を果たします。昨日、私はあなたがたに、霊的な道を求める人々にとっての適切な食べ物についてお話ししました(本書169~170ページ「真理は」で始まる御言葉)。今日はサットウィックな(浄性の)食べ物、すなわち霊的進歩に必要な種類の食べ物のことを話しましょう。サットウィックな食べ物によって、修行者は遍在している神の実体を理解することができるようになります。修行者は聖なる命の四つの段階を経て進歩して行きます。霊的進歩のこの四つの段階とは「サーローキャ」と「サーミーピャ」と「サールーピャ」と「サーユーッジヤ」です。「サーローキャ」は神を中心とした現実の世界への入り口です。「サーミーピャ」は宇宙の根本的な霊的実質に近づくことです。「サールーピャ」は神の形を吸収し、それに同化することです。「サーユーッジヤ」は解脱であり、究極的に神と融合することです。

サットウィックな食べ物は、「サーローキャ」、「サーミーピャ」、「サールーピャ」、「サーユーッジヤ」という四つの霊的状態を次々に獲得して行くことを助けます。ここで、サットウィックな食べ物という概念の意味するところを調べて見る必要があります。

一部の人々は、サットウィックな食べ物とは、牛乳とヨーグルトと甘い物と果物だけから成っているという誤った印象をもっています。そういう人たちは、これらの美味しいものをたくさん摂ることによってサットウィックになれると信じています。それは完全に間違っています。牛乳や乳製品を摂りすぎると、人間の中の「激性」と「鈍性」の性質を呼び覚まし、助長することになります。牛乳とカード(凝乳)とギー(すましバター)が特に多く使ってある食物は、人間の情念を活性化させるので、サットウィックなものであるとは言えません。

このことに関連して、私はここで人間の知識の性質と、感覚の五つの門について詳しく述べておかなければなりません。人間には、「シャブダ」、「スパルシャ」、「ルーパ」、「ラサ」、「ガンダ」(聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚)という五つの機能に関係する、五つの感覚器官が備わっています。これらの感覚機能を維持し、開発することは、口を通じて摂取されるサットウィックな食べ物に依存しています。私たちが摂るサットウィックな食物の種類は、各人の好みによって決められます。私たちは口から正しい種類の食物を摂ると、満足感を覚えます。ところが、ほかの感覚器官からも目に見えない食べ物を取っていることを忘れてしまっています。悪い話に聞き入ったり、悪い話に耽ったり、悪いものを見たり、悪いものに触ったり、悪いものを嗅いだりすると、サットウィックな食物による健全な影響が台無しになってしまいます。心と身体は悪によって汚染され、蝕まれ、汚れてしまいます。ですから、人間の霊的再建は、浄性の食物によるだけでは十分ではありません。私たちは悪を語ってはなりません。他の人々を非難したり、自分たちを称賛することは避けるべきです。自らを称賛し、自らを美化することは、霊的進歩を遅らせます。私たちは自分たちの感覚器官に、健全な食物と、健全な音と、健全な景色とをあてがわなければなりません。舌は神の栄光を歌うためにあります。耳は神の輝かしい現れを聞いて楽しむためにあるのです。

個々の感覚器官はそれぞれに適した霊的栄養物で養われなければなりません。このように、浄性の食物とは、牛乳、カード、ギー、果物などを適量に摂ることだけでなく、崇高な想いや、神聖な音や、聖なる情景を楽しんだり、霊的な話し合いを楽しむことをも意味しているのです。私たちはサットウィックな視覚と、霊的視野とを開発しなければなりません。自然の美しさや寺院の神像の神々しさによるダルシャンを受けなければなりません。私たちは心を悩ませる光景や音声をすべて避けるべきです。どんな人をも邪悪な目で見てはなりません。邪悪な想念は邪悪な目を作ります。目は心の窓です。心は愛と慈悲にあふれていなければなりません。目にサットウィックな情景を見せることによってサットウィックな性質が育ちます。

嗅覚も同じくらい大切です。嗅覚器官は、良い香りによって満足させられるべきです。あらゆる不快な臭いは避けなければなりません。神聖な雰囲気を作り出すために、寺院の祭壇では良い香りの香料が使われ、香り高い香が焚かれます。悪臭は神聖さを壊してしまいます。神聖さの概念はつねに良い香りと結びついています。

触感すなわち触覚は、神聖な人々の足に触れることによって満足されなければなりません。邪悪な人々に触れることは避けるべきです。邪悪な人に触れることによって悪い考えをもつようになります。

サットサングすなわち有徳の人々と交わることはもっとも大切です。サットサングは無執着につながります。無執着は平常心をもたらし、平常心は生きている間に解脱を得ることにつながります。

サットサングという助けによって、たくさんのことを成し遂げることができます。良い習慣を身につけ、敬虔な活動に参加するようになります。サットサングは人間の身体を、神の宿る神殿になるよう清めます。

このようにして、人体のすべての感覚器官が、総合的でバランスのとれたサットウィックな食物を与えられることによって満足させられなければなりません。「シャブダ」、「スパルシャ」、「ルーパ」、「ラサ」、「ガンダ」という感覚(聴覚・触覚・視覚・味覚・嗅覚)には、サットウィックな講話、サットウィックな仲間、サットウィックな光景、サットウィックな食べ物、サットウィックな香りを与えなければなりません。総合的サットウィックフードは、すべての感覚器官にサットウィックな満足を与えます。今日では、サットウィックな食物という概念は、果物と牛乳と乳製品とから成る食べ物に限られてしまっています。すでに私たちは、そのような食物を度を過ごして摂取すれば人体に有害な影響が及ぶということを理解しました。

『バガヴァッド ギーター』の中に言及されている「ディヤーナ」(瞑想)の霊的テクニックは、身体全体をサットウィックな光景と音と味と香りと触感で養う、総合的サットウィックフードを伴わなければ、有益なものとはなりません。さもなければ、瞑想はただ格好をつけるだけのことになってしまいます。今日、瞑想は流行の娯楽に成り下がっています。誤った瞑想法に伴う落とし穴や危険を避けるために、瞑想の真の意味と重要性とを明確に把握しなければなりません。人間の幸福のためにはさまざまな抑制が必要です。量を過ごさずにサットウィックな食物を摂取することは霊的進歩に欠かせません。そのような食物はすべての感覚器官に満足を与えるものでなければなりません。

すべての河川は海に流れ込みます。同様に、すべての「サーダナ」(霊性修行)の目的は、個別的な魂が普遍的な魂に融合することです。神の恩寵は無限の大海のごときものです。水蒸気は、「サーダナ」を象徴しており、雲は「サティヤ」(真理)を、雨粒は「プレーマ」(愛)を象徴しています。それらは集まって「アーナンダ」(歓喜)という流れを形成し、「アヌグラハ」(神の恩寵)という果てしない大海に流れ込みます。

シャーストラ(聖典)や経典から直接得られた知識は、海の水に喩えることができます。識別力を働かせることと、瞑想的な心の状態に入ることによって、経典の知識という塩辛い海の水から智恵という純粋な水を蒸留することができます。この知識は体験によって人間的なものとなり、無私の愛によって神的なものとなります。書物による、体験の伴わない知識は、狂信と知的傲慢さとを招きます。体験を通じて直接に知っている知識は、説明による知識よりもつねに優れています。実践は教訓に勝ります。私たちは経典の命じる内容についてただ単に話すだけでなく、そのような生き方をすべきです。自らに課した規律は外からの権威によって強要された規制よりもさらに一層有益です。

私たちが摂取する食物の質と量とが私たちの想念と感情とを決定します。「食物と頭と神」の間には実に密接な関係があるのです。サットウィックな食物は自己実現をもたらし、この世の二元性と相対性からの解放をもたらします。

ラジャスィックな食物は悪意のある想念を生み出します。菜食以外の食物を摂取することによって、私たちの性格は残忍なものとなります。瞑想を実習している人々は肉を食べてはなりません。私たちはまたつねに、「アヒムサー」すなわち非暴力こそが最高の「ダルマ」(正義・法)である、ということを心に留めておかなければなりません。何の罪もない動物を、私たちの胃袋を満たすために殺すことは罪です。私たちは、神は生きとし生けるものすべての内に宿りたまうということを忘れてはなりません。『イーシャー ウパニシャッド』は「イーシャーヴァースヤム イダムサルヴァム」(神は五感で感じ取れるすべてのものの中に浸透している)と述べています。この格言の正しさは瞑想を通して体験することができます。

「ウダーラニミッタム バフクリタ ヴェーシャム」(人間は胃袋のためにあれこれ装いを変える)という言葉があります。そういう人々は状況の必要に応じてカメレオンのごとく色を変えます。日和見主義や偽善家になります。しまいには自分たちの日和見主義を正当化し、偽善を弁護するようになってしまいます。ご都合主義というこのやり方で自らの心を欺くのです。そのような人は決して瞑想の道をたどることはできません。瞑想の道は容易で人為的なものであると考えてはなりません。もし瞑想が容易なものであったとすれば、どうして私たちの国の偉大な聖賢たちは解脱を得るために苦行をしなければならなかったのでしょうか? ある種の現代的瞑想法は、瞬時にして「ニルヴィカルパサマーディ」(無分別三昧)が得られると公言しています。「ディヤーナ」(瞑想)は一時的に悩みから解放されることであると間違えられています。この種の麻酔薬が必要なのであれば、酒を飲むことによってほろ酔い気分になることができます。「ディヤーナ」は酔った状態でも記憶喪失の状態でもありません。「ディヤーナ」(dhyana)とは、「デーヤ」(dheya)すなわち瞑想の対象と、完全に1つになることです。瞑想とは霊的に100%共感することです。今日、たくさんの人為的で歪められた瞑想法が流行しています。学生はそれらに気を付けなければなりません。というのは、それらはどれも有益なものではありませんし、危険性があるからです。

グナ(特性)には、サットワ(浄性・善性)とラジャス(激性・動性)とタマス(鈍性・暗性)の三つがあります。人間には三つの目があります。二つの肉眼と、肉眼では見えない霊的な目とがそれです。過去・現在・未来という三つの時間があります。そして、三つの世界(物質世界・微細世界・原因世界)があります。霊的求道者は、瞑想中の超越的状態において、これらの三つ組のものの一体性を得ることができます。そうすることによって、罪と悲しみは消滅してしまいます。瞑想と、完全に自己を全託することによってサッチダーナンダ(サット・チット・アーナンダ、絶対実在・純粋意識・至福)を体験することができます。これが「ディヤーナ」(瞑想)の本質です。今日、たくさんの儀式が修行の一環として執り行われています。儀式は、意識の集中を助けるものにすぎません。儀式は真の瞑想にはあまり役立ちません。正しい姿勢、正しい食事、正しい場所といったものは、ダーラナすなわち集中の助けとなるだけのものです。サットウィックな食事やサットサング(善き人々の集まり)などは修行者をある程度助けます。それらは集中の習慣を育てます。私たちの努力はここで終わってはなりません。集中に続いて黙想と瞑想が行われなければなりません。

すべての人間関係には相互利益の要素がなければなりません。愛、同情、慈悲の心、好意といったものはつねに相互に関係しています。それらは、周囲から隔絶された状況の中では存在し続けることはできません。利己心と嫉妬が現れるところではそれらは減退し、消滅してしまいます。私たちは自らの義務を、富や、ほかから認められることを考えずに自己を全託する精神をもって、遂行しなければなりません。

プレーマ(愛)は最高のサーダナ(霊性修行)です。プレーマは単なる相互の愛ではありません。プレーマは、拡張され、崇高なものになった自己愛の一形式です。プレーマは、愛を全人類へ、そして全宇宙へと広げたものです。サーダナとしてのプレーマの本質は、人道主義、普遍的な慈悲心、利他主義の中にあります。いかなる人も、一夜にして聖人や賢者になることはできません。私たちは、早目に出発して、ゆっくり走行し、安全に目的地に到達しなければなりません。急げば無駄が生じ、無駄は心配の種となります。真の修行者は、霊的光明という究極的目標に到達するために、忍耐と持久力を養わなければなりません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1979 C18