サティヤ サイババの御言葉

日付:1979年8月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリシュナ神降誕祭の御講話より

愛のクリシュナ

あなたの人生のあらゆる瞬間に
心の中でクリシュナの御名を繰り返しなさい
それは砂糖よりも蜂蜜よりも甘いということがわかるでしょう
実に、それは甘露よりもおいしいでしょう

知性が偏狭で、それ以上の広大さに至ることができない人、存在の神秘を深く探求しない人は、世界の平和と繁栄を促進するという仕事で成功を収めることができません。世界の平和と繁栄は社会の平和と繁栄の確立しだいであり、社会は個人で構成されているのですから、世界が栄光に輝くためには個人の平和と繁栄を達成しなければなりません。そして、個人がこの義務を果たすためには、自らの実体である神から信心と熱意を得る必要があります。

霊的な道を進まないなら、人は自分の平和も、同胞との平和的な関係を得ることもできません。その前進は平和をもたらし、平和と共に福利ももたらされるでしょう。今、どこを向いても人々は平和を語っていますが、人々の行いはその言葉が偽りであることを示しています。人々は不安と恐れの感情を高めているだけです。個々人はこのゲームで相手を追い抜くことを欲しています。その結果、精神は無視され、心(マインド)は汚染されています。人々の間に真の理解と誠実な善意がありません。人生が意味のない時間の流れになっています。

パラマーナンダ〔最高の至福、パラマアーナンダ〕という名の聖賢のたいそう知的な10人の弟子が、浸水した川を歩いて渡り、無事に対岸にたどり着きました。弟子たちは10人全員が難事を切り抜けて生き延びたことを宣言したいと思いました。そこで、弟子たちは人数を数えるために一列に立ちました。人数を数えた弟子が自分を10人目に入れず、代わる代わる順番に人数を数えた弟子も皆、自分を入れて数えなかったので、1人が行方不明ということになりました。弟子たちは「荒れ狂う水にさらわれた10人目の弟子」の悲運を嘆き悲しみました!

人は束縛された状態にあるが、それを知らない

それと同じように、人々は地上と宇宙での達成や業績を誇りつつ、自分たちの手から平和が逃げていったといって自らの運命を嘆き悲しんでいます。人は今、星を数えること、月を歩くことができます。しかし、人は自分自身に関する知識を持っていません。それでどうやって他の人との親しい関係の喜びを味わうことができるでしょうか? いつ人は成就という目標を達成したと断言することができるのでしょうか? 成就の至福は物質世界では手に入りません。それは目を内側に向けることで勝ち得なければなりません。人は今、束縛された状態にありますが、束縛されていることを知りません。そして、あまりにも深く無知に沈んでいるために、自分を解放する努力もしていません。

妻子、親類縁者、家や土地、財産や所有物は束縛だと言う人もいます。人はこれらを捨てて、これらから解放されることができます。それは比較的簡単なプロセスです。というのも、これらはそれほどあなたを縛るものではないからです。最もきつい束縛は、「自分の実体を知らないこと」です。自分は誰なのかを知らない —— これが最大の障害です。これが克服されるまで、悲しみは避けられません。なぜなら、人間はこの無知によって、タマス〔鈍性〕、非真、そして、死と結びついているからです。

拡大を促すことはアートマの原則

自分に関する知識がないと、人は、物質世界は真実で永続的であるという信念を持ち、本当に真実で本当に永遠であるものを無視するようになります。自分とは何ですか? ここでも、人は間違って誤った信念を抱いています。人は、自分は体であると信じており、体の構成要素や特徴を連ねて喜んでいます。人は、アートマ〔真我〕、すなわち、崇高で、穏やかで常に新鮮で、自分自身である神の本質を無視しています。それは拡大したい、光を照らしたいという、常に存在する衝動です。収縮したい、抑えたいという衝動は、動物の特徴です。アートマを否定し、その任務を無視し、その存在を無視していること —— これが悲しみの根源です。

では、死についてです。アートマに誕生はありません。ですから、死もありません。アートマはずっと存在し続けていて、決して消滅することはありません。アートマには始まりも終わりもありません。アートマは死にません。アートマを殺すことはできませんし、アートマに自動力はないと言うこともできません。アートマは万物それぞれの内なる照覧者です。アートマを認識するようになった瞬間に、人は悲しみに捕らわれている束縛の状態から解放されます。物質世界は確かなものだという考えは忘れなさい。物質世界はせいぜい試練として差し出される心像です。だからこそ、聖賢たちの祈りは、「アサトー マー サッドガマヤ(私を非真から真実へと導き給え)、タマソー マー ジョーティル ガマヤ(私を暗闇から光へと導き給え)、ムルッティヨールマー アムルタム ガマヤ(私を死から不死へと導き給え)」というものだったのです。

人としての生の真の目的は、ブラフマンが見えるようになり、ブラフマンに融合することです。古代の人々は、目的地への道には3つの段階があると明言しました。それは、カルマ ジグニャーサ(行いを通して霊的知識を追求すること)、ダルマ ジグニャーサ(美徳を通して霊的知識を追求すること)、ブラフマ ジグニャーサ(神性を通して霊的知識を追求すること)です。この3つのステップは、何世紀にもわたって学者たちによって区別され、説明され、分析されてきました。人は、カルマ(行い)を通じて道徳(ダルマ)の人となり、道徳の基盤(ブラフマン)を追求し始めます。人は、美徳と道徳はアーナンダ〔至福〕に付加される、そして、すべてのアーナンダは至る所でブラフマンから流れてくる、ということを発見します。そして、この認識に欠けた行いは不毛であり、束縛するものであるということがわかります。

人間は動物よりも悪くなりつつある

ウパニシャッドの明言である「カールニャム パラマム タパハ」は、この意識に基づいています。その意味は、「すべての存在への思いやりが真の霊的規律である」というものです。人間は創造物の王です。人間は生類の中で最高のものです。ですから、人間は大きな責任を負っているのです。人間は、他の生き物を愛し、それらに奉仕し、それらを救わなければなりません。なぜなら、他の生き物は人間の親類縁者であり、それらも核として神の原理を持っているからです。ところが人間は、自己中心、慢心、妬み、怒りを募らせて表し、それによって動物より悪くなりつつあります。人間は、哀れみ、慈悲の心、同情心、不屈の精神、喜びが授けられているのに、これらの美徳を捨て去って、行いと振る舞いにおいて非人間的になっています。虎が牛小屋に入り込んでいくのを想像してみなさい! 悪い傾向は虎のようなものであり、サーットウィカ(純性)の美徳を破壊します。ひとたびこの災難の程度を認識したなら、あなたはこうした野生の侵入者を倒すことを決意しなければなりません。

主クリシュナの生涯は主のメッセージだった

今、人はバクティ(信愛)とプラパッティ(献身)を通してのみ救われることができます。バクティ(信愛)は、ジャパ〔唱名〕やバジャンやディヤーナ〔瞑想/坐禅〕では終わるものではありません。それは、獣〔獣性〕を排除して神へと上昇するという理想、その理想への信愛から成るものです。パシュ(動物)〔獣性〕を手放してパシュパティ〔動物たちの主〕(神)を得なさい。それが呼び声です。その呼び声に耳を傾ける者だけが人間と呼ばれるに値します。この最上の運命、この神聖な行き先を人間の前に差し出すために、神は(誕生しない存在であるにもかかわらず)人間の姿をとるのです。なぜなら、神はゴーパーラ〔牛を護る者〕だからです。「ゴー」は牛を意味するだけでなく、ジーヴィ(人間および他の生き物)も意味します。今日、クリシュナ アシュタミー〔シュラヴァナ月の満月から8日目のクリシュナが降誕した日〕は、クリシュナのアヴァターラ〔化身〕の活動が始まった日です。クリシュナは、獣からブラフマンへと上昇するようにと人間に呼びかけました。神への信愛と献身によって、人は自分を「縛る」一切のもの——体、富、親類縁者、属性、感情——とは無関係であるという自覚を得る必要があります。

クリシュナにとって、アヴァターラであることはリーラー(神聖遊戯)でした。クリシュナの人生はクリシュナのメッセージでした。クリシュナは、最も高潔で最も有益なものであるカルマヨーガ(無私の献身的行いによる神との親交)の権化でした。クリシュナの行いにはほんのわずかな利己心も慢心も妬みもありませんでした。

クリシュナはアルジュナの戦車を運転する任務を自分にあてがいました。一日の戦いが終わると、クリシュナは馬を洗い、餌を与え、傷口に軟膏(なんこう)を塗ってやりました。どれほど重要でない仕事も、クリシュナは最も重要な仕事にかけるのと同じ注意と熱意を持って実行しました。

人間がイッチャ シャクティ(意志の力)を授かっているのは、この目的——善、高潔、向上を意志すること——のためです。人間に贈られた他の2つのシャクティ〔力〕は、グニャーナ シャクティ(知る力)とクリヤー シャクティ(行動する力)です。これら3つの相互依存の関係を確立するための一例をあげましょう。あなたはコーヒーを飲みたいという強い望みを持っていて、そのためにそれを果たすことを意志したとします。しかし、イッチャ(意志)だけではコーヒーはできません。ですから、次にあなたはグニャーナ(知恵)を使って、コンロ、いくらかの水、砂糖、ミルク、そして、コーヒーの粉を用意します。けれども、まだあなたの元々のイッチャ(意志)は実現されていません。ですから次に、あなたはクリヤー(行い)を使って、あなたが欲しかった、そして、入れ方を知っていた、コーヒーを入れます。

さまざまなサーダナは神に至るために処方された

さて、イッチャ シャクティ(意志の力)が、神に至ろうと意志したとします。単なる願望では目的を達成するには弱すぎます。グニャーナ シャクティ(知る力)は、願望を失わないようにとあなたに忠告します。あなたが勝利を得ることのできるいくつかの方法があり、グニャーナ シャクティ(知る力)は、あなたの前にさまざまなサーダナ〔霊性修行〕を置きます。クリヤー シャクティ(行動する力)は、それらを手にとって、目的を達成するまで行動するよう、あきらめないで行い続けるよう、あなたを鼓舞します。残念ながら、100人中99人は、イッチャ シャクティ(意志の力)しか使いません。彼らは願望だけで終わります。彼らは追求せず、その人を待っている至福を得ることはありません。彼らの信念は揺らぎます。彼らは勇敢に進もうとはしません。イッチャ シャクティ(意志の力)はあなたに試験で一級を取るよう促しますが、グニャーナ シャクティ(知る力)はそれを無視し、クリヤー シャクティ(行動する力)は何もせずにいます。もし熱意の1000分の1でも行動で示すなら、容易に試験で一級を取ることができます。

クリシュナは、バガヴァットギーターの中で、人はこれら3つの力をどのような方法で育んで活用することができるかを詳述しています。何よりもまず、人を傷つけたい、害を負わせたい、侮辱したいという邪悪な欲望を心から根こそぎにしなければなりません。信愛と献身の苗は、カルナ(思いやり)が染み込んでいる心でのみ成長することができます。最高の種であっても、塩分を含む土壌で芽吹くことができますか? 思いやりとは、他の人の喜びと悲しみを自分の心に映して、喜んだり同情したりして反応することです。これが起こるためには、心を清めてきれいな鏡に変える必要があります。

クリシュナの恩寵を勝ち得るために平等を実践しなさい

神は、あなたが他の人々の差し迫った必要に同情的に応じるときにだけ、あなたの祈りに応じます。他の人々の苦痛を見る目、他の人の嘆きの言葉を聞く耳を持たずに、人生を利己的な行いで無駄にしてはなりません。同じように苦しみ、同じように喜ぶ——これがクリシュナの言うサマットワム(平等心)です。この平等を実践し、それに成功すること——これがクリシュナの言う神の恩寵を勝ち得る方法です。思いやりのある行いをすることで物質的な報酬を得ることはできないでしょうが、その最高の報酬は、あなたが得る喜びとあなたが与える喜びです。あなたの持っているあらゆる貴重で無類の資質は、あなたの道具であり、それらを備えているあなたの体は、あなたがそう「意志し」、どうするかを「知り」、そのように「行動する」ことができるよう、あなたに与えられているのです。あなたに一定の「時間」が割り当てられているのは、これらの聖なる清めという目的のためにあなたが時間を役立てて使うことによって、あなたが利益を得ることができるようになるためです。

しかし、どの人も皆、エゴに打ち負かされています。人々は人から敬われたいと望んでいますが、自分は人を尊敬するつもりはありません。人々は幸せになるために努力していますが、人を幸せにすることはしていません。ほとんどの人は、自分が幸せならそれで満足です。自分だけでなく、他の人たちや周りの人が幸せなときに満足する人も、大勢います。他の人々を幸せすることができるなら、自分は喜んで苦しむという人も、わずかにいます。第一のグループの人たちは電球に例えられます。電球は小さな部屋だけを光で照らすことができます。二番目の人たちは月に例えられます。その光は広範囲ではありますが、物がはっきりとわかるほど明るくはありません。三番目の人たちは太陽に例えられます。その光はすべての物を照らし、その物の性質と特徴を明らかにします。

クリシュナの教えを避けるのは神聖冒涜

数ある信愛の規律の中で、主の絵姿や像を家に置いてそれを崇めることは、最も価値の低いものです。クリシュナ ジャンマ アシュタミー〔クリシュナの誕生日〕のお祝いを、特別なプージャー〔供養礼拝〕や特別な昼食にとどめるべきではありません。今日の心の狭いスケジュールは、クリシュナの恩寵を引き寄せたいという願望から生まれたものです。しかし、恩寵は、クリシュナの教えを守ることによってのみ、勝ち得ることができるものです。恩寵は、人目を引く豪華な装飾に授けられるものではありません。クリシュナを崇めてクリシュナの教えを避けるのは、神聖冒涜です。崇めることをやめても、もしクリシュナが示した道を真摯に進もうとするならば、あなたは恩寵を得ることができます。

クリシュナは愛の権化でした。ですから、愛はクリシュナが高く評価している美徳です。愛は、具体的な思いやりの行いへと変わらなければなりません。愛の権化であるクリシュナに融合するという目的地に到達するまで、思いやりを育て、同情的な理解を深めなさい。

皆さんの中にはサーダナ〔霊性修行〕に従事している人が大勢います。サーダナの根本的な目的は何ですか? サーダカ(霊性の志願者)の修行はどれも、恩寵の海へと流れていく川です。あなたに奉仕と同情を促す愛は、神の愛の火花であるということを信じなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C29