サティヤ サイババの御言葉

日付:1979年1月25日
場所:カルナータカ州南カーナラ県アリケー
アリケーでのババの御講話より

平和のために働きなさい

都市は今、まるで荒れ狂う海のようになり、住民は暗闇の中で翻弄される小舟に乗って移動しています。このような絶望的な人々にとって、安全への唯一の道しるべは、明るく輝く霊的理想です。田舎は急速に都市の文化に染まりつつあり、至る所に苦悩が広がっています。これは時代性です。この時代性に絡め取られて、人はあらゆる種類の欲望を募らせ、それが満たされないと絶望し、言いようのない苦悩のうちに人生を終えてしまうのです。心に秘めるべき欲望は、善と神を求める欲望であるということを、人は忘れています。それ以外の欲望はすべて、低級で、意味のないものです。人間には、本質的に善良なものと、表面的に快いものとを識別する力が備わっていますが、人々はその力を養わず、その恩恵を受けようとしていません。

パーンダヴァ兄弟は非常に幸運でした。長男のダルマラージャは、皇帝にまで上り詰めました。次男は、恐ろしい棍棒で武装した不屈の男、ビーマでした。三男は、神々の主であるインドラの息子、アルジュナでした。主クリシュナはアルジュナに恩寵を与え、戦場で自らが彼の御者として仕えるよう意図しました。しかし、このように恵まれた環境にありながら、彼らは人生において最も過酷といえる悲劇に見舞われることになりました。パーンダヴァ兄弟の人生が教えている教訓とは何でしょうか? それは、いつどんな災難に見舞われるかは誰にも予測できないということ、すべては神の意志によるものであり、すべては神の計画に従って起こるということです。

不死は手放すことによってのみ得ることができる

神はいったいどこにいるのでしょうか? 神は、あらゆる所に、あらゆる存在の内にいます。神は全知にして遍在であると言われています。実を言えば、神は愛であり、愛はあらゆる所に浸透しています。私たちが知るべきことはこれだけです。ほんのわずかな愛も持っていないものは存在しないのです。

愛は、清らかで永続するアーナンダ(至高の歓喜)へと導きます。多くの人は、人との関係によってアーナンダを得ようとします。他の人は、名声や権力や富をため込むことによってアーナンダを得ようとします。物質的な所有物や世俗的な快楽の欲求を手放すことによってアーナンダを得ようとする人は、少数です。アーナンダを与えることができるのは、無執着だけです。ウパニシャッドは、ティヤーガ(犠牲)だけがアムリタットワ(不滅/アムルタットワ)をもたらすことができると断言しています。人は、親族や仲間といったすべての絆を顧みず、すべての執着と愛情を捨て、そうすることで解放されたハートの中に、すべての輝きを有する神を据える必要があります。これが、永遠に衰えないアーナンダを得るための唯一の方法です。

ドワーラカーの都のヤーダヴァ族〔クリシュナの血統〕は、親族の絆によってクリシュナに執着し、その関係を喜び、誇りにしていました。しかし、彼らは最後にはどうなったでしょうか。ヤーダヴァ族は自分たちの間で争い、滅びました。一方、ゴーピー(牧女)たちは、クリシュナを自分のハートに据えました。ゴーピーたちは、小さな自分を克服し、主と自分を同一視しました。そのため、ゴーピーたちは目的を実現したのです。霊的な勝利の秘訣は、全託です。

自分の喜びを恵まれない人々と分かち合う

人々は、後にシュリー・サティヤ・サイ・ローカ・セヴァ・トラストに引き継がれた複合教育機関、ローカ・セヴァ・ヴリンダの創設者である、故ナーラヤナ・バートを賞賛します。しかし、賞賛は愛の代わりにはなりません。愛は、ナーラーヤナ・バートが一生を捧げた仕事を熱意を持って遂行することを促すものでなければなりません。

バクティ(信愛)とは、通常、御名を繰り返し唱えることや、詩歌や賛美歌を歌うことや、神の機嫌をとって慈悲を得るための礼拝の儀式を意味する、と考えられています。神や神の慈悲を瞑想することでさえ、本物のバクティとは呼べません。こうしたあらゆる霊的なサーダナには、利己心の影が見え隠れしています。ヴィヤーサ仙は、最高の礼拝の形は人への奉仕である、と宣言しています。誰を害したり傷つけたりしないこと、それが神への真の礼拝です。というのも、実は、他者はあなた自身であるからです。この真理に気づくことが、モークシャ(解脱)です。あなたの喜び、あなたの富、あなたの知識を、恵まれない人々と分かち合いなさい。それが、神の恩寵を得る最も確実な方法です。

神に捧げるのと同じ大きさの愛を込めて、すべての行為を行いなさい。実に、あなたは自分の中の「私」を満足させるために食事をし、同じ「私」を喜ばせるために着飾るのです。夫は「私」のために妻を愛し、妻は「私」を喜ばせるために夫を慕うのです。では、誰の中にも永続的に内在している、その「私」とは誰なのでしょうか? それは神です。

イーシュワラ サルヴァ ブーターナーム
(主はすべての生類のハートの中に存在する)

と、ギーターは述べています。主はすべての生類に内在するアートマン(神性)〔真我/アートマ〕です。主は、すべての人に内在するアートマンであり、パラマートマン(至高の魂)です。無知ゆえに、あなた方は、それを心と体という二つの鞘の中に隠してしまい、心(マインド)と体こそが本当の「あなた」だと信じています。しかし、「あなた」は3人います。自分が思っている「あなた」、他人が思っている「あなた」、そして、本当の「あなた」です。あなたは自分を肉体だと思い、他人はあなたを心(マインド)だと思っていますが、本当のあなたはアートマンなのです。

すべての人はアートマンであり、一なるパラマートマンの火花なのですから、誰かを悪く思ってはいけません。あなた方は次の言葉を聞いたことがあるでしょう。

サルヴァ デーヴァ ナマスカーラハ ケーシャヴァム プラティガッチャティ
(どの神に敬意を払っても、それはケーシャヴァ〔クリシュナ神〕に届く)

私は今、こう述べましょう。

サルヴァ ジーヴァ ティラスカーラハ ケーシャヴァム プラティガッチャティ
(どんな生きものを侮辱しても、それはケーシャヴァに届く)

というのも、ケーシャヴァはすべてのものの内なる実在だからです。もしあなたが他の人々に奉仕することができないなら、手を出さずにいなさい。ひどい仕打ちをしてはなりません。

飢えている人に食べ物を施すことは緊急のセヴァ

今、平和を求める叫びが、あらゆるハートの中から鳴り響いています。首相から物乞いに至るまで、すべての人が平和を求め、平和を熱望しています。しかし、平和は市場で買うことも、工場で製造することもできません。平和は、愛に満ちた行いと活動によって、確保することができます。塩水の入ったコップを手に持って、うたい文句を並べているだけでは、それを飲むことのできる真水にすることはできません。

この国が聖なる地であるのは、あなた方が、自分が世話をしている子供たちがきちんと成長するようしっかりと注意を払い、子供たちを高潔な人物に変えよう、この神聖な国の立派な息子や娘に変えようと、努力を傾けているからです。これこそが、この国の福祉と繁栄を確実にすることのできる唯一の方法です。政治は無力であり、私たちを救うことはできません。機械や装置が私たちを救うことはできません。インド文化の神聖な理想を心に刻み、その目標に向かって前進することによってのみ、平和は達成されるのです。

尊敬の念と謙虚さを持って、飢えた人々に食事を与えるナーラーヤナセヴァは、今日緊急に必要とされているセヴァです。食べ物を求める声が至る所で聞こえますが、一人ひとりが一生懸命働けば、問題はまったく起こらないでしょう。私たちは満たすべき胃袋について話しますが、どの胃袋も2つの手と一緒にこの世にやって来ます。その手が怠けていたり技能がなかったりすると、胃袋のための食物を見つけるという役目を果たすことができません。一生懸命働きなさい。これがメッセージです。そして、得たものを他の人と分かち合いなさい。一生懸命働けば働くほど、得られるものは大きくなり、分かち合えるものが多くなります。一生懸命働きなさい、そして、さらに大切なことは、愛を持って、仲良く他の人と協力して働くことです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 Ch18